2012-10-19

そのシルエットは男性か女性か、性別認識の偏向を明らかに 米研究


 ぼんやりとした光の中に人が立っているがその顔や衣服の見分けはつかない──果たしてこの人物は男性なのだろうか、それとも女性なのだろうか。

 多分あなたは、この人物を男性だと考えるのではないだろうか。10日の英学術専門誌「英国王立協会紀要(Proceedings of the Royal Society B)」に掲載された研究によれば、その理由は、生き延びるための「反射的な判断」だという。

◆そのシルエットは男性?女性?

 カリフォルニア大学ロサンゼルス校(University of California at Los Angeles、UCLA)の心理学者が編成する研究チームは、人間が他人を評価する際に用いる視覚情報の役割について研究を行った。

 研究チームは、男女学生らに21人のシルエットを見せた。身長の同じ21人のシルエットは、ウエストとヒップの比率がそれぞれ異なり、明らかに女性的な「砂時計のようにくびれた」シルエットから、最終的には「たくましい体格」の男性的なシルエットへと徐々に変化した。

 実験に参加した学生らには、この21人のシルエットについてそれぞれの性別を質問した。どのシルエットの時点で性別が変わるかを確認するという意図だ。

 調査結果について研究チームのケリー・ジョンソン(Kerri Johnson)氏は、参加者らは曖昧なシルエットについてはどれも男性とみなす傾向があったとし、「その効果の大きさに驚いた。想像していたよりもはるかに大きかった」と述べた。

 自然界では、女性のシルエットと男性のシルエットの境は、ウエスト対ヒップのサイズ比が0.8ほどになったところとされる。だが参加者らは平均0.68に「男女の境界」を置いた。言い換えると、参加者にとって女性であると認識できるシルエットは、「グラビア写真における理想的なくびれ」とほぼ同じだったのだ。

 ジョンソン氏の研究チームは、実験結果が偏って(歪曲して)いないことを確認するため、少しずつ手法を変えて3件の追加研究を行った。結果、シルエットを男性とみなそうとする傾向は変わらなかったという。

◆危険回避のための認識バイアスか

 これは認識の錯誤だろうか──。そうではない、とジョンソン氏は語る。生き延びるため、人間にもともと備わっているメカニズムだと同氏は考えている。

 男性は女性よりも物理的な脅威になりやすい。そのため、われわれの認識はその危険性に備えるように設定されているという考えだ。「自己防衛のためではないかと、われわれは考えている」とジョンソン氏は語った。

「夜に暗い路地を歩いているとしよう。女性は物理的な脅威にはならないと一般的には考えられている。だが見知らぬ男に遭遇したとしたら、その男が物理的な強さを備えており、なんらかの危険性を及ぼす可能性が高まるだろう」とジョンソン氏は説明する。また文化的背景により「反射的な判断」が左右される可能性も否定できないとしながらも、「恐らく同じような結果がどこでも得られるはずだ」と述べた。

AFP 2012年10月19日



 たぶん正面からのシルエットなのだろう。面白い研究だが当てにならない。真っ直ぐな道路や川沿いを歩いているとシルエットに対する考察が深まる。性差を決定づけるものは腰のくびれだけではない。真っ先に挙げられるのは髪型と胸の形である。次に服装、そして文化的な仕草や態度と続く。O脚の女性はいても、ポケットに手を突っ込んで、肩を怒らせ、ガニ股で歩く女はいない。

 川沿いでジョギングしている女性を見てわかったことが一つある。バストの大きい女性は男性をつかまえるには有利であるが、走る時はどうしても不利だということ。私の独断によると、災害リスクの高い時代は、ペチャパイの女性が増えることになる。逃げやすい体型の方が生き延びる確率が高くなるためだ。

 一方、草食系と呼ばれる男性が増えているのは戦争リスクが高まっていると考えることが可能だ。戦時において勇敢な男性は真っ先に死んでしまうからだ。これについて以下のグッピーの記事を参照されたい。

比較があるところには必ず恐怖がある/『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ

2012-10-16

常識を疑え/『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン


『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ

 ・等身大のブッダ
 ・常識を疑え
 ・布施の精神
 ・無我

『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬

ブッダの教えを学ぶ
必読書リスト その五

 スヴァスティは黙って両手でその人の左手をおし抱きながら、思いきっていままで自分を悩ませていたことを口にした。「私がこのように触れたら、あなたさまが穢れるのではないでしょうか」
 その人は高らかに笑って、首を振った。「そんなことはありません。きみも私も同じ人間なのだから。きみは私を穢すことなんかできないんです。人が言うことを信じてはいけない」

【『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン:池田久代訳(春秋社、2008年)】

『小説ブッダ』は不可触賤民(ふかしょくせんみん)であるスヴァスティ少年の目を通して描かれる。ブッダが放つ人格の香気に吸い寄せられ、スヴァスティとブッダの人生が交錯する。

 少年の悩みは深刻なものだった。以下にそれを示す。

不可触民=アウトカースト/『不可触民の父 アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール
不可触民の少女になされた仕打ち/『不可触民 もうひとつのインド』山際素男
両親の目の前で強姦される少女/『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ

 ついでにもう一つ紹介しよう。

 女、子供を含めた11人の不可触民家族と仲間は、村のボスの家へ引き立てられた。家の前の広場には薪(まき)が山と積まれていた。
 ギャングたちが人びとを追い回している一方、村のカーストヒンズーは処刑の用意をせっせと整えていたのである。
 処刑は残酷極まるものだった。
 新聞などでは、11人全員射殺し、ケロシン(灯油)を浴びせ、薪にほうりこんで黒焦げにしたとあったが、それは事実ではない。実際はもっとひどいやり方で殺したのだが、余りにもむごたらしいので書くのをひかえたのだろう。
 ラジャン氏はそういい、彼の下(もと)に届いた報告を次のように語った。
 11歳になる少年を除いた大人10人は、男も女も、全員生きたまま手足を切断され、燃え盛る薪の山の中へ一人ずつ、順番に投げこまれた。もがき苦しんで転げ落ちるものは直ぐ焔(ほのお)の中へほうりこまれた。
 少年は生きたまま火中へ投じられ、数回にわたり焔の中から這(は)い出し、村人に許しを乞うたが、その都度火中に投じられ、遂に絶命した。
 芋虫となって焔の中を転げ回る人びとをクルミ(※シュードラ〈農民〉カースト)の女たちは長い棒で、ローストチキンを焙(あぶ)るように、屍体が黒焦げになり、識別不能になるまで丹念に転がした。
 これが真相です。ラジャン氏は暗い笑みを唇の端に浮かべていった。
「この事件も、警察がかんでいるのです。いつだって、不可触民虐殺の背後にはカーストヒンズーと“警察”がいるのです」
 ラジャン氏は語り継いだ。
「ギャング共は朝の6時頃村へ乗りこんできたのです。間もなく不可触民の一人が8キロ離れたところにある警察署へ急を知らせました。その頃は雨季前で、道が通じていたのです。
 ギャングの襲撃を知らせにきた農夫に、署長はなんといったと思います。
“500ルピー出せ。そしたら今直ぐにでも助けにいってやる”といったのです。
 署長の脇には、街の大ボスが椅子にふんぞり返り、署長と顔を見合わせニヤニヤしていた、とその農夫は証言しています」

【『不可触民 もうひとつのインド』山際素男〈やまぎわ・もとお〉(三一書房、1981年/光文社知恵の森文庫、2000年)】

「差別」という価値観が有する凄まじい暴力性の一端が窺える。日本における穢多(えた)、非人(ひにん)、被差別部落朝鮮人も同じ構図だ。ハンセン病(癩病〈らいびょう〉)患者を見よ。日本社会が1000年以上にわたって持ち続けてきた差別意識には一片の正当性もなかったではないか。

 余談が過ぎた。蓮華は泥の中から咲き、ブッダはカースト制度の中から誕生した。「きみも私も同じ人間なのだから」という一言には時代を揺り動かすほどの重みがある。

「きみは私を穢すことなんかできないんです」――言い換えるならば、バラモン(ブラフミン)やクシャトリヤは「穢(けが)れやすい」連中なのだ。掃き溜めに鶴、インドにブッダである。ブッダの優しい言葉の背景には辛辣(しんらつ)なまでの厳しさが聳(そび)えている。

「人が言うことを信じてはいけない」――常識は常識であるというだけで誰一人疑おうともしない。科学的な思考・合理的な精神に生きよ、との教えに少年の蒙(もう)は啓(ひら)かれたことだろう。わずか二言でブッダはインド社会の迷妄を鮮やかに斬り捨て、少年の悩みを断ち切ってみせた。ブッダとは「目覚めた人」の謂(いい)である。目覚めた人はまた、人々を目覚めさせる人でもあった。

 スヴァスティ少年はブッダに付き従い、やがて弟子の一人となる。挿入された一つひとつのエピソードは南伝パーリ語経典や阿含経を中心に膨大な経典に散らばる断片的記述を収集したもので、創作は抑えられている。



日常の重力=サンカーラ(パーリ語)、サンスカーラ(サンスクリット語)/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥