2021-03-25

西暦1500年、人類は世界を知った/『火縄銃から黒船まで 江戸時代技術史』奥村正二


 ・西暦1500年、人類は世界を知った

『戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略』平川新
『時計の社会史』角山榮

必読書リスト その四

「鉄砲(ママ)記」は1543年(天文12)に種子島へ漂着したポルトガル人アントニオ・ダモア他2名が、火縄銃を伝えたときのことを記録したもので、1606年に僧南浦玄昌によって書かれたものである。この年次については異説もあるが、ここでは一応もっとも確からしい1543年としておいて、それが日本ではどんな年であったかふりかえってみよう。この年は足利幕府12代義晴の治世で、謙信と信玄が川中島で戦う年のちょうど10年前にあたる。戦国のただなかである。この新兵器の導入が、当時の社会に衝撃をあたえないはずはない。この年信長は9歳、秀吉は7歳、家康は1歳であった。

【『火縄銃から黒船まで 江戸時代技術史』奥村正二〈おくむら・しょうじ〉(岩波新書、1970年/岩波書店特装版、1993年)】

 まだ読書中なのだが、押さえておくべき歴史が出てきたので書いておこう。鉄砲伝来が1543年でキリスト教伝来が1549年であることは知っていた。ところが、なぜか私は「発見の時代」(Age of Discovery/大航海時代)の渦中とは認識していなかった。何となくヨーロッパから極東までの物理的な距離を時間的距離にまで拡大していたようだ。

 さきのポルトガル人は2年ほど後ふたたび日本を訪れるが、この頃にはもう堺や紀伊、九州で鉄砲の製造と売買が大量に行われていた。これを知ってかれらは驚嘆したという。

 刀鍛冶の技術によるものだが、もちろんそんな単純な話ではない。『時計の社会史』を参照せよ。

 コロンブスの新大陸発見が1492年、バスコ・ダ・ガマのインド航路開発が1498年、マジェラン船隊の世界周航が1519~22年。こうして世界地図の大勢が明らかになったあと、ヨーロッパ諸国によるアジア侵略の歴史が展開される。先頭に立ったのはポルトガルとスペインで、1510年ポルトガルによるゴア占領、1513年同じくマカオ進出、1541年スペインによるフィリピン占領と続き、1543年ポルトガル船の種子島来航となる。以来寛永の鎖国まで約100年の間におびただしい数の外国人が来航したが、一方日本人も御朱印船で大がかりに南方へ進出した。遠くヨーロッパへ旅したものもある。それらのうち歴史に特記されるものを摘録しよう。
 1547年(天文16)、最後の遣明船肥前の五島から出港。
 1549年(天文18)、ザビエル鹿児島へ来着。
 1582年(天正10)、大友宗麟他2名のキリシタン大名は、宣教師ワリニヤーニの斡旋により、4人の少年使節をローマへ派遣、乗船はポルトガル船インヤース・リマ号。使節は8年後に長崎帰着。
 1600年(慶長5)、オランダ船リーフデ号漂着。航海長はイギリス人ウイリアム・アダムス(日本名三浦按針)
 1609年(慶長14)、スペイン船サンフランシスコ号房総沖で難破漂着。家康は乗員中のドン・ロドリゴ・デ・ヴィヴェロ(フィリピン総督)と対メキシコ通商交渉を行う。
 1610年(慶長15)、三浦按針の指導で帆船サンベナベンツール号120トンを製作。ドン・ロドリゴを乗せ、メキシコへ送り届ける。日本人22名同行。日本船最初の太平洋横断。
 1613年(慶長18)、伊達政宗は宣教師ソテロの斡旋で、支倉常長を長とする使節団をメキシコ経由スペインへ送る。乗船は伊達藩製500トン級、乗員180人、出航(ママ)地は牡鹿半島月浦。支倉は7年後に帰国。
 こうやってふりかえってみると、鎖国前の日本が思いのほか雄大な動きをしていたことがわかる。

 西暦1500年、人類は世界を知った。欧州が凄いのは国内では魔女狩りをしながらも海に打って出たことである。

「一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を『鎖国』 (英closed country) と呼ぶ」(Wikipedia)。日本が鎖国できたのは世界最大の軍事力を擁していたためである。種子島に鉄砲が伝わっていなければ日本もアジア諸国同様、数百年間にわたって植民地とされたことだろう。

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