・『異常の構造』木村敏
・『自己・あいだ・時間 現象学的精神病理学』木村敏
・見ることは理解すること
・『あいだ』木村敏
外部空間の【もの】とは、【見る】というはたらきの対象となるようなもののことである。もちろん眼に見えないものも多い。しかしそれは、われわれの眼の能力に限界があるためであって、そのものが原理的に見えないということではない。それと同じように、内部空間の【もの】についても、「見る」という言いかたが許される。われわれが頭の中で考えをまとめようと努力しているときなど、われわれは自分の考えが浮かんでくるありさまをじっと見続けているわけである。
外部的な眼で見るにしても内部的な眼で見るにしても、【見る】というはたらきが可能であるためには、ものとのあいだに【距離】がなければならない。見られるものとは或る距離をおかれて眼の前にあるもののことである。それが「対象」あるいは「客観」ということばの意味であり、【もの】はすべて客観であり、客観はすべて【もの】である。景色を見てその美しさに夢中になっている瞬間には、景色もその美しさも客観になっていないということがある。景色や美しさのあいだになんらの距離もおかれていないから、われわれはその景色と一体になっているというようなことがいわれる。主観と客観とが分かれていないのである。そのような瞬間には、われわれの外部にも内部にも【もの】はない。われわれは【もの】を忘れた世界にただよっている。しばらくして主観がわれに帰ると、そこに距離が生まれる。景色や美しさが客観になる。そしてわれわれは、美しい【もの】を見た、という。あるいは美しさという【もの】を余韻として味わうことになる。
古来、西洋の科学は【もの】を客観的に【見る】ことを金科玉条としてきた。「理論」(theory)の語の語源はギリシャ語の「見ること」(テオリア)である。西洋では、見ることがそのまま捉えること、理解することを意味する。そしてこれが、単に客観的観察とする自然科学だけではなく、哲学をも含めた学一般の基本姿勢なのである。
【『時間と自己』木村敏〈きむら・びん〉(中公新書、1982年)】
クリシュナムルティの参考文献として紹介しよう。木村の文章が苦手である。思弁に傾きすぎて言葉をこねくり回している印象が強い。ドイツに留学したせいもあるのだろう。西洋哲学も同様だが思弁に傾くのは悟性が足りないためだ。
主観と客観とが分かれたところに分断が生まれ、好悪(こうお)が生じ、欲望が頭をもたげる。見ることに満足できない我々は美しい景色をカメラで撮影したり絵に描いたりする。続いて「もっと美しい景色はないだろうか」とあちこち探す羽目となる。
物理の世界においてすら見る行為=観測そのものが量子に影響を及ぼしてしまう。量子の位置と速度は同時に測定することができない。原子核の周囲を飛び回っている電子は惑星のように存在するのではなく、雲のように浮遊し確率論的にしか示すことができない。なぜなら量子は波と粒子の二重性を併せ持つからだ。
マクロの世界も同様である。宇宙の年齢は138億年であるが、現在観測されている最も遠い銀河は131億光年のEGS-zs8-1である(すばる望遠鏡が発見した銀河団は130億光年)。胸躍る発見ではあるが今見えているのは131億年前の光である。EGS-zs8-1の現在の姿は131億年後までわからない。
もっと卑近な例を挙げよう。我々が見ている太陽は8分20秒前のもので、月は1.3秒前の姿だ。見るとは光の反射を眼で受容することだ。つまり何を見たところで光速度分の遅れがあるわけだ。
現在にとどまる瞑想の意味はここにある。「観に止(とど)まる」と書いて止観とは申すなり。