今の日本に本当に足らないのは、電力ではなく、脳みそじゃないですか?原発の是非なんてもう福島を見れば結果が出ているじゃない? こんな地震大国でこれからも原発を動かし続けるなんて、どう考えても間違っていると思うyoutube.com/watch?v=vM6cN7… #Loveハイロ
— 藤波心さん (@fujinamicocoro) 6月 6, 2012
・藤波心オフィシャルブログ『ここっぴーの★へそっぴー』
・藤波心
今の日本に本当に足らないのは、電力ではなく、脳みそじゃないですか?原発の是非なんてもう福島を見れば結果が出ているじゃない? こんな地震大国でこれからも原発を動かし続けるなんて、どう考えても間違っていると思うyoutube.com/watch?v=vM6cN7… #Loveハイロ
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ルドルフ・カール・ブルトマン(Rudolf Karl Bultmann, 1884年8月20日 - 1976年7月30日)は、20世紀を代表するドイツの新約聖書学者。 新約聖書の史的・批判的研究に一時代を築くとともに、聖書の非神話化(非神話論化)と実存論的解釈の方法論を提唱し、キリスト教内外に様々な議論を引き起こした。(Wikipedia)
歴史の真の理解は、いつでも歴史との出会いにおいて実現されます。その出会いにおいて歴史の求めに耳を傾けるのです。その意味はこうです。つまり歴史を理解しようと願う者は、自分自身についての理解を、歴史の中で出会う自己理解の諸可能性に照らして疑ってみる覚悟がなければならないということです。それは、そうすることによって自分自身についての理解が解明され、豊かにされるためであります。こうしてその人は歴史との対話の中にはいりこみ、歴史の求めはその人に決断を要求するのであります。歴史の認識とともに自己の認識が形成され、成長していきます。(日本語版への序文)
【『イエス』R・ブルトマン:川端純四郎、八木誠一訳(未來社、1963年)以下同】
歴史は、その本質的なものをとらえんとする場合、人がその環境、自然を観察し、観察しながらそれを研究するようには、「観察」することのできないものなのである。人間と歴史の関係は、自然との関係とは違ったものなのだ。人は自己本来の姿を捉(ママ)える時、自己自身を自然とは区別する。観察しながら自然に向かう時、人はそこに彼自身ではない事物だけを確認する。それに反して歴史に向かう時はこう言わざるを得ない。すなわち彼は自身歴史の一部であり、それ故一つの連関(作用連関)に当面しているのであり、その連関の中に彼自身の存在が組み込まれているのだ、と。
叙述はただ【歴史との絶えざる対話】でしかあり得ない。
およそ150年来イエスの生涯、人となり、その内的発展等について書かれたものは、――批判的研究でなかった限りでは――空想的小説的であった。
従って【イエスの教説】とか【イエスの思想】とか言うとき、それは誰にでも納得出来るような普遍妥当的理想的思想体系という意味ではない。そうではなく、思想というとき(ママ)、それは時の中に生きている人間の具体的状況と切り離せないものとして理解されてりう。すなわちそれは、動きと不確実性と決断の中にある、自身の実存の解釈なのである。それは、この実存の把握が可能であるという表現なのである。
【史料】が私達に与えるものは、実際さしあたりは教団の宣教なのである。ただし教団は勿論それを大部分イエスに帰している。だからと言って、教団がイエスに語らせる言葉は、皆実際彼の語ったものであるということが証明されたことには勿論ならない。多くの言葉については、むしろ教団で初めて成立したこと、他の言葉については、教団の手が加わっていることが証明される。
成程イエスは本当にいたのかという疑いには根拠がないし、一言の反駁の価値もない。把握可能な最初の段階は最古のパレスチナ教団なのであるが、その教団の歴史的運動の背後に立つ創始者がイエスであったことは全く明らかである。しかしながら教団が、イエスとその宣教の姿をどの程度まで客観的に忠実に保存したかというのは、また別の問題なのである。この事情はイエスの人となりに関心をもつ人々にとっては、憂欝もしくは破壊的である。