バイクで丁字路(※T字路は誤り)に差し掛かった時、左手から5歳くらいの少女が歩いてきた。その子はちょうど真ん中でバイクを見て動けなくなり屈み込んだ。そして私の顔を見るなり、なんとニッコリ笑った。バイクもこの笑顔には負けたと見え、自然に減速した。私は手を振りながら右折した。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 11月 29
2013-11-29
目撃された人々 49
ボストン・テラン、マルクス・アウレーリウス、池田清彦、オルダス・ハクスリー
2冊挫折、2冊読了。
『死者を侮るなかれ』ボストン・テラン:田口俊樹訳(文春文庫、2003年)/田口訳は結構出回っているが、明らかに文章の乱れが目立つ。「漆黒の道路には誰もいない。そのことが確かめられると、彼女は左右に木々が並び立つ袋小路に注意を戻す。その道を少し行ったところに水道電力局が所有し、その地区で働く従業員を住まわせている官舎が数件建っている、とチャーリーは言っていた」(16ページ)。こんな文章を読んだだけでうんざり。わずか2行に「その」が三つ。「確かめられる」という受動形も不自然だ。行動と状況が入り混じって頗るわかりにくくなっている。もっと若い翻訳家を起用するべきだ。ボストン・テランは好きな作家だけに残念。田口訳はしばらく読まないつもりだ。
『自省録』マルクス・アウレーリウス:神谷美恵子〈かみや・みえこ〉訳(岩波文庫、1956年/改版、2007年)/ストア派であるがセネカと比べると見劣りする。ささっと飛ばし読み。神谷美恵子訳でなかったらこれほど読み継がれなかったような気もする。
59冊目『科学とオカルト』池田清彦(講談社学術文庫、2007年)/勉強になった。池田本は初めて。ただし文体に臭みがあり性格の悪さが窺える。「必読書」に入れるかどうか思案中。合理性というレベルでは武田邦彦著『リサイクル幻想』といい勝負だ。「公共性」というタームが実によく理解できた。
60冊目『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー:黒原敏行訳(光文社古典新訳文庫、2013年)/遂に読了。村松達雄訳で挫折しているだけに嬉しい。ザミャーチン著『われら』が1927年、本書が1932年、そしてオーウェルの『一九八四年』が1949年の刊行。オーウェルが暴力を描いたのに対してハクスリーは快楽を採用した。最初は読みにくいのだが天才的な造語センスに引っ張られ、野蛮人世界の件(くだり)から物語が膨らみ始める。シェイクスピアからの引用が銃弾のごとく放たれ、厳しいまでの純愛ドラマが展開。これぞ、ザ・ピューリタリズム。「著者による新板への前書き」と植松康夫の「解説」も素晴らしい。はっきり言って何も書く気がしなくなるほどだ。「条件づけセンター」というあたりにクリシュナムルティの影響を見てとれる。2000年前の人類も未来世界の人類も結局は鞭打たれる者を必要とし、十字架に貼り付けられる殉教者を求めたのだ。36~38歳でこれだけの物語を書けるのだからハクスリーは間違いなく文学的天才といえよう。
2013-11-28
60年前の赤ちゃん取り違えに思う
3800万円――これが60年間にわたって失われた「何か」の対価であった。
原告の実の両親は取り違えの事実を知らないまま他界しており、判決(で宮坂昌利裁判長)は「生活環境の格差は歴然としており、男性は重大な不利益を被った。真の親子の交流を永遠に絶たれた両親と男性の喪失感や無念は察するに余りある」と述べた。(読売新聞 2013年11月27日)
原告の60歳男性はどのような人生を歩んできたのだろうか?
2歳の時に養父が死亡。1人の子供は死亡したが、養母は生活保護を受けながら女手一つで原告ら3人の子供を育て上げた。一家が暮らす6畳の部屋には、当時、他の家庭に普及しつつあった家電製品は何一つなく、2人の兄は中学卒業後、すぐに働き始めた。(産経新聞 2013年11月27日)
男性は、中学卒業と同時に町工場に就職。自費で定時制の工業高校に通った。今はトラック運転手として働く。
取り違えられたもう一方の新生児は、4人兄弟の「長男」として育ち、不動産会社を経営。実の弟3人は大学卒業後、上場企業に就職した。(毎日新聞 2013年11月27日)
そうした数々の苦労が「新生児取り違え」に端を発していると考えられる。
「違う人生があったとも思う。生まれた日に時間を戻してほしい」(毎日新聞 2013年11月27日)
原告の60歳男性はこう語った。不幸な事件である。赤ちゃん取り違えは今に始まったことではないが。
一方15分後に生まれて裕福な家に送られてしまった男性はどうなのか? 当然、「生まれた日に時間を戻して」ほしくないはずだ。何もなければフラットな人生であったとすれば、マイナスとプラスは釣り合うはずだ。とすると裁かれたのは貧困であったのだろうか? 多分そうなのだろう。「失われた機会」といえば聞こえはいいが、結局のところ「貧しさは罪である」ということになる。
もっとわかりやすく述べよう。15分後に生まれた裕福男性が同病院を訴えた場合、果たして賠償金はいくらになるのか? 数学的に考えれば「3800万円-実の両親と過ごすことのできなかったことに対する金額」を原告に支払えと命じることになりそうなものだが……。
だが、訴訟を起こさなくても裕福男性には不幸の影が忍び寄っていた。
交わることのなかった2家族の運命が動いたのは平成20年。実弟3人が「兄」とされてきた男性を相手取り、自分たちの両親との間に親子関係がないことを確認する訴訟を起こした。(産経新聞 2013年11月2日)
ただ単にDNA鑑定で済まなかったのは相続か何かが絡んでいるような気がする。しかも60歳男性の訴訟は、
実弟3人とともに病院側に約2億5000万円の損害賠償を求めた訴訟(毎日新聞 2013年11月27日 大阪朝刊)
であった。
人間は物語を生きる動物である。それは「不幸な物語」と「幸福な物語」に大別される。60年前に入れ替わったのは不幸と幸福であった。その事実を知ったことで60歳原告男性のリアルな過去は完全に否定された。ここに正真正銘の不幸がある。
判決そのものに異論はないが、「人間は環境に支配される動物である」と言われているような気がして腑に落ちないものがある。取り違えがなければもっと幸せな人生を送れたはずだ、というのは空想に過ぎない。取り違われたおかげで交通事故死しなくて済んだのかもしれないし、事件に巻き込まれて殺害されずに済んだのかもしれない。もちろんこれまた空想だ。だが実際のことは誰にもわからない。
不幸は、そう判断することによって生まれるのだろう。幸福もまた。
2013-11-27
ザビエルも困った「キリスト教」の矛盾を突く日本人
これは面白い。切実な合理性。/ザビエルも困った「キリスト教」の矛盾を突く日本人:哲学ニュースnwk http://t.co/kYyg9sDipf
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 11月 26
スペイン人開拓者によるインディアン惨殺/『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス
・『奴隷船の世界史』布留川正博
・『奴隷とは』ジュリアス・レスター
・『砂糖の世界史』川北稔
・ラス・カサスの立ち位置
・スペイン人開拓者によるインディアン惨殺
・天然痘と大虐殺
・『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』猿谷要
・『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン
・『人種差別から読み解く大東亜戦争』岩田温
・キリスト教を知るための書籍
・必読書リスト その四
ラス・カサスの報告書はスペインに反感を抱く連中に政治利用される。それは「黒い伝説」となって欧州を席巻した。
・黒い伝説
・アメリカの古典文明~スペインの黒い伝説
・ラス・カサス著「インディアスの破壊についての簡潔な報告」:千田孝之
・「インディアスにおける福音宣教 多様な問題に関する宣教師たちの見解の相違」谷川義美(PDF)
この他「自虐史観は国を衰亡させる」(藤岡信勝公式サイト)も参照したが印象のみで具体的な事実を欠いている。
本書を翻訳した染田秀藤の見解については千田氏が紹介している。尚、谷川氏のテキストは長文のため私はまだ部分的にしか目を通していない。「ユカイ文書」も検索してみたが情報らしい情報が見当たらなかった。
個人的には16世紀のキリスト世界で宣教師がデタラメを報告できるとは考えにくい。折しも魔女狩りの嵐が吹き荒れた時代である。スペインはカトリック国であったためドイツやフランスほどの惨状ではなかったが、中世ヨーロッパの公共がキリスト教会であった事実を思えば藤岡の指摘は的外れであろう。
またラス・カサス以前にインディアンに対するスペイン人の非道を指摘した人物が存在した。そしてラス・カサスが良心の呵責を覚え、改心に至るまで2年ほどの歳月を要したことにも心をとどめる必要がある。それはまさしくラス・カサス本人がインディアンを人間として見つめることができるようになった期間を示すものだろう。
征服(コンキスタ)は死罪に値いする大罪であり、恐しい永遠の責め苦を負うのにふさわしい企てであります。
【『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス:染田秀藤〈そめだ・ひでふじ〉訳(岩波文庫、1976年/改訂版、2013年)以下同】
この一言が同胞を敵に回すことは重々覚悟の上で彼はペンを執(と)ったに違いない。どちらが神意にかなっているか勝負を決そうではないか、との気魄が伝わってくる。
ラス・カサスがアメリカで目の当たりにした光景は凄惨を極めた。
インディオたちの戦いは本国〔カスティーリャとレオン本国〕における竹槍合戦か、さらには、子供同士の喧嘩とあまり変りがなかった。キリスト教徒たちは馬に跨り、剣や槍を構え、前代未聞の殺戮や残虐な所業をはじめた。彼らは村々へ押し入り、老いも若きも、身重の女も産後間もない女もことごとく捕え、腹を引き裂き、ずたずたにした。その光景はまるで囲いに追い込んだ子羊の群を襲うのと変りがなかった。
彼らは、誰が一太刀で体を真二つに斬れるかとか、誰が一撃のもとに首を斬り落とせるかとか、内蔵を破裂させることができるかとか言って賭をした。彼らは母親から乳飲み子を奪い、その子の足をつかんで岩に頭を叩きつけたりした。また、ある者たちは冷酷な笑みを浮べて、幼子を背後から川へ突き落とし、水中に落ちる音を聞いて、「さあ、泳いでみな」と叫んだ。彼らはまたそのほかの幼子を母親もろとも突き殺したりした。こうして、彼らはその場に居合わせた人たち全員にそのような酷い仕打ちを加えた。 さらに、彼らは漸く足が地につくぐらいの大きな絞首台を作り、こともあろうに、われらが救世主と12人の使徒を称え崇めるためだと言って、13人ずつその絞首台に吊し、その下に薪をおいて火をつけた。こうして、彼らはインディオたちを生きたまま火あぶりにした。また、インディオの体中に乾いた藁を縛り、それに火をつけて彼らを焼き殺したキリスト教徒たちもいた。
何たる無残。事実は小説よりも奇なり。そして小説よりも恐ろしいのだ。人間は面白半分で人殺しができる動物なのだ。
(※火あぶりにされた)彼らは非常に大きな悲鳴をあげ、司令官(カピタン)を悩ませた。そのためか、安眠を妨害されたためか、いずれにせよ、司令官(カピタン)は彼らを絞首刑にするよう命じた。ところが、彼らを火あぶりにしていた死刑執行人(私は彼の名前を知っているし、かつてセビーリャで彼の家族の人と知り合ったことがある)よりはるかに邪悪な警吏(アルグワシル)は絞首刑をよしとせず、大声をたてさせないよう、彼らの口の中へ棒をねじ込み、火をつけた。結局、インディオたちは警吏(アルグシワル)の望みどおり、じわじわと焼き殺されてしまった。
私はこれまでに述べたことをことごとく、また、そのほか数えきれないほど多くの出来事をつぶさに目撃した。キリスト教徒たちはまるで猛り狂った獣と変らず、人類を破滅へ追いやる人びとであり、人類最大の敵であった。
キリスト教徒たちは彼らを狩り出すために猟犬を獰猛(どうもう)な犬に仕込んだ。犬はインディオをひとりでも見つけると、瞬く間に彼を八つ裂きにした。また、犬は豚を餌食にする時よりもはるかに嬉々として、インディオに襲いかかり、食い殺した。こうして、その獰猛な犬は甚だしい害を加え、大勢のインディオを食い殺した。
インディオたちが数人のキリスト教徒を殺害するのは実に稀有なことであったが、それは正当な理由と正義にもとづく行為であった。しかし、キリスト教徒たちは、それを口実にして、インディオひとりがひとりのキリスト教徒を殺せば、その仕返しに100人のインディオを殺すべしという掟を定めた。
暴力は人類の業病(ごうびょう)なのか。魔女狩り、黒人奴隷、そしてインディアン虐殺……。ヨーロッパの暴力はキリスト教に由来しているとしか考えようがない。そのヨーロッパ文明が先進国基準である以上、世界はいつまでも戦争の連鎖にのた打ち回ることだろう。
平和的な民族は淘汰される運命にある。これ以上の歴史の皮肉があるだろうか。私が人権という概念を信じないのは、それが殺戮者であるヨーロッパ人によってつくられたものであるからだ。
岩波書店
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2013-11-26
大田俊寛、井波律子、中野美代子、E・L・カニグズバーグ
4冊挫折。
『現代オカルトの根源 霊性進化論の光と闇』大田俊寛(ちくま新書、2013年)/期待外れであった。期待が大きかっただけに残念無念。筆が慎重すぎてスピード感に欠ける。フレデリック・ルノワール著『仏教と西洋の出会い』(2010年)の後で本書を出す意味を見出だせない。どうせ書くなら霊性進化論(スピリチュアリズム)とニューエイジの相関関係をテーマとすべきだ。
『中国の五大小説(上) 三国志演義・西遊記』井波律子〈いなみ・りつこ〉(岩波新書、2008年)/好著。ただ単に我が人生の時間不足で挫折。尚、下巻は「水滸伝・金瓶梅・紅楼夢」を取り上げている。
『西遊記(一)』中野美代子訳(岩波文庫、1977年)/実に読みやすく、漢詩の訳にも工夫が施されている。挫けたのは上と同じ理由による。全10冊を読むだけの時間がない。いやあ大失敗。20代、30代で読んでおくべきだった。孫悟空の破天荒な暴れっぷりが凄い。
『クローディアの秘密』E・L・カニグズバーグ:松永ふみ子訳(岩波少年文庫、2000年)/翻訳が素晴らしい。ツイッターでもお薦めしたのだがダメだった。「貸し洗たく機屋」の件(くだり)でやめた。結局この姉弟は資本主義の申し子なのだ。お金を持って家出をし、食堂を利用し、ニューヨークのメトロポリタン美術館で眠る。これでは先進国にしか通用しない物語だろう。松永の文章は少々古めかしいが、それがまた味わいを深くしている。尚、カニンズバーグ本人によるイラストが秀逸。化学教師とは思えないほど。
釈迦の生誕年が早まる可能性も、ネパールの遺跡で新発見
インドとの国境に近いネパール南部のルンビニ(Lumbini)で、仏教の開祖である釈迦(しゃか)が生まれたとされる場所で木造建築物の痕跡が新たに見つかった。これは紀元前6世紀頃のものとみられ、考えられていたより2世紀も早く釈迦が生きていたことを示す証拠であるかもしれないという。考古学者らが25日に発表した。
古代の宗教的な木造建築物と考えられたこの遺構は、仏教徒にとって非常に重要な寺院であるマヤデビ(Maya Devi)寺院の敷地内で発見された。
レンガ造りのマヤデビ寺院とデザインの面では似ているものの、この遺構には何もないスペースが配置されており、そこからかつては木が生えていたとみられている。おそらくここに釈迦が生まれた場所に生えていたとされる木があったとみられる。
考古学者のロビン・コニンガム(Robin Coningham)氏は、「これは、いつ釈迦は生まれたのか、また彼の教えが発展し、信仰として根付いたのがいつなのかという、長い長い間交わされてきた議論の手がかりになるかもしれない」と語った。
【AFP 2013年11月26日】
インドでは、歴史や地理を記録するということがなかったので、釈尊の生存年代を決定するのは極めて困難なことである。
セイロン、ビルマ、タイなどの国は釈尊の生涯を、
紀元前624~前544年
として、1956年に仏滅2500年の記念行事を行なった。西洋の大半の学者は、マガダ諸王の年代論と一致しないことと、11世紀中頃より先に遡ることができないことを理由にこの説を拒絶している。その代わりに、セイロンの『島史』『大史』に基づいた算定を行ない、いずれも仏滅を紀元前480年前後としている。その中でも有力なものは、J.Fleet(1906、1909)、W.Geiger(1912)、T.W.Rhys Davids(1922)らによって採用されている
紀元前563~前483年
である。類似のものとして、H.Jacobiの「前564~前484年」説もある。
このほかMax Mullerの「前557~前477年」説、Filliozatの「前558~前478年」説もあるが、これは、異説の多いプラーナ(古伝書)やジャイナ教の伝説に依るものであり、最近では支持されていない。
『歴代三宝紀』に説かれる「衆聖点記」(大正新修大蔵経、巻49、95頁以下)、すなわち仏弟子のウパーリが結集して後、毎年、夏安居(げあんご)が終わった時に代々の長老が伝持した律典に点を記したという記録に従って算定すると、「前565~前485年」になる。けれども、律蔵が成文化されたのは仏滅後数百年後のことなので、その間は点を記すことができなかったはずであるという難点がある。ウパーリもそのころまで生きてはずがない。
これに対して、宇井伯寿博士は、仏滅からアショーカ王即位までを218年とするセイロンの伝説の信頼性を批判し、北伝の資料に基づいてアショーカ王と仏滅の間隔を116年として、
紀元前466~前386年
と結論された。
中村元博士は、宇井博士の説を踏まえつつも、アショーカ王と同時代のギリシア諸王の在位期間について西洋の学者が新たに研究した成果によって、アショーカ王の即位灌頂の年を修正して、
紀元前463~前383年
と改められた。この説の立脚点は、仏滅後100年にしてアショーカが出現したということだが、これは(1)マガダを中心とする地域に古くから伝えられたものであること、(2)セイロン上座部を除く各部派に共通であること、(3)セイロン諸王の空位期間を説明しうること、(4)5人の師による伝承としては妥当な期間であり、セイロンの伝説は218年と長きに失するということ、(5)セイロンの伝記が4~5世紀に作られたものであるのに比べ、北伝は仏滅後400年ごろに作製されたもので記録が古いこと――などの理由により確実性がより高い。平川彰博士も、中村博士の見解を「妥当」と評価されている。
【『仏教のなかの男女観 原始仏教から法華経に至るジェンダー平等の思想』植木雅俊(岩波書店、2004年)】
因みに日蓮は『周書異記』に基づいて末法開始を永承七年(1052年)と認識していた。この場合、仏滅年代は紀元前949年となり、生誕は紀元前1029年となる。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 11月 26
詳細は不明だが「木造建築物の痕跡」だけで生誕年を推測するのは困難だろう。またブッダの生没年が変わったところで教えの内容が影響を被ることはないと考える。そもそも末法思想を厳密に判定しようとする試みが仏道を深めるとは思えない。
・Wikipedia:釈迦生没年
2013-11-25
『竹林はるか遠く 日本人少女ヨーコの戦争体験記』ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ著・監訳:都竹恵子訳(ハート出版、2013年)
2013-11-24
ホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモアの二人芝居/『ザ・マスター』ポール・トーマス・アンダーソン監督・脚本
最初から最後に至るまで二人の演技力だけでストーリーを引きずってゆくという怪作。完全な二人芝居。にもかかわらずカットが素晴らしい。サイエントロジーがモデルになっているようだが宗教性はまったく描けていない。っていうか描く気ないだろ?(笑)
ホアキン・フェニックスを初めて知ったがまあ凄いね。スペイン人あるいはイタリア人を思わせる陰影の濃い顔つき。激情に翻弄される落ち着きのない男を見事に演じている。一方フィリップ・シーモアは宗教家というよりは艶福家(えんぷくか)といった印象を受けた。たぶん成功を象徴しているのだろう。
結局この作品はドロップアウトした若者と新興宗教教祖との出会いを通して「父と子」の物語を描いたのだろう。アメリカ映画によく見られるパターンだ。父はもちろん神の暗喩である。「父と子と精霊の御名(みな)においてアーメン」ってわけだよ。
個人的にはプロセシシングと名づけられたカウンセリング療法が興味深かった。厳格なプロテスタント国家アメリカは一方でプラグマティズムを生みながらも、他方で心理療法を必要とする人々を生んでいるのだ。スクラップ・アンド・ビルド。物質も精神も。
序盤は上下を意識した映像が多く、それから航海が続く。この垂直から水平にシフトするところに物語の鍵があるのだろう。まるで十字架だ。主人公はオートバイに乗ったまま荒れ果てた地平線から消えてゆく。転落の余韻を残しながら。
最終的に二人の演技はストーリーを押しのけるところまで進む。それどころか観客まで突き放されてしまう。さしたる説明も教訓もないまま映画は終わる。残されたのは抜けない棘(とげ)、喉に引っ掛かった魚の小骨、腑に落ちないモヤモヤした感情、ざらついたままの皮膚感覚だ。
2013-11-23
ラス・カサスの立ち位置/『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス
・『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
・『奴隷船の世界史』布留川正博
・『奴隷とは』ジュリアス・レスター
・『砂糖の世界史』川北稔
・ラス・カサスの立ち位置
・スペイン人開拓者によるインディアン惨殺
・天然痘と大虐殺
・『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』猿谷要
・『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン
・『人種差別から読み解く大東亜戦争』岩田温
・キリスト教を知るための書籍
・必読書リスト その四
カスティーリャの国王が神とその教会からあの大きな数々の王国、すなわち、インディアスという広大無辺な新世界を委ねられましたのは、その地に済む人びとを導き、治め、改宗させ、現世においても来世においても彼らに幸福な生活を送らせるためにほかなりません。しかるに、それらの王国に済む人びとは同じ人間が手を下したとは想像もつかないような悪事、圧迫、搾取、虐待を蒙ってまいりました。いと強き主君、私は50年以上にわたりその地でそれらを目撃してまいりました。それゆえ、とりわけそのうちのいくつかの行為を申し上げれば殿下は必ず陛下に対し、無法者たちが策略を弄してたえず行いつづけているいわゆる征服(コンキスタ)という企てを今後いっさい許可されないよう懇請していただけるものと確信しております。
【『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス:染田秀藤〈そめだ・ひでふじ〉訳(岩波文庫、1976年/改訂版、2013年)】
キーが重い。気安く書くわけにはいかないためだ。私がもたもたしているうちに改訳版が刊行されていた。タイトルが広く知られていると、「ま、いつでも読めるよな」とか「今更俺が読んでも……」などと思いがちだ。挙げ句の果てには「読んでしまった」ような錯覚に至ることもある。ソクラテス、トルストイ、ドストエフスキー、夏目漱石……そして岩波文庫だ。
インディアンの言葉を編んだものを数冊読み、その散漫極まりない編集に業を煮やし、「そろそろ本気を出すか」と意気込んで本書を開いた。寝しなに読むのは避けるべきだ。悪夢にうなされたくなければ。
ルワンダを軽々と凌駕する大虐殺の歴史だ。アメリカに巣食う暴力の根は「アメリカ大陸発見」の時から地中に深く分け入ったのだ。ヨーロッパ人は元々「魔女狩り」と称して同胞を焼き殺すような連中である。世界の果て(※ヨーロッパから見た世界観)に存在した異邦人は化け物と変わりがなかった。
・コロンブスによる「人間」の発見/『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世
しかもキリスト教の狭い世界観にインディアン(中国を始めとするアジア人も)は含まれていなかった。
話はいささかそれるかもしれませんが、ここで日本人がいつから奴隷になったのか、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。
近代の奴隷制は、東インド会社の設立にその起源を求めることができます。ことは非常に単純で、奴隷制はもともと、人間とは何かという定義から始まりました。その経緯はおおよそ次のようなものです。
現在ではカトリックといえば博愛主義の代名詞で、バチカンは世界の戦争や差別をなくす中心的な役割を果たす機関となっています。ところが中世の頃のバチカンはそうではなかったのです。
1600年、インドに渡ったヨーロッパの貿易商は肌の黒いインド人を見て、同行した神父にこう訊ねました。「この肌の黒い人は人間ですか?」。その神父はその場で答えを出さず、バチカンにその回答を求める質問状を送るのですが、ずいぶんして戻ってきた返書には「人間ではない」としたためてありました。その理由は“キリスト教徒ではないから”というものです。
アフリカに渡ったときも、同じ手続きが踏まれました。商人から同じことを訊かれた神父が、やはりバチカンに、人間かどうかの判断を仰ぐ質問状を送っているのです。すると、こちらも「人間ではない」という回答がきちんと送ってきました。そういう記録が残っているというのです。
こうした当時のバチカンの判断によって、奴隷制が始まったと言われています。魔女狩りや異端審問がピークの時代です。東インド会社が行った最大の交易は、人身売買ですが、その背景にはキリスト教徒でない者は人間ではなく奴隷であるという判断があったわけです。
このことは、日本の場合にも当てはまると思います。
戦国時代、日本は海外から鉄砲の調達を始めました。織田信長がその近代兵器を駆使して勝利を収めたことは有名ですが、そのためには高性能の火薬、つまりガンパウダーが必要になります。当時のガンパウダーの値段はどのようにつけられていたかというと、一樽につき、娘50人です。織田信長の時代から戊辰戦争の時代まで、鉄砲隊のガンパウダーは、日本人の若い女性を海外に売ることで調達したのです。
この事実は、裏を返せば、日本人の人身売買を行うにあたり、日本人は「人間ではない」というお墨付きがあったということになります。もし、人間を売買したとなると、キリスト教の教義に違反し、たいへんなことになります。しかし人間ではないから、鉄砲を求める戦国武将との間で、売買が成立したわけです。そのため、当時、大量の日本人の娘がヨーロッパに売り渡されたという記録が残されています。
つまり日本における奴隷制は、鉄砲隊がその引き金を引くと同時に始まったと考えることができるわけです。
【『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(ビジネス社、2008年)】
これが近代の現実である。ヨーロッパにとって世界とは聖書に書かれたことがすべてだった。そして聖書の解釈権はヴァチカンが握っていた。神に従うことはヴァチカンに従うことであった。インディアンと中国人(なかんずく中国文化)の存在がヨーロッパを揺るがした。全知全能の神もふらついたことだろう。
「インディアス」とはインドのことだ。クリストファー・コロンブスの第二次航海に参加したラス・カサスは、当然コロンブス同様アメリカ大陸をインドだと思い込んでいた。「新大陸」であることに気づいたのはアメリゴ・ヴェスプッチであった。で、彼の名前から「アメリカ」と命名されたわけだ。
バルトロメ・デ・ラス・カサスはカトリックの司祭であった。しかもインディアンの奴隷を所有していた。彼は宣教目的でアメリカに渡ったわけだから、インディアンを布教対象としてしか考えてなかったことだろう。そうでありながらも彼はインディアン虐殺をじっと見ているわけにはいかなかった。ここに彼の自由な魂がある。
時代の流れを自覚することは難しい。地球の自転や公転を意識できないのと一緒だ。時代の常識に逆らうことは勇気を必要とする。激しい毀誉褒貶(きよほうへん)を覚悟しなくてはならない。元々コミュニティには進化的な優位性がある。「皆と同じ」にすることで生存率が高まるのだ。ゆえに勇気をもって異を唱えることは時に死を意味した。諫言。
一読後、私は思った。「ラス・カサスの名を冠した人道賞を設けるべきだ」と。彼こそは善きサマリア人であった。そして虐殺者の一員であることを断固として拒んだのだ。
ラス・カサスは68歳で大著『インディアス史』を書き始める。
・ラス・カサスとフランシスコ・デ・ビトリア(サラマンカ大学の神学部教授)/『大航海時代における異文化理解と他者認識 スペイン語文書を読む』染田秀藤
・侵略者コロンブスの悪意/『わが魂を聖地に埋めよ アメリカ・インディアン闘争史』ディー・ブラウン
・虐殺者コロンブス/『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史』ハワード ジン、レベッカ・ステフォフ編
・米軍による原爆投下は人体実験だった/『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
・欽定訳聖書の歴史的意味/『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人
・集団行動と個人行動/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ
・残酷極まりないキリスト教/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
リー・チャイルド著『キリング・フロアー』の新装版
ジャック・リーチャー。元軍人。仕事も家族も、友人さえも持たずただ一人放浪する男。伝説のギター奏者の面影を求めて訪れたジョージアの田舎町で身に覚えのない殺人容疑をかけられ、刑務所で殺されかかった彼は、自分を狙う何者かの意志を察知する。刊行と同時に全米マスコミの絶賛を浴びたアクション巨編。
殺されたのはもう何年も会っていない、財務省で通貨偽造を調査していた実の兄だった。おれがこの手で犯人を挙げる、誰がなんといおうと――。容疑が晴れ釈放されたリーチャーは女性巡査ロスコーと共に事件を追い、町を覆い尽くすある巨大な陰謀を明らかにしていく。アンソニー賞最優秀処女長編賞受賞作。
・ジャック・リーチャー・シリーズ第1作/『キリング・フロアー』リー・チャイルド
2013-11-22
ジョン・ル・カレ著『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』の新訳(村上博基)が不評
村上博基による新訳の酷評。しかも説得力がある。菊池光訳を再び入手する羽目に。/http://t.co/BNHzGO2hY3: ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ〔新訳版〕の ダイアナ・ドルフィンさんのレビュー http://t.co/508H6Mpf56
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 11月 22
【左が村上訳、右が菊池訳】
【2部、3部はもともと村上訳】
黒田清隆と木戸孝允~勝海舟の評価
小沢遼子足蹴り事件
1983年1月26日、ロッキード事件被告田中角栄への求刑公判の日、テレビ朝日の番組「こんにちは2時」の生放送に出演した。番組のテーマはもちろん角栄の裁判であり、小沢遼子ら反角栄側2人と小室による討論を行った。ところが冒頭、突然立ち上がってこぶしをふり上げ、「田中がこんなになったのは検察が悪いからだ。検事をぶっ殺してやりたい。検察官は死刑だ」とわめき出し、田中批判を繰り広げた小沢遼子を足蹴にして退場させられた。
ところが、翌日朝、同局は小室を「モーニングショー」に生出演させた。その際さらにパワーアップしてカメラの面前で「政治家は賄賂を取ってもよいし、汚職をしてもよい。それで国民が豊かになればよい。政治家の道義と小市民的な道義はちがう。政治家に小市民的な道義を求めることは間違いだ。政治家は人を殺したってよい。黒田清隆は自分の奥さんを殺したって何でもなかった」などと叫び、そのまま放送された。
これをもってテレビ出演はほとんどなくなり、以後、奇人と評された。
【キリスト教の「愛(アガペー)」と仏教の「空(くう)」/『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹:Wikipedia】
平生はその手腕を買われていた黒田だが、一度酒を飲むと必ず大暴れする酒乱であったと言われている。一度は木戸孝允が同席の酒席で暴れ、武術家としても知られていた木戸に取り押さえられ、毛布でくるまれたうえ紐で縛られ、そのまま自宅へ送り返された。以来、「木戸が来た」というと大人しくなったという。明治11年(1878年)の夫人の死も酔った黒田が斬り殺したのを同郷の川路利良がもみ消したのではないかとも噂された。
【Wikipedia】
三浦梧楼「木戸は剣客斎藤弥九郎の塾頭をやったくらいで、なかなか手が利(き)いておった。あの乱暴者の黒田(黒田清隆)でさえ、木戸には閉口しておった。ある年の正月三日であった。黒田が木戸の所へ、年礼にやって来たが、さんざん飲んだ果てに暴れ出した。木戸がいろいろなだめても、なかなか聞かない。果ては木戸におどりかかっていったが、木戸は柔術も心得ておる。黒田はただ蛮勇ばかりで、木戸の敵ではない。木戸はいきなり大腰にかけて、物の美事に投げつけ、両手で喉をしめつつ、『どうじや、まいったか』というと、『まいったまいった、許せ』とあやまる。『それじゃ帰れ』といって、手を放し、鴛龍へ乗せて、送りかえしたが、あの乱暴者が、木戸には全く閉口しておったものだ」
【Wikipedia】
しかし凄いもんだね。木戸の逸話:木戸孝允 - Wikipedia http://t.co/8rGduW3tWY
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 11月 21
勝海舟の木戸孝允論: 木戸松菊は、西郷などに比べると非常に小さい。しかし綿密な男さ。使い所によってはずいぶん使える奴だった。あまり用心しすぎるので、とても大きな事には向かないがノー(西郷びいきのあんたに言われたくない)。 http://t.co/7dkKV9lEoP
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 11月 21
勝海舟は人物評をよくしたが、これに一定の法則があることに気付く。つまり、勝が絡んだ人物は高く評価し、そうでない人物の評価は低いことである。勝を敬遠し近づかなかった徳川慶喜、木戸孝允、福沢諭吉の評価は低い。 http://t.co/ta1jGKojgH
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 11月 21
肥後藩士二人と小楠の三人で、酒宴を開き大いに盃を傾けてきたとき、突然座敷に刺客が押し入ってきた。小楠は、仲間を置き去りにして自分だけ逃げてしまい、一人が死亡し、一人が軽傷を負うと云う事件が起きた。 http://t.co/vMCKpX99Jw
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 11月 21
おれは、今までに、天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠(よこい・しょうなん)と西郷南洲(さいごう・なんしゅう)とだ。(『氷川清話』勝海舟) http://t.co/esOVZiSaE5
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 11月 21
2013-11-21
エリザベス・ロフタス「記憶が語るフィクション」~偽りの記憶
心理学者のエリザベス・ロフタスは、記憶の研究をしています。正確には、彼女が研究しているのは「偽りの記憶」――起きてもいないことの記憶や、事実とは違う形で残っている記憶です。こうした虚偽記憶は、一般に考えられているより普通にあることです。ロフタスは、衝撃的な事例や統計を紹介し、私たちが考えるべき重要な倫理的問題を提示します。
戦争やジェノサイドに至る道程には偽りの記憶が無数に存在することだろう。記憶は偽る。自らが捏造し、他人が書き換えることによって。人間は物語(フィクション)を生きる動物であることがよく理解できる。そして人類は21世紀になっても尚、宗教というフィクションにすがりついているのだ。
・偽りの記憶/『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』スーザン・A・クランシー
・現実認識は「自己完結的な予言」/『クラズナー博士のあなたにもできるヒプノセラピー 人生を成功に導くための「暗示」の作り方』A・M・クラズナー
・『交通事故鑑定人 鑑定暦五〇年・駒沢幹也の事件ファイル』柳原三佳
・あと知恵バイアス
・「社会への同調」で生まれる「ニセの記憶」:WIRED.jp
2013-11-20
セックスとは交感の出来事/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一
・蝶のように舞う思考の軌跡
・身体から悲鳴が聞こえてくる
・所有のパラドクス
・身体が憶えた智恵や想像力
・パニック・ボディ
・セックスとは交感の出来事
・インナーボディは「大いなる存在」への入口
・『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴
・『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ
・『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
・『日本人の身体』安田登
・『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
・『ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
・『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
・『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス
・『ニュー・アース』エックハルト・トール
・『瞬間ヒーリングの秘密 QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し』フランク・キンズロー
・必読書リスト その二
増刷されたようである。朗報。せっかくなので何か書いておこう。
セックスとはほんとうは交感の出来事であり、感覚のコミュニケーションの出来事であったはずなのに、それが身体の特定部位の性能の問題にずらされてしまっているのだ。
【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)以下同】
これは何も今に始まったことではあるまい。巨乳を昔はボイン(日本テレビの「11PM」で大橋巨泉が朝丘雪路の胸をからかったのが嚆矢〈こうし〉)と言ったし、「小股の切れ上がった」なんて言葉は、「締まりがよい」とか「具合がよい」などと大差はないと思われる。
結局のところ「性の商品化」と絡む問題なのだろう。鷲田の論考はここから急激に深まる。
こういう読み物とかグラビアといった快楽情報が溢れているのは、ほんとうの快楽が他人とのあいだで得られていず、しかも情報は増える一方なので、恒常的な飢餓感や不足感だけが確実に膨らんできているということなのだろう。器官的なものとしての〈性〉ではなく、感情としての〈性〉がもうきちんと語りだされなくなってきている。
〈性〉は、個体と個体のあいだで起こる身体間のもっとも濃密な交通である。これを軸に、親子のあいだの親密な相互接触、さらにはじぶんの身体とのあいだの何重もの厚い関係が交叉しながら、これまで家庭という、複数の身体がなじみあう特異な空間を構成してきた。だから他人の家庭を訪れたとき、だれもが家庭というもののあの異様に濃密な空気にうろたえる。
情報が性を貧しいものに変えた。当然、「性」は「生」とつながる。ジュディス・バトラーも同じ指摘をしている。
・ポルノは経験に取って代わる/『触発する言葉 言語・権力・行為体』ジュディス・バトラー
性を濃密な関係と押し広げているところが卓見だ。確かに他人の家庭は薄気味悪い。私の父は無口であったため、殆ど会話らしい会話がなかった。そんな私からすれば、父親と息子が話しているだけでぞっとさせられる。一方で我が実家は幼い弟妹が小学1年生になる頃までチューをし続けた。他所様から見れば気色悪いこと甚だしいに違いない。
ま、夫婦の性行為から家族が生まれるわけだから、その延長線上に家族関係も構築されるのだろう。
・性はアイスクリームを食べるのに似ている/『エロスと精気(エネルギー) 性愛術指南』ジェイムズ・M・パウエル
氾濫する性情報のなかで〈性〉はむしろ義務のようなものになっており、そっとやりすごさないとせっかくの関係を壊しかねないという不安が、そこにはある。
〈食〉が自己への暴力へと転化することがあるように(過食や拒食)、〈性〉もまた自己への暴力となりうる。〈性〉の背景にあった〈愛〉や〈家族〉といった観念が、そしてそれを制度化してきた社会的装置が、さまざまな場面できしんでくると、〈性〉の不幸は社会的な問題性をますます深く内にはらむようになる。
これは確か女性のケースだ。いわゆる処女喪失というテーマだ。「処女」とか「セックス」とか書くのをためらってしまうのも、私の古典的な性意識が為す業(わざ)だと思われる。
これまた実に鋭い指摘である。不安定な家族関係で育った女性は特に注意が必要だ。特に父親の愛情を知らない――当然離婚も含む――少女が危うい。男性遍歴が激化するケースがある。
新聞や雑誌を開ければ、援助交際、ブルセラ、投稿写真、ストーカー、家庭内強姦、あるいは中絶という自己への暴力のあとの底深い負い目、「純愛」として語りだされる不倫、自己解放としての身体毀損(ボディ・ピアシング)……と、気が落ち込むようなテーマがならんでいる。それぞれの性が、そしてそれぞれの世代が、共有できる物語を欠いたまま、問題としての〈性〉にむきだしで接触しているという感じがする。
過剰な性愛は不毛だ。精神はやがて疲労と疲弊に覆われ、擦り切れ、必ず廃(すた)れてゆく。彼女たちの魂は放置自転車のように埃(ほこり)まみれで錆(さ)びついている。不足を補うための行為が、かえって空洞を広げてしまう。
私がまったく違う例を挙げよう。義父の介護を献身的に行っているという評判の奥さんがいた。私が訪れたところ義父も義母もお嫁さんを手放しで褒めていた。何度か足を運んで気づいた。お嫁さんは義父の身体に触れることが殆どなかった。彼女にとって介護は嫁としての義務であったのだろう。甲斐甲斐しく身の世話をしていたが愛情は感じられなかった。身体の接触なくして要介護者とのコミュニケーションは難しい。仮に脳血管障害由来の失語症などで言葉を失っていても、手を取り肩を組むだけで喜ぶ人々は多い。人間という動物は好意を抱いていれば必ず触れ合うものだ。
性は本来豊かなコミュケーションであったはずだ。そしてコミュニケーションは交換から交感へと変わり、更には交感が交歓へと昇華するのだ。商品としての性には金銭と肉体の交換しか存在しない。経済的な見返りを求めた結婚も長期的な売買春と考えることができよう。
中学生となり初めてフォークダンスをした時のあの緊張感を思い出そう。密かに思いを寄せていた女子生徒の手を握った瞬間、私は確かに感電したはずだ(笑)。
2013-11-19
2013-11-18
新幹線での携帯電話
「決まりだからダメ」なのではなく、「周囲に迷惑をかけるからダメ」なのだ。常識よりもむしろ非常識が発想の転換を生み出す。
新幹線の隣の席のおじいさんに電話がかかってきて、着席したまま応答。「今、新幹線なので、…」の後は「…かけ直します」だと思ったら、なんと「一方的に話してください」と言って、今も無言で聞いてます。斬新。
— 鈴木康広 (@mabataku) November 16, 2013
2013-11-17
不条理ゆえに我生きる/『灼熱の魂』ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督・脚本
これは凄かった。レビューの禁句ではあるが「凄い」としか言いようがない。ワジディ・ムアワッド(レバノン出身)の戯曲『焼け焦げるたましい』(原題:Incendies、火事)を映画化した作品だ。レバノン内戦を描いているところから察するとタイトルの意味は「焦土」か。
冒頭で幼い少年たちが兵士の手で丸刈りにされる。カメラはある少年の踵をクローズアップする。そこには三つの点を描いた刺青が施されていた。このシーンの意味は最後で明らかとなる。
母親が不可解な遺書をのこして死んだ。双子の姉弟が知らされていなかった父と兄を探し出して、手紙を渡すことを命じる内容だった。物語はロードムービーになるかと思いきや、カットバックで母親の越し方が挿入され、過去と現在が同時進行する。更に後半では兄の人生が加えられる。三重奏が描くのは「謎」だ。もうね、見ている側はプロレス技の卍固めをかけられたような状態となる。
映像が緊張を強いる。ハンディカメラの手振れが効果を発揮している。そして思いも寄らぬ場面で突発的に暴力シーンが現れる。紛争地帯の日常とはそういうものなのだろう。
姉弟はカナダから中東へ飛ぶ。母親はかつて政治犯であった。彼女は度重なる拷問に屈することなく13年間を耐え忍んだ。監獄では「歌う女」と呼ばれていた。
姉弟の出自が明らかとなり、続いて二人がプールで泳ぐ場面が秀逸だ。胎内への回帰。水(プール)が重要なモチーフとして何度も出てくる。
弟が姉に言う。「1+1=1があり得るか?」と。少し間を置いて姉は過呼吸に陥ったような音を立てる。直後にすべての謎が明らかとなる。
不条理ゆえに我生きる――これが母親の人生だった。彼女はいくつかの罪を犯した。長男を育てることができなかった。そしてバスの中で出会った子供を救うこともできなかった。拷問は贖罪(しょくざい)であった。そしてその後の人生は更なる贖罪であった。死の直前に母親は真相を知った。そして死の床にあってそれを許した。
「三界は安きことなく、なお火宅の如し」(『法華経』譬喩品)――これこそがタイトルの意味だった。「家は火事です。あちらの家だと思っているのですが、ここなのです」(クリシュナムルティ)。この残酷極まりない世界では「穏やかに生きる者」のみが真の勝者であることを思い知らされた。
『ドッグヴィル』の衝撃と『善き人のためのソナタ』のドラマ性を併せ持った稀有な作品である。
時代の風:「集落丸山」に学ぶ国づくり=元世界銀行副総裁・西水美恵子
未来を切り開く結束力
兵庫県篠山市の一角に、稀有(けう)なリーダーシップを発揮する人々がいる。リスクを直視し、危機感を持って受けとめ、新しい未来を築こうと力を合わせる「集落丸山」の女衆と男衆だ。
丹波高原の山々に抱かれる篠山市は、谷沿いに深く入り込む大小さまざまな集落に、ぐるりと囲まれている。京都北西の要塞(ようさい)という地政的な性格から、中世には山城が林立し、根城と枝城が戦略的な網状組織を成していた。集落の多くは、城の出入り口や、逃げ口、水源などを守る命を受けた兼農武家地だったと聞く。
そのひとつである丸山の歴史は「丹波篠山では新しい」そうで、城が平野に下りた江戸時代に始まった。1794年、篠山城外堀の役目を持つ黒岡川の水源を守るために、配置された。
今日も篠山市の中心である篠山城跡から、黒岡川沿いに北北東へ5キロほど行くと、多紀連山の懐に入る。連山の主峰御嶽の登山口へ続く谷筋が急に狭まるあたり、手入れの行き届いた田畑と里山の緑を背景に、そこには不似合いと感じるほど重厚な古民家の集落、丸山が、現れる。
その姿を初めて目にした時、築150年以上の古民家群が醸し出すカリスマに息を呑(の)み、鳥肌さえ立った。
入母屋造りのどっしりとした屋根線が、母屋と蔵の白壁をちらちら覗(のぞ)かせながら重なり合い、山裾の斜面から平地へと流れる。屋根の合掌が作る「破風(はふ)」と呼ぶ側面は、そこだけ柿渋色の漆喰(しっくい)に塗られ、白く大きく描かれた家紋を遠目にも際立たせている。石積みの垣や生け垣に沿って客を迎え入れる脇門を持つ家が多いなか、長者の住居だったのか、堂々たる長屋門を構えた家もある。
「集落丸山」は、丸山の人々が運営する、集落まるごとの宿。2009年10月に開業した。宿泊施設は、空き家になっていた古民家2棟。生活の「近代化」が残したさまざまな厚化粧が取り除かれ、水回りの他は本来の姿に戻された。その贅沢(ぜいたく)な空間の要所要所に、和風モダンな家具や照明が配されて、いにしえの優れたデザイン感覚をより一層引き立てている。
食事処(どころ)は、地元の豊富な食材や甘露水、人の結いなどに魅せられ丸山にIターンした、料理の達人2人による。古民家続きの蔵と納屋を改造した小さなフランス料理店は、神戸にある名店のオーナーシェフが構えた。集落奥に佇(たたず)む蕎麦(そば)懐石の店は、「関西の至宝」とさえ呼ばれる蕎麦通の聖地。彼らの指南を受けた丸山の女衆が受け持つ朝食は素人の域を超え、地産地消の絶品がずらりと並ぶ。
「おかみさん」と呼ぶには若すぎる丸山の次世代ホープが、女将役を見事に切り回し、客が知らず知らずに集落住民となるよう導いてくれる。「集落丸山」は、宿より高級プチリゾートと呼ぶほうがふさわしい。
丸山は、限界集落だった。住民5世帯19人の過半数が高齢者のうえ、民家12軒中7軒が空き家になっていた。小さな集落にとって、共同体機能が消滅する可能性は、リスクというより不可避な現実に近く、住民は強い危機感を抱いていた。
しかし、丸山には、得難い財産があった。厳しい自然を相手に生き永らえた極小社会が培った、住民一人一人のリーダーシップ精神と、「集落は家族である」と言い切る結束だ。
古民家「発見」が、その財産に情熱の火をつけた。07年、長屋門の古民家診断と改修をきっかけに、専門家が集落全体を調査した結果だった。男衆の一人は、「古い家に価値があるとは知らなかった。『立派な家』に建て替える財力のないことが幸運でした」と笑う。
それから開業までの2年間、丸山の人々の行動は目覚ましかった。類は友を呼び、列挙が不可能なほど大勢の有志と団体組織が、専門知識や、出資、補助金を提供。丸山の夢とビジョンを現実にと動いた。住民は、集落を離れた人たちと共にNPO法人「集落丸山」を設立し、中間支援組織として道を共にする一般社団法人「ノオト」と、有限責任事業組合「丸山プロジェクト」を結成。所有者から空き家と農地を10年間無償で借り受け、日本の暮らしを体験する宿を作り上げた。
開業から4年。「集落丸山」は黒字経営を持続し、若者のUターンさえ始まった。一丸となって未来を切り開く丸山の人々を思うつど、国づくりかくあれと、心より願う。
【毎日新聞 2013年11月17日 東京朝刊】
・世界銀行の副総裁を務めた日本人女性/『国をつくるという仕事』西水美恵子
・古民家の宿 集落丸山【築150年の丹波篠山の宿】
・築150年の古民家と丸山集落の再生
・集落まるごと一軒の宿 「集落丸山」(丹波篠山)
特定秘密保護法案に対する白土三平の懸念
少年忍者を主人公にした漫画「ワタリ」に「死の掟(おきて)」という話が出てくる。下層の忍者たちは掟を破ると支配者から殺されてしまう。ところがその掟の中身とは何なのか、支配者以外は誰も知らないのだ▲「その掟を知らねば掟の守りようがないではござりませぬか」。忍者たちは見えない掟に恐れおののき、疑心暗鬼になり、支配者に服従するしかない。実は掟とは支配者が衆人を都合よく統制するために編み出した秘密のことで、その秘密を知った者は消されていくのだ▲ならば現代の「死の掟」となりはしないのか。国会で審議が進む特定秘密保護法案のことである。情報を行政機関だけの判断で特定秘密に指定し、その秘密の中身が何かを国民は一切知ることができない。秘密を知ろうと近づけば、場合によっては逮捕され、処罰される▲作者は「カムイ伝」「サスケ」などで知られる漫画家の白土三平(しらと・さんぺい)さん(81)。プロレタリア画家だった父や軍国主義教育を受けた自身の体験を踏まえ、権力支配の有りように鋭い批判の目を向けた作品が多い。彼の目に法案はどう映るのか▲「(特定秘密という)わからないもののために罰せられるというのは理不尽。背景にはこの法案を作り上げた精神や雰囲気のようなものがあるはずで、それが広がっていくようであれば大きな問題です」。白土さんはそう懸念する▲「ワタリ」では、忍者たちが最後に団結して支配者を捕らえ、掟の呪縛(じゅばく)から解き放たれる。「理不尽なことを押しつけてくるものに対して、我々国民の側は正当に防衛する権利を行使できるはずです」。白土さんは世論の高まりに期待する。
【「余録」/毎日新聞 2013年11月17日】
1面トップの「比台風 高潮の恐怖/ボトルにつかまり濁流に3時間」という見出しが目を惹(ひ)いた。偶然買った新聞に秀逸なコラムがあると130円の値段も安く思えてくるから不思議だ。西水美恵子〈にしみず・みえこ〉の寄稿(集落丸山について)もあってお得感は倍増した。
・ワタリ
・ワタリ
・カムイ伝と日置藩の池に住む亀の秘密=大阪W選挙の週刊誌紙爆弾
・世界銀行の副総裁を務めた日本人女性/『国をつくるという仕事』西水美恵子