2011-07-25

さようならの語源/『遠い朝の本たち』須賀敦子


 人物評価は難しい。自分の価値観や体験に照らして相手を判断するわけだが、実際は好き嫌いにとらわれているだけのような気もする。感情の後ろを理屈が追いかけている節がある。脳内では大脳辺縁系にスイッチが入った後で前頭葉が作動しているに違いない。根拠や理由というものは後出しジャンケンなのだ。

 アン・モロー・リンドバーグはチャールズ・リンドバーグの夫人である。大西洋単独無着陸飛行(1927年)を成し遂げた、あのリンドバーグだ。

 リンドバーグはヒトラーを「疑いなく偉大な人物」とたたえた。これにこたえて、ナチス・ドイツは1936、38、39年の3回リンドバーグを招いた。リンドバーグは、ドイツ空軍を視察して、その能力を高く評価した。
 多くのアメリカ人は、
「リンドバーグはナチのシンパ」
 と思っていた。

【『秘密のファイル CIAの対日工作』春名幹男(共同通信社、2000年/新潮文庫、2003年)】

 この件(くだり)を読んだ私は、リンドバーグを唾棄すべき人物と認定した。ところが数年後、菅原出〈すがわら・いずる〉によって蒙(もう)を啓(ひら)かれた。

アメリカ経済界はファシズムを支持した/『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』菅原出

 リンドバーグはただ自分に忠実な男であったのかもしれない。

 アン・モローは駐メキシコ大使の子女で、その文章からは鋭敏な感受性と聡明さが窺える。リンドバーグ夫妻は1931年に調査飛行で来日している。

 千島列島の海辺の葦の中で救出されたあと、リンドバーグ夫妻は東京で熱烈な歓迎をうけるが、いよいよ船で(どうして飛行機ではなかったのだろう。岸壁についた船とその船と送りに出た人たちをつなぐ無数のテープをえがいた挿絵をみた記憶があるのだが)横浜から出発するというとき、アン・リンドバーグは横浜の埠頭をぎっしり埋める見送りの人たちかが口々に甲高く叫ぶ、さようなら、という言葉の意味を知って、あたらしい感動につつまれる。
「さようなら、とこの国々の人々が別れにさいして口にのぼせる言葉は、もともと「そうならねばならぬのなら」という意味だとそのとき私は教えられた。「そうならねばならぬのなら」。なんという美しいあきらめの表現だろう。西洋の伝統のなかでは、多かれ少なかれ、神が別れの周辺にいて人々をまもっている。英語のグッドバイは、神がなんじとともにあれ、だろうし、フランス語のアディユも、神のもとでの再会を期している。それなのに、この国の人々は、別れにのぞんで、そうならねばならぬのなら、とあきらめの言葉を口にするのだ」(※ 『翼よ、北に』アン・モロー・リンドバーグ著)

【『遠い朝の本たち』須賀敦子(筑摩書房、1998年/ちくま文庫、2001年)】

 露のはかなさを思い、散る桜を愛でるのと同じメンタリティか。鮮やかな四季の冬が死の覚悟を促しているのか。潔さ、清らかさが日本人全体の自我を形成している。移ろいゆく時、墨絵の濃淡を味わうのが我々の流儀だ。谷崎は陰影を礼讃した。

 のっとるべき理(ことわり)を法(のり)という。水(さんずい)が去ると書いて法。そこに循環する未来は映っていない。ただこの一瞬を味わいつつ惜しむ達観が諦観へと通じる。

 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と、栖(すみか)とまたかくのごとし。(『方丈記』鴨長明)

遠い朝の本たち (ちくま文庫)翼よ、北に翼よ、あれがパリの灯だ

オリエント急行の殺人 (創元推理文庫)陰翳礼讃 (中公文庫)方丈記 (岩波文庫)

リンドバーグ愛児誘拐事件(アガサ・クリスティの小説『オリエント急行の殺人』の序盤で登場する誘拐事件は本事件を参考にしているとされる)

財(グッズ)と良いもの(グッド)


 財(グッズ)は必ずしも良いもの(グッド)とは限らないし、良いものは必ずしも財ではない。夕日は、だれも対価を支払わないので、財ではない。シアン化物入りの痛み止めカプセル一瓶は、対価を払う人がいるので財になる。

【『ギャンブルトレーダー ポーカーで分かる相場と金融の心理学』アーロン・ブラウン:櫻井祐子訳(パンローリング、2008年)】

ギャンブルトレーダー――ポーカーで分かる相場と金融の心理学 (ウィザードブックシリーズ)

2011-07-24

ファイト新聞社


 1冊読了。

 49冊目『宮城県気仙沼発! ファイト新聞』ファイト新聞社(河出書房新社、2011年)/よくぞカラーにしてくれた。河出書房新社に心から敬意を表する。東日本大震災で最も被害の大きかった気仙沼市。その避難所に掲げられた壁新聞が「ファイト新聞」だ。小学生4人が誰に言われたわけでもなく自発的に発行した。初代編集長は吉田理紗さん(小2)。手紙を書くのが大好きな彼女は、「みなさんに元気になってほしい」と壁新聞の発行を思い立つ。3月18日から5月2日分までが収録されているが、この間、休刊日は4月30日だけだ。毎号、4コマ漫画を掲載している。この子らのマジックに込めた力に思いを馳せる。彼女たちが発信するメッセージは復興の槌音(つちおと)となって響き渡る。

悪(evill)は生きる(live)の逆綴り


 8歳の子供特有のものの見方で、息子はこう語っている。「変だね、お父さん。悪(evill)っていう字のつづりは、生きる(live)っていう字のつづりと逆になっているんだね」。たしかに、悪は生に対置(たいち)されるものである。生命の力を阻(はば)むものが悪である。簡単に言うならば、悪は殺すことと関係がある。具体的には、悪は殺りく――つまり、不必要な殺し、生物的生存に必要のない殺しを行うことと関係している。
 悪は殺しと関係があると言ったが、これは肉体的な殺しだけを言っているのではない。悪は精神を殺すものでもある。

【『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』M・スコット・ペック:森英明訳(草思社、1996年)】

平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学

愛(amor)はローマ(Roma)の逆綴り

人生という名の番組、私という受信機/『脳のなかの幽霊』V・S・ラマチャンドラン


 地デジ化がいいねと言った総務省 7.24はアナログ命日

 サラダ記念日の韻を踏もうと試みたのだが見事に失敗した。7.24は「ナナニーヨン」と詠んでくれ給え。

 我が家のアナログテレビ死去に伴い、「テレビはアナクロ(時代錯誤)だ」という信念はいや増して高くそびえる。私は10代後半からテレビを殆ど視聴しなくなり、ここ数年は年に一度くらいしか見ていない。それゆえ普段はコンセントを外したままだ。

 アナログテレビは本当に死んだのだろうか? 毎日jp(7月24日)によれば、「24日正午からは番組終了や問い合わせ先などを表示する「お知らせ画面」に切り替わった。25日午前0時までにはアナログ電波の送信そのものが止まり、砂嵐のような画面になる」とのことだ。すると脳死ってわけだな。

 送信が止まれば受信する情報は存在しない。ここが重要なのだが、情報を遮断されることは機能喪失を意味する。つまり送信停止=受信不能なのだ。以下、不遜な例えを連発するがご容赦願いたい。真っ暗闇の世界に置かれた人と、明るい世界で生きる視覚障害者は内実において一致する。周囲の人々全員がわけのわからぬことを言い始める状況と、重度の認知症を患う人も同様だ。世界全体が狂気に包まれれば、あなたが異常と診断されるわけだ。

 情報の相対性はツーウェイの一方が機能しなくなることでコミュニケーションが喪失する。

 あなたがテレビ番組の『ペイウォッチ』を見ているとする。さて『ペイウォッチ』はどこに局在しているのだろうか? テレビの画面で光っている燐光体のなかにあるのか、ブラウン管のなかを走っている電子のなかにあるのか。それとも番組を放送しているスタジオの映画用フィルムやビデオテープのなかだろうか。あるいは俳優にむけられたカメラのなかか?
 たいていの人は即座にこれが無意味な質問であると気づくだろう。もしかすると、『ペイウォッチ』はどこか一カ所に局在しているのではなく(すなわち『ペイウォッチ』の「モジュール」というものは存在せず)、全宇宙に浸透しているのだという結論をだしたくなった人もいるかもしれない。だがそれもばかげている。それは月や、私の飼い猫や、私が座っているソファには局在していないからだ(電磁波の一部がこれらに到達することはあるかもしれないが)。燐光体やブラウン管や電磁波やフィルムやテープは、どれもみなあきらかに、月や椅子や私の猫にくらべれば、私たちが『ペイウォッチ』と呼んでいるシナリオに直接的な関係がある。
 この例から、テレビ番組がどんなものかを理解すれば、「局在性か非局在性か」という疑問が力を失い、それに代わって「どういう仕組みになっているのか」という疑問がでてくるのがわかる。

【『脳のなかの幽霊』V・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー:山下篤子訳(角川書店、1999年/角川文庫、2011年)】

 朗報だ。12年も経ってやっと文庫化された。テレビ番組を通した問いかけは仏教の属性論と規を一にしている。

「私」とは属性なのか?~空の思想と唯名論/『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵

 番組を人生に置き換えてみよう。私の人生はどこにあるか? 家族や友人の視線の中か、私の感覚か、それとも記憶か、あるいは写真か?

「局在性か非局在性か」との指摘は存在論を鋭く抉(えぐ)り、実は関係性という双方向性の中で人生が成り立っていることを明らかにしている。ラマチャンドランは縁起(えんぎ)を志向している。

 テレビが私であるとすれば、自我を形成するのが番組と考えてよかろう。幼い頃はテレビの操作法を知らないから、親が見る番組の影響を受ける。思春期になると自分の嗜好(しこう)が形成されてゆく。何らかの信念をもつ人は最終的に一つの番組しか見ない。スポーツ、バラエティ、歌番組、ニュース、ルポ、そして政治、思想・哲学、宗教へと至る。

宗教OS論の覚え書き

 1963年から始まった「私」という番組はいつの日か終わりを迎える。受信機としての機能も失う。「昔、シャボン玉ホリデーという番組があったよな?」あったあった。「あれは面白い番組だったよな」確かに影響力があった。「昔、小野って野郎がいたよな?」いたいた――ってな具合だ。

 もしも「私」が生まれ変わるとすれば、それは「私」という情報に依存している以上、再放送とならざるを得ない。つまり再生はあっても新生はない。来世を信じる人は六道輪廻を望んでいることになる。自我の延長戦、繰り返し観る映画、因果は巡る糸車、ネズミ車のハムスターってわけだよ。

 自我への執着をブッダは諸法無我で木っ端微塵にした。空の概念をわかりやすくいえば、「存在は電波である」となる。電波野郎って意味じゃないからね(笑)。送信と受信の関係性の中で存在し、時を経て宇宙に溶け込む。

「これあればかれあり、これ生ずるが故にかれ生ず、これなければかれなし、これ滅するが故にかれ滅す」(雑阿含経)。

 この世界に単独で存在するものは何ひとつない。西洋近代の扉を開いたのはデカルトだ。「我思う、ゆえに我あり」と彼が自覚した瞬間に、人間の自我は分断されたものとなった。

社会を構成しているのは「神と向き合う個人」/『翻訳語成立事情』柳父章

 西洋の分断された自我が世界の分断を生んだ。平和に暮らしていたアフリカの黒人は奴隷とされ、友好的なアメリカ先住民は虐殺された。世界というテレビでは近代以降、キリスト教の番組が席巻している。宣教という名目で信仰をも支配しようと目論んでいる。彼らはチャンネル権争いのためとあらば戦争までやってのける。

 キリスト教に鉄槌を下さずしてポストモダンは成立しない。そして既成概念を打ち破らなければ自由を享受することは不可能だ。

 今まで通りテレビを見ない自由は確保しようと思う。

先入観を打ち破る若き力/『脳のなかの幽霊』V・S・ラマチャンドラン

脳のなかの幽霊 (角川文庫)脳のなかの幽霊、ふたたび (角川文庫)