2012-10-31
2012-10-29
宮城谷昌光
1冊読了。
63冊目『奇貨居くべし 天命篇』(中央公論新社、2001年/中公文庫、2002年)/6年に及ぶ連載を5日ほどで読んでしまうのだから、こんな贅沢はないだろう。一昨日、1章だけ残して閉じた。読み終えるのがもったいなかったからだ。敬愛する人物の長命を祈るような気持ちが芽生えたほどである。宮城谷の作品は主役が歴史であるため、常に最終巻は淡く時の彼方に融(と)けてゆく。呂不韋〈りょ・ふい〉は吉川三国志の劉備玄徳と似たタイプの人物像となっているが、目の前に迫ってくる迫力が全く異質だ。寛容とは人を容れ、声を容れること。孟嘗君〈もうしょうくん〉は武功でもって戦乱を鎮(しず)めたが、呂不韋は更に民主主義まで展望していた。道家、恐るべし。
2012-10-28
「法人税の引き下げによる経済効果はゼロないしマイナス」/『消費税は0%にできる 負担を減らして社会保障を充実させる経済学』菊池英博
・「法人税の引き下げによる経済効果はゼロないしマイナス」
・法人税と所得税の最高税率を引き上げるべきだ
2年前に読んだのだが書き忘れていた。ま、結果的にはタイミングがよくなったかもしれない。
消費税はやたらと複雑である。複雑であればこそ国民を騙(だま)すことが容易であるし、複雑であればこそ官僚への依存傾向を強化できる。既に来るべき総選挙を展望して消費税増税は既定路線と化した観がある。新聞各紙は大本営発表に先駆けて大政翼賛の一翼を担い、テレビが追走する。テーマは増税の是非ではなく、国民を懐柔する方法にシフトしている。
国民は至って静かである。体温が不況に馴染んでしまったのだろうか? あるいはきな臭さを感じながらも、「魚を焼いているんでしょ?」と思っているのだろうか? 台所は火の車だ。すなわち火事なのだ。
デフレの炎はもう20年間も燃え続けている。これを水(総需要拡大政策)ではなく、国民の手で抑えて消そうとするのが消費税増税の意図だろう。奇しくも「消」の字が一致している。
1989年の消費税導入から始まる現在の日本の税制は、30年前にアメリカのレーガン大統領(1981~1988年)が採用した新自由主義・市場原理主義型の税制であり、「失敗した時代遅れの考え」(レーガンの「税制と財政政策」に関するオバマ大統領の議会での発言)による経済政策と税体系を模倣した税制だから、自公政権は消費税しか税収増加を図る道がなく、行き詰まっているのだ。
【『消費税は0%にできる 負担を減らして社会保障を充実させる経済学』菊池英博(ダイヤモンド社、2009年)以下同】
では、レーガン税制の何が間違っていたのか?
こうした事実から、「ラッファー理論」や「トリクルダウン理論」は、経済的に実証された理論ではなく、レーガン政権の当初の見込みに反して、「法人税の引き下げによる経済効果はゼロないしマイナス」であり、「富裕層の所得税率を引き下げても、経済成長には寄与しない」というのが経験的に証明されたのである。レーガン・モデルは「まやかしの経済学に依存していたので大失敗した」といえよう。
・チンパンジーの利益分配/『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
驚くべき指摘である。やはり経団連の薄汚いジイサン連中は国民の味方ではなかった。あいつらは自分たちさえよければいいのだ。彼らが消費税増税に賛成する理由がわかったよ。
日本の税制が「失敗した時代遅れの考え」によっている上に、「小泉構造改革」によるデフレ政策によって、日本は「10年デフレ」「10年ゼロ成長」に陥り、それによって生じた財政赤字を補填するために、自公政権は人命(社会保障費)を人質にして、消費税引き上げの理由づけにしている。
一大失政である。「欺瞞(ぎまん)の構造改革」の結果、日本はまさに「成長を忘れたシーラカンス」になってしまった。
つまり「失敗した時代遅れの考え」が官僚にとっては都合がよいのだろう。財務省、経済産業省はシカゴ学派の軍門に降(くだ)ったと見て間違いない。
人類の歴史は争うことで発展してきた。時に戦争で奪い、時に外交で駆け引きを行い、時に政治をもって利益を分配してきた。敢えて「健全な争い」とはいわない。冷戦構造の崩壊から既に20年が経つ。何らかの「乱」が必要なことは明らかだ。【続く】
ダイヤモンド社
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・消費税が国民を殺す/『消費税のカラクリ』斎藤貴男
2012-10-27
都税を湯水のように使った挙句、都政を放り出した石原慎太郎
都税を湯水のように使った挙句、都政を放り出した石原慎太郎。その慎太郎を考えもなく何度も選んだ都民の愚かさ。twitpic.com/3fi3tetwitpic.com/3fi944twitpic.com/3fs9uhtwitpic.com/3fsano
— 笹田 惣介さん (@show_you_all) 10月 26, 2012
宮城谷昌光
61、62冊目『奇貨居くべし 黄河篇』(中央公論新社、1999年/中公文庫、2002年)、『奇貨居くべし 飛翔篇』(中央公論新社、2000年/中公文庫、2002年)/第3~4巻。1日1冊ペースだ。他の本がまったく読めない。『中央公論』誌に連載されたようで、サービス精神からか時折冗長な文章が紛れ込んでいる。やはり、『重耳』『介子推』『晏子』『孟嘗君』『楽毅』、そして本書の順で読むのが好ましい。『奇貨居くべし』は一つの山頂ともいえる傑作だ。宮城谷作品の特徴は、言葉の力、人と人との出会い、生きる所作を晴朗に描き出すところにある。さながら青空に白雲で景色を描くような趣がある。『史記』に対する眼差しも鋭く、ときおり厳しい批評を加えている。『孟嘗君』の続篇ともいえる内容だが、呂不韋の物語というよりは「筍子の思想」を表すところに著者の意図があったと見る。
2012-10-25
米政府が過去10年間に無人攻撃機で殺害した民兵と民間人の総人数は、まもなく3千人を超える
米政府が過去10年間に無人攻撃機で殺害した民兵と民間人の総人数は、まもなく3千人を超えるとワシントン・ポスト紙。オバマ政権はさらに「テロ容疑者」暗殺計画を拡大、「処分マトリクス」との名称で少なくとも今後10年は外国での暗殺を継続すると政府関係者。
— deepthroatさん (@gloomynews) 10月 24, 2012
「軍需工場爆発はイスラエルによる空爆」、報復辞さない構え スーダン
スーダン政府は24日、首都ハルツーム(Khartoum)のヤルムク(Yarmouk)軍需工場で起きた爆発・火災について、イスラエルの空爆によるものという見方を示した。スーダンのアフメド・ビラル・オスマン(Ahmed Bilal Osman)文化・情報相は記者会見で「われわれはイスラエルが空爆したと考えている」「時と場所を選んで報復する権利を留保する」と述べた。
文化・情報相によると、24日午前0時(日本時間同6時)ごろ、レーダーに探知されにくい航空機4機が軍需工場を爆撃した。爆発物の残骸からイスラエルの関与を示す証拠が見つかったという。
イスラエルの軍部と外務省はコメントを出していない。イスラエルは、パレスチナのイスラム原理主義組織ハマス(Hamas)の戦闘員に活動拠点を提供しているとしてスーダンを非難してきた。
スーダンは、2011年4月に同国南部のポート・スーダン(Port Sudan)で、イスラエルの攻撃ヘリコプターがミサイルと機関銃で車を攻撃した証拠を持っているとしている。イスラエルはこの件についてコメントを拒否したが、イスラエル当局者はスーダンを経由した武器密輸への懸念を示していた。2009年1月にも、スーダン東部で武器を積んでいたとされるトラックの車列が外国の航空機によって同様の攻撃を受けたことがある。
【AFP 2012-10-25】
2012-10-24
宮城谷昌光
1冊読了。
60冊目『奇貨居くべし 火雲篇』宮城谷昌光(中央公論新社、1998年/中公文庫、2002年)/第2巻。呂不韋〈りょ・ふい〉の波乱に満ちた旅は続く。なんと晩年の孟嘗君〈もうしょうくん〉が登場。オールスター戦の趣あり。胸というよりは、頬を打たれるほどの感動がある。心の振れは言葉にならない。ただ沈黙の中で深い内省に浸(ひた)るのみ。
2012-10-23
イーヴァル・エクランド、森巣博、宮城谷昌光
1冊挫折、2冊読了。
『偶然とは何か 北欧神話で読む現代数学理論全6章』イーヴァル・エクランド:南條郁子訳(創元社、2006年)/横書きであった。興味のあるテーマだけに残念。文章に独特の淡さがあり、これに馴染めず。
58冊目『賭けるゆえに我あり』森巣博〈もりす・ひろし〉(徳間書店、2009年)/若干、言い回しの重複が見受けられるが、この人の箴言力(=コピーライティングの力)は侮れない。ギャンブラー特有の乾いた剽軽(ひょうきん)さを表に出しながらも、確かな見識がある。唯一の瑕疵(かし)は年甲斐もなく下ネタ自慢を披瀝しているところ。下劣の自覚よりも自慢に酔う性根が透けて見える。
59冊目『奇貨居くべし 春風篇』宮城谷昌光(中央公論新社、1997年/中公文庫、2002年)/秦の始皇帝の父ともいわれる呂不韋〈りょ・ふい〉の生涯を描いた作品。全5冊。春風篇は不韋の少年時代を劇的に描く。名文、美文のオンパレード。「黄金の気」のエピソードが『介子推』を思わせ、黄歇〈こうけつ〉への苦言に『晏子』(あんし)を見る。やはり著作は順番で読むのが正しい。胸が張り裂けるほどの感動を覚える。
2012-10-22
焔
【メール便送料無料】国産高品質ビタミンC粉末【1kg】(L-アスコルビン酸)、計量スプーン付(スズヨ美健研究所)
商品の仕様
お召し上がり方:一日小さじ一杯を目安にお召し上がり下さい。ビタミンC特有の酸っぱさがありますので、ジュース等に溶かしてお召し上がりいただくと美味しくいただけます。ビタミンCは水に溶けると分解を始めるので、お早めにお召し上がり下さい。
当店のビタミンCは、国内外の医療機関・食品会社等へ供給されているものです。業務用のL-アスコルビン酸原末をそのままパックしました(チャック付きのスタンドタイプアルミ袋に充填しました。そのまま食用としてご利用いただけます。)毎日のビタミンC補給に、美容と健康維持にお役立て下さい。ビタミンCの正式名称はL-アスコルビン酸といい、水溶性のビタミン類で白色から白黄色かかった結晶、または結晶性の粉末です。
ビタミンCは健康には欠かせません:人間の体にあるコラーゲンという種類のたんぱく質は、体の細胞どうしをくっつける働きをしている重要な物質です。そしてビタミンCは、このコラーゲンを作るのに欠かせません。ビタミンCが不足すると、体が弱くなり、色々な困ったことがおきます。例えば、元気がなくなったりいらいらしたり、体中がだるくなったり、皮膚の色が悪くなったりします。歯ぐきから血が出たりするのも、ビタミンC不足の場合が多くあります。逆にビタミンCをしっかり摂ることで、貧血気味が治ったり、風邪をひきにくくします。ビタミンCは私たちの健康に欠かせない物質なのです。
人の体ではビタミンCはつくられません:イヌやネコは野菜や果物をほとんど食べません。実はウシやウマも含めて、哺乳類のほとんどは、自分の体の中でビタミンCを合成することが出来ます。それが出来ないのは、ヒトとサルの仲間とモルモットだけだといわれています。ゴリラなとサルの仲間が果物が大好きなのは、必要なビタミンCを補給しているためなのです。
ビタミンCで残留塩素を除去!:飲料水には浄水器を取り付けたり、ミネラルウォーターを摂取されていますが、お風呂のお湯に浄水器をつけることはなかなか出来ません。残留塩素が残ったままのお湯に入浴剤を入れてませんか? ビタミンCは残留塩素を中和しお湯をやわらかくします。食品添加物として許可されているビタミンCですので、入浴中など万が一小さなお子様のお口にお湯が入っても安心。他の入浴剤と一緒に使用可&残り湯でお洗濯にも使用可!(入浴時に浴槽へスプーンで1杯入れてください)
礼節の意味
仏教と違って、儒教はディベートしない宗教だ。上下関係が強く、教えを乞うと教える、いわゆる師弟関係だ。目上の人に異なる意見を言うのが礼に反するという。これが日本の企業社会と教育現場に今も残存する。
— 宋 文洲さん (@sohbunshu) 10月 10, 2012
「礼節」と意味を知らない方が多いだろう。「礼」は帽子の種類によって人間の地位を規定すること。「節」は竹のふしで上下を定めること。「礼節」とは既存秩序、既得権益を尊重しろうということだよ。
— 宋 文洲さん (@sohbunshu) 10月 10, 2012
だから偉い人が目下の人を「礼儀知らず」と叱ることがあっても、目下の人が偉い人に「礼儀知らず」と言わない。だからいわゆる礼儀や礼節は昔の中国人が発明した人間関係の不平等ルールだよ。
— 宋 文洲さん (@sohbunshu) 10月 10, 2012
2012-10-21
布施の精神/『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
・『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ
・等身大のブッダ
・常識を疑え
・布施の精神
・無我
・『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
・『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
・『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
・『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
・『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬
・ブッダの教えを学ぶ
・必読書リスト その五
「昼食はすみましたか」
「いえ、まだです」
「それなら、これをいっしょに食べましょう」
【『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン:池田久代訳(春秋社、2008年)以下同】
ブッダは常に言葉づかいが丁寧であった。インドでは現在にあっても不可触賤民が触れた食器をバラモン階級が使用することはない。「穢(けが)れ」に対する迷信はかように深い。そうであるにもかかわらずブッダは不可触賤民であるスヴァスティ少年に食事を勧めた。
シッダールタはふたりの子どもに微笑んで、「みんなでいっしょにわけあって食べよう」と言ってから、白いご飯の半分をとりわけて、それにゴマ塩をつけてスヴァスティに渡した。
少女スジャータと3人で慎ましい食事を摂(と)る。後年、ブッダが苦行を極めて死に瀕した際、乳粥(ちちがゆ)を与えてブッダの命を救った少女である。めいらくグループのコーヒーフレッシュもこの少女に因(ちな)んでいる。乳つながり。
ブッダは静かに沈黙の中で食事を終える。
「きみたちは、どうして私が黙って静かに食事をしたのかわかりますか? いまいただいたお米やゴマの一粒一粒は、とてもありがたいものです。静かにいただくと、十分にそれを味わうことができるでしょう」
これが「食べる瞑想」である。食事とは「他の生命」を摂取することだ。その意味で生は多くの死に依存している。植物の生を有り難いものとして押し頂く。香りを味わい、口に入った食感を意識し、咀嚼(そしゃく)に注意を払い、唾液と溶け合い、胃に収まり、臓腑に行き渡る様相を味わう。「他の生命」を体内に取り込む事実を明らかに客観的に見つめる。深く味わうことが供養にもなる。日常の食事は瞑想であり荘厳な儀式でもあった。
会話を楽しみながら食事をするのが西洋の文化だが、生命に対する畏敬の念を欠いているように思われる。やはり日本で現在にまで伝わる「いただきます」の精神が正しい。
「きみが持ってきてくれたひとかかえの香草は、すばらしい瞑想の敷物になりました。昨夜と今朝、私はその上に坐って、平和に満ちた瞑想のなかで、すべてのものがはっきりと見えた。きみは私に大きな助けをくれたのですよ、スヴァスティ。私の瞑想行がもっと進んだら、その成果をきっときみたちとわかちあうことにします」
ブッダは粗食を分かち合い、そして悟りの成果をもスヴァスティと分かち合うと告げる。ここに布施の精神があるのだ。アルボムッレ・スマナサーラの文章を読むと、より一層理解が深まることだろう。
たとえばビデオをレンタルして一人で見るよりは、二人でわいわい見たほうが楽しいでしょう? たとえ自分がレンタル料を払っていても友達と見ればレンタル料以上の楽しみを得ているはずです。本当の楽しみは共有することで生まれます。いわゆる「布施」の精神です。幸福はそこから生まれます。物惜しみは布施の反対で、すごく苦しいのです。(中略)
相手が求めようが求めまいが、ある程度のところで知らず知らずにわれわれはいろいろ共有します。幸福になりたければ、ものは「共有」するものなのです。
【『怒らないこと 2 役立つ初期仏教法話 11』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2010年)】
ブッダは自らの振る舞いを通して教える。「教義に従え」などという姿勢は微塵もない。人間を型に嵌(は)めて矯正する思想とは一切無縁であった。ただ、しなやかに生の流儀を示した。
寄付や供養を募る寺社仏閣・教団は多いが、彼らが分け与えるのを見たことがない。
2012-10-20
2012-10-19
そのシルエットは男性か女性か、性別認識の偏向を明らかに 米研究
ぼんやりとした光の中に人が立っているがその顔や衣服の見分けはつかない──果たしてこの人物は男性なのだろうか、それとも女性なのだろうか。
多分あなたは、この人物を男性だと考えるのではないだろうか。10日の英学術専門誌「英国王立協会紀要(Proceedings of the Royal Society B)」に掲載された研究によれば、その理由は、生き延びるための「反射的な判断」だという。
◆そのシルエットは男性?女性?
カリフォルニア大学ロサンゼルス校(University of California at Los Angeles、UCLA)の心理学者が編成する研究チームは、人間が他人を評価する際に用いる視覚情報の役割について研究を行った。
研究チームは、男女学生らに21人のシルエットを見せた。身長の同じ21人のシルエットは、ウエストとヒップの比率がそれぞれ異なり、明らかに女性的な「砂時計のようにくびれた」シルエットから、最終的には「たくましい体格」の男性的なシルエットへと徐々に変化した。
実験に参加した学生らには、この21人のシルエットについてそれぞれの性別を質問した。どのシルエットの時点で性別が変わるかを確認するという意図だ。
調査結果について研究チームのケリー・ジョンソン(Kerri Johnson)氏は、参加者らは曖昧なシルエットについてはどれも男性とみなす傾向があったとし、「その効果の大きさに驚いた。想像していたよりもはるかに大きかった」と述べた。
自然界では、女性のシルエットと男性のシルエットの境は、ウエスト対ヒップのサイズ比が0.8ほどになったところとされる。だが参加者らは平均0.68に「男女の境界」を置いた。言い換えると、参加者にとって女性であると認識できるシルエットは、「グラビア写真における理想的なくびれ」とほぼ同じだったのだ。
ジョンソン氏の研究チームは、実験結果が偏って(歪曲して)いないことを確認するため、少しずつ手法を変えて3件の追加研究を行った。結果、シルエットを男性とみなそうとする傾向は変わらなかったという。
◆危険回避のための認識バイアスか
これは認識の錯誤だろうか──。そうではない、とジョンソン氏は語る。生き延びるため、人間にもともと備わっているメカニズムだと同氏は考えている。
男性は女性よりも物理的な脅威になりやすい。そのため、われわれの認識はその危険性に備えるように設定されているという考えだ。「自己防衛のためではないかと、われわれは考えている」とジョンソン氏は語った。
「夜に暗い路地を歩いているとしよう。女性は物理的な脅威にはならないと一般的には考えられている。だが見知らぬ男に遭遇したとしたら、その男が物理的な強さを備えており、なんらかの危険性を及ぼす可能性が高まるだろう」とジョンソン氏は説明する。また文化的背景により「反射的な判断」が左右される可能性も否定できないとしながらも、「恐らく同じような結果がどこでも得られるはずだ」と述べた。
【AFP 2012年10月19日】
たぶん正面からのシルエットなのだろう。面白い研究だが当てにならない。真っ直ぐな道路や川沿いを歩いているとシルエットに対する考察が深まる。性差を決定づけるものは腰のくびれだけではない。真っ先に挙げられるのは髪型と胸の形である。次に服装、そして文化的な仕草や態度と続く。O脚の女性はいても、ポケットに手を突っ込んで、肩を怒らせ、ガニ股で歩く女はいない。
川沿いでジョギングしている女性を見てわかったことが一つある。バストの大きい女性は男性をつかまえるには有利であるが、走る時はどうしても不利だということ。私の独断によると、災害リスクの高い時代は、ペチャパイの女性が増えることになる。逃げやすい体型の方が生き延びる確率が高くなるためだ。
一方、草食系と呼ばれる男性が増えているのは戦争リスクが高まっていると考えることが可能だ。戦時において勇敢な男性は真っ先に死んでしまうからだ。これについて以下のグッピーの記事を参照されたい。
・比較があるところには必ず恐怖がある/『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ
2012-10-17
2012-10-16
常識を疑え/『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
・『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ
・等身大のブッダ
・常識を疑え
・布施の精神
・無我
・『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
・『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
・『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
・『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
・『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬
・ブッダの教えを学ぶ
・必読書リスト その五
スヴァスティは黙って両手でその人の左手をおし抱きながら、思いきっていままで自分を悩ませていたことを口にした。「私がこのように触れたら、あなたさまが穢れるのではないでしょうか」
その人は高らかに笑って、首を振った。「そんなことはありません。きみも私も同じ人間なのだから。きみは私を穢すことなんかできないんです。人が言うことを信じてはいけない」
【『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン:池田久代訳(春秋社、2008年)】
『小説ブッダ』は不可触賤民(ふかしょくせんみん)であるスヴァスティ少年の目を通して描かれる。ブッダが放つ人格の香気に吸い寄せられ、スヴァスティとブッダの人生が交錯する。
少年の悩みは深刻なものだった。以下にそれを示す。
・不可触民=アウトカースト/『不可触民の父 アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール
・不可触民の少女になされた仕打ち/『不可触民 もうひとつのインド』山際素男
・両親の目の前で強姦される少女/『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ
ついでにもう一つ紹介しよう。
女、子供を含めた11人の不可触民家族と仲間は、村のボスの家へ引き立てられた。家の前の広場には薪(まき)が山と積まれていた。
ギャングたちが人びとを追い回している一方、村のカーストヒンズーは処刑の用意をせっせと整えていたのである。
処刑は残酷極まるものだった。
新聞などでは、11人全員射殺し、ケロシン(灯油)を浴びせ、薪にほうりこんで黒焦げにしたとあったが、それは事実ではない。実際はもっとひどいやり方で殺したのだが、余りにもむごたらしいので書くのをひかえたのだろう。
ラジャン氏はそういい、彼の下(もと)に届いた報告を次のように語った。
11歳になる少年を除いた大人10人は、男も女も、全員生きたまま手足を切断され、燃え盛る薪の山の中へ一人ずつ、順番に投げこまれた。もがき苦しんで転げ落ちるものは直ぐ焔(ほのお)の中へほうりこまれた。
少年は生きたまま火中へ投じられ、数回にわたり焔の中から這(は)い出し、村人に許しを乞うたが、その都度火中に投じられ、遂に絶命した。
芋虫となって焔の中を転げ回る人びとをクルミ(※シュードラ〈農民〉カースト)の女たちは長い棒で、ローストチキンを焙(あぶ)るように、屍体が黒焦げになり、識別不能になるまで丹念に転がした。
これが真相です。ラジャン氏は暗い笑みを唇の端に浮かべていった。
「この事件も、警察がかんでいるのです。いつだって、不可触民虐殺の背後にはカーストヒンズーと“警察”がいるのです」
ラジャン氏は語り継いだ。
「ギャング共は朝の6時頃村へ乗りこんできたのです。間もなく不可触民の一人が8キロ離れたところにある警察署へ急を知らせました。その頃は雨季前で、道が通じていたのです。
ギャングの襲撃を知らせにきた農夫に、署長はなんといったと思います。
“500ルピー出せ。そしたら今直ぐにでも助けにいってやる”といったのです。
署長の脇には、街の大ボスが椅子にふんぞり返り、署長と顔を見合わせニヤニヤしていた、とその農夫は証言しています」
【『不可触民 もうひとつのインド』山際素男〈やまぎわ・もとお〉(三一書房、1981年/光文社知恵の森文庫、2000年)】
「差別」という価値観が有する凄まじい暴力性の一端が窺える。日本における穢多(えた)、非人(ひにん)、被差別部落、朝鮮人も同じ構図だ。ハンセン病(癩病〈らいびょう〉)患者を見よ。日本社会が1000年以上にわたって持ち続けてきた差別意識には一片の正当性もなかったではないか。
余談が過ぎた。蓮華は泥の中から咲き、ブッダはカースト制度の中から誕生した。「きみも私も同じ人間なのだから」という一言には時代を揺り動かすほどの重みがある。
「きみは私を穢すことなんかできないんです」――言い換えるならば、バラモン(ブラフミン)やクシャトリヤは「穢(けが)れやすい」連中なのだ。掃き溜めに鶴、インドにブッダである。ブッダの優しい言葉の背景には辛辣(しんらつ)なまでの厳しさが聳(そび)えている。
「人が言うことを信じてはいけない」――常識は常識であるというだけで誰一人疑おうともしない。科学的な思考・合理的な精神に生きよ、との教えに少年の蒙(もう)は啓(ひら)かれたことだろう。わずか二言でブッダはインド社会の迷妄を鮮やかに斬り捨て、少年の悩みを断ち切ってみせた。ブッダとは「目覚めた人」の謂(いい)である。目覚めた人はまた、人々を目覚めさせる人でもあった。
スヴァスティ少年はブッダに付き従い、やがて弟子の一人となる。挿入された一つひとつのエピソードは南伝パーリ語経典や阿含経を中心に膨大な経典に散らばる断片的記述を収集したもので、創作は抑えられている。
・日常の重力=サンカーラ(パーリ語)、サンスカーラ(サンスクリット語)/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥
2012-10-15
リリアン・R・リーバー、長谷川集平、塔和子
1冊挫折、1冊中断、3冊読了。
『数学は相対論を語る』リリアン・R・リーバー、ヒュー・グレイ・リーバー絵:水谷淳訳(ソフトバンククリエイティブ、2012年)/数式についてゆけず。
『ブッダの〈気づき〉の瞑想』ティク・ナット・ハン:山端法玄〈やまはた・ほうげん〉、島田啓介訳(野草社、2011年)/四念処経(しねんじょきょう)=「四種の〈気づき〉を確立する経典」の原文と解説。重要な内容と判断し、岩波文庫中村訳の後で読むことにした。
55冊目『トリゴラス』長谷川集平(文研出版、2007年)/少年時代の「力への憧れ」を描いた怪獣モノ。絵のタッチは非常によいのだが、如何せんトリゴラスがゴジラに似すぎている。最後に少女の名をつぶやくことで、トリゴラスは結果的に性衝動から生まれた妄想となる。これをどう読むかで評価は分かれることだろう。私は物語性が浅くなったと思う。
56冊目『トリゴラスの逆襲』長谷川集平(文研出版、2010年)/前作が彼岸を目指したのに対して、続作は彼岸から此岸を向いている。紙質も変わっており、こちらはツルツルした紙だ。タッチと色を活かすには前作の紙の方がよかったと思う。両方とも大人向けの絵本だと感じた。尚、余談ではあるが『はせがわくんきらいや』には大人の男性が出てこなかったので、トリゴラスにお父さんが登場して大いに安心させられた。
57冊目『塔和子 いのちと愛の詩集』塔和子〈とう・かずこ〉(角川学芸出版、2007年)/「13歳でハンセン病を発病、14歳で小さな島の療養所に隔離された苛酷な現実も、塔和子の豊かな命の泉を涸らすことはできなかった」と表紙見返しにある。言葉がやわらかい。だが、生を見据える眼差しには厳格さが光っている。随筆の「浦島記」に胸を突かれる。「いっぺん社会へ出てみたいなー」といった一言が実現した話だ。罪を犯したわけでもないのに、社会から爪弾きにされた人々がついこの間まで存在したのだ。私なら最短距離でテロリストになっていたことだろう。そんな怒りを諌めるように塔和子の言葉は静かに響く。
2012-10-14
2012-10-13
原田芳雄「only my song」
イントロを聴いてSIONの「薄紫」かと思った。原田芳雄は類稀なブルース・ミュージシャンの一人であった。「薄紫」に匹敵する名曲だ。東京の風景が見事に曲を引き立てている。
等身大のブッダ/『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
・『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ
・等身大のブッダ
・常識を疑え
・布施の精神
・無我
・『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
・『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
・『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
・『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
・『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬
・ブッダの教えを学ぶ
・必読書リスト その五
私は懐疑心に富む男だ。加齢とともに猜疑心(さいぎしん)まで増量されている。元々幼い頃から「他人と違う」ことに価値を置くようなところがあった。だからいまだに付き合いのある古い友人は似た連中が多い。嘘や偽りに対して鈍感な人物はどこか心に濁りがある。曖昧さは果断と無縁な人生を歩んできた証拠であろうか。
クリシュナムルティと出会ってから宗教の欺瞞が見えるようになった。暗い世界にあって宗教は人々を更なる闇へといざなう。クリシュナムルティの言葉は暗い世界を照らす月光のようだ。無知に対する「本物の英知」が躍動している。
そんな私が本書を読んで驚嘆した。人の形をもった等身大のブッダと遭遇したからだ。「ああ世尊よ……」と思わず口にしそうになったほどだ。「小説」とは冠しているが、記述は正確で出典も網羅している。あの中村元訳のブッダが「ドラマ化された」と考えてもらってよい。
もう一つ付言しておくと、私はティク・ナット・ハンやアルボムッレ・スマナサーラは声聞(しょうもん)だと考えている。決して軽んじるわけではないが、やはりクリシュナムルティのような悟性はあまり感じられない。その意味では「現代の十大弟子」といってよかろう。我々一般人は彼らから学んでブッダに近づくしかない。
本書については書評というよりも、研鑚メモとして書き綴ってゆく予定である。また中村訳岩波文庫に取り掛かった後で再読を試みる。
どこかに到着するのではなく、ただひたすら歩くことを楽しむ。ブッダはそのように歩いた。比丘たちの歩みもみなおなじように見えた。目的地への到着をいそぐ者はだれもいない。ひとりひとりの歩みはゆっくりとととのって平和だ。まるで一緒にひとときの散歩を楽しんでいるようだった。疲れを知らないもののように、歩みは日々着実につづいていった。
【『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン:池田久代訳(春秋社、2008年)】
「歩く瞑想」である。
・歩く瞑想/『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール
・「100%今を味わう生き方」~歩く瞑想:ティク・ナット・ハン
偉大な思想家や学者は皆散歩を楽しむ。特に「カントの散歩」は広く知られた話だ。晩年のアインシュタインはゲーデルとの散歩を殊の外、楽しみにしていた。
散歩は「脳と身体の交流」であり、「大地との対話」でもある。我々は病床に伏して初めて「歩ける喜び」に気づく。失って知るのが幸福であるならば、我々は永久に不幸のままだ。
幸福とは手に入れるものではないのだろう。「味わい」「楽しむ」ことが真の幸福なのだ。すなわち彼方の長寿を目指すよりも、現在の生を楽しむ中に正しい瞑想がある。
まずは「歩くことを楽しむ」と決める。そうすれば通勤の風景も一変するはずだ。
・ブッダが解決しようとした根本問題は「相互不信」/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥
ジョージ・ソロス
2冊挫折。
『ソロスは警告する 超(スーパー)バブル崩壊=悪夢のシナリオ』ジョージ・ソロス:徳川家広訳、松藤民輔解説(講談社、2008年)/期待はずれ。松藤のポジショントークにも辟易させられた。ソロスが「哲学者になり損ねた男」であることだけはよく理解できた。数十年前であれば再帰性と可謬主義は卓見だと思うが、今となっては複雑系科学と認知科学の焼き直しにしか過ぎないと思われる。自説の解説もあまり上手くなく、かえって混乱するような中途半端さがある。明快ではないものを理論とは呼ばない。ま、金持ちの余技と考えるべきだろう。
『ソロスは警告する 2009 恐慌へのカウントダウン』ジョージ・ソロス:徳川家広訳、松藤民輔解説(講談社、2009年)/前著よりもっと薄っぺらい本。パラパラとめくって直ぐに閉じた。
スリランカ仏教と神智学協会
このように,スリランカ仏教と神智協会(※神智学協会)との関わりは,イギリス植民地支配のもとで,キリスト教への反発から仏教王権が回顧されていた時期に生まれた。仏基論争に触発されたオールコット(※ヘンリー・スティール・オルコット)とブラヴァツキーの2人は,1880年5月に,1人のイギリス人,5人のインド人とともにスリランカを訪れた。オールコットは,すでに1879年より教義論争の主役であったグナーナンダ師やスマンガラ師と親交を結んでいた。そのため,スリランカの側からも,その来島が待望されており,いわば,西洋の仏教理解者のチャンピオンとして歓迎されたのである。
【「儀礼の受難 楞伽島綺談」杉本良男、P48(PDF)/一部に注(※)を施した】
・「比較による真理の追求 マックス・ミュラーとマダム・ブラヴァツキー」杉本良男(PDF)
下記リンクの論文では、スワミ・ヴィヴェーカーナンダが神智学協会を批判した事実にも触れている。
「ノーベル賞つまらない」=候補のロシア女性活動家が批判
時事◆「ノーベル賞つまらない」=候補のロシア女性活動家が批判 goo.gl/4R7nx 「イランの政治犯に授与されるなら、まだ理解できる」「(09年に)オバマ米大統領、そして(今年は)EUが選ばれた」「次は(中ロなどでつくる)上海協力機構(SCO)か」※至言。
— deepthroatさん (@gloomynews) 10月 12, 2012
2012-10-12
2012-10-11
アルボムッレ・スマナサーラ
2冊読了。
58、59冊目と書きたいところだが、『寺田寅彦随筆集 全五冊』を挫折してしまったので、53、54冊目『怒らないこと 役立つ初期仏教法話 1』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)、『怒らないこと 2 役立つ初期仏教法話 11』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2010年)/良書。私は大乗仏教よりも初期仏教を重んじているので、いずれの内容もストンと腑に落ちた。科学的知識に若干違和感を覚えるものの、ま、大した問題ではない。仏教では地獄界の業因を「瞋(いか)り」と説いているが、その理由を初めて理解できた。深遠な哲理をわかりやすい言葉で教えている。無知な者が読めば、ついついわかったような気になってしまうことだろう。よくよく熟読玩味すべきである。「2」を必ず読むこと。
中川昭一の朦朧会見を仕組んだ男、ロバート・ゼーリック
IMFとOECDから「消費税率を上げろというような財務省に都合の良い内政干渉」がなぜ起こるのか?中川昭一氏を朦朧会見で失脚させたご褒美人事で、実行犯の財務省官僚「玉木林太郎」はOECD事務次長に「篠原尚之」はIMF副専務理事に出向している。tl.gd/dn8rtf
— 笹田 惣介さん (@show_you_all) 10月 11, 2012
・中川昭一朦朧会見を仕組んだ男 ロバート・ゼーリック
・憶測広がるロバート・ゼーリックの寄稿、金を前面に出したのはなぜ?
2012-10-10
飢餓:世界で8人に1人が苦しむ…3国際機関報告書
国連食糧農業機関(FAO)、世界食糧計画(WFP)など3国際機関は9日、世界の食料状況に関する年次報告書を発表し、依然として世界で8人に1人が飢餓に苦しんでいると指摘した。
飢餓人口はこのほぼ20年で約1億3200万人減り、約8億7000万人で、ほとんどが途上国に集中している。アジア・太平洋や中南米では減少したが、アフリカでは約1億7500万人から約2億3900万人へと増加、4人に1人が飢餓状態にある。
【毎日新聞 2012年10月10日 18時39分】
・ウガンダの飢餓
・暴力と欲望に安住する世界/『既知からの自由』J・クリシュナムルティ
ワタミとステーキけん
ワタミ過労自殺を取り上げた10月7日の毎日新聞から。自殺の前日、森美菜さんは連続6日勤務後の休日だったが、ワタミ本社で午前7時から早朝研修に参加。読書感想文の提出が課されていた。課題図書は渡辺美樹会長の著書『夢に日付を!』。「今は、足元しか見えない」と感想がつづられていたという。
— 須田 光照さん (@sudamitsuteru) 10月 10, 2012
今日、私たちの事務所に外食チェーン「ステーキけん」から営業のファックス。ここの社長は今年4月のインタビューで過労死について「倒れるのはそいつが悪いだけ。自己管理の問題だ。利益を出すにはそれしかない」と暴言。忘れないように記録しておこう。 toyokeizai.net/business/inter…
— 須田 光照さん (@sudamitsuteru) 10月 10, 2012
2012-10-09
10月27日発売 『常用字解 第二版』白川静(平凡社、2012年)
2012-10-08
迫真の肖像力
いやはや、またぞろ凄いのを発見したよ。「偽りの画像が生む本物の迫真性」で紹介した klikatu's photostream に匹敵する衝撃を受けた。記事タイトルの肖像力とは「肖像が持つ力」ではない。「肖像を捉える力」である。私は画像処理を施した写真はあまり好きじゃないのだが、被写体の本質を引き出すためのデフォルメであれば歓迎する。数枚見ただけで、「これは厳選しなければ膨大な数になってしまう」と憂慮しながらも、tumblrにこれだけの枚数をアップした。撮影者は意図的に物語性を排除していると思われる。悲哀や寂寥(せきりょう)はない。ただ「ありのままの事実」にアプローチしているだけだ。その率直さが写真に独立性を与えている。どの作品を見ても心が震える。震えてならない(枚数が多いため画像を小さくしてある。是非ともクリックして元画像をご覧いただきたい)。
・Alέxandros Bairamidis' photostream
既知からの自由
「既に知っていること」で「新しいこと」を解釈するのではなくて、「新しいこと」を使って「既に知っていること」を解釈する方がいいと思う。「既に知っていること」は知っている「つもり」であるので、それ使って新しいことを受け入れるのは実は受け入れたことにならないから。
— びゅうろうさん (@bu_reau) 10月 5, 2012
これをクリシュナムルティは「既知からの自由」と表現した。
・暴力と欲望に安住する世界/『既知からの自由』J・クリシュナムルティ
「慈悲の瞑想」アルボムッレ・スマナサーラ
このマントラはよい。思わず一緒に口ずさんでしまった。アルボムッレ・スマナサーラはスリランカの上座部仏教(テーラワーダ仏教)シャム派の日本大サンガ主任長老を務める人物(Wikipedia)。著作も数多く刊行されている。
・仏教分裂の歴史/『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ