2016-02-26

千田孝正伍長/『今日われ生きてあり』神坂次郎


『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
『大空のサムライ』坂井三郎
『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編

 ・特攻隊員たちの表情
 ・千田孝正伍長
 ・鉄ちゃんのうどん

『月光の夏』毛利恒之
日本の近代史を学ぶ

〈すべての行動が自信に満ち、純で神をみる如(ごと)き若者たちでした。ですから、佐賀の村びとの隊員たちへの好意は、他の隊とは問題にならぬほど絶大なるものがありました。毎日、朝から何十人といふ老若男女がやってきました。リヤカーに酒や卵、アメ、煮染(にしめ)、おすし、などを乗せて。
「このたびはご苦労さまです……これを、どうぞ召しあがってください」
 と涙をこぼし、拝みながら言ひます。
 夜になると、村の人びとの中で芸自慢なのが歌や踊りで慰問をしてくれました。が、特攻ほがらか部隊の隊員たちのはちきれるばかりの元気な余興は、かへつて逆に村の人びとを慰問する程でありました。なかでも人気者の千田伍長の陽気な、
 ♪鉄砲玉とは おいらのことよ 待ちに待つてた 首途(かどで)だ さらば
  友よ笑つて今夜の飯を おいらの分まで 食つてくれ
 と歌ひながら剽軽(へうきん)な身ぶり手ぶりで踊る特攻唄(とくこううた)は、村の人びとを爆笑させ、そして、涙ぐませました。
 佐賀の村人たちの好意は、このやうに非常なものでしたが、二十歳前後の前途有為な隊員たちの将(まさ)に散らんとするを、これを見送るはなむけとしては、決して多すぎはしなかつたと思ひます。でも隊員の方々は恐縮して、申しわけないやうな顔をして居られました。もちろん、「もうすぐ、特攻隊で死ぬんだぞ」などといふ昂(たか)ぶつたところなど、まつたく見られませんでした。なごやかで、若者らしい元気よさがありました〉(宮本誠也の手紙)〈※庵点を♪に代えた〉

【『今日われ生きてあり』神坂次郎〈こうさか・じろう〉(新潮社、1985年/新潮文庫、1993年)以下同】

 千田孝正伍長は18歳であった。第72振武隊は自分たちで「特攻ほがらか部隊」と名づけるほど陽気な少年たちが集まった。今知ったのだが、あの「子犬を抱いた特攻隊」の写真が彼らである。出撃を2時間後に控えていた。子犬を抱く少年の右隣が千田である。


 前日、千田の密かな行動が女子青年団員に目撃されていた。

「日本を救うため、祖国のために、いま本気で戦っているのは大臣でも政治家でも将軍でも学者でもなか。体当たり精神を持ったひたむきな若者や一途(いちず)な少年たちだけだと、あのころ、私たち特攻係りの女子団員はみな心の中でそう思うておりました。ですから、拝むような気持ちで特攻を見送ったものです。特攻機のプロペラから吹きつける土ほこりは、私たちの頬(ほお)に流れる涙にこびりついて離れませんでした。38年たったいまも、その時の土ほこりのように心の裡(うち)にこびりついているのは、朗らかで歌の上手な19歳の少年航空兵出の人が、出撃の前の日の夕がた「お母さん、お母さん」と薄ぐらい竹林のなかで、日本刀を振りまわしていた姿です。――立派でした、あンひとたちは……」(松元ヒミ子の証言)〈※小さい「ン」の字を半角に代えた〉

 揺れる心を日本刀で断ち切ろうとしたのか。陽気な少年の心は凄絶な不安に苛(さいな)まれていた。19歳とあるのは「数え」のためだろう。

 特攻隊の資料は少ない。GHQの占領に当たって罪を恐れた人々が特攻隊に関する書類や手紙を焼却してしまったためだ。神坂は残された手紙と生存者の証言を絶妙に構成し、一人ひとりを立体的に描き出す。神坂自身もまた特攻の生き残りであった。

 宮本の手紙は長文である。彼は千田の先輩であった。隊員が散華(さんげ)すると周りの人間が遺族に手紙を書いた。切々たる思いが行間に溢(あふ)れる。

 神風特別攻撃隊の創始者・大西瀧治郎〈おおにし・たきじろう〉は特攻を「統率の外道」と断じた。死亡率が100%である以上、統率とも作戦とも呼べるものではなかった。道を外れれば転落する。だが国家は転落しても、特攻隊の死が汚れたものになるわけではない。その数6418名。

今日われ生きてあり (新潮文庫)

特攻(1)少年兵5人「出撃2時間前」の静かな笑顔…「チロ、大きくなれ」それぞれが生への執着を絶った

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