2014-01-11

新聞からテレビへとメディアの主役が交代した瞬間/『たまには、時事ネタ』斎藤美奈子


ハサミの値札の法則~報道機関は自分が当事者になった事件の報道はしない
・新聞からテレビへとメディアの主役が交代した瞬間

 7年も政権の座にあった佐藤に、国民はウンザリしていた。沖縄返還で延命をはかるも不人気に歯止めはかからず、7月6日、ついに佐藤内閣は退陣を表明する。退陣会見の席で彼が口にした台詞はあまりにも有名だ。
「テレビはどこにあるんだ。テレビを通じて国民に直接話をしたい。偏向的な新聞は大嫌いだ。新聞記者は出て行け」
 新聞からテレビへとメディアの主役が交代した瞬間である(ということにしよう)。

【『たまには、時事ネタ』斎藤美奈子(中央公論新社、2007年)】

 7月6日は内閣総辞職をした日のようだ。私が9歳になった日でもある。もちろん記憶にない。この年の出来事で覚えているのは、グアム島で横井庄一発見・札幌冬季オリンピック千日デパート火災ミュンヘンオリンピック日中国交正常化といったところ。

佐藤栄作:退陣表明記者会見

 新聞が社会の木鐸(ぼくたく)であることをやめた年と考えてもよさそうだ。


 小田嶋隆は新聞の編集能力を評価しているが、全国紙の代わり映えしない紙面を見ると眉に唾をつけたくなる。ナベツネや橋本五郎(読売新聞特別編集委員)あたりの増長ぶりを目の当たりにすると彼らが権力にコミットしているのは明らかであろう。

 それでも今なお新聞社の人間はテレビ局の人間を小馬鹿にしている。格が違うとでも思っているのだろう。そして現在、メディアの主力はテレビからインターネットに移りつつある。

 人々は一方的に情報の受け手となることを拒み始めた。これは革命的な出来事といってよい。民主主義が実質を伴って動き出したのだから。その意味で情報の双方向性を嫌う公式サイトもやがて葬られてゆくに違いない。

 今はまだ小さな動きだがインターネットは経済にも影響を及ぼす。更に文化のスタイルさえ変えてゆくことだろう。

 SNSが台頭した後に訪れるのはネット上の階層化ではあるまいか。つまり、馬鹿を削除する何らかのシステムが生まれそうな予感を覚える。

たまには、時事ネタ

女の毒舌

世界の楽器


 不思議だ。電子音とまったく違う。楽器自体の震えが温度を伴って響いてくる。エアコンの暖気とストーブの違いと似ている。我々の日常に音楽は溢れている。だがそれは「聴くための音楽」だ。カラオケがなければ歌うことも少ない。オーディオがなくとも楽器を奏でる人々の方がずっと豊かに見える。










孔子は作詞家でもあった。もちろん自ら楽器の演奏も行った

2014-01-10

「編集手帳」のボヤき


 元日の各紙を購入するのは今年でやめようと思う。買うだけの価値がもうない。

 昨年は日本経済新聞を購読していた。経団連の機関紙といわれるだけあって提灯記事がずらりと並ぶ。株価が上がると一段と威勢がいい。一般的には経済紙と思われているがテクニカル分析がデタラメでファンダメンタルに関しても鋭さを欠く。これは日経に限ったことではないが専門性の高い記事ほどいい加減になるのが新聞の弱点と言い切ってよい。

 契約期間の途中であったが、一面コラム「春秋」が放つ腐臭に耐え切れず毎日新聞に替えてもらった。新聞記者の奢り高ぶりが行間にぎっしりと詰まっている。あれを毎日読んで平気な人は自分の感覚を疑うべきだ。それほど酷い。

 一方、読売の一面コラム「編集手帳」はここのところ文学づいている。やたらと俳句・和歌・川柳などを引用しては一人ほくそ笑む姿がありありと目に浮かぶ。1月8日付では見事に馬脚を露(あら)わした。

 コラムの執筆に得意科目や不得意科目はないが、この十余年でとくに稽古を積んだのは「ボヤき」である。景気や賃金を取り上げては、いろいろな言葉を借りてボヤいてきた。

【読売新聞 2014年1月8日付】

 コラム子(し)の本音は「原発事故をボヤく」ことにあるのではないか?

 不振に陥っていた読売新聞の経営権を買収して立て直したのは正力松太郎であった。準A級戦犯であり、戦後はCIAの手先として「原子力発電の父」となった人物だ。関東大震災(1923年)の折には警察官僚の身でありながら「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」とのデマを流した人物でもある。

正力松太郎というリトマス試験紙
原発導入のシナリオ 冷戦下の対日原子力戦略

 全国紙はしばらくの間、反原発デモすら意図的に報じてこなかった。それも当然だ。彼らは原子力発電を推進してきたのだから。

 原発事故の悲惨さは裁かれる人がいないことにある。そして東京電力は従来通り原発を稼働させるべく着々と前へ進んでいる。

 家族を喪った人々の悲しみは行き場をなくし、引っ越したくても引っ越せない事情を抱えた人々が放射線物質に汚染された大地に伏す。株価が上がっているとはいえ、派遣社員は苦しい生活を余儀なくされていることだろう。沖縄の米軍基地問題も揺れたままだ。

 敗戦後に抱え込んだ矛盾がありとあらゆる場所で噴火の炎を上げている。

 編集手帳はかような時にコラムとは名ばかりの文学趣味を披露し、挙げ句の果てにはボヤきに磨きをかけているのだ。私には「亡国の兆し」としか思えない。


読売新聞東京本社の新本社ビル完成

「成る」ことは「在る」ことの否定である


 クリシュナムルティのエッセンスをものの見事に一言でいい表している。


截拳道(ジークンドー)への道

努力と理想の否定/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ
ブルース・リー

タクティカルペン(防犯・護身用)


 ・タクティカルペン(防犯・護身用)

タクティカル・ペンの使い方

 まだまだ若い者に負けない自信はあるのだが、やはり五十ともなると体力の衰えが著しい。そこで有事に備えてタクティカルペンを購入した。キーホルダーとしても使える。物騒な時代である。力の弱い女性はせめて催涙スプレースタンガン、そしてタクティカルペンのどれかを準備しておくべきだ。

 私が買ったのはこれ。

CKR 護身用 タクティカルペン 防犯グッズ 災害グッズ 通勤 通学 暗い夜道の防犯に! 《ブラック》 大切な人へのプレゼントにもGOOD!

 色はにもあるが、やはり相手に悟られにくいブラックがお薦めである。実際のペンとして使用できる物もある。

Smith & Wesson(スミス&ウェッソン)SWPENMP2BK 2nd Generation タクティカルペン ブラック

 つかまれた場合は手の甲や手首の内側を攻撃すればよい。また顔面を狙う場合は頬骨の上の鼻に近い部分を狙えば、ほぼ確実に眼球に突き刺さる。力は不要だ。襲われた時はすぐさま反撃することが重要だ。一瞬の躊躇が死につながることも決して珍しいことではない。尚、使用法については以下の動画も参考にされよ。







目撃された人々 50

2014-01-09

現実の入り混じったフィクション/『スリー・カップス・オブ・ティー 1杯目はよそ者、2杯目はお客、3杯目は家族』グレッグ・モーテンソン、デイヴィッド・オリヴァー・レーリン


・現実の入り混じったフィクション
無学であることは愚かを意味しない

 アメリカで360万部を売り上げたベストセラーである。著者のグレッグ・モーテンソンはK2から下山する途中で遭難しかける。パキスタンの山間部であった。彼は地元の村人に救われる。その村には学校がなかった。無名のアメリカ人青年は村の子供たちのために学校をつくることを約束する。

 無謀な夢が3年後に実現する。しかも立て続けに3校がつくられた。後に財団を設立し、本書が刊行された時点で何と53校も建設している。

 異なる文化が摩擦を生む。だが手探りしながら共通の価値観を見出し、互いが互いに寄り添う努力をしながら学校は建った。アフマド・シャー・マスードを知り、中村哲〈なかむら・てつ〉を読んだ私は迷うことなく本書を「必読書」リストに入れた。

 内容を確認しようと思い検索したところ、本書に捏造疑惑があるとの記事を見つけた。

『スリー・カップス・オブ・ティ』の大嘘 | 葉巻のけむり 高田直樹ブログ
米軍必読のベストセラーに捏造疑惑 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

 ウーーーム、疑惑は濃厚だ。著者は更に学校をつくるべく、過剰な演出・行き過ぎたマーケティング・結果オーライ志向の創作を行ったのだろう。もっと言ってしまえば、たとえ嘘をついてカネを集めようと、目的が正しければ構わないとまで考えたのかもしれない。

 私からグレッグ・モーテンソンにクリシュナムルティの言葉を送ろう。

 間違った手段はけっして正しい目的をもたらすことはできません。目的は手段の中にあるからです。

【『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】

 ひょっとすると彼の目的は学校をつくることから、学校をつくる自分を宣揚することに変質した可能性がある。活字による嘘は読者を騙すとか自分を偽るという次元ではなく、平然と自然に生まれるものだと私は考える。書く営みはいつだって自分に正確さを強いる。私はツイッターですら嘘は書けない。それどころか言葉づかいや知識の正誤を確認すべく検索するのが常である。

 嘘つきは病気だ。馬鹿と嘘つきにつける薬はない。

 先ほど必読書から外した。だがそれでも本書は一読の価値がある。最初から「現実の入り混じったフィクション」と思って読めばよい。

 各章に配されたエピグラフが秀逸だ。長くなってしまったので、これだけ紹介しておく。

 暗いときには星が見える。
(ペルシアのことわざ)

【『スリー・カップス・オブ・ティー 1杯目はよそ者、2杯目はお客、3杯目は家族』グレッグ・モーテンソン、デイヴィッド・オリヴァー・レーリン:藤村奈緒美訳(サンクチュアリ出版、2010年)以下同】

「あなたの村に、何かお手伝いできることはありませんか?」
「教わることは何もありません。あなた方が持っているものも、たいしてうらやましくないです。どこをとっても、私たちの方が幸せそうだと思います。ただ、学校だけは欲しい。子どもたちを学校に通わせたいのです」
エドマンド・ヒラリー卿とウルキエン・シェルパの対話 『雲の中の学校』より)

 偉大さは、つねに次のものを基礎とする。
 ごく平凡な人間の姿と言動である。
(シャムス・ウッディーン・ムハンマド・ハーフィズ)

 心に哀しき憧れを抱け。
 決してあきらめず、決して希望を失うな。
 アラーいわく「我は打ちのめされた者を愛する」。
 傷つくがいい。打ちのめされるがいい。
(シャイフ・アブ・サイード・アビル・ヘイル またの名を、名も無き者の息子)

 アラーを信ぜよ。
 だが、自分のラクダはしっかりつないでおけ。
(スカルドゥの第5飛行団基地の入り口にあった注意書き)

 諸君、
 美しい女の瞳はなぜ許可制でないのか?
 弾丸のように勇気をつらぬくし、刃のようにするどいのに。
(バルティスタンのサトパラ渓谷にある、現存する世界最古の仏様にスプレーで書かれた落書き)

 ヒマラヤの原始的な暮らしが、工業化の進んだ私たちの社会に教えてくれる。ばかげた考えだと思うかもしれない。しかし、きちんと機能する未来の姿を求めれば、めぐりめぐって、人間と大地とが共存する暮らしに必ず回帰する。昔ながらの文化は、悠久の大地を絶対に無視しない。
(ヘレナ・ノーバーグ・ホッジ)

 打ちおろされるかなづちではなく、たわむれる水こそが
 小石を完全なるものに歌いあげる。
ラビンドラナート・タゴール

 算数や詩の時代は終わった。兄弟たちよ、今は機関銃(カラシニコフ)や手榴弾から学ぶ時代だ。
(コルフェ小学校の壁にスプレーで書かれた落書き)

スリー・カップス・オブ・ティー (Sanctuary books)クリシュナムルティの教育・人生論―心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性