2015-04-14

優れたセルフコーチング術/『悩めるトレーダーのためのメンタルコーチ術』ブレット・N・スティーンバーガー


 自分の理想を表現できる役者などほとんどいない。われわれには長所もあるし才能もある。夢も野心もある。しかし、長い間見ていても、そうした理想が具体的に表現されている例は少ない。数日が数カ月になり、数年になり、ようやく(残念ながら決定的になった時点で)人生を振り返り、今まで何をやってきたのかと頭をひねるのが普通である。
 皆さんもそうだろう。「どうして闘う人間になれなかったんだろう。もしかしたら違う人生を生きていたかもしれないし、自分の理想を表現する役者になって、その実現を謳歌していたかもしれないのに」と、中高年者は過去を振り返る。

【『悩めるトレーダーのためのメンタルコーチ術 自分で不安や迷いを解決するための101のレッスン』ブレット・N・スティーンバーガー:塩野未佳〈しおの・みか〉訳(パンローリング、2010年)以下同】

 巧妙な詐欺師を思わせる文章だ。アメリカ人はプレゼンテーション能力が優れている。しかもブレット・スティーンバーガーは医科大学で精神医学と行動科学を教える准教授で臨床心理学博士という人物。ま、他人を操るのが仕事といってよい。タイトルに「メンタルコーチ術」とあるが正確にはセルフコーチング術である。動機の分析・修正・方向付けによって行動を変えるところに目的がある。

 良書だが乗せられてはいけない。著者は実社会で実現し得なかった自己実現が、あたかもマーケットでは可能であると読者に思わせたいのだろう。甘い、まったく甘いよ。マーケットの勝者は15%とされる。殆どの人々が苦渋を味わい、辛酸を嘗(な)め、敗れ去るといった点で実社会と何ら変わらない。ただしマーケットでは自由と平等が保証されている。買うのも売るのも自由だし、するしないも自由だ。

 自由競争が資本主義の原理である。だが実態は異なる。倒れかかったメガバンクや大企業には税金が投入され、会社内では同族が優遇され、学歴・資格・試験によって走るコースが変わる。スポーツの世界ですら自由競争が行われているかどうか怪しい。才能や技術よりも、カネやチームの都合が優先する。芸術の世界は多分スポーツよりも劣る。パトロンやコネ、賞などに支配されていることだろう。

 それでも義務教育を振り返ればわかるが、やはりスポーツ・芸術・学問は自由な競争が行われていると考えてよい。もちろん生まれ持った才能や素質はあるものの、周囲の評価は共通している。そして努力が報われる世界でもある。

 社会全般における競争はカネに換算される。資本主義はカネ(≒資本)の奪い合いをする世界の異名だ。学校法人や宗教法人までもが広告を打つのはそのためだ。あらゆる言葉がマーケティングを志向し、結果的にプロパガンダと化す。大衆消費社会は広告という嘘によって扇動される。

 そして自己を実現するのもまたカネである――と思い込まされるのが資本主義の罠だ。っていうか、「実現されるべき自己がある」と思っている時点で既にやられている。そんなものはない。今の自分が全てだ。他人と比較して自分に欠けたものを見出すことに意味はない。できないことは、できる人にやってもらえばいいのだ。

 日本人の大半は投資をしていない。でも、実は本人に代わって銀行や保険会社が運用している。自分で運転できないから、タクシーやバスを利用しているようなものだ。

 投資やマーケティングに関する書籍は生々しい言葉で競争の本質を描くところに魅力がある。

 頭脳には手とまったく同じパワーがある。世界を支配するだけでなく、それを変革するパワーが。
     ――コリン・ウィルソン

 こんな言葉が出てくるのだから、やはり侮れない。

悩めるトレーダーのためのメンタルコーチ術 (ウィザードブックシリーズ)
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2015-04-11

「ブッポウソウ」(仏法僧)と鳴くのはコノハズク


 長年にわたる疑問がやっと晴れた。






日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

甦れ、ブッポウソウ (ネイチャー・ストーリーズ)仏法僧の不思議 (ルネッサンスbooks)

2015-04-10

Adrien M / Claire B



2015-04-09

草間彌生











唯識における意識/『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ

2015-04-08

自己犠牲/『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』エリック・ホッファー


『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』エリック・ホッファー

 ・沖仲仕の膂力と冷徹な眼差し
 ・自己犠牲

 最も利己的な情熱にさえ、自己犠牲の要素が多分に含まれている。驚くべきことに、極端な利己主義でさえ、実際には一種の自己放棄にほかならない。守銭奴、健康中毒者、栄光亡者たちは、自分を犠牲にする無私の修練において人後に落ちるものではない。
 あらゆる極端な態度は、自己からの逃避なのである。

【『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』エリック・ホッファー:中本義彦訳(作品社、2003年)以下同】

 間もなく読み終える『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ:阿部宏美訳(紀伊國屋書店、2013年)につながる内容を見つけた。恐るべき偶然である。私のようなタイプは記憶が当てにならないので、やはり本を開くに限る(正確には画像ファイルをめくったわけだが)。

 エリック・ホッファーの抽象度の高さは「学歴がない」位置から生まれたように見える。つまり知識や学説に依存するのではなくして、ひとりの人間として学問に向き合う真摯な姿勢が独自性にまで高められているのだ。本書を開けば立ちどころに理解できる。ここにあるのは「誰かの言葉」ではなく「彼自身の言葉」なのだ。

 過剰な筋肉をまとったボディビルダーや完璧なコスチュームプレイも「極端な態度」である。自己表現というよりは、むしろ表現によって自己を規定する顛倒(てんとう)が窺える。一種のフェティシズム(手段と目的の倒錯)なのだろう。その自己放棄は暴走族と似ている。放棄が「損なう」ベクトルを描く。

 放蕩は、形を変えた一種の自己犠牲である。活力の無謀な浪費は、好ましからざる自己を「清算」しようとする盲目的な努力にほかならない。しかも当然予想されるように、放蕩が別の形の自己犠牲へと向かうことは、決して珍しいことではない。情熱的な罪の積み重ねが、聖者への道を準備することも稀ではない。聖者のもつ洞察は、多くの場合、罪人としての彼の経験に負っている。

 頭の中でライトが灯(とも)った。マルチ商法のセールスや新興宗教の布教はまさしく「放蕩」という言葉が相応(ふさわ)しい。そこには下水のようなエネルギーが溢(あふ)れている。彼らはただ単に洗脳されて動いているわけではなく、自らを罰する(「清算」)ためにより活動的にならざるを得ないのだ。Q&A集に基づくセールストークは「他人の言葉」だ。

「活力の無謀な浪費」で想起するのは、アルコール・ギャンブル・ドラッグなどの依存症だ。共産主義の流行や学生運動の広がりも実際は「放蕩」であったことだろう。

 ある情熱から別の情熱への転位は、それがたとえまったく逆方向であると、人びとが考えるほど困難なものではない。あらゆる情熱的な精神は、基本的に類似した構造をもっている。罪人から聖者への変身は、好色家から禁欲主義者への変身に劣らず容易である。

 信者は教団を変えても尚、信者である。依存対象を変えた依存症患者と同じだ。往々にして情熱は盲目を意味する。走っている人に足下(あしもと)は見えない。自己犠牲という欺瞞は何らかの取り引きなのだ。それゆえブッダは苦行を捨てたのだろう。

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