2009-02-14

人間が認識しているのは0.5秒前の世界/『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二


 ・人間が認識しているのは0.5秒前の世界

『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二
『できない脳ほど自信過剰 パテカトルの万脳薬』池谷裕二

 知覚に誤差があるのは何となく理解できるだろう。光や音のスピード、はたまた神経回路を伝わる時間差など。だが、よもや0.5秒もずれているとは思わなかった。

 もっと言っちゃうとね、文字を読んだり、人の話した言葉を理解したり、そういうより高度な機能が関わってくると、もっともっと処理に時間がかかる。文字や言葉が目や耳に入ってきてから、ちゃんと情報処理ができるまでに、すくなくとも0.1秒、通常0.5秒くらいかかると言われている。  だから、いまこうやって世の中がきみらの前に存在しているでしょ。僕がしゃべったことを聞いて理解しているでしょ。自分がまさに〈いま〉に生きているような気がするじゃない? だけど、それはウソで、〈いま〉と感じている時間は0.5秒前の世界なんだ。つまり、人間は過去に生きていることになるんだ。人生、後ろ向きなんだね(笑)。

【『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二(朝日出版社、2004年)】

 知覚された情報は過去のものだが、意識は常に「現在」という座標軸に固定されている。例えば、我々が見ている北極星の光は430年前のものだが、光は年をとらない。そして意識は未来へと向かって開かれている。

 それにしても、0.5秒という誤差は驚くべきものだ。宇宙が生まれたのは137億年前だと考えられているが、刹那と久遠のはざ間に時間の本質が隠されている。

 しかも、トール・ノーレットランダーシュの『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』(紀伊國屋書店、2002年)によれば、意識が生じる0.5秒前から脳内では準備電位が現れるという。とすると、本当のリアルを生きているのは無意識ということになるのか。

・物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一

2009-02-12

忘れていた何かを思い出させてくれるオムニバス/『それでも生きる子供たちへ』監督:メディ・カレフ、エミール・クストリッツァ、スパイク・リー、カティア・ルンド、ジョーダン・スコット&リドリー・スコット、ステファノ・ヴィネルッソ、ジョン・ウー


『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白』後藤健二
『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア
『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ

 ・忘れていた何かを思い出させてくれるオムニバス

 予告編を観てピンと来るものがあった。七つの短篇はいずれも素晴らしい作品に仕上がっている。


『タンザ』メディ・カレフ監督(ルワンダ)

 DVDに収められているプロダクションノートを見てルワンダであることを知った。シエラレオネの少年兵の実態(後藤健二著『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白』汐文社、2005年)より悲惨さは少ないが、それでもやはり映像の迫力は凄い。長い間の取り方が否応(いやおう)なく緊迫感を高める。チョークに込められたのは学ぶことへの憧れであり、爆弾の擬声が戦闘に対する無自覚を示している。ラストで静かに流れる少年兵の涙が過酷な現実を雄弁に物語っている。

『ブルー・ジプシー』エミール・クストリッツァ監督(セルビア・モンテネグロ)

 監督はサラエボ生まれとなっているが、フランス映画のような軽妙さがある。完成度も高い。父親に窃盗を強要され、時に激しい暴力を加えられる少年が主人公。少年院の内側の方が主人公にとっては安心できる世界だった。少年院での歌の練習シーンなどは爆笑もの。窃盗団が奏でる音楽が人々の心を奪うというアイディアもグッド。

『アメリカのイエスの子ら』スパイク・リー監督(アメリカ)

 子供に隠れて麻薬を常習する両親。それでも愛情に嘘はなかった。その上、親子はHIVに感染していた。学校でいじめられる少女。「私は生きたいのよ!」と叫ぶ声が悲惨を極める。これもラストシーンが鮮やか。深刻な問題を抱えても「私は私」というメッセージが込められている。

『ビルーとジョアン』カティア・ルンド監督(ブラジル)

 実はこの作品に期待していた。カティア・ルンド(※カチア・ルンジという表記もある)は『シティ・オブ・ゴッド』(フェルナンド・メイレレス監督)の共同監督を務めた人物。多分この作品も多くの素人を起用していることだろう。躍動的なカメラワークと子供達の逞しい姿は『シティ・オブ・ゴッド』を彷彿とさせる。幼い兄と妹が家計を助けるために空き缶やダンボールを拾い集める。店先や業者とのやり取りは大人顔負け。「フライドポテトは明日買ってあげるよ」という兄の言葉が、未来に向かって生きる二人の姿を象徴している。スラムの後ろに巨大なビル群がそびえ立つ映像も忘れ難い。

『ジョナサン』ジョーダン・スコット&リドリー・スコット監督(イギリス)

 最初の効果音が凄い。お見事。戦場カメラマンが神経症のような症状を発祥する。森で見かけた子供達を追い掛けているうちに、男も少年になっていた。ファンタジックなストーリー。戦場の現実を再確認して、男は再び家に戻る。

『チロ』ステファノ・ヴィネルッソ監督(イタリア)

 少年が自分の影と戯れる最初のシーンが秀逸。大人達の矛盾に戸惑いながらも、少年は逞しく生きる。窃盗という手段で。犬に追い掛けられるシーンは、サブ監督の『ポストマン・ブルース』さながら。綿飴を買うシーンや遊園地の幻想的な場面も巧い。少年が倒れるシーンに至っては詩的ですらある。

『桑桑(ソンソン)と子猫(シャオマオ)』ジョン・ウー(中国)

 裕福な少女と貧しい少女の運命が、美しい人形を介して交錯する。身寄りのない子供達が強制的に花を売らされる。売り上げがなければご飯を食べさせてもらえない。二人の少女も大人のエゴイズムの犠牲者だ。貧しい少女が裕福な少女に花をあげる。限りない豊かさが画面いっぱいに横溢(おういつ)する。

 いずれの作品も『それでも生きる子供たちへ』というタイトルに相応しい内容。随分と長く感じたと思っていたら、何と170分という長尺ものだった。世界の子供達が置かれている現実、そして苛酷さを極めるほど逞しく生きる姿。歳をとって忘れていた何かを思い出させてくれるオムニバスだ。最後に流れる歌がまた素晴らしい。

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2009-02-11

社会を構成しているのは「神と向き合う個人」/『翻訳語成立事情』柳父章


 ・明治以前、日本に「社会」は存在しなかった
 ・社会を構成しているのは「神と向き合う個人」
 ・「存在」という訳語

 当時、「国」とか「藩」などということばはあった。が、societyは、窮極的には、この(2)でも述べられているように、個人individualを単位とする人間関係である。狭い意味でも広い意味でもそうである。「国」や「藩」では、人々は身分として存在しているのであって、個人としてではない。
 societyの翻訳の最大の問題は、この(2)の、広い範囲の人間関係を、日本語によってどうとらえるか、であったと私は考えるのである。

【『翻訳語成立事情』柳父章〈やなぶ・あきら〉(岩波新書、1982年)以下同】

 で、individual=個人といっても、それは「関係性」の中で自覚されるものだ。さて、明治期までの日本人を取り巻く関係性はどのようなものだったか――

 このような「交際」を基本にすえてみるとき、日本の現実における「交際」の特徴が明らかに現われてみえてくる。それは「権力の偏重」という実状である。

 日本にて権力の偏重なるは、秊(あまね)く其人間交際の中に浸潤(しんじゅん)して至らざる所なし。……今の学者、権力の事を論ずるには、唯政府と人民とののみを相対して或は政府の専制を怒り或は人民の跋扈(ばっこ)を咎(とがむ)る者多しと雖(いえ)ども、よく事実を詳(つまびらか)にして細(こまか)に吟味すれば、……苟(いやしく)も爰(ここ)に交際あらば其権力偏重ならざるはなし。其趣を形容して云へば、日本国中に千百の天秤を傾け、其天秤大となく小となく、悉(ことごと)く皆一方に偏して平均を失ふが如く、……爰(ここ)に男女の交際あれば男女権力の偏重あり、爰(ここ)に親子の交際あれば親子権力の偏重あり、兄弟の交際にも是(これ)あり、長幼の交際にも是あり、家内を出でて世間を見るも亦(また)然らざるはなし。師弟主従、貧富貴賤、新参古参、本家末家、何(いず)れも皆其間に権力の偏重を存せり。
【『文明論之概略』福沢諭吉 1875年(明治8年)】

 まことに鋭い日本文化批評である。それは1世紀後の今日の私たちにとっても身近に迫ってくるような指摘である。この現実分析や批評の根本に、福沢の「交際」という概念がある。福沢のことば使いによって拡張された意味の「交際」が、他方「偏重」という相対立する意味をもつことばを引き出し、さらし出してみせたのである。

 それは「権力の偏重」という関係性であった。交際の本質は「強い者」と「弱い者」を確認するものでしかなかったのだ。地頭と小作人、坊主と檀家ってわけだ。ではなぜ、欧米には「個人」が存在し得たのか――

 ここで、原文のindividualは、福沢の訳文の終りの方の「人」と対応している。
 ところで、「人」ということばは、ごくふつうの日本語であるから、individualの翻訳語として使われると言っても、それ以外にもよく使われる。他方、individualということばは、ヨーロッパの歴史の中で、たとえばmanとか、human beingなどとは違った思想的な背景を持っている。それは、神に対してひとりでいる人間、また、社会に対して、窮極的な単位としてひとりでいる人間、というような思想とともに口にされてきた。individualということばの用例をみると、翻訳者には、否応なく、あるいは漠然とながら、そういう哲学的背景が感得されるのである。

 それは「神と向き合う個人」だった。日本の場合、神様の数が多過ぎた上、ただ額づいて何かをお願いする対象でしかなかった。つまり、欧米は「神vs自分」であり、日本は「世間vs自分」という構図になっていた。農耕民族は団体戦であるがゆえに、村の掟に従わなければ村八分にされてしまう。ここにおいて個人は跡形もなく消失し、村の構成員としての自覚だけがアイデンティティを形成する。

 独りで何かと向き合わない限り、個人は存在し得ないということだ。一方欧米ではその後、孤独によってバラバラとなった社会が問題視された経緯がある。バランスってえのあ、難しいもんだね。

 ブッダは、「犀(さい)の角のようにただ独り歩め」と叫んだ。3000年前の轟くような声は、今尚その響きを失ってはいない。

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・福澤諭吉
・個人の尊重が江戸文化を育んだ
新約聖書の否定的研究/『イエス』R・ブルトマン
宗教は人を殺す教え/『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静
「洛中洛外図」の日本的視点/『増補 日本美術を見る眼 東と西の出会い』高階秀爾
日本人の農民意識/『勝者の条件』会田雄次

2009-02-08

服従心理のメカニズム/『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス


『服従の心理』スタンレー・ミルグラム

 ・服従心理のメカニズム
 ・キティ・ジェノヴィーズ事件〜傍観者効果
 ・人間は権威ある人物の命令に従う
 ・社会心理学における最初の実験

『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ

権威を知るための書籍

 あのミルグラムである。服従実験で社会心理学の有効性を証明し、放置手紙法によってスモールワールド現象を明らかにしたミルグラムだ。ユニークな発想と巧妙な実験法が群を抜いている。アイディアマン。あるいは知能犯。

 そしてミルグラムの研究が出版された1963年までには、ナチスが行った恐ろしい行為に関する研究がすでにたくさん発表されていた。そのなかで、彼の研究が特筆すべきものとなったのは、実験室における科学的な研究手法を使って、当時は実現不可能であるかに思えた二つの目標を達成したからである。一つは、冷静な分析をするのが難しいテーマに、ある程度の客観性(他の方法と比較しての話だが)を持ち込んだこと。もう一つは、破壊的な服従がごく日常的な場面においても起こりうることを示したこと。そのため、この実験を知った人は、その実験が示す望ましくない情報を自分とは無関係なものとして切り捨てることが難しくなったことである。

【『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス:野島久男、藍澤美紀〈あいざわ・みき〉訳(誠信書房、2008年)以下同】

 Wikipediaには「『アイヒマンとその他虐殺に加わった人達は、単に上の指示に従っただけなのかどうか?』という質問に答えるため」に実験が行われたとあるが、本書にそのような記述はない。ソロモン・アッシュの下(もと)で同調行動の実験を行っていたミルグラムが、服従実験を思いつくのは自然な流れであろう。

 権威ある人間からの合法的な命令であると思いさえすれば、それがどんな命令であっても、良心の呵責に苦しむこともなく、非常に多くの人が、言われたとおりに行動をしてしまう……。
 私たちの研究の結果から得られる教訓は、次のようなものである。
 ごく普通に仕事をしている、ごく普通の人間が、特に他人に対して敵意を持っているわけでもないのに、破壊的な行為をする人たちの手先になってしまうことがあり得るのである。

 ──スタンレー・ミルグラム、1974年

 この映像は時折テレビで紹介されている。サクラである「学習者」は事前に心臓が悪い旨を伝え、電気ショックを与えられるたびに大声で叫ぶが、殆どの被験者は指示通りに電圧を上げ、更に驚くべきことにクスッと笑っていた。

 服従のメカニズムは日常生活のそこここに存在する。例えば会社内のルールは、世間の常識とは全くの別物だ。営業マンに人権はない。給料の額を天秤にかけて、服従レベルとのバランスを保っている。そう。ダブルスタンダード。

 人間は所属するコミュニティの数だけルールを有している。組織という組織は、序列という秩序によって構成されている。例えば泥棒の集団があったとしよう。このコミュニティにおいては「盗む」ことが「正しい」ことになる。組織においては、上司に額づくことが正しい価値となるのだ。「善」が不変であるのに対して、「正義」はコロコロ変わるってわけだ。

 淫祠邪教やマルチ商法の類いは決してなくなることはない。そこに集うのは「特殊なルール」に従っているだけの善良な人々である。相対的な批判力を欠いた人が存在する限り、権威という怪物は無理難題を吹っかける。結局、権威を支えているのは沈黙であることが明らかだ。

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リビア軍に捕らえられた反乱軍の男の証言
消費を強制される社会/『浪費をつくり出す人々 パッカード著作集3』ヴァンス・パッカード
今日、ルワンダの悲劇から20年/『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ