2012-10-15

リリアン・R・リーバー、長谷川集平、塔和子


 1冊挫折、1冊中断、3冊読了。

数学は相対論を語る』リリアン・R・リーバー、ヒュー・グレイ・リーバー絵:水谷淳訳(ソフトバンククリエイティブ、2012年)/数式についてゆけず。

ブッダの〈気づき〉の瞑想』ティク・ナット・ハン:山端法玄〈やまはた・ほうげん〉、島田啓介訳(野草社、2011年)/四念処経(しねんじょきょう)=「四種の〈気づき〉を確立する経典」の原文と解説。重要な内容と判断し、岩波文庫中村訳の後で読むことにした。

 55冊目『トリゴラス』長谷川集平(文研出版、2007年)/少年時代の「力への憧れ」を描いた怪獣モノ。絵のタッチは非常によいのだが、如何せんトリゴラスがゴジラに似すぎている。最後に少女の名をつぶやくことで、トリゴラスは結果的に性衝動から生まれた妄想となる。これをどう読むかで評価は分かれることだろう。私は物語性が浅くなったと思う。

 56冊目『トリゴラスの逆襲』長谷川集平(文研出版、2010年)/前作が彼岸を目指したのに対して、続作は彼岸から此岸を向いている。紙質も変わっており、こちらはツルツルした紙だ。タッチと色を活かすには前作の紙の方がよかったと思う。両方とも大人向けの絵本だと感じた。尚、余談ではあるが『はせがわくんきらいや』には大人の男性が出てこなかったので、トリゴラスにお父さんが登場して大いに安心させられた。

 57冊目『塔和子 いのちと愛の詩集』塔和子〈とう・かずこ〉(角川学芸出版、2007年)/「13歳でハンセン病を発病、14歳で小さな島の療養所に隔離された苛酷な現実も、塔和子の豊かな命の泉を涸らすことはできなかった」と表紙見返しにある。言葉がやわらかい。だが、生を見据える眼差しには厳格さが光っている。随筆の「浦島記」に胸を突かれる。「いっぺん社会へ出てみたいなー」といった一言が実現した話だ。罪を犯したわけでもないのに、社会から爪弾きにされた人々がついこの間まで存在したのだ。私なら最短距離でテロリストになっていたことだろう。そんな怒りを諌めるように塔和子の言葉は静かに響く。

2012-10-14

緋色燦々


 緋色(ひいろ)に驚いた光が葉の上でとどまっている。大丈夫。少しくらい休んでも罰は当たらないよ。

Burning secrets

2012-10-13

原田芳雄「only my song」


 イントロを聴いてSIONの「薄紫」かと思った。原田芳雄は類稀なブルース・ミュージシャンの一人であった。「薄紫」に匹敵する名曲だ。東京の風景が見事に曲を引き立てている。尚、収録されているCDを見つけることができなかった。テガン氏に教えていただいた。



天然色

等身大のブッダ/『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン


『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ

 ・等身大のブッダ
 ・常識を疑え
 ・布施の精神
 ・無我

『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬

ブッダの教えを学ぶ
必読書リスト その五

 私は懐疑心に富む男だ。加齢とともに猜疑心(さいぎしん)まで増量されている。元々幼い頃から「他人と違う」ことに価値を置くようなところがあった。だからいまだに付き合いのある古い友人は似た連中が多い。嘘や偽りに対して鈍感な人物はどこか心に濁りがある。曖昧さは果断と無縁な人生を歩んできた証拠であろうか。

 クリシュナムルティと出会ってから宗教の欺瞞が見えるようになった。暗い世界にあって宗教は人々を更なる闇へといざなう。クリシュナムルティの言葉は暗い世界を照らす月光のようだ。無知に対する「本物の英知」が躍動している。

 そんな私が本書を読んで驚嘆した。人の形をもった等身大のブッダと遭遇したからだ。「ああ世尊よ……」と思わず口にしそうになったほどだ。「小説」とは冠しているが、記述は正確で出典も網羅している。あの中村元訳のブッダが「ドラマ化された」と考えてもらってよい。

 もう一つ付言しておくと、私はティク・ナット・ハンやアルボムッレ・スマナサーラ声聞(しょうもん)だと考えている。決して軽んじるわけではないが、やはりクリシュナムルティのような悟性はあまり感じられない。その意味では「現代の十大弟子」といってよかろう。我々一般人は彼らから学んでブッダに近づくしかない。

 本書については書評というよりも、研鑚メモとして書き綴ってゆく予定である。また中村訳岩波文庫に取り掛かった後で再読を試みる。

 どこかに到着するのではなく、ただひたすら歩くことを楽しむ。ブッダはそのように歩いた。比丘たちの歩みもみなおなじように見えた。目的地への到着をいそぐ者はだれもいない。ひとりひとりの歩みはゆっくりとととのって平和だ。まるで一緒にひとときの散歩を楽しんでいるようだった。疲れを知らないもののように、歩みは日々着実につづいていった。

【『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン:池田久代訳(春秋社、2008年)】

「歩く瞑想」である。

歩く瞑想/『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール
「100%今を味わう生き方」~歩く瞑想:ティク・ナット・ハン

 偉大な思想家や学者は皆散歩を楽しむ。特に「カントの散歩」は広く知られた話だ。晩年のアインシュタインはゲーデルとの散歩を殊の外、楽しみにしていた。

 散歩は「脳と身体の交流」であり、「大地との対話」でもある。我々は病床に伏して初めて「歩ける喜び」に気づく。失って知るのが幸福であるならば、我々は永久に不幸のままだ。

 幸福とは手に入れるものではないのだろう。「味わい」「楽しむ」ことが真の幸福なのだ。すなわち彼方の長寿を目指すよりも、現在の生を楽しむ中に正しい瞑想がある。

 まずは「歩くことを楽しむ」と決める。そうすれば通勤の風景も一変するはずだ。



ブッダが解決しようとした根本問題は「相互不信」/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥

ジョージ・ソロス


 2冊挫折。

ソロスは警告する 超(スーパー)バブル崩壊=悪夢のシナリオ』ジョージ・ソロス:徳川家広訳、松藤民輔解説(講談社、2008年)/期待はずれ。松藤のポジショントークにも辟易させられた。ソロスが「哲学者になり損ねた男」であることだけはよく理解できた。数十年前であれば再帰性と可謬主義は卓見だと思うが、今となっては複雑系科学と認知科学の焼き直しにしか過ぎないと思われる。自説の解説もあまり上手くなく、かえって混乱するような中途半端さがある。明快ではないものを理論とは呼ばない。ま、金持ちの余技と考えるべきだろう。

ソロスは警告する 2009 恐慌へのカウントダウン』ジョージ・ソロス:徳川家広訳、松藤民輔解説(講談社、2009年)/前著よりもっと薄っぺらい本。パラパラとめくって直ぐに閉じた。