2015-03-09

言霊の呪能/『漢字 生い立ちとその背景』白川静


 ・言葉と神話
 ・神話には時間がなかった
 ・言霊の呪能
 ・風は神の訪れ

 古代にあっては、ことばはことだまとして霊的な力をもつものであった。しかしことばは、そこにとどめることのできないものである。高められてきた王の神聖性を証示するためにも、ことだまの呪能をいっそう効果的なものとし、持続させるためにも、文字が必要であった。文字は、ことだまの呪能をそこに含め、持続させるものとして生まれた。

【『漢字 生い立ちとその背景』白川静〈しらかわ・しずか〉(岩波新書、1970年)】

「呪」には「のろう」と「いわう」の二義がある。「祝」の字が作られたのは後のこと。最古の漢字である甲骨文字は占いとその結果を記録している。つまり神意を占った王の正しさを残すものであった。王は神と交通する存在である。神(精霊)は自然を通して人間を寿(ことほ)ぎ(※いわい)、そしてある時は罰する(※のろう)。自然の変化は神々の意志を伝えるものであった。我々日本人には馴染みのある世界観である。ここが西洋とは決定的に異なるところだ。

 文字には力がある。文字は人を動かす。神札は力を失ったように見えるが、セコムやアルソックのステッカーは効果を発揮している。誰だって好きな相手からラブレターをもらえば有頂天になるし、「壱万円」と印刷された紙切れを万人が大切に扱う。自衛隊がイラクへ派遣された際、車両に「毘」の文字がマーキングされた。武神である毘沙門天から取ったものだ。時代は変わり様式は変わっても呪能は確かに息づいている。

 日蓮は絵像・木像を徹底的に斥(しりぞ)け、自ら文字によるマンダラを創作した。


 絵像・木像は偶像(アイドル)である。偶像はアイコンとして機能する。偶像は神仏を象徴するものであって神仏そのものではない。だが人々の感情が偶像を実体化へ導く。偶像崇拝とはフェティシズム(呪物崇拝)を意味する。つまり目的と手段の混同である。

 日蓮は鎌倉時代にあって最も多くの書簡を残したことでも知られる。彼は言葉の呪能を知悉(ちしつ)していたのだろう。そうであったとしてもマンダラがアイコンを超脱することにはならない。日蓮はわかりにくいマンダラを創作したがために、わかりやすい現世利益を説いた可能性もある。尚、日蓮のマンダラには梵字(サンスクリット文字)まで書かれている。

 甲骨文字は亀の甲や牛・鹿などの肩甲骨に書かれた。書かれたというよりは刻印されたとするべきだろう。そうした行為を促した力そのものが呪能とも考えられる。

漢字―生い立ちとその背景 (岩波新書)

機械の字義/『青雲はるかに』宮城谷昌光

神話には時間がなかった/『漢字 生い立ちとその背景』白川静


 ・言葉と神話
 ・神話には時間がなかった
 ・言霊の呪能
 ・風は神の訪れ

 神話は、このようにしてつねに現実と重なり合うがゆえに、そこには時間がなかった。語部(かたりべ)たちのもつ伝承は、過去を語ることを目的とするものではなく、いま、かくあることの根拠として、それを示すためのものであった。しかし古代王朝が成立して、王の権威が現実の秩序の根拠となり、王が現実の秩序者としての地位を占めるようになると、事情は異なってくる。王の権威は、もとより神の媒介者としてのそれであったとしても、権威を築きあげるには、その根拠となるべき事実の証明が必要であった。神意を、あるいは神意にもとづく王の行為を、ことばとしてただ伝承するのだけでなく、何らかの形で時間に定着し、また事物に定着して、事実化して示すことが要求された。それによって、王が現実の秩序者であることの根拠が、成就されるのである。

【『漢字 生い立ちとその背景』白川静〈しらかわ・しずか〉(岩波新書、1970年)】

 つまり民俗宗教から王朝型(≒都市型)宗教へと変遷する過程で「文字」が必要となったということなのだろう。すなわち「文字」とは歴史そのものである。権力の正当化を後世に示す目的で生まれたと理解することができる。

 それにしても神話には「時間がなかった」という指摘が鋭い。神話は現在進行形のメディアであった。そこに「再現可能な時間」を付与したのが文字なのだ。こうして神話は歴史となった。ヒトの脳は伝統に支配され、人類は歴史的存在と化したわけだ。

 ヒトの群れは文字によって巨大化した。文字の秘めた力が国家形成を目指すのは必然であった。インターネット空間も文字に覆(おお)われている。世界宗教も文字から生まれたと見てよい。

 文明を象(かたど)っているのも文字である。であれば英語化による文化的侵食を食い止める必要があろう。言葉の衰退が国家の衰亡につながる。英語教育よりも日本語教育に力を注ぐべきだ。

漢字―生い立ちとその背景 (岩波新書)

2015-03-08

言葉と神話/『漢字 生い立ちとその背景』白川静


 ・言葉と神話
 ・神話には時間がなかった
 ・言霊の呪能
 ・風は神の訪れ

「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあり、ことばは神であった」と、ヨハネ伝福音書にはしるされている。たしかに、はじめにことばがあり、ことばは神であった。しかしことばが神であったのは、人がことばによって神を発見し、神を作り出したからである。ことばが、その数十万年に及ぶ生活を通じて生み出した最も大きな遺産は、神話であった。神話の時代には、神話が現実の根拠であり、現実の秩序を支える原理であった。人々は、神話の中に語られている原理に従って生活した。そこでは、すべての重要ないとなみは、神話的な事実を儀礼としてくりかえし、それを再現するという、実修の形式をもって行なわれた。

【『漢字 生い立ちとその背景』白川静〈しらかわ・しずか〉(岩波新書、1970年)】

 碩学(せきがく)が60歳で著した第一作である。その独自性ゆえ学界の重鎮たちから非難の声が上がった。白川学は異端として扱われた。

 しかしたとえば立命館大学で中国学を研究されるS教授の研究室は、京都大学と紛争の期間をほぼ等しくする立命館大学の紛争の全期間中、全学封鎖の際も、研究室のある建物の一時的閉鎖の際も、それまでと全く同様、午後一時まで煌々と電気がついていて、地味な研究に励まれ続けていると聞く。
 団交ののちの疲れにも研究室にもどり、ある事件があってS教授が学生に鉄パイプで頭を殴られた翌日も、やはり研究室には夜おそくまで蛍光がともった。内ゲバの予想に、対立する学生たちが深夜の校庭に陣取るとき、学生たちにはそのたった一つの部屋の窓明かりが気になって仕方がない。
 その教授はもともと多弁の人ではなく、また学生達の諸党派のどれかに共感的な人でもない。しかし、その教授が団交の席に出席すれば、一瞬、雰囲気が変わるという。無言の、しかし確かに存在する学問の威厳を学生が感じてしまうからだ。たった一人の偉丈夫の存在が、その大学の、いや少なくともその学部の抗争の思想的次元を上におしあげるということもありうる。

【『わが解体』高橋和巳〈たかはし・かずみ〉(河出書房新社、1971年/河出文庫、1980年)】

 高橋和巳を立命館大学の講師として採用したのは白川であった。尚、白川本人は「殴られたのではない。殴られかけて逃げたというのが真相だ」と語っている。「象牙の塔」は悪い意味で用いられるが、一道に徹する姿勢が凄まじい。

 西洋キリスト教世界においては「言葉が全て」である。彼らは「言葉にならない世界」を断じて認めない。それゆえ言葉は形而上を目指して人間から遠ざかっていったのだ。フロイトが着目した深層心理が目新しいものとして脚光を浴びたのも、こうした背景があるためだ。あんなものは唯識の序の口のレベルである。

 書くことは、欠く、掻く、画く、描くに通じるかくこと。土地をかくことが「耕」。「晴耕雨読」は、耕すことが書くことを含意し、東アジア漢字(書)言語圏に格別の言葉である。

【『一日一書』石川九楊〈いしかわ・きゅうよう〉(二玄社、2002年)】

 尚、神話と意識のメカニズムについては、ジュリアン・ジェインズ著『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』が詳しい。

漢字―生い立ちとその背景 (岩波新書)一日一書

2015-03-04