2011-05-27

よい制度


 よい制度は素晴らしい家のようなものだ。そこに住む家族が円満であるとは限らない。

属人主義と属事主義/『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一


「偶像崇拝」について書こうとしていたのだが、色々と調べているうちにこちらを先に紹介する必要が生じた。ま、人生が旅のようなものであるなら、なにも目的地を目指して最短距離をゆくこともあるまい。寄り道こそが旅を豊かにするのだから。

 岡本浩一の著作には注意を要する。極めて説明能力が高いにもかかわらず、低俗な結論に着地する悪い癖があるからだ。たぶん野心に燃えている人物なのだろう。社会秩序に寄り添うような考え方が目立つ。だから、批判力を欠いた人には不向きだ。読書会のテキストなどに向いていると思われる。

 本書の中で属人主義と属事主義というキーワードが出てくる。

 最後に、とくに日本の職場風土の問題として顕在性が高いと著者が判断する、二つのトピックを「無責任の構造」の病理としてとりあげる。権威主義と属人主義である。権威主義は、社会心理学で多くの研究がなされて熟した用語であり、属人主義は、著者が評論などで用いている著者の造語である。権威主義は、国籍、文化に特定されず、広く見られる問題であるが、属人主義は、権威主義の日本的な現れ方の代表的なものだと考えればよいだろう。
 この二つは、日本の職場風土において、「無責任の構造」への服従を強いるとき、あるいは、盲従を宣揚するときに、その文法構造として機能する。その文法構造は、会議の発言や政策という具体的な形以外にも、目立たない形でなかば無意図的に用いられていることがある。稟議などの形式や、回覧順、書類の欄の構成、会議の席順、発言順、書類やお茶を配る順など、非言語的で非明示的なところにまで、権威主義、属人主義が紋切り型に浸透していることがある。「無責任の構造」を自覚し、そのなかで、良心を維持するということは、このようなところにまで浸透している権威主義や属人主義をも自覚することなのである。

【『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)以下同】

 つまり、「誰が」言ったか、「誰が」行ったかという視点が属人主義である。

 ネーミングとしてはよくない。なぜなら法律用語として別の意味があるからだ。私がアメリカ国内で犯罪をおかしたとする。この場合に日本の法律を適用するのが属人主義で、米国法を適用することを属地主義という。

 そもそも属人的視点あるいは価値観というべき性質であって、「主義」とは言いがたい。

「属事主義」とは、私の造語である。ことがらの是非を基本としてものを考えるのを属事主義と呼ぶことにした。

 話した「内容」、行った「事柄」に注目するのが属事である。

 属人と属事を一言で表せば「人」と「事」ということになる。このどちらに注目するか?

 本書は権威について書かれた本なので、当然の如く属事的な判断ができないところに組織崩壊の原因があるとしている。確かにそうなんだが、これでは足し算・引き算程度の計算である。

(※属人主義的情報処理のもとでは)誰かが自分の意見を支持してくれると、意見の正邪による発言とみなさず、「自分の味方をしてくれた」という対人的債務のようにみなす風土が発生することが少なからずある。そうすると、その相手が、今度、間違った意見を言っているときでも、「彼にはこのあいだ自分の意見を支持してもらった借りがある」という理由で、間違ったことがわかっていながら、支持を「返済する」ということが起こる。同様に、自分の意見を支持してくれなかった相手に、不支持による報復をするということも起こるわけである。

「対人的債務」というのは絶妙な例えだ。恩の貸し借り。結局、コミュニティ内部の同調圧力と権威が織り成すハーモニーが「服従」の曲を奏でるのだろう。

 私が民主主義を信用できないのは、判断材料が乏しいことと、人間の判断力に疑問を抱いているからである。高度情報化社会となると、メディアから垂れ流される恣意的な情報によって一票を投ずるしかない。現状はといえば、好き嫌いや損得で判断している人が多いのではなかろうか。だからこそ、恩の貸し借り=票の貸し借りみたいな情況がいつまで経ってもなくならないのだ。

 そして一番肝心なことは、誰人に対しても「そんな投票の仕方は間違っている」と言う資格はないのだ。いかなる判断を行使しても構わないし、投票へ行かないのも自由だ。

 大体、政治に「正しさ」を求めること自体がナンセンスなのかもしれない。「国益こそ正義」なあんてことになったら大変だ。

 私は民主主義に不信感を抱く一方で、政党政治を心の底から嫌悪している。ああ、そうだとも。でえっ嫌いだよ(←江戸っ子下町風)。党議拘束で自由な意見を封ずる政党政治は、属人主義というよりは属党主義である。「何でも党の言いなりになるんじゃ、党の犬と言われても仕方がないよ」と告げたら、彼らは「ワン」と返事をすることだろう。

 そう考えると国民は属国主義となりますな(笑)。マイホームパパは属家主義。

 でもさ、自我を支えているのって実は帰属意識なんだよね。

 属人主義的な感覚の人は、善悪などの判断も、じつはかなりの程度に対人依存していると考えてよい。つまり、もしあなたが属人主義なら、いまの職場に「『無責任の構造』がある」と考えて苛立つあなたの義憤そのものが、職場でかつて実力派閥だったグループの考え方を受けているだけのものであったり、あるいは、いま、職場を牛耳っているとあなたが感じているグループに対する反感が核になっているだけのものである可能性がある程度以上に高い。

 コミュニティ内部の敵味方意識が反対意見を排除する。このため組織というネットワークは必ず人々を隷属させる方向へと進む。ピーターの法則によれば、無責任どころか無能へ至るのだ。

残酷なまでのユーモアで階層社会の成れの果てを描く/『ピーターの法則 創造的無能のすすめ』ローレンス・J・ピーター、レイモンド・ハル

 岡本はあとがきにこう記している。

 真摯な判断を目指す人は、自己の選択が「良心的」であるかどうか日々懊悩しては懐疑し、葛藤するものだから、真摯であればあるほど、「自分が良心的だ」という自信からは遠ざかるはずである。
「自分が良心的な人間だ」などと公言できる人は、「良心」の基準がよほど甘いか、現実の複雑な厳しさに気がつかないほど脳天気な人なのだ。この種の公言が、真に良心的たり得ぬ人物の第一条件であるのは、「嘘をついたことがない」という公言がその公言そものを裏切っている無自覚と似ている。

 文章は上手いのだが、正義と善を混同している節が窺える。正義は立場に基づいている。泥棒にとっては盗むことが正義だ。資本家にとっての正義は金儲け(搾取)であろう。ビンラディンを殺害することがアメリカの正義で、そのアメリカに報復するのがアルカイダの正義だ。正義は集団の数だけ存在する。一方、善は異なる。善というのは万人にとって望ましい価値を意味するのだ。

 属事的判断は大変重要ではあるが、実践するのは至難である。それから、詐欺師だってもっともらしいことを言うのだから言葉を過信するのも危険だ。

権威主義と属人主義
脆弱な良心は良心たり得ない/『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一
民主主義の正体/『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル

2011-05-26

ウイルスとしての宗教/『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット


神経質なキリスト教批判/『神は妄想である 宗教との決別』リチャード・ドーキンス

 ・ウイルスとしての宗教

進化宗教学の地平を拓いた一書/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
キリスト教を知るための書籍

 ここにビーカーがある。中には世界が入っている。今から2000年ほど前を境にして、ビーカーの内部は3色に染められた。後世の人々はこれを世界三大宗教と呼んだ。科学的視点とはこういうものだ。客観性に裏打ちされた俯瞰。

 で、色が広がる様相をウイルスの猛威に例えることは決して奇想天外のものではない。人々の間で心から心へと伝達や複製をされる情報の基本単位を表す概念をリチャード・ドーキンスは「ミーム」と名づけた。

ミーム:Wikipedia

 過激な保守や革新、原理主義的色彩の強い宗教、短絡的なレイシスト(人種差別主義者)を見ていると、ウイルスという考えが腑に落ちる。ストンと落ちるね。声高な主張はいかなる内容であったとしてもどこか病的だ。彼らの思想は、心を病んだ連中がもたれかかる杖のように映る。

 ミームとは多くの人々の脳内情報を書き換えるウイルスと考えればわかりやすい。

 これ(※寄生虫にコントロールされるアリ)と似たようなことが、そもそも人間に起こるだろうか。まったくその通り、起こるのである。私たちは、しばしば、人間が自分の個人的な利益や、自分の健康や子どもを持つ機会を顧みず、自分の中に寄宿している【観念】の利益を増加させることに全人生を棒げるのを見る。【イスラーム】というアラビア語は「服従」を意味し、良きイスラム教徒(ムスリム)は皆、証人(あかしびと)となり、1日に5回祈りを捧げ、施しを与え、ラマダンの時間には断食し、メッカへの巡礼の旅をしようと努力する。すべて、アラーという観念のため、そして、アラーの言葉を伝えるマホメットという観念のためである。もちろん、キリスト教徒やユダヤ教徒も、同様のことをする。彼らは、〈御言葉〉を広めるために生涯を捧げ、一つの観念のために多大な犠牲を払い、苦しむこと厭わず、命を危険にさらす。シーク教徒もヒンドゥー教徒も仏教徒も同じだ。さらに、〈民主主義〉や〈正義〉、さらに明白な〈真理〉のために自らの命を捧げた、何千もの世俗のヒューマニストも忘れてはなるまい。そのために死ねるような観念は、たくさんあるのである。

【『解明される宗教 進化論的アプローチ』ダニエル・C・デネット:阿部文彦訳(青土社、2010年)以下同】

寄生虫は人間をマインドコントロールするか 英研究

 似たような動画があるので紹介しよう。


カタツムリの行動を支配するゾンビ


アリを支配するゾンビのような菌類

 ゾンビに支配されると長生きできることが前もってわかっていれば、あなたはどうするだろうか? 最近だと少量の放射線が健康にいいという論調もある。免疫学者の藤田紘一郎〈ふじた・こういちろう〉は15年間で6代にわたってサナダムシを飼育している。自分の腸内で。ビフィズス菌になら支配されてもいいよ、俺は。

 いずれにせよ人々に犠牲を命ずる思想は、「人間を手段化する」と考えてよろしい。必ずプロクルステスのベッドみたいな状況が出てくる。ほんの少しでも殉教を美化する宗教は危険だ。

 観念というものは、どのようにして心によって創造されるのだろうか。奇跡的な霊感(インスピレーション)によってかもしれないし、もっと自然な手段によってかもしれないが、いずれにせよ、様々な観念は、心から心へと広がり、異なる言語間の翻訳で生き残り、歌や聖像や彫像や儀式に乗ってヒッチハイクし、特別な人々の頭の中で思いがけない結合状態を作り出す。この結合状態において、観念は、自らを刺激した諸観念と親和的類似性を持つことによって、しかしまた、新しい特徴と前進する新しい力を持つことによって、さらに新しい「創造」を成し遂げる。

 社会も脳もネットワークで構成されている。システムの変更には必ずフィードバックを伴う。つまり現実との双方向性の中で観念は構築されるのだ。インスピレーションは無意識領域から湧くものだ。何かと何かがつながる瞬間であり、それ自体が新たなネットワークと化す。流行が受け入れられるのは、それだけ同じ無意識領域を共有している人が多いことを示している。

 ダニエル・C・デネットはアメリカの哲学者なので、キリスト教を俎上(そじょう)に乗せていると考えられる。だが、鋭い切っ先は全ての宗教が受け止めなくてはならない。

 では宗教をどのように定義するのか?

 さらに言えば、定義というものは修正を受けるものであり、それは出発点であって、石に深く刻まれたもののように消滅の危険から守られているものではない。先の定義に従えば、エルヴィス・プレスリー・ファンクラブは宗教ではない。なぜなら、そのメンバーは確かにエルヴィスを【崇拝している】かもしれないが、エルヴィスを文字通り超自然的なものとは考えてはおらず、とりわけすばらしい人間だったと考えているからである(そしてもしも、エルヴィスは真に不死なるもの、神的なものであると判断するファンクラブが現れるなら、その時には、そのファンクラブはまさに新しい宗教への歩みをはじめたことになる)。

「永遠なるものへの崇拝が宗教である」と。上手い。論理を超越した非科学性に額づかせるのが宗教の仕事だ。「黙って私についてきなさい」と。で、ついてゆくと、そこには募金箱があるという寸法だ。

 人間が有限性を自覚した時、神が誕生したのだろう。神は不老不死であり、永遠を体現している。だが永遠というものは概念であって実体はない。無限の数と一緒で、数える人がいなくなった時点で永遠の息の根は絶たれる。っていうか、時間そのものが概念なのだ。

月並会第1回 「時間」その一

 第一の呪縛(スペル)――タブー――と、第二の呪縛――宗教それ自身――は、たがいに結びつき、奇妙な合体状態を形成している。宗教の持つ強さの【一部】は――おそらく――タブーによる庇護であるかもしれない。

 これまた見事な指摘である。「タブーによる庇護」と。どんな教団でも神聖さを冒すような質問は許されない。神への冒涜は信仰者が最も恐れる罪状だ。

 誰でも聖書を引用して、どんなことでも示すことができるが、だからこそ、自信過剰を憂慮すべきなのだ。
 あなたは今まで、【自分が間違っていたらどうなるのだろう】と自問したことがあるだろうか? もちろん、あなたのまわりにはあなたの確信を共有しているたくさんの仲間たちがいるだろう。これが責任の所在を分散し――そして、悲しいことに、責任を軽くしている。だから、これからあなたが後悔の言葉を口にする機会があっても、簡単に言い訳をすることができるだろう。自分は狂信者たちに引きずられていただけだ、と。しかし、あなたは、悩ましい事実にきっと気づいていたはずだ。歴史は、お互いに扇動し合って破滅への道を突き進んだ勘違いしたら大集団のたくさんの実例を、教えてくれる。あなたはそのような集団に属しているのではないと、どうして確信を持って言うことができるのだろうか? 私個人としては、あなたの信仰に畏敬の念を抱いてはいない。私は、あなたの傲慢さに、すべての答えを知っているという無責任な確信に、本当に驚かされる。〈終わりの時〉を信じる人々は、この本を読み通す知的な誠実さや勇気を持てるだろうか?

 アメリカは世界でも珍しい宗教風土で、科学が否定された中世的な色彩が濃い。例えば日本では公開されていないが、こんな映画もある。

映画『ジーザス・キャンプ アメリカを動かすキリスト教原理主義』


 虐待に等しい洗脳教育をされた挙げ句に、幼い子供たちが喜悦の涙で頬を濡らしている。これほど醜悪な映像もあるまい。閉ざされた環境におかれると人間は簡単にコントロールされる。

 宗教とは確信の異名でもあろう。そこに懐疑が入り込む余地はない。信仰という情念が知性を封ずる。

 更にいえば、教義の絶対性に依存することで、宗教者は自我の脆(もろ)さを補完していると考えることができよう。

 本のつくりが素晴らしく青土社(せいどしゃ)の気合いが伝わってくる。後半はやや失速しているが、十分お釣りがくる内容だ。


宗教とは何か?
キリスト教の「愛(アガペー)」と仏教の「空(くう)」/『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
デカルト劇場と認知科学/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
読後の覚え書き/『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
人間は世界を幻のように見る/『歴史的意識について』竹山道雄
寄生生物は人間を操作し政治や宗教にまで影響を及ぼす/『心を操る寄生生物 感情から文化・社会まで』キャスリン・マコーリフ
昆虫を入水(じゅすい)自殺させる寄生虫/『したたかな寄生 脳と体を乗っ取り巧みに操る生物たち』成田聡子

2011-05-24

オートバイと自転車の違い


 オートバイと自転車は違う。オートバイにはエンジンが付いている。だが、二輪車という括りで見ると大差はない。オートバイも自転車も知らない人が見れば、その違いは理解できないことだろう。つまり同じ乗り物として認識するはずだ。仮に宗教を知らない人々がいたとしよう(例えば火星人)。彼らからすれば、仏教、キリスト教、イスラム教は同じものに見えることだろう。テキストを読んで祈りを捧げるという点で一致している。

あまりにも恐ろしくて読み終えることのできなかった本


 人生は「私」という形によって限定されている。だからこそ人と会い、本を開くのだ。コミュニケーションとは交換の異名だ。そして心が通い合うと、交換は交感~交歓へと高まる。つまり双方向で変容が起こるのだ。読書という営みは書き手との対話といえよう。国を飛び越え、時代を超越してコミュニケーションが可能となるのだから凄い。とはいえ、あまりにも恐ろしくて読み終えることのできなかった本が2冊だけある。

 プリーモ・レーヴィの『溺れるものと救われるもの』は読んでいると死にたくなってくる本だ。底知れぬ人間の絶望に私はたじろいだ。本を投げるようにして閉じた。ひょっとすると50歳をすぎても読めないかもしれない。

 もう1冊は、P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8‐1945.4.25』だ。絶版になるのを恐れて3冊買った覚えがある。祖国解放のために若き命を散らしていった青年たちの清らかさを、私は直視することができなかった。彼らはあまりにも眩(まぶ)しすぎた。今ようやく半分ほど読み終えたところだ。私の子供であってもおかしくない若者たちの遺書である。キリスト教が慰めとなっている事実を批判する気も起こらない。ただ静かに、じっくりと彼らの今際(いまわ)の言葉に耳を傾けよう。

溺れるものと救われるもの イタリア抵抗運動の遺書―1943・9・8‐1945・4・25 冨山房百科文庫 (36)

若きパルチザンからの鮮烈なメッセージ/『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編