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2012-04-09

「異民族は皆殺しにせよ」と神は命じた/『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹


『青い空』海老沢泰久

 ・キリスト教の「愛(アガペー)」と仏教の「空(くう)」
 ・「異民族は皆殺しにせよ」と神は命じた
 ・宗教には啓典宗教とそれ以外の宗教がある

『イエス』ルドルフ・カール・ブルトマン
『世界史の新常識』文藝春秋編
『日本人のためのイスラム原論』小室直樹
目指せ“明るい教祖ライフ”!/『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世

キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?
必読書リスト その五

「歴史は勝者によって書かれる」と陳舜臣〈ちん・しゅんしん〉は喝破した(『中国五千年』1989年)。蓋(けだ)し名言である。

 中世までは文明においても学問においてもアラブ世界がリードをしていた。

 歴史をさかのぼってみよう。まず十字軍(1096-1272年)によって西洋の暴力性は噴出した。

 セルジューク朝の圧迫に苦しんだ東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスの依頼により、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世がキリスト教徒に対し、イスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけ、参加者には免償(罪の償いの免除)が与えられると宣言した。この呼びかけにこたえた騎士たちは途上、イスラム教徒支配下の都市を攻略し虐殺、レイプ、略奪を行いながらエルサレムを目指した。(第1回十字軍)

Wikipedia

 彼らは神からの免罪を勝ち取るために、別の罪を犯しながら進軍したのだ。この病根は今もなお西洋を支配している。根っこにあるのは「神という被害妄想」であろう。

 ところが十字軍は9回に渡って遠征が繰り返されているが、明らかな勝利を収めたのは第1回だけであった。ざまあみやがれってえんだ。

 当時、アジアからは大モンゴル帝国の蹄(ひづめ)が高らかに鳴り響いていた。圧倒的な武力を誇るモンゴルはヨーロッパ世界にまで辿りつく。(Wikipediaのgif画像を参照せよ)

 西洋は八方塞(ふさ)がりであった。これを打開したのが大航海時代(15-17世紀)である。以下に三つのテキストを紹介する。

 しかも、毎年毎年同水準の生活や産業を維持してゆくだけなら、同じ規模の土地を「エンクロージャー(囲いこみ)」して守っていけばいいが、その水準をあげてゆくためには、土地の規模を拡大していかなければならない。かくして、北フランスやイギリスなどの石の風土に成立した牧畜業は、不断に新しい土地(テリトリー)を外に拡大する動きを生む。これが、いわゆるフロンティア運動を生み、アメリカやアフリカやアジアでの植民地獲得競争(テリトリー・ゲーム)を激化させるのである。
 つまり、西欧に成立し、ひいてはアメリカにおいて加速されるフロンティア・スピリットは、本来、牧畜を主産業とするヨーロッパ近代文明の本質を「外に進出する力」としたわけである。これは、ヨーロッパ文明に先立つ、15~16世紀のスペイン、ポルトガルが主導したキリスト教文明、いわゆる大航海時代の外への進出と若干その本質を異にする。
 いわゆる大航海時代の外への進出は、17世紀からのイギリスやオランダやフランスが主導した、国民国家(ネーション・ステイト)によるテリトリー・ゲームとは若干違う。大航海時代というのは、キリスト教文明の拡大、つまり各国の国王が王朝の富を拡大するとともに、その富を神に献ずる、つまり「富を天国に積む」ことを企てるものであった。

【『砂の文明・石の文明・泥の文明』松本健一(PHP新書、2003年)】



 ベルは、近代の終焉についても述べている。彼によると、近代の特徴は「超越(beyound)」にある。しかし、ポスト・モダーンは「限度(limit)」である。確かに、近代がルネサンス、宗教改革、大航海時代から始まるとすると、その特徴は「超越すること」にあった。近代の原理は「無限への衝動」であり、「ファウスト的衝動」とも呼ばれる「もっと、もっと」の精神によって営まれてきたのである。言い換えれば、「無制限の無条件の顧みるところなき」衝動によって駆動されてきたのが、近代の特徴であった。(訳者解説)

【『二十世紀文化の散歩道』ダニエル・ベル:正慶孝〈しょうけい・たかし〉訳(ダイヤモンド社、1990年)】



 モンゴル帝国の弱点は、それが大陸帝国であることにあった。陸上輸送のコストは、水上輸送に比べてはるかに大きく、その差は遠距離になればなるほど大きくなる。その点、海洋帝国は、港を要所要所に確保するだけで、陸軍に比べて小さな海軍力で航路の制海権を維持し、大量の物資を低いコストで短時間に輸送して、貿易を営んで大きな利益を上げることが出来る。これがモンゴル帝国の外側に残った諸国によって、いわゆる大航海時代が始まる原因であった。

【『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘(ちくまライブラリー、1992年/ちくま文庫、1998年)】

 すなわち陸路を阻まれた西洋世界は行き場を失った格好で海へ飛び出したわけだ。船を出すからには金がかかる。また航海で命を失うリスクもある。一方、新天地に辿りつけば香辛料などを獲得できる可能性がある。こうした利益とリスクをバランスすることで共同資本という概念が生まれた。ここに株式会社の起源がある。

資本主義経済の最初の担い手は投機家だった/『投機学入門 市場経済の「偶然」と「必然」を計算する』山崎和邦

 ヨーロッパ人は新天地で何を行ったのか?

 15世紀から17世紀後半にかけての大航海時代、コロンブス(イタリアの航海者。1451頃~1506)やマゼラン(ポルトガルの探検家。1480頃~1521)が未知の国へ向けて航海した。そこで新大陸に上陸した彼らは一体何をしたか。
 正解は、罪もない現地人の鏖(みなごろし)! 大虐殺である。別に住民たちがこぞってこの侵入者たちを襲ったわけでもないのに。何と酷いことをするのだ、と怒ってみても詮(せん)はない。侵入者たちのほうからすれば、キリスト教の教義(おしえ)に従って異教徒を殺したまでなので、後ろめたさなどあろうはずもないのだ。

【『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹(徳間書店、2000年)以下同】

 彼らは貴重な食料や資源の獲得とともに、キリスト教を宣教することを目的としていた。思想的侵略といってよい。神の僕(しもべ)は神の代理人でもあった。

 小室直樹はヨーロッパ人の暴力性を一文で解き明かす。

 その答えは『旧約聖書』の「ヨシュア記」を読むとわかる。(中略)
「ヨシュア記」にこそ〈宗教の秘密〉は隠されているのだ。
 神はイスラエルの民にカナンの地を約束した。ところが、イスラエルの民がしばらくエジプトにいるうちに、カナンの地は異民族に占領されていた。そこで、「主(神)はせっかく地を約束してくださいましたけれども、そこには異民族がおります」といった。すると神はどう答えたか。「異民族は皆殺しにせよ」と、こういったのだ。
 神の命令は絶対である。絶対に正しい。
 となれば、異民族は鏖(みなごろし)にしなくてはならない。殺し残したら、それは神の命令に背いたことになる。それは罪だ。
 したがって、「ヨシュア記」を読むと、大人も子供も、女も男も、一人残さず殺したという件(くだり)がやたらと出てくる。(中略)
 異教徒の虐殺に次ぐ大虐殺、それは神の命令なのである。

 長らく抱えてきた西洋世界への疑問が氷解した。モンゴルと中東からの圧力から解放されたヨーロッパ人は、アメリカでインディアンを虐殺し、国内では魔女狩りを行っていた。

侵略者コロンブスの悪意/『わが魂を聖地に埋めよ アメリカ・インディアン闘争史』ディー・ブラウン
「コロンブスの新大陸発見は先住民虐殺の始まり」、チリ先住民が抗議デモ
魔女は生木でゆっくりと焼かれた/『魔女狩り』森島恒雄
「欧米人が仕掛ける罠」武田邦彦、高山正之

 更に小室は驚くべき指摘をする。

「隣人にかぎりなき奉仕をする人」が、同時に大虐殺を行っても矛盾ではない。両方とも神の命令であるからである。

 つまりヨーロッパ人が虐殺と慈善活動を同時に行うことには合理性があるのだ。「理」とは東洋の道理とは異なり、この世界を創造した神の摂理を意味する。

 信仰とはただ神を仰いで神の言葉に従うことだ。厳密にいえば仏教の信心とは異なる。まず西洋と東洋の言葉の溝を理解することが重要だ。それゆえ西洋世界の信仰とは教条主義(ドグマティズム)となる。

 日本語の「絶対」は副詞として使われることが多く、「どうしても、なにがなんでも、必ず、決して」(Weblio 辞書)との意味合いである。だが西洋の絶対は違う。絶対とは動かし得ない座標軸である神を意味するのだ。

 であるからして天動説が地動説にとって変わろうとも、神だけは不動の位置を占めている――などと説明を試みる私の文章もまだまだ甘い。「神が絶対」なのではなく「絶対とは神のこと」なのだ。

 神という絶対の前に自分が存在する。これが「個人」である。「個人」とは翻訳語であって明治以前の日本に「個人」という概念は存在しなかったと考えてよい。柳父章〈やなぶ・あきら〉は「個人ではなく身分としての存在」であったと指摘している。

 そして神という絶対性に対置するところに自我が立ち現れるのだ。キリスト教の自我と仏教の我も異なる。自我は存在性で、我は当体・主体を意味する。自己実現病に取りつかれている人々が増えているのは、キリスト教文明による害毒であると思えてならない。

 絶対の前では自我が揺らぐ。自我は絶対ではないからだ。それゆえ確実な存在性を示すためにデカルトは考え続けた――「我思う、ゆえに我あり」。あいつが思っていたのは神様のことだ。生きている間の存在証明はできたとしても、死を前にしては無力な哲学だ。やつらの死後は神に祝福されることが約束されているから、死と取り組む必要もなかったのだろう。

 神という絶対性が人間を言葉の奴隷にした。そしてヨーロッパ人は殺戮(さつりく)の限りを尽くした。一方ブッダは存在=我を打ち破り、諸法無我と悟った。時間軸においては諸行無常である。これが「空」(くう)の思想だ。神は点であるが、空はあらゆる次元へと広がっている。

川はどこにあるのか?

 世界を平和にするためには神に死んでもらう他ない。本気でそう思う。



虐殺者コロンブス/『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史』ハワード ジン、レベッカ・ステフォフ編
エンリケ航海王子
ナット・ターナーと鹿野武一の共通点/『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン
戦争まみれのヨーロッパ史/『戦争と資本主義』ヴェルナー・ゾンバルト
ポルトガル人の奴隷売買に激怒した豊臣秀吉/『人種差別から読み解く大東亜戦争』岩田温

2012-04-03

第七番目の方角/『それでもあなたの道を行け インディアンが語るナチュラル・ウィズダム』ジョセフ・ブルチャック


 私の大好きな話に「第七番目の方角」というのがある。私はこれを、現代ラコタ族のすぐれた伝承の語り手である、ケヴィン・ロックから教えてもらった。それはこういう話だ。
「グレート・スピリットであるワカンタンカ(※スー族の崇める大精霊「ワカンタンカ〈ワカン=神秘、タンカ=大いなる〉」)は、六つの方角を決めた。すなわち、東、南、西、北、上、下である。しかし、まだひとつだけ、決められていない方角が残されていた。この七番目の方角は、すべてのなかでもっとも力にあふれ、もっとも偉大な知恵と強さを秘めている方角だったので、グレート・スピリットであるワカンタンカは、それをどこか簡単には見つからない場所に置こうと考えた。そしてとうとうそれは、人間がものを探すときにいちばん最後になって気がつく場所に隠されることになった。それがどこであったかというと、ひとりひとりの心のなかだったという話だ」(はじめに)

【『それでもあなたの道を行け インディアンが語るナチュラル・ウィズダム』ジョセフ・ブルチャック:中沢新一、石川雄午訳〈いしかわ・ゆうご〉(めるくまーる、1998年)】

 表紙の顔に眼が釘付けとなった。インディアンの若者は真っ直ぐに私を見つめていた。世に直線が存在するのであれば、彼の視線こそは正しく直線であった。双眸(そうぼう)は清らかな光を発し、顎(あご)のラインが力強い意志を感じさせる。気高き香りが濃厚さを伴って漂ってくるようだ。

navajo-boy

 インディアンの風貌はそれ自体が詩であり音楽でもある。彼らは「人間の顔」を持っている。我々の弛緩(しかん)し、のっぺりした顔とは大違いだ。真っ当な生活、そして正しい感情が表情を彫琢(ちょうたく)するのだろう。

「第七番目の方角」は「内なる方向」であった。座標軸ではなく方向という指摘が重い。つまり特異点ではなく、その向こう側の領域なのだ。インディアン仏法における生死不二(しょうじふに)といってよい。

 人々を覚醒させる真理を私は仏法と呼ぶ。特定の教団へ誘(いざな)い、他勢力と競い争う言説は、商用レベルのプロパガンダであって仏法ではない。むしろ政治的言説といってよかろう。彼らは真理ではなく集団力学に支配されている。

 第七の道を行く人は、澄み切った湖面のような厳粛なる静けさを湛(たた)えている。彼らは言葉で語らない。目で語るがゆえに。これを白毫相(びゃくごうそう)という。

それでもあなたの道を行け―インディアンが語るナチュラル・ウィズダム

2012-03-10

「欧米人が仕掛ける罠」武田邦彦、高山正之


白人は人間ではない サンデル教授の欺瞞

 ノーベル平和賞の策略/エノラ・ゲイがスミソニアン博物館に展示されている意味/文化の陰謀/『猿の惑星』の猿は日本人だった/シー・シェパードの日本人攻撃は寄付金集めが目的/ハッブル宇宙望遠鏡は潤滑油にマッコウクジラの油を使っている







変見自在 サダム・フセインは偉かった (新潮文庫)変見自在 偉人リンカーンは奴隷好き変見自在 オバマ大統領は黒人か変見自在 スーチー女史は善人か

対談 武田邦彦×岩上安身
「異民族は皆殺しにせよ」と神は命じた/『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
人生の鱗・科学者の目 私に何がいるのだろう?:武田邦彦
黒船ペリーが開国を迫ったのは捕鯨船の補給地を確保するためだった
コロンブスによる「人間」の発見/『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世
バルトロメ・デ・ラス・カサス
凌遅刑
カーチス・ルメイ
ロバート・オッペンハイマー
「アメリカのフロンティアと使命感」武田邦彦
キリシタン4000人の殉教/『殉教 日本人は何を信仰したか』山本博文
KONY 2012/ジョゼフ・コニー逮捕キャンペーン

インディアスの破壊についての簡潔な報告 (岩波文庫)ラス=カサス (Century Books―人と思想)インディアス史(7冊セット) (岩波文庫)

2012-02-10

インディアンの羽


Native American Feathers


 逆光というアイディアが見事。太陽の下を飛ぶ鳥を見上げるような気分となる。

2012-02-06

アニミズムという物語性の復権/『ネイティヴ・アメリカンの教え』写真=エドワード・S・カーティス


 昨日、色々と調べたところ「ネイティブ・アメリカン」なる言葉が政治用語であることを知った。

 全米最大のインディアン権利団体「AIM(アメリカインディアン運動)」は「ネイティブ・アメリカン」の呼称を、「アメリカ合衆国の囚人としての先住民を示す政治用語である」と批判表明している。

Wikipedia



言い換えに対する議論

 近年、日本のマスコミ・メディアにも見られる、故意に「インディアン」を「ネイティブ・アメリカン」、「アメリカ先住民」と言いかえる行為は、下項にあるように「インディアンという民族」を故意に無視する行いであり、民族浄化に加担している恐れがある。
 この呼び替え自体はそもそも1960年代の公民権運動の高まりを受けて、アメリカ内務省の出先機関である「BIA(インディアン管理局)」が使い始めた用語で、インディアン側から出てきた用語ではない。
 この単語は、インディアンのみならず、アラスカ先住民やハワイ先住民など、アメリカ国内の先住民すべてを指す意味があり、固有の民族名ではない。 
 また、「ネイティブ・アメリカン」という呼称そのものには、アメリカで生まれ育った移民の子孫(コーカソイド・ネグロイド・アジア系民族など)をも意味するのではないかという議論もある。

【同】

 というわけで本ブログも「アメリカ先住民」から「インディアン」へとカテゴリー名を変更した次第である。差別問題はかように難しい。わたしゃ、「インディアン」の方が差別用語だと思い込んでいたよ。

Before the storm -1906

 インディアンの思想はアニミズムである。精霊信仰だ。我々日本人にとっては馴染み深い考え方である。神社には必ずといっていいほど御神木(ごしんぼく)が存在する。

 科学的検証は措(お)く。人間社会は物語性がなければ枠組みを保つことができない。そしてグローバルスタンダードの波は、キリスト教世界――より具体的にはアングロサクソン人――から起こってアジアの岸辺を洗う。問題はキリスト教だ。

 キリスト教は人間を「神の僕(しもべ)」として扱い奴隷化する。そして神の代理人を自認するアングロサクソン人が有色人種を奴隷化することは自然の流れだ。例えばスポーツにおける審判に始まり、裁判、社外取締役などは明らかに神の影響が窺える。

 ヨーロッパはまだ穏やかだが、アメリカのキリスト教原理主義は目を覆いたくなるほど酷い。元々、ファンダメンタルズ(原理主義、原典主義/神学用語では根本主義)という言葉はプロテスタントに由来している。それがいつしかイスラム過激派を詰(なじ)る言葉として流通するようになったのだ。

 キリスト教世界は十字軍~魔女狩りと、神の命令の下(もと)で大虐殺を遂行してきた。魔女狩りを終焉させたのが大覚醒であったとする私の持論が確かであれば、虐殺の衝動はヨーロッパからアメリカへ移動したと見ることができる。

何が魔女狩りを終わらせたのか?

 つまり近代史の功罪はアメリカ建国の歴史を調べることによって可能となる、というのが私のスタンスである。

Edward S. Curtis - Red Hawk at an Oasis in the Badlands (1905)

 アングロサクソン人はアメリカ大陸に渡り、虐殺の限りを尽くした。インディアンは間もなく壊滅状態となった。なぜか? それはあまりにもインディアンが平和主義者であったためだ。人を疑うことを知らない彼らはアルコールを与えられ、酔っ払った状態で土地売買の契約書にサインをさせられた。文字を持たないインディアンはひとたまりもなかった。

 アングロサクソン人が葬ったインディアン。彼らの思想に再び息を吹き込み、その物語性を復興させることが、キリスト教価値観に対抗する唯一の方途であると私は考える。

安田喜憲

 われらは教会をもたなかった。
 宗教組織をもたなかった。
 安息日も、祭日もない。
 われらには信仰があった。
 ときに部族のみなで集(つど)い、うたい、祈った。
 数人のこともあった。
 わずか2~3名のこともあった。
 われらの歌に言葉は少ない。
 それは日ごろの言葉ではない。
 ときとして歌い手は、音調を変えて、
 思うままに祈りの言葉をうたった。
 みなで沈黙のまま祈ることもある。
 声高に祈ることもある。
 年老いたものが、ほかのみなのために祈ることもある。
 ときにはひとりが立ち上がり、
 みなが互いのために行なうべきことを
 ウセン(※アパッチ族における創造主。大いなる霊)のために行なうべきことを、語ることもあった。
 われらの礼拝は短かった。

  チリカワ・アパッチ族 酋長
  ジェロニモ(ゴヤスレイ)〈1829-1909〉

【『ネイティヴ・アメリカンの教え』写真=エドワード・S・カーティス:井上篤夫訳(ランダムハウス講談社文庫、2007年)以下同】

Tributo a Gerónimo (1829-1909)

Geronimo

Geronimo by Edward S. Curtis

ジェロニモ
『ヒトデはクモよりなぜ強い 21世紀はリーダーなき組織が勝つ』オリ・ブラフマン、ロッド・A・ベックストローム

 原始のよりよき宗教性が脈動している。宗教コミュニティはタブーを共有するところに目的がある。タブーを様式化したものが戒律だ。ところがインディアンの信仰には断罪的要素が少ない。このあたりも研究に値すると思われる。

 そして私が注目するのは「祈り」が願望を意味していない事実である。既成宗教なかんずく新興宗教は人々の欲望をくすぐり、財布の紐を緩くさせようとあの手この手で勧誘をする。あの世をもって脅し、この世の春を謳歌するのは教団のみだ。

 インディアンの信仰はコミュニケーションを闊達なものにしていることがわかる。真の祈りは、願いとも誓いとも無縁なものであろう。聖なるものに頭(こうべ)を垂れ沈黙に浸(ひた)るところに祈りの本義があると私は考える。

Edward S. Curtis.  Dancing to restore an eclipsed moon - Qagyuhl (The North American Indian; v.10)

 インディアンが羽根飾りを身につけているのは、
 大空の翼の親族だからだ。

 オグララ・スー族 聖者
 ブラック・エルク〈1863-1950〉

Edward S Curtis_1905_Dakota-Sioux-Man_Stinking Bear

 インディアンは誇り高い。彼らは「神と共に在る者」だ。彼らの言葉は具体性に満ちながらも高い抽象度を維持する。形而下と形而上を自在に往来する響きが溢れる。

 わたしは貧しく、そのうえ裸だ。
 だが、わたしは一族の酋長だ。
 富を欲しいとは思わないが
 子どもたちを正しく育てたいと思っている。
 富はわれらによいものをもたらさない。
 向こうの世界にもっていくことはできない。
 われらは富を欲しない。
 平和と愛を欲している。

 オグララ・スー族 酋長
 レッド・クラウド(マクピヤ=ルータ)〈19世紀後半〉

1904 - Yebichai War Gods - Edward S. Curtis - Photogravure - Past Present Gallery

「富よりも平和を」――我々が完全に見失った価値観である。富は社会をズタズタにする。富は人間をして暗い道へと引きずり込む。富は光り輝き、社会に影を落とす。

 古きインディアンの教えにおいて
 大地に生えているものはなんであれ
 引きぬくことはよくないとされている。
 切りとるのはよい、だが、根こそぎにしてはならない。
 木にも、草にも、魂がある。
 よきインディアンは、大地に生えているものを
 なんであれ引きぬくとき、悲しみをもって行なう。
 ぜひにも必要なのだと、許しを請(こ)う祈りを捧げながら。

 シャイアン族
 ウッデン・レッグ〈19世紀後半〉

 持続可能性のモデルがここにある。

世界中でもっとも成功した社会は「原始的な社会」/『人間の境界はどこにあるのだろう?』フェリペ・フェルナンデス=アルメスト

 変化の激しい社会は変化によって滅ぶ。

 それにしても彼らの相貌は力強い線で描かれたデッサンのような趣がある。眼光から穏やかな凛々しさを発している。

 インディアンの言葉を編んだ本はいずれも散慢なものが多い。それでも開く価値はある。人間が放つ光は神にもひけを取らない。彼らの英知と悟性が21世紀を照らしてくれることだろう。

Native American Edward Curtis Slow Bull's Wife

Swallow Bird-Apsaroke

Sigesh-Apache

2011-10-12

「コロンブスの新大陸発見は先住民虐殺の始まり」、チリ先住民が抗議デモ


 1492年のクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)による新大陸発見から519年目となる12日を前に、南米チリの首都サンティアゴ(Santiago)で10日、マプーチェ人を中心とする先住民らが、新大陸発見とこれに続くスペイン人征服者らによる先住民虐殺に抗議するデモ行進を行った。
 市当局などによるとデモ行進は比較的平穏に行われたが、一部で数十人の若者と警官隊が衝突し、警官隊が催涙弾や放水銃を用いて18人の身柄を拘束した。
 マプーチェ人のリーダーIsolina Paillal氏は、コロンブスの到来は南北米大陸の先住民にとって「虐殺の始まり」だったと述べるとともに、現在のチリ政府はマプーチェを「飾り物」としてか認識していないと批判した。
 このデモは毎年行われている。チリ南部に居住するマプーチェ人は同国最大の先住民族集団で、約1700万人のチリ国民の約6%を占める。

AFP 2011-10-11

「異民族は皆殺しにせよ」と神は命じた/『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹