2016-04-18

秘教主義の否定/『アドラー心理学入門 よりよい人間関係のために』岸見一郎


 ・秘教主義の否定

『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』岸見一郎、古賀史健
『幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII』岸見一郎、古賀史健
・『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル

 あるとき、ニューヨークの医師会がアドラーの教えだけを精神科の治療に使うために採用したい、ただし医師だけに教え、他の人には教えないという条件を提示したとき、アドラーはその申し出を断りました。「私の心理学は[専門家だけのものではなくて]すべての人のものだ」とアドラーはいいました。

【『アドラー心理学入門 よりよい人間関係のために』岸見一郎(ベスト新書、1999年)】

 書評を書いたところで内容が知れているので、思いつくまま記すことにしよう。私の場合、感じる能力は強いのだが説明能力が劣るためだ。一般的に考えられている頭のよさとはプレゼンテーション能力を意味する。あらゆるレビューに求められるのもこれだ。要旨をまとめ、違いを示し、動機を与え、行動を促す。ま、営業・販売や自己宣伝の能力だわな。

 昨日の書評(序文「インド思想の潮流」に日本仏教を解く鍵あり/『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集)に書き忘れたことも付け加えておく。

 岸見の著作を読むまで私はアルフレッド・アドラーアブラハム・マズローを混同していた。『嫌われる勇気』がベストセラーになっていたのは知っていたが、直ぐに手を伸ばさなかったのは「どうせ自己実現だろ?」と勝手に思い込んでいたためだ。が、それはマズローだった。

 アドラーはフロイトと共同研究を行っていたが、学問的見解を異にし、やがて袂(たもと)を分かつ。精力的に臨床を行った現場の人でもある。


 アドラーの言葉は「秘教主義の否定」であろう。ウパニシャッドに限らず大方の宗教には秘教的要素がある。宗教学ではエソテリシズムといい、インド宗教においては密教と名づける。

 西暦1700年か、あるいはさらに遅くまで、イギリスにはクラフト(技能)という言葉がなく、ミステリー(秘伝)なる言葉を使っていた。技能をもつ者はその秘密の保持を義務づけられ、技能は徒弟にならなければ手に入らなかった。手本によって示されるだけだった。

【『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー:上田惇生〈うえだ・あつお〉編訳(ダイヤモンド社、2000年)】

 手工業の時代にあっては技能・技術すら秘教であった。もともと西洋の学問世界は秘伝として教えられた長い歴史がある。ピタゴラスの数学世界は五芒星を掲げる教団から生まれたものだ。西洋では大学が12~13世紀に生まれるが学問を支配していたのは教会であった。そして女性に学問は不要と考えられていた(『フェルマーの最終定理 ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで』サイモン・シン)。

 グーテンベルクの印刷革命が1445年に狼煙(のろし)を上げる(※ただし活版技術を創案したわけではなく飽くまでも象徴である→世界史用語解説 授業と学習のヒント:金属活字)。最初に印刷したグーテンベルク聖書宗教改革の導火線となる。ドラッカーが指摘する年代は「百科全書」の作成時期(1751~1772年)と重なると見てよい。いよいよ「知識の時代」が到来したのだ。

 知識は紙を通して広まった。やがて科学革命が花開き、そして教会の権威が失墜する。秘伝が技能となり、秘教は知識となった。近代を開いた原動力がここにある。

 ブッダの遺言にこうある。

「アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか? わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。完(まった)き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は、存在しない。『わたくしは修行者のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は、『わたくしは修行者のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたしに頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか」

【『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1980年/ワイド版、2001年)】

「何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は、存在しない」――ブッダは秘教主義と無縁であった。更には指導者の存在をも否定している。ブッダは「自分よりも優れた人を友とせよ」と教えた。好き嫌いで選ぶ人間関係は互いを戒め合うことがない。気分や感情に流されがちで、自分自身を真摯に見つめる姿勢も生まれにくい。もしも尊敬し信頼するような人がいなければどうすればいいのか? 「どうしても仲間がいなければ、独りでいてください」(『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ、佼成出版社、2005年)。「犀の角のようにただ独り歩め」(『ブッダのことば スッタニパータ』中村元〈なかむら・はじめ〉訳、岩波文庫、1958年/岩波ワイド文庫、1991年))ばいいのだ。

 神智学協会から「世界教師」と目され、大切に育てられたクリシュナムルティが、自分のために設けられた「東方の星の教団」を解散したのは34歳の時であった。「真理は途なき大地である」(『クリシュナムルティ・目覚めの時代』メアリー・ルティエンス、高橋重敏訳、めるくまーる、1988年)と。真理が途(みち)なき大地であればガイド(案内人)は不要だ。そして「新しい獄舎(教団)をつくるつもりはない」と宣言した。その後、終生にわたって集団はおろか弟子の存在すら認めなかった。

 集団は内に向かって特殊な力学が働く。そして集団は必ず暴力性を伴う。「数は力」なのだ。爆音を鳴らしながら道路交通法を踏みにじる暴走族、熱狂的なファン、示威行為の自覚を欠いたデモ、整然と行進する兵士、教祖の話に耳を傾ける多数の崇拝者……。更に権威を成り立たせているのも多数の人間である。

 多数に従い、平均的であることは生存率を高める。進化過程では平均が有利なのだ(『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ、新曜社、2001年)。動物として生きるのならば群れに従うのが正しい。ただし、そこに自由と英知はない。

 コンピュータがパーソナル化され情報革命は拍車をかける。とはいうものの専門化した科学、形而上に向かう哲学はどこか秘教的である。そして本当に儲かる話はインサイダーしか知らない。

 アドラーは自分の名前が宣揚されることよりも、自分の理論がコモンセンスとなることを望んでいたという。ここに本物の人間の生き方があるように思う。

 本書に深く感動した20代の古賀史健〈こが・ふみたけ〉は、岸見とアドラーの決定版を作ることを夢見る。10年以上を経て岸見と直接見(まみ)え、遂に2013年、『嫌われる勇気』を刊行する。今年の2月、既に32刷となり累計で100万部を超えるベストセラーとなった。同書は韓国でもほぼ同じ売れ行きとなっている。

 クリシュナムルティの言葉が引用されていることも付け加えておく。

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)
岸見 一郎
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2016-04-16

序文「インド思想の潮流」に日本仏教を解く鍵あり/『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集、『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵


 ・長尾雅人と服部正明
 ・序文「インド思想の潮流」に日本仏教を解く鍵あり
  ・秘教主義の否定/『アドラー心理学入門 よりよい人間関係のために』岸見一郎

『ウパニシャッド』辻直四郎
『はじめてのインド哲学』立川武蔵
『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦訳
・『神の詩 バガヴァッド・ギーター』田中嫺玉訳
『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵

スピリチュアリズム(密教)理解のテキスト

 ウパニシャッドは「奥義書」と訳されたり、「秘教」とよばれたりするが、その本来の意味は必ずしもはっきりしていない。語源的には「近く」(原語略)「坐る」(原語略)という意味があり、弟子が師匠に近座すること、こうして伝授される秘説、さらにその秘説を集録した文献を意味する、という解釈が一般に行なわれてきた。
 近来の学者は、それに対して次のような考え方を提示している。そのほうがより多くわれわれを納得せしめるようである。すなわちこの語は古くから「対照」「対応」の意味をもち、それはのちに述べる大宇宙と小宇宙との等質的対応の関係――究極的には宇宙の最高の原理であるブラフマンと、個体の本質としてのアートマンの神秘的同一化を説くウパニシャッドの内容に、よく符号調和するというのである。

【『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人〈ながお・がじん〉責任編集(中央公論社、1969年/中公バックス改訂版、1979年)】

 序文「インド思想の潮流」(長尾雅人、服部正明)に日本仏教を解く鍵がある。バラモン教の聖典ヴェーダは、サンヒター(本集)・ブラーフマナ(祭儀書、梵書)・アーラニヤカ(森林書)・ウパニシャッド(奥義書)の4部から成り、更に各部が四つに派生し、重ねて細密化し、絢爛(けんらん)たる思想のタペストリーを紡(つむ)ぐ。

 イエスがユダヤ教の論理に則ってキリスト教を説いたように、ブッダもまたバラモン教の論理を再構築・止揚するスタイルで教えを説いた。

六五〇 生れによって〈バラモン〉となるのではない。生れによって〈バラモンならざる者〉となるのでもない。行為によって〈バラモン〉なのである。行為によって〈バラモンならざる者〉なのである。

【『ブッダのことば スッタニパータ』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1984年/岩波ワイド文庫、1991年)】

 言葉を自由に駆使しながら、バラモンを否定することなく、その階級制を撃破している。手垢まみれの表現を恐れずに使えば、ブッダはまさしく「言葉の天才」であった。そしてこの天才性に抗し切れず、額(ぬか)づくところに教義が形成される。

 インド仏教には二つの大きな流れがあり、上座部(じょうざぶ/いわゆる小乗・部派仏教・テーラワーダ)と大衆部(だいしゅぶ/いわゆる大乗)に分かれ、前者は南伝仏教(スリランカやタイ、ミャンマー)となり後者は北伝仏教(中国やチベット、日本)として伝わった。

 厳密にいえば大衆部=大乗ではなく、諸説があって定まっていない。学者ではない私が神経質になることもないのだが、やはり古本屋魂が許さないため、個人的には「初期仏教」「後期仏教」と表記する。

 インドの宗教史は、おおよそ以下の6期に分けることができる。

 第1期 紀元前2500年頃~前1500年頃 インダス文明の時代
 第2期 紀元前1500年頃~前500年頃 ヴェーダの宗教の時代(バラモン教の時代)
 第3期 紀元前500年~紀元600年頃 仏教などの非正統派の時代
 第4期 紀元600年頃~紀元1200年頃 ヒンドゥー教の時代
 第5期 紀元1200年頃~紀元1850年頃 イスラム教支配下のヒンドゥー教の時代
 第6期 紀元1850年頃~現在 ヒンドゥー教復興の時代

【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵〈たちかわ・むさし〉(講談社学術文庫、2003年)以下同】

 根本分裂はブッダの死後100年頃と考えられているので、中村元説を取れば紀元前283年前後となる。

 全くの私見であるが、後期仏教はバラモン教復興(「バラモン教からヒンドゥー教へ」の流れ)への対抗措置として生まれたと考える。一言で述べれば、双方が「信仰化」を図(はか)ったのだ。具体的には祭儀を求めた大衆心理に迎合する形で仏教が密教化していった。

 インド仏教は紀元前5世紀あるいは紀元前4世紀に生まれて、13世紀頃にはインド亜大陸から消滅したのであるが、この千数百年の歴史は初期、中期、後期の3期に分けることができよう。
 まず、初期とは仏教誕生から紀元1世紀頃まで、中期は紀元1世紀頃から600年頃までの時期を指す。後期とは紀元600年頃以降、インド大乗仏教滅亡までである。

 そしてインドで仏教が消滅した13世紀に鎌倉仏教が花開くのである。

 アルボムッレ・スマナサーラが日本仏教の特徴を「祖師信仰にある」(『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司)と喝破している(『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司〈ようろう・たけし〉、宝島社、2004年/宝島SUGOI文庫、2014年)。そして祖師信仰が座主(ざす)・法主(ほっす)・血脈志向を生んだ。ここにウパニシャッドの近座思想が垣間見えるではないか。

 日本仏教は梵我一如に染まり、大日如来久遠本仏を設定し、即身成仏を説くのである。その神格化と理論化がヒンドゥー教変遷の歴史と酷似している。

 言葉はコミュニケーションの道具である。すなわち言葉を通してブッダの悟りに迫ることが大切なのであって、言葉を崇(あが)め奉(たてまつ)るるところにブッダの精神はない。ブッダの教えは仏教へと変わり果てた。

 私は数年前にクリシュナムルティと出会い、ブッダの姿がくっきりと見えるようになった。また、アメリカインディアンに伝わる言葉の数々はアルハット(阿羅漢)を示すものと考えている。バイロン・ケイティジル・ボルト・テイラーも現代のアルハットであろう。



仏教学への期待:長尾雅人、上山大俊
中央公論社「世界の名著」一覧リスト
「私は在る」(I Am)その二/『誰がかまうもんか?! ラメッシ・バルセカールのユニークな教え』ブレイン・バルド編

東京よりも広い沖縄の18%が米軍基地/『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』矢部宏治


・『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること 沖縄・米軍基地観光ガイド』須田慎太郎・写真、矢部宏治・文、前泊博盛・監修

 ・米軍機は米軍住宅の上空を飛ばない
 ・東京よりも広い沖縄の18%が米軍基地
 ・砂川裁判が日本の法体系を変えた

・『戦後史の正体』孫崎享
・『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』前泊博盛編著

 だからいま【「面積の18パーセントが米軍基地だ」と言いましたが、上空は100パーセントなのです】。二次元では18パーセントの支配に見えるけれど、三次元では100パーセント支配されている。米軍機はアメリカ人の住宅上空以外、どこでも自由に飛べるし、どれだけ低空を飛んでもいい。なにをしてもいいのです。日本の法律も、アメリカの法律も、まったく適用されない状況にあります。(中略)

 さらに言えば、これはほとんどの人が知らないことですが、【実は地上も《潜在的には》100パーセント支配されているのです】。
 どういうことかというと、たとえば米軍機の墜落事故が起きたとき、米軍はその事故現場の周囲を封鎖し、日本の警察や関係者の立ち入りを拒否する法的権利をもっている。(中略)

「日本国の当局は、(略)【所在地のいかんを問わず合衆国の財産について、捜索、差し押さえ、または検証を行なう権利を行使しない】」(日米行政協定第17条を改正する議定書に関する合意された公式議事録」1953年9月29日/東京)

 一見、それほどたいした内容には思えないかもしれません。【しかし実は、これはとんでもない取り決めなのです】。文中の「所在地のいかんを問わず(=場所がどこでも)」という部分が、ありえないほどおかしい。それはつまり、米軍基地のなかだけでなく、【「アメリカ政府の財産がある場所」は、どこでも一瞬にして治外法権エリアになるということを意味しているからです】。

【『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』矢部宏治〈やべ・こうじ〉(集英社インターナショナル、2014年)】


「面積の18%が米軍基地」と聞いてもピンと来ない人が多いことだろう。私も今調べて初めて知ったのだが、面積で見ると沖縄は東京よりも広い。都道府県面積の下位は以下の通りである。

44 沖縄県 2,281.00
45 東京都 2,190.90
46 大阪府 1,904.99
47 香川県 1,876.73(単位は平方km)

都道府県の面積一覧

 しかも東京都の場合は島嶼(とうしょ)部の405平方kmを含んでいる。


 大雑把だが八王子・町田・青梅を足しても16.5%にしかならない。東京23区から大田区・世田谷区・足立区を除いた面積が全体の約20%である。米軍基地の大きさが理解できよう。(東京都の市区町村の一覧と、人口、面積などのデータ

 そして「地上も100%支配されている」事実が沖縄国際大学米軍ヘリコプター墜落事件(2004年)で明らかになる。



 事故直後、沖縄国際大学には米兵数十人がフェンスを乗り越えてなだれ込み、「アウト! アウト!」と叫びながら地元県民や記者を締め出した。米兵は現場を完全に封鎖し、消火活動に駆けつけた消防署員まで追い出した。


 運良く怪我人は出なかった。しかし仮に怪我人や死亡者が出たところで米軍の対応が変わるとは考えにくい。しかも日本政府のお墨付きである。これはもう「GHQの占領状態が続行している」としか判断のしようがない。つまり米軍基地周辺は現在も戦時中なのだ。

 もともと日本人はアメリカに対して親しみを感じていた。アメリカ側も万延元年遣米使節(1860年)がニューヨークのブロードウェイをパレードした際は50万人もの人々が集まり歓迎した。アメリカを代表する詩人ウォルト・ホイットマンが「ブロードウェーの華麗な行列」という詩を詠(よ)んだ(※尚、勝海舟や福澤諭吉が乗っていた咸臨丸はニューヨークへは行ってない模様)。

 日本が反米感情を抱くようになったのは二つの事件を通してである。一つは戦前の排日移民法(1924年)である。そして戦時中は「鬼畜米英」を叫びながら、原爆を2発落とされてもアメリカを恨むことがなかった日本人を怒り狂わせた事件が起きた。ジラード事件である。1957年(昭和32年)1月30日、群馬県の米軍演習基地で21歳の米兵が面白半分で日本人主婦を射殺したのだ。この事件は60年安保闘争という火に油を注ぐ事態となったことも見逃してはなるまい。

 二つの事件が風化し忘れ去られた頃、またしても事件が起きる。沖縄米兵少女暴行事件(1995年)だ。12歳の少女を拉致し、3人の黒人米兵が集団で強姦をした。アメリカ海軍は市民権目当てで入隊する者が多く、モラルの程度は極めて低い。この時、沖縄で武力闘争が起きても不思議ではなかった。

 日本政府が国民の生命と財産を守っていないのは明らかである。米軍にはお引き取り願って、強くてまともな軍隊を自前で用意するのが独立国の作法である。

日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか

目撃された人々 67


2016-04-14

日露戦争が世界に与えた衝撃/『世界が語る大東亜戦争と東京裁判 アジア・西欧諸国の指導者・識者たちの名言集』吉本貞昭


『学校では絶対に教えない植民地の真実』黄文雄
『大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか』加瀬英明

 ・日露戦争が世界に与えた衝撃

・『世界がさばく東京裁判』佐藤和男監修、江崎道朗構成、日本会議企画
『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン
『人種差別から読み解く大東亜戦争』岩田温
『植民地残酷物語 白人優越意識を解き明かす』山口洋一

日本の近代史を学ぶ

ファン・ボイ・チャウ(ベトナムの民族主義者)】
「日露戦争は私たちの頭脳に一世界を開かせた」

ネルー(初代インド首相)】
「アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国ぐにに大きな影響を与えた。わたしは少年時代、どんなにそれに感激したのかを、おまえによく話したことがあったものだ。(中略)いまでもヨーロッパを打ち破ることもできるはずだ。ナショナリズムはいっそう急速に東方諸国にひろがり、(アジア人のアジア)の叫びが起こった」

【ウ・オッタマ僧正(インドの独立運動家)】
「日本の隆盛と戦勝の原因は、英明なる明治大帝を中心にして青年が団結したからである。われわれも仏陀の教えを中心に、青年が団結・決起すれば、必ず独立を勝ち取ることができる。長年のイギリスの桎梏からのがれるためには、日本にたよる以外に道はない」

バー・モウ(初代ビルマ首相)】
「日本の勝利はアジアの目覚めの一歩」

レーニン(ロシアの革命家)】
「旅順の降伏はツァーリズム降伏の序章。革命の始まり」

【デュボイウス(アフリカ解放の父)】
「有色人種は日本をリーダーとして従い、人種平等・民族独立を達成すべきである」

【シーラーズ(イラン解放の父)】
「日本の足跡をたどるならば、われわれにも夜明けがくるだろう」

 以上の証言からも分かるように、この日露戦争の勝利は、単に日本と朝鮮半島の安全保障を確立しただけではなく、欧米列強やロシアの圧政に苦しむ人々に大きな影響を与えたことは確かであろう。(※証言者冒頭の数字を割愛した)

【『世界が語る大東亜戦争と東京裁判 アジア・西欧諸国の指導者・識者たちの名言集』吉本貞昭(ハート出版、2012年)】

 日本の近代史は実に厄介である。精力的に読み漁ってきたが、ボヤけたままの全体像がいつまで経ってもすっきりと見えてこない。もちろん私の眼が悪い可能性もあるが、この手の本は細部や部分に固執する傾向が強い。明治維新だけ考えてみても、アヘン戦争に敗れた清国の惨状と黒船襲来による危機感が大きな動機になっているが、攘夷派がコロリと開国派に転じた背景がわかりにくい。そもそも下級武士がどのようにしてカネや武器を動かすことができたのか? 孝明天皇の意志がどこにあったかもつかみにくい。偽勅(ぎちょく/討幕の密勅)だけで済ませては会津藩が浮かばれない。

 その後、日清・日露戦争~第一次世界大戦~第二次世界大戦と鎖国から帝国主義へ打って出たわけだが、意思決定すら不透明でよくわからない。関東軍の暴走(満州事変:昭和6年/1931年)、五・一五事件(昭和7年/1932年)、二・二六事件(昭和11年/1936年)を思えば、まともに統治された国家とは言い難い。確固たる権力が不在であった証拠といえよう。結局のところ「東亜百年戦争」は明治維新からの内乱を引きずった百年でもあった。官僚やマスメディアに巣食う痼疾(こしつ)の由来もここにあると私は考える。

 日露戦争(明治37年/1904年-明治38年/1905年)を「20世紀最大の事件」に挙げる人は多い。第二次世界大戦よりも歴史的な意義があるのは、数世紀にわたる白人支配に一撃を与えたためだ。日本の勝利が後のアジア・中東・アフリカ諸国独立の遠因となったのである。

 元を糾(ただ)せば日清戦争(明治27年/1894年-明治28年/1895年)もロシアの南下政策を防ぐ目的があった。更に義和団事変(1900年)におけるロシア兵の横暴・モラル欠如は目に余るものがあった。帝国主義時代において不凍港を獲得せんとするロシアと、遅れて世界に進出せんとした日本が衝突することは避けようがなかった。何にも増して日清戦争に対する三国干渉が全国民の不満となって鬱積していた。

 知識人の多くが主戦論を唱えた。非戦論者ではクリスチャンの内村鑑三や社会主義者の幸徳秋水が知られるが、単なる感情的なもので国家の行く末を踏まえたものではない。また当時の世界を見据える視点は、日清戦争に反対した勝海舟(『氷川清話』)よりも福澤諭吉に軍配が上がると思う。

 吉本貞昭は高校の非常勤講師をしながら本書を書き上げた。一読の価値ありと推すが、証言の詳細がないのが不備に映る。


日露戦争に関しての発言など