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2014-04-30

ギャンブラーという生き方/『賭けるゆえに我あり』森巣博


天才博徒の悟り/『無境界の人』森巣博

 ・ギャンブラーという生き方
 ・プロ野球界の腐敗

『福本伸行 人生を逆転する名言集 覚醒と不屈の言葉たち』福本伸行著、橋富政彦編
『福本伸行 人生を逆転する名言集 2 迷妄と矜持の言葉たち』福本伸行著、橋富政彦編
『真剣師 小池重明 “新宿の殺し屋"と呼ばれた将棋ギャンブラーの生涯』団鬼六

 ギャンブル欲は、食欲・性欲・睡眠欲という人間の三大本能を凌駕(りょうが)する、といわれる。そうかもしれない。カシノのゲーム・フロアでは、寝食も忘れ、勝負卓に張り付いている亡者(もうじゃ)たちをよく見掛ける。
 わたしの知り合いは、月に一度、必ずラスヴェガスに行く。眠るのは、いつも往(い)き帰りの飛行機の中だけだそうだ。
「無泊四日で勝負する。一応なんか喰(く)ってるんだろうが、記憶にない」
 なんておっしゃる。
 それほど、博奕は面白い。集中できる。飽きない。
 逆に言えば、それほど、博奕は怖い。いや、怖いから面白くて集中できるのである。
 恐怖と快楽は、いつも背中合わせだ。

【『賭けるゆえに我あり』森巣博〈もりす・ひろし〉(徳間書店、2009年/扶桑社、2015年)以下同】

 名言が星の如く散りばめられている。森巣の奥方はオーストラリア国立大学教授のテッサ・モリス=スズキ。子息は15歳で大学へ入学し、18歳で大学院入りした天才児。で、本人は主夫業のかたわら世界各地のカジノ(※森巣は「カシノ」と表記)を飛び回って荒稼ぎしている。

 修羅場とはギリギリの選択を迫られる地点のことだ。それが商売であろうと博奕であろうとも。選択を誤った時に失うものが多ければ多いほど「賭ける」という要素が大きくなる。賭けるとは跳ぶことだ。達することができなければ奈落の底に転落する。

 臆病じゃないと、博奕で生き残れない。同時に、リスクを冒さないと、やっぱり死んでしまう。
 ――リスクを冒さないのは、最大のリスク。
 この矛盾の海の中で、浮いたり沈んだりしながら、顔が水面上に出た時に勝負卓を離れる。これが勝ち博奕だ。

 豪胆と臆病のバランスが生き死にを分ける。喧嘩と格闘技の違いは計算にある。これが孫子の「計篇」だ(『新訂 孫子』金谷治訳注)。臆病でなければリスクが見えない。見えないものは計れない。

 時に権力に対して鋭い一瞥をくれる。

 しかし人間は賭博をする。これは太古の昔からそうだ。博奕は人間の歴史とともに古いのではない。歴史以前からである。博奕は先史から存在した。
 ――賭けをする動物が人間である。
 と、19世紀のイギリスの作家は喝破(かっぱ)した。
 それゆえ、昔も今も法律で賭博を禁止しておけば、取り締まり当局には膨大な利権が転がり込むことになっている。
 ついでだから書いておくけれど、パチンコで勝ち、景品交換所で「特殊景品」を換金したなら、『刑法』賭博罪違反である。それが「黙許」されているのは、警察利権が絡むからなのだ。パチンコ台の許認可、プリペイド・カード、「特殊景品」金地金の製造および流通、景品交換所等のあらゆる部分で、警察関連企業に金が流れる仕組みとなっている。

「パチスロ」は新しい利権だった/『警官汚職』読売新聞大阪社会部

 読み物としては十分面白いのだが、唯一の瑕疵(かし)は年甲斐もなく下ネタ自慢を披瀝しているところ。下劣の自覚よりも自慢に酔う性根が透けて見える。

 最後にもうひとつ紹介しよう。

 このバカラという鬼畜のゲームには、語り継がれているエピソードが多い。
 もっとも有名なのは、自動車のシトロエン社のオーナーだったアンドレ・シトロエンが、当時としては先端技術を集めた最新の自動車工場をバカラの一手勝負で失ったエピソードだと思う。現在の貨幣価値に換算すると1000億円を超えるものを、わずか数十秒の勝負で、シトロエンは失ってしまった。
 場所はロンドンにあるクラブ形式のカシノだったが、もちろんこんな高額の一手勝負を受けるハウス(カシノ)は、世界中に存在しない。この時のシトロエンには、相手が居た。サシの勝負だったのである。
 相手の名を、ニコラ・ゾグラフォリスという。あだ名が「ニック・ザ・グリーク」。その名からわかるように、アテネ生まれのギリシャ人だ。ついでだが「ニック・ザ・グリーク」とのあだ名を持った著名な博奕打ちは歴史上二人居て、こっちはポーカー・プレイヤーじゃない方の「ニック・ザ・グリーク」である。この「ニック・ザ・グリーク」は、350枚までのカードなら、出た順序に従って記憶できたそうだ。そういった、伝説の博奕打ちである。
 そんな天才博奕打ちでも、「ニック・ザ・グリーク」はその生涯に、天国と地獄の間を73回往復したといわれた。
 バカラとは、そういう恐ろしいゲームである。

 平坦な道を歩む人生もあれば、屹(き)り立った山に挑む人生もある。私自身はギャンブルとは無縁だが賭ける行為は理解できる。尚、森巣が行うギャンブルは手数料が数パーセントの世界であって、日本の競馬・競艇・パチンコの類いをギャンブルとはいわない。

賭けるゆえに我あり(森巣博ギャンブル叢書2)

2014-04-10

浪花千栄子の美しい言葉づかい/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅、井上ひさし、安野光雅、池内紀編


 ・落語とは
 ・浪花千栄子の美しい言葉づかい
 ・死の恐怖

浪花●だんだんバタのにおいがプンプンしてくる世のなかになってまいりましたけど、あたくしなんか、ドブヅケ(ぬかみそづけ)のにおいがプンプンいたしますんでございます。まだドブヅケたべてくれはりますあいだは、つづけていかれるやろおもてますけど、そのうち、ドブヅケはすみへすみへ追いやられてしまうことになりまっしゃろうと思いましてね、心ぼそいかぎりでございますねん。

【対談 浪花千栄子〈なにわ・ちえこ〉・徳川夢声〈とくがわ・むせい〉/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅〈もり・つよし〉、井上ひさし、安野光雅〈あんの・みつまさ〉、池内紀〈いけうち・おさむ〉編(筑摩書房、1990年/ちくま文庫、2011年)】

 浪花千栄子は8歳の時から奉公に出され、教育を受けることができなかった。苦労しながら独学で読み書きを学んだ。美しい大阪弁を話すことで知られる女優と思っていたところ、正確には船場言葉というそうだ(大阪弁完全マスター)。私と同世代であっても浪花千栄子を知る人は少ない。でも「オロナイン軟膏の看板」は殆どの人が知っているはずだ。


 浪花の本名は南口〈なんこう〉キクノという。ここから「軟膏効くの」に因(ちな)んで起用された。

 バタとはバターのこと。確かバルザック著『「絶対」の探求』にも「バタ」という表記があったように思う。今でも「バタ臭い」という言葉で残っている。

 文字を読めなかったがゆえに言葉を大切にした人なのだろう。それにも増して人を大切にしてきたのだろう。言葉づかいは作法というよりも流儀である。その美しい心に思いを馳せる。

ちくま哲学の森 1 生きる技術

筑摩書房
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2014-04-09

落語とは/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅、井上ひさし、安野光雅、池内紀編


・落語とは
浪花千栄子の美しい言葉づかい
死の恐怖

「こんど地所を買いましてね……」
 と、いかにも得意そうにいうやつが、あたしの仲間にいた。
 そもそも噺家(はなしか)てえものは、地所なんぞ買うという了簡(りょうけん)がまちがっている。噺家は地所なんか買わないで、地所をもっている人の長屋にすまっているもんだ。音羽屋(おとわや)がいったように、噺家はゼニがなくておもしろいよ、というところから噺になるんですよ。
 噺家が地所を買って長屋をたて、その長屋に人を住まわせたんじゃ、噺家てえものの味わいというものがなくなっちまう。ゼニのないところがおもしろい、ゼニがなくて貧乏(びんぼう)しているというところに、おかしみというものが浮(う)きでてくるんです。

【「空気草履」古今亭志ん生/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅〈もり・つよし〉、井上ひさし、安野光雅〈あんの・みつまさ〉、池内紀〈いけうち・おさむ〉編(筑摩書房、1990年/ちくま文庫、2011年)以下同】

 アンソロジーである。安野と池内の名前が目を引いた。冒頭に志ん生を持ってくるあたりが侮れない。他には斎藤隆介、浪花千栄子〈なにわ・ちえこ〉、W・サローヤンが面白かった。全体的にはまとまりを欠いた印象が強い。

 昭和の落語界を代表する人物だが実は遅咲きであった。40代でぼちぼち、50代で人気を博した。芸は磨くのに時間がかかる。昨今の「一発当てた」お笑いタレントを芸人とは言わない。

 しかし、もともと落語てえものは、おもしろいというものじゃなくて、粋(すい)なもの、【おつ】なものなんですよ。
 それが今では、落語てえものは、おもしろいもの、おかしいものということを人々がみんな頭においているんですが、元来そんなもんじゃないんですナ。

 志ん生が放つ言葉は一つひとつが立っている。私はどちらかというと落語よりも志ん生の江戸弁に耳を傾ける。キレのよいべらんめえ調、女言葉のイントネーション、そして端唄(はうた)。

 現代は豊かな言葉の響きを失った時代である。コンクリートやマイクなどが言葉の響きを不要としたのかもしれぬ。テレビが行き渡るようになってから方言も少なくなってきたように感じる。

 言葉が響かないのは身体を震わせないためだ。体格はよくなっても思いが弱まり、気持ちが小さくなっている。大太鼓を割り箸で叩くような状態だろう。声に生命の響きが表れる。生きることそのものにもっと貪欲であっていい。

ちくま哲学の森 1 生きる技術



2014-03-22

余は極て悠久なり/『一年有半・続一年有半』中江兆民


 余一日(いちじつ)堀内を訪(と)ひ、あらかじめ諱(い)むことなく明言してくれんことを請(こ)ひ、因(よつ)てこれよりいよいよ臨終(りんじゅう)に至るまではなほ幾何日月(いくばくじつげつ)あるべきを問(と)ふ。即ちこの間(あいだ)に為すべき事とまた楽むべき事とあるが故に、一日(いちじつ)たりとも多く利用せんと欲するが故に、かく問ふて今後の心得(こころえ)を為さんと思へり。堀内医(ほりうちい)は極(きわ)めて無害(むがい)の長者(ちょうじゃ)なり、、沈思(ちんし)二、三分にして極めて言ひ悪(に)くそふに曰(いわ)く、一年半、善(よ)く養生(ようじょう)すれば二年を保(ほ)すべしと。余曰く、余は高々(たかだか)五、六ケ月ならんと思ひしに、一年とは余のためには寿命(じゅみょう)の豊年(ほうねん)なりと。この書題(だい)して一年有半(ゆうはん)といふはこれがためなり。
 一年半、諸君は短促(たんそく)なりといはん、余は極(きわめ)て悠久(ゆうきゆう)なりといふ。もし短(たん)といはんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり、百年も短なり。それ生時(せいじ)限りありて死後限りなし、限りあるを以て限りなきに比(ひ)す短にはあらざるなり、始(はじめ)よりなきなり。もし為(な)すありてかつ楽(たのし)むにおいては、一年半これ優(ゆう)に利用するに足らずや、ああいはゆる一年半も無なり、五十年百年も無なり、即ち我儕(わがせい)はこれ虚無海上一虚舟(きょむじょうかいじょういちきょしゅう)。

【『一年有半・続一年有半』中江兆民〈なかえ・ちょうみん〉:井田進也〈いだ・しんや〉校注(博文館、1901年/岩波文庫、1995年)

 中江兆民自由民権運動に理論的な魂を打ち込み、「東洋のルソー」と称された人物である。

 現在を十全に生きようとする態度がセネカと完全に一致している(『人生の短さについて』セネカ)。「いついつまでにこれこれを成し遂げる」という生き方だと途中で死ぬことを避けられない。人生に目的があるとすれば、生そのものが二義的になってしまう。生きることそれ自体が人生の目的であり意味でありすべてである。であるならば、生を常に花の如く咲かせるべきだろう。


 自由民権運動について何も知らなかったので少々調べてみた。

 従来の戦後歴史学では、民権派=民権論、政府=国権論として捉えられてきた。近年、高知大学教授の田村安興らの研究(※『ナショナリズムと自由民権』)によって、土佐の民権派においても国権は前提であったことが示されている。田村の研究によって、従来、自由民権運動は初期の民権論から後に国権論へ転向していったと説明されてきたことが誤りとなった。事実、板垣らは征韓論を主張したのであり、政党名も「愛国公党」であった。また植木枝盛・中江兆民なども、皇国思想や天皇親政を公的に批判したことが一度もない。その理由として、田村は自由民権運動が国学以来の系譜の延長線上にあるからとしている。

【自由民権運動→民権論と国権論:Wikipedia

 飽くまでも国民的な国家意識の芽生えにおける平等主義と見てよかろう。自由民権運動と戦前の新興宗教の結びつきが気になったのだが有益な情報を発見できず。たぶん国家主義は太平洋戦争まで続いたことだろう。すると革命意識を有したのは共産主義者のみか。

 新しい理論が世の常識を変える。だがそれはまた古い常識と化し、手垢(てあか)にまみれる。社会改革はどこまで行ってもキリがない。ここにこそ宗教性の必要があるわけだが、宗教もまた組織化することで世俗化を免れない。ブッダとクリシュナムルティを思えば、正真正銘の巨人は2000年に一人しか登場しないようだ。

一年有半・続一年有半 (岩波文庫)

2014-03-20

誤解、曲解、奇々怪々


 楽しいエッセイを読んだ。以下に一部を引用する。

 大学に入学した頃、学生運動はなかなりし時代とあって、学内でアジ演説を聴く機会が多かった。演説の中で「味噌ひき労働者」という言葉がよく出てきた。「我々学生は味噌ひき労働者と連携して云々(うんぬん)」。零細企業で働く虐げられた労働者と手をたずさえてというほどの意味だろうと推測した。石臼で味噌豆をひく働きづめの老女の姿を思い浮かべ、含蓄のある言葉だなあと一人感じ入ったものである。その後何かの折に都会地出身の友人に話したところ、怪訝(けげん)な顔で「未組織労働者ではないのか」と言われ、驚くやら恥ずかしいやら。我が田舎では「ひ」と「し」の区別もあやしかったのである。

【あすへの話題:「味噌ひき労働者」元宮内庁長官・羽毛田信吾〈はけた・しんご〉/日本経済新聞 2014年3月19日付夕刊】

 聞き間違いが想像力を刺激し具体的な物語を生む。楽しいだけではない。行間には左派学生と一線を画したことまで滲(にじ)ませている。羽毛田は山口県出身のようだ。エッセイ冒頭では「ぞ」を「ど」と発音することも紹介されている。

 不意に昔の記憶が蘇った。勤め人をしていた頃、私は勤務中の空いた時間を使って事務所の周りに花壇をつくった。確か四つほどつくったはずだ。勢いあまって10本ほどの枝垂れ桃と数本のムクゲも植えた。花や木は私の相方を務める事務のオバサンが自宅から持ってきてくれた。このオバサンから花のことを随分教わった。

 ある日のこと、見慣れない花があったので私は尋ねた。「これ、何ていう花なの?」と。すかさず「おだまり!」と返ってきた。3秒ほど沈黙を保った。「で、何ていう名前なの?」「おだまり!」。私は困惑した。そして「花の名前くらい教えてくれたっていいだろうが!」と気色ばんだ。「だから、コデマリって二度も言ったでしょ!」。

 私の場合は聞き間違いから怒りの物語が生まれたわけだが、いずれにしても物語は「情報の受け手」が作成しているところに注目したい。つまり物語とは情報処理の異名なのだ。そこに誤解や曲解があれば奇々怪々の物語が生まれる。検証不可能という点で宇宙人・幽霊・神様は一致している。良質な想像力とは思えない。単なる空想だ。

 賢明さとは低い物語を高い物語に書き換える智慧のことだろう。仮に誤っていたとしても、新たな事実を知ることで更新可能な余裕をもちたい。頑迷な人物が豊かに見えないのは、やはり物語性が貧しいためか。


(コデマリ)

2014-03-15

稀有な文章/『石に話すことを教える』アニー・ディラード


 ・稀有な文章

『本を書く』アニー・ディラード
『動物たちのナビゲーションの謎を解く なぜ迷わずに道を見つけられるのか』デイビッド・バリー
『悲しみの秘義』若松英輔

動物記』のアーネスト・T・シートンによると、ある人が空からワシを撃ち落とした。死骸を調べたところ、ワシの喉には干からびたイタチの頭蓋骨が顎でぶら下がっていた。想像するに、ワシがイタチに襲いかかるや、イタチはくるっと向きなおって本能の命ずるままにワシの喉に歯を立て、もう少しで勝ちをとるところだったのだろう。わたしは叶うものなら、撃ち落とされる何週間か何か月か前に、天翔けるそのワシを見たかった。ワシは喉元にイタチごとぶら下げて飛んでいたのだろうか。毛皮のペンダントかなにかのように。それとも、ワシはイタチを届くかぎり食べたのだろうか。胸元のかぎ爪を使って生きたまま内蔵をかき出し、首を折るように曲げて肉をきれいについばみ、美しい空中の骸骨に仕立て上げたのだろうか。

【『石に話すことを教える』アニー・ディラード:内田美恵〈うちだ・みえ〉訳(めるくまーる、1993年)以下同】

「イタチのように生きる」と題した一文を紹介する。40年以上に渡って本を読んできたが、これに優るエッセイはない。稀有(けう)といってよい。ソローの超越主義的臭みを感じた私は本書を読み終えてはいない。それで構わない。一篇の随想が稲妻のごとく私の背骨を垂直に貫く。


 彼女は数日前にイタチを見かける。

 4フィート先の、ぼうぼうに生えた野バラの大きな茂みの下から姿を現わしたイタチは、驚いて凍りついた。わたしも幹に坐ってうしろをふり向きざま、同様に凍りついた。わたしたちの目と目は錠をかけられ、その鍵を誰かが捨てたようだった。
 わたしたちの表情は、ほかの考えごとをしていて草深い小道でばったり出食わした恋人どうし、もしくは仇敵どうしのそれだったにちがいない。意識を澄ませる下腹への痛打か、あるいは脳への鮮烈な一撃か。それとも、こすりつけられた脳の風船どうし、出合いがしらに静電気と軋みを発したのか。それは肺から空気を奪い、森をなぎ倒し、草原を震わせ、池の水を抜き去った。世界は崩れ、あの目のブラックホールへともんどり打っていった。人間どうしがそんな見つめ方をすれば、頭はふたつに割れて両の肩に崩れ落ちるほかはない。だが、人はそれをせず、頭蓋骨は守られる。つまり、そういうことだった。

 正直に告白しておくと何も書く気がしない。ただテキストを抜き書きして紹介したい。しかしそれではブログの格好がつかないし、何といっても私の魂の震えが伝わらないだろう。

 ディラードの文章は瑞々しい静謐(せいひつ)に包まれている。そして一瞬の想像力が太陽に向かって跳躍する。その姿は逆光の中で鮮やかな影となって確かな姿を私は捉えることができない。だがそのスピードと高さだけは辛うじてわかる。彼女は「見る」という行為を限りなく豊かに押し広げ、そこに自分を躍らせるのだ。


 どのように生きるか。わたしは学ぶなり思い出すなりできたらと願う。ホリンズ池に来るのは、学ぶためというより、正直言ってきれいさっぱり忘れるためである。いや、わたしは野生動物からなにか特定の生き方を学ぼうなどとは考えていない。このわたしが温かい血を吸い、尾をピンと立て、手の跡と足の跡がぴったり重なるような歩き方をしてどうなるというのだ? けれども、無心ということを、身体感覚だけで生きる純粋さを、偏見や動機なしで生きる気高さを、いくらかなりとも身につけることはできるだろう。イタチは必然に生き、人は選択に生きる。必然を恨みつつ最後にはその毒牙による愚劣な死を遂げる。イタチはただ生きねばならぬように生きる。わたしもそう生きたいし、それはすなわちイタチの生き方だという気がする。時間と死に苦もなく開き、あらゆるものに気づきながらなにものも心にとどめず、与えられたものを猛烈な、思い定めた意志で選択する生き方だ、と。

「偏見や動機なしで生きる気高さ」「時間と死に苦もなく開き、あらゆるものに気づきながらなにものも心にとどめず」との文章がクリシュナムルティと完全に一致している(偏見動機気づき)。「時間と死に苦もなく開き」という言葉は作為からは生まれ得ない。すなわちディラードの文は生きる態度がそのまま表出したものであろう。本物の思想や言葉は生そのものから「滴(したた)り落ちてくる」ものなのだ。


 その機会を、わたしはのがした。喉元に食らいつくべきだったのだ。イタチの顎の下の、あの白い筋に向って突進すべきだった。泥の中だろうが野バラの茂みの中だろうが、食らいついていくべきだった。ただ一心に得がたい生を求めて、わたしたちは連れだってイタチとなり、野バラのもとで生きることもできたろう。ものも言わず、わけもわからずに、いたって穏やかにわたしは野生化することもできたろう。二日間巣にこもり、背を丸め、ネズミの毛皮に身を横たえ、鳥の骨の匂いを嗅ぎながら瞬きし、舐め、麝香(じゃこう)を呼吸し、髪に草の根をからませて。下は行くにいい場所だ。そこでは心がひたむきになる。下へは外へでもあり、愛してやまぬ心から外へ抜け、とらわれのない感覚へと戻ることである。

 見るものは見られるものである。瞳が捉えた対象との間に距離や差異は消え失せて完全にひとつとなる。ディラードの生とイタチの生はDNAのように螺旋(らせん)を描き、分かち難く結びつき新たな生命として誕生する。

 もうこれ以上は書かない。ただただアニー・ディラードの奏でる文章に身を任せ、堪能し、浸(ひた)り、溺れて欲しい。この随想はこう終わる――。

 そうすることもできたはずだ。わたしたちはどのようにも生きられる。人は選んで貧困の誓いを、貞節や服従の誓いを、はたまた沈黙の誓いを立てる。要は、呼ばわる必然へと巧みに、しなやかにしのび寄ることだ。やわらかい、いきいきとした一点を見つけて、その脈に接続することだ。それは従うことであり、抗うことではない。イタチはなにものをも襲わない。イタチはそう生きるべく生きているだけだ、一瞬一瞬、ひたむきな必然の、完全なる自由に身をゆだねて。
 自分のただひとつの必然をつかみとり、それをけっして手放さず、ただぶら下がってどこへなりと連れていかれることは、すばらしくまっとうで従順な、純粋な生き方ではないかと思う。そうすれば、どのように生きようが結局は行きつく死でさえ、人を分かつことはできないだろう。
 つかみとることだ。そしてその爪で空高くつかみ上げられることだ。両の目が燃えて抜け落ちるまで。おのが麝香の身をずたずたに裂かれ、骨は千々に砕かれ、野や森にばらかまれることだ。軽やかに、無心に、望みの高みから、ワシのごとき高みから。




2014-03-06

敗れざる者たちへ/『「ありがとう」のゴルフ 感謝の気持ちで強くなる、壁を破る』古市忠夫


 震災前の私は、ごく普通のゴルフ好きの写真屋のおっちゃんでした。震災から復興して、またゴルフができるようになったとき、私は自然にコースに向かって一礼するようになりました。生き残って大自然のコースに立ち、球が打てる。その幸せに自然と頭が下がるようになったのです。もともとの積極的な心に、感謝の心が加わった瞬間です。ラウンドしていると、ときどき自分の実力以上のエネルギーを感じることがあります。20代のエリートに勝ち、プロテストに合格したときもそうですし、シニアツアーのシード選手になれたときもそうです。これは「ありがとう」の気持ちの賜や、と思っています。

【『「ありがとう」のゴルフ 感謝の気持ちで強くなる、壁を破る』古市忠夫〈ふるいち・ただお〉(ゴルフダイジェスト新書、2006年)以下同】

 ソチ・オリンピックは見ていない。ただし男子フィギュアの100点超えと浅田真央のフリーだけは動画で視聴した。17歳の期待の星・高梨沙羅もメダルには手が届かなかった。マスメディアの調子はメダルを巡る悲喜こもごもが中心で戦争の戦果を報じる昔の新聞を思わせた。勝負は時の運である。敗北の味を知らぬ者がアスリートとして大成することはないし、人間の幅を広げることもできない。「 尺蠖(せっかく/シャクトリムシ)の屈するは伸びんがため」と故事にある通りだ。

 古市忠夫は60歳でプロゴルファーになった人物だ。

『還暦ルーキー 60歳でプロゴルファー』平山譲

 人は「失ったもの」が多ければ多いほど、「当たり前であること」や「ありのままであること」に感謝できるのだろう。古市が「コースに向かって一礼する」ようになったのはプレイスタイルなどといった表面的なことではない。生きる姿勢が変わった証拠だ。人間が本当に変わる時は「自(おの)ずから改まる」ものである。そこに他人の言葉や生きざまがあったとしても、それは触媒に過ぎない。

「ありがとう」の気持ちとは、「有り難い」現実への感謝である。復興に奔走した古市の偽らざる本音であろう。生それ自体に感謝できれば人は自由であり、人生は幸福といえる。

 しかし、私は思います。重要なのは、「どれだけ頑張ったか」ではないんとちゃうのかいなと。オリンピックに出場するような選手は、誰かて頑張っているでしょう。誰かて人知れず努力しとると思います。もちろん、頑張ることも大切ですが、それより肝心なのは、頑張れる環境そのものに対して「どれだけ感謝しとるか」ということではないでしょうか。
 同じ努力をして、同じ才能や技術を持っている選手が、僅差で勝ったり、負けたりするケースがたくさんあります。私には、金メダルと銀メダルの差は、そのまま心の差であるように思えてなりません。頑張らせてくれた社会、コミュニティ、家族があってこその自分と、心から思えたかどうか。勝利の女神は「頑張りました」という選手ではなく、「頑張らせてもろて、ありがとうございます」という選手に、微笑むような気がします。そやから、これからも私は、感謝の気持ちで闘わせてもらおうと思うとります。

 勝って奢(おご)る者がいる。敗れて腐る人も多い。勝ち負けで変わるのは商品価値であって人間ではない。五輪は終わった。過ぎてしまえばもう過去のことだ。もう次の戦いが始まっている。敗れても敗れても尚、起ち上がる精神にアスリートの魂がある。そして深き感謝の心が必ずや人生の勝利を決定づけることであろう。敗れざる者たちへ。今、万感の思いを込めて伝えよう。「ありがとう」と。

「ありがとう」のゴルフ―感謝の気持ちで強くなる、壁を破る (ゴルフダイジェスト新書)

「薯粥」(『一人ならじ』所収)山本周五郎

2012-07-13

フェミニズムへのしなやかな眼差し/『フランス版 愛の公開状 妻に捧げる十九章』ジョルジュ・ヴォランスキー


 フランス人漫画家によるエッセイ集。柔らかなフェミニズムが全編を貫いている。かといって単なる礼賛ではない。その「揺れ具合い」が絶妙なバランス感覚となっている。

 ジョルジュ・ヴォランスキーを知ったのはジェローム・デュアメル著『世界毒舌大辞典』による。ヴォランスキーの言葉には吐き捨てるような激しさと軽妙さが同居している。しなやかな感性で現実をデフォルメしてみせるのが漫画家の仕事であるとすれば、軽やかな精神性は鞭のような強靭さの現れといってよかろう。

 またたくまに、セックスの翳(かげ)りを見るだけでは物足りないという時代になってしまった。フランスでは発売禁止だが、ぼくがいくさつか持ってる「ハスラー」のようなアメリカの雑誌では、セックスそのものが、大きく口を開いたまま、広がって、らんの花やアネモネの風情よろしく幻想的に写されている。この露骨さにはたえられないと訴えてきた多くの女性たちに対し、編集長は雑誌の中で答えて、その立場を次のように正当化した。「男性たちがみたいと望み、みせることをこばまない女性たちがいるのだから、それをのせることにしているまでだ。それをとやかくいうのは、凝(こ)り固った偽善というものだ」彼はさらにつけ加えた。「それでは、ほんとうのポルノグラフィーはどんなものかお見せしよう」そして、ばらばらの死体のかさなったおそろしい戦争の写真を出版した。「みにくく、顔をそむけさせる、おそろしいもの、それこそが戦争ではないか。ポルノグラフィーを排斥する偽善者どもは、戦争に賛成しているのだ」と彼はことばを結んだ。
 この理屈が正しいことは認めねばならないだろう。最近のニュースによると、この勇気ある男はその後神秘主義のとりこになり深く沈潜したが、車の中にいるところをピストルで撃たれ半身不随になったそうだ。アメリカで道徳問題に口をはさむのはやめた方がいい。

【『フランス版 愛の公開状 妻に捧げる十九章』ジョルジュ・ヴォランスキー:萩原葉〈はぎわら・よう〉訳(講談社、1981年)以下同】

 表現者だけが真の表現者を知る。ポルノ雑誌『ハスラー』の編集長はラリー・フリントである。

 1978年3月6日、ジョージア州グイネットにてラリー自身がわいせつ事件の裁判に出廷する際、郡裁判所の付近で待ち伏せされラリーの弁護士ジーン・リーブスとともに銃撃を受けた。弁護士のリーブスは治療の甲斐もあって回復したが、ラリーはこの銃撃により下半身麻痺の後遺症が残った。その後白人至上主義の連続殺人犯ジョゼフ・フランクリンが襲撃を認める供述を行った。フランクリンは襲撃の理由についてハスラーに黒人と白人が性交している写真を掲載した為であると供述している。ジョセフの供述には不明確なところもありその信憑性を疑う声もあるが、ラリーは彼の供述を信じているというコメントを発表した。襲撃事件の後ラリーはキリスト教の信仰を止め、妻とともにロサンゼルスに移った。現在サンタモニカに居住している。

Wikipedia

 ヴォランスキーは定型化されたフェミニズムに異を唱え、別の視点を提示する。欧米では教会が性を管理している。基本的には避妊も堕胎も認めない。

妊娠中絶に反対するアメリカのキリスト教原理主義者/『守護者(キーパー)』グレッグ・ルッカ

 つまりポルノは単なるエロ本ではなくて、神や国家に対する挑戦状的な意味合いを持っているのだ。「セックス、ドラッグ、ロックンロール」も同様で、薄っぺらな享楽趣味と読み誤ることなかれ。

 国家は経済的に行き詰まると必ず戦争を志向する。自分たちの生産性が不十分になれば、よそからぶん取って帳尻を合わせる必要がある。とすると我々の仕事や日常は意図するしないにかかわらず、戦争を支えている側面がある。戦後の日本経済はアメリカの戦争と共に発展してきた事実を忘れてはなるまい。

アメリカ軍国主義が日本を豊かにした/『メディア・コントロール 正義なき民主主義と国際社会』ノーム・チョムスキー
組織化された殺人が戦争である/『最後の日記』J・クリシュナムルティ

 戦争の暴力性を水で薄めたものが政治であると私は考える。

 フランスのフェミニズム運動(ウーマンリブの運動)はやっと芽ばえたというところで、それは1968年の(五月革命の)あのバリケードの中から生まれでたのだったが、その最も大きな論戦は中絶と避妊についてだった。

 そう、フェミニズムと運動の中では、その要求や闘争以上に重要なものがあったが、それはきみたち女性がその中で女同士の友情というものをみいだしたことだ。

 人類の歴史は女性を蹂躙(じゅうりん)し続けてきた。それは今もなお続行中だ。長らく家事・育児を強いられた女性たちは社会進出する機会を奪われてきた。ゆえに連帯を築くこともかなわなかった。「友情」という指摘が胸に染みる。性差をテーマとした政治的闘争は女性を男性化するように見えることがある。ま、この印象自体が私の差別観かもしれないが。個人的には男と同じ土俵に立って闘うよりも、もっと女性らしいアプローチ法を目指した方がいいと思う。

 独断的かもしれないけれど、ぼくには、女性が世の中を支配したら男ほどばかなことはしないだろうとは、はっきり答えられない。女は一見して男ほど軽はずみでなく、見栄っぱりでもなく、男のように名誉を欲しがらないというのは、男がいままで女を目立つ場所においていなかったからにすぎない、と思う。女性が一寸距離をとって物事を見られる立場にいるせいでそうなのだ、とおも(ママ)う。

 ヴォランスキーは嘘偽りなく、さらりと本音を披露する。そしてこう続ける――

 ぼくはファロクラット(男性優越主義者)でいるのをどうしてもやめられない。でも、ぼくはきみといっしょに闘うつもりだ。

 その好漢ぶりやよし。

 最後に『世界毒舌大辞典』から引用しておく。

 自分が正しいと確信しているなら、間違っている人々と議論する必要はない。(ヴォランスキー)

フランス版愛の公開状―妻に捧げる十九章 (1981年)
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2011-11-02

巧すぎて鼻につく文章/『樹の花にて 装幀家の余白』菊地信義


 ・巧すぎて鼻につく文章

『悲しみの秘義』若松英輔

 文は「あや」と読むことからもわかるように、「かざる」という意味がある。文身(いれずみ)とは「身をかざる」こと。

 菊地信義は著名な装幀家である。本を飾るのが仕事といってよい。それにしても文章が巧みだ。巧すぎて鼻につくほどである。逆立ちしてもかなわない。

 5丁目の酒場ルパンには開業以来使われているショット・グラスがある。このグラスで飲みたくてウィスキーのストレートを覚えた。どこにでもありそうな外形だが、内側の縁から底へ円錐状に穿(うが)たれていて、ウィスキーが注がれるとカウンターへ琥珀の弾丸がすっくと立つ。
 グラスを指先でつまむようにしてそっと口へ運ぶ。一口すすりこみ薬指をグラスの底へあてがい中指で胴を巻きこむと、腰のあたりがわずかにくびれていて指の腹へひたと添っている。女人の細い腰へ端なくも腕を回してしまった、そんな心地で二口目を口にする。
 このショット・グラスは昭和3年、ルパン開業の折に先代の女主人(80歳を超えた今も健在だが店へは出ていない)のご主人がデザインして作らせたもの。口造りは正確で厳しいくらいだが、長年のウィスキーとの馴染がおっとりと仕立てたのか、口当たりはすこぶるやさしい。

【『樹の花にて 装幀家の余白』菊地信義(白水社、1993年/白水Uブックス、2000年)以下同】

太宰治@林忠彦写真展

 広く知られた太宰治のポートレートだが、この店がルパンである。永井荷風や坂口安吾も常連だったようだ。

 夏休みの季節になると銀座にも子供たちの姿が目に付く。銀座が生活の場でもあるとあらためて思い知る。歌舞伎座裏。仕事場の向いの一角がこの夏空地になった。夕刻なにげなく見下ろすと、いち早く闇を溜めたそこで5~6人の少年が両手を翼のように拡げ舞っている。地面を銀色が転がっていく。空罐を順に蹴って回して遊んでいるらしい。儀式でもあるように、蹴り終えた少年たちも無言で舞い続けている。最後の少年がひときわ濃い闇の辺りへ罐を蹴り込んでしまうと、一斉に路地へ走り去る。幻でも見たように銀色が消えた先を見つめていた。

「鼻につく」と書いたのは私の好みにすぎない。例えば私は中央線の新宿より西側(八王子方面)の地域が嫌いだ。何となく山の手感がある。下町と比べると明らかに洗練されたお洒落な店が多い。私は強烈な違和感を覚える。鎌倉も苦手だ。道を歩いているだけで「悪かったな、どうせ俺は下町だよ」と嘯(うそぶ)きたくなる。

 菊地の文章を読んでいると全く同じ感慨に駆られる。もちろん菊地に罪はない。にもかかわらず、「ケッ、気取ってんじゃねーよ」と毒づきたくなるのだ。

 わかってる。所詮、貧乏人のひがみだ。こちとら、素敵な場所に用はない。

 横断歩道を歩く人がみんな堅実に生きていると思えてしまう。鞄を提げた女人の腕の小さな痣も心にしみる。

 これは確か、飲み明かして朝帰りをする場面だ。おお嫌だ嫌だ。何て嫌な文章なのだろう。

 東京ってえのあね、貧富の差が激しいところなんだよ。道産子の私がいうのも何だが。

樹の花にて―装幀家の余白 (白水Uブックス―エッセイの小径)

2011-07-25

さようならの語源/『遠い朝の本たち』須賀敦子


 人物評価は難しい。自分の価値観や体験に照らして相手を判断するわけだが、実際は好き嫌いにとらわれているだけのような気もする。感情の後ろを理屈が追いかけている節がある。脳内では大脳辺縁系にスイッチが入った後で前頭葉が作動しているに違いない。根拠や理由というものは後出しジャンケンなのだ。

 アン・モロー・リンドバーグはチャールズ・リンドバーグの夫人である。大西洋単独無着陸飛行(1927年)を成し遂げた、あのリンドバーグだ。

 リンドバーグはヒトラーを「疑いなく偉大な人物」とたたえた。これにこたえて、ナチス・ドイツは1936、38、39年の3回リンドバーグを招いた。リンドバーグは、ドイツ空軍を視察して、その能力を高く評価した。
 多くのアメリカ人は、
「リンドバーグはナチのシンパ」
 と思っていた。

【『秘密のファイル CIAの対日工作』春名幹男(共同通信社、2000年/新潮文庫、2003年)】

 この件(くだり)を読んだ私は、リンドバーグを唾棄すべき人物と認定した。ところが数年後、菅原出〈すがわら・いずる〉によって蒙(もう)を啓(ひら)かれた。

アメリカ経済界はファシズムを支持した/『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』菅原出

 リンドバーグはただ自分に忠実な男であったのかもしれない。

 アン・モローは駐メキシコ大使の子女で、その文章からは鋭敏な感受性と聡明さが窺える。リンドバーグ夫妻は1931年に調査飛行で来日している。

 千島列島の海辺の葦の中で救出されたあと、リンドバーグ夫妻は東京で熱烈な歓迎をうけるが、いよいよ船で(どうして飛行機ではなかったのだろう。岸壁についた船とその船と送りに出た人たちをつなぐ無数のテープをえがいた挿絵をみた記憶があるのだが)横浜から出発するというとき、アン・リンドバーグは横浜の埠頭をぎっしり埋める見送りの人たちかが口々に甲高く叫ぶ、さようなら、という言葉の意味を知って、あたらしい感動につつまれる。
「さようなら、とこの国々の人々が別れにさいして口にのぼせる言葉は、もともと「そうならねばならぬのなら」という意味だとそのとき私は教えられた。「そうならねばならぬのなら」。なんという美しいあきらめの表現だろう。西洋の伝統のなかでは、多かれ少なかれ、神が別れの周辺にいて人々をまもっている。英語のグッドバイは、神がなんじとともにあれ、だろうし、フランス語のアディユも、神のもとでの再会を期している。それなのに、この国の人々は、別れにのぞんで、そうならねばならぬのなら、とあきらめの言葉を口にするのだ」(※ 『翼よ、北に』アン・モロー・リンドバーグ著)

【『遠い朝の本たち』須賀敦子(筑摩書房、1998年/ちくま文庫、2001年)】

 露のはかなさを思い、散る桜を愛でるのと同じメンタリティか。鮮やかな四季の冬が死の覚悟を促しているのか。潔さ、清らかさが日本人全体の自我を形成している。移ろいゆく時、墨絵の濃淡を味わうのが我々の流儀だ。谷崎は陰影を礼讃した。

 のっとるべき理(ことわり)を法(のり)という。水(さんずい)が去ると書いて法。そこに循環する未来は映っていない。ただこの一瞬を味わいつつ惜しむ達観が諦観へと通じる。

 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と、栖(すみか)とまたかくのごとし。(『方丈記』鴨長明)

遠い朝の本たち (ちくま文庫)翼よ、北に翼よ、あれがパリの灯だ

オリエント急行の殺人 (創元推理文庫)陰翳礼讃 (中公文庫)方丈記 (岩波文庫)

リンドバーグ愛児誘拐事件(アガサ・クリスティの小説『オリエント急行の殺人』の序盤で登場する誘拐事件は本事件を参考にしているとされる)

2011-07-07

頑張らない介護/『カイゴッチ 38の心得 燃え尽きない介護生活のために』藤野ともね


 介護とはコミュニケーションだ。健常者が要介護者の世話をする作業に限定すると、介護はたちまち厄介な仕事となる。生老病死(しょうろうびょうし)は誰人も避けられない。人生とは死にゆく過程である。介護とは目の前の生老病死を受容する営みであり、一つのコミュニケーション・スタイルなのだ。これは教育も同様である。

 本書は藤野ともねのブログ「フンコロガシの詩」を書籍化したもの。まず本の作りがよい。絶妙な構成で内容を引き立てている。奥付を見ると梅澤衛という人物がプロデュースしているようだ。イラスト、レイアウト、フォントの色に至るまで目が行き届いている。

 藤野の父親は初期の認知症と思われるが、要介護度が低ければ介護は楽というものではない。むしろ動ける状態が仇(あだ)となる。徘徊や火の始末など。つまりそれぞれの要介護度に応じた苦労が伴う。

 もしも自分の親は元気だから介護に興味がない、うちには子供がいないから教育問題とは縁がないという人がいたとすれば、貧しい人生を送っている証拠といえる。他者への共感を欠いた生き方が人生を灰色に染めてゆくことだろう。人生における選択とは、常に「もしも」という事態を想定することで判断可能となるのだ。

 笑えるエピソードの合間に著者はしっかりと介護で得た知恵を盛り込んでいる。

 何となく会話がかみ合わない、冷蔵庫の中に同じものが買ってある。そのくせ私が作った惣菜には手をつけずに腐らせるなど、(以下略)

【『カイゴッチ 38の心得 燃え尽きない介護生活のために』藤野ともね(シンコーミュージック・エンタテイメント、2011年)以下同】

 病気には必ず何らかの兆候がある。早期発見が急所だ。

 周囲の認知症の高齢者を見ていると、「お菓子をやたら買い込む」という行動はかなり重要な初期サインだと気づかされる。ポイントは「甘いものが以前より好きになる」「大人買いする」ということだ。味覚が変わるのは認知症の初期症状で、最初に酸っぱいモノがダメになり、甘さを感じる味覚は最後まで残るらしい。

 これは知らなかった。一般的には耳が遠くなる。聞こえていないのに聞こえたふりをする。「はい」ばかりで、「ノー」の意思表示をしなくなる。そして段々と話をしなくなる。

 認知症はまず家族の前で症状が出始める。不思議なことだがお客さんや見知らぬ人の前では出ない。だから、どんどんデイサービスなどを利用すればよい。ところが一昔前まではこうした事実が知られておらず、家族の恥と受け止め、外へ出すことを恐れる家が多かった。これが認知症を悪化させた。

 皮膚感覚ではないが、皮膚の表面の状態については私なりの考察がある。それはこうだ。親父を含め周りの高齢者を見ていて、「あるとき」からイキナリ、肌がキレイになることに気がついた。その「あるとき」とは、認知症が始まったときである。

 これも初耳だ。とすると、認知症はホルモンと関連性があるのかもしれない。

 親父は背が縮み、今や私のほうが10センチ以上は高いので、まるで傷ついた少年兵に肩を貸す三等兵みたいだ。

 まったく侮れない文章だ。小田嶋隆の「私の祈りは空しく、努力は報われず、私のささやかな願いは線路工夫の口笛のように風の中に消えてしまった」(『我が心はICにあらず』)という文章を思い出した。

 藤野は「頑張らない介護」を目指し、「笑いのツボ」を見つけることに執念を燃やす。何が何でも笑い飛ばしてやろうという意気込みが素晴らしい。笑うことは突き放すことだ。知的に客観視することで笑いは生まれるのだ。この距離感を維持することで藤野は精神のバランスをコントロールしている。やや大袈裟にいってしまえば、惨めな介護を笑える介護へと革命したのだ。やはり心の向きが大切だ。

 ブログでは冒頭に書かれていた投資詐欺事件が本書の最後で紹介されている。これはさすがに「笑えない」話だ。藤野の父親は全財産の5400万円を投資会社に預けてしまった。で、案の定、この会社は破綻した。「グローバル・パートナー」(その後ベストパートナーに社名変更。神崎勝会長)という会社だ。

 産経ニュースによれば、「約970人の高齢者を中心とした顧客から約91億円をだまし取った」とのこと(2011年1月14日)。この手の犯罪に関して政治家や金融機関が熱意を発揮したことはない。

 藤野は刑事告訴の用意をした。

(※4カ月近く待たされた後)「もうすぐ時効だし、こんな人はいっぱいいるんですよね」ということで、告訴状を受け取ることさえしなかった。

 これが警察窓口の対応だった。桶川ストーカー事件から何も変わっていないようだ。

腐敗しきった警察組織/『遺言 桶川ストーカー殺人事件の深層』清水潔

 高齢者を取り巻く社会情況はかくも厳しい。それでも藤野はめげない。

 尚、実は秀逸なセンスが散りばめられている。大野一雄、マディ・ウォーターズ「マニッシュ・ボーイ」を取り上げ、楳図かずお著『アゲイン』が出てくるに至っては心底驚いた。私が小学生の時、立ち読みしていて笑いが止まらなくなったマンガ作品だ。

 ブログの性質上致し方ないとは思うが、藤野のプライベートが書かれていないため、介護の背景が薄くなってしまっているのが残念なところ。それでも「転ばぬ先の杖」としては十分に有用だ。



認知症の生々しい描写/『一条の光・天井から降る哀しい音』耕治人
『もっと!らくらく動作介助マニュアル 寝返りからトランスファーまで』中村恵子監修、山本康稔、佐々木良(医学書院、2005年)
オムツにしない工夫こそが介護/『老人介護 常識の誤り』三好春樹
年をとると個性が煮つまる/『老人介護 じいさん・ばあさんの愛しかた』三好春樹
ネアンデルタール人も介護をしていた/『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠
赤ちゃん言葉はメロディ志向~介護の常識が変わる可能性/『歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化』スティーヴン・ミズン
ケアとは「時間をあげる」こと

2011-01-22

フロンティア・スピリットと植民地獲得競争の共通点/『砂の文明・石の文明・泥の文明』松本健一


 ・フロンティア・スピリットと植民地獲得競争の共通点

『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男

 微妙な本だ。正直に書いておくと、最初から最後まで違和感を覚えてならなかった。多分、企画ミスなのだろう。とてもじゃないが文明論的考察とは言い難い。文明論的教養を盛り込んだエッセイである。つまりタイトルと新書という体裁で二重に読者を騙(だま)しているとしか思えない。これが文庫本で『エッセイ 砂と石と泥の文明』であったなら、評価は星三つ半ってところだ。

 全体的に様々な事実を示した上で、「──と個人的に思う」といったレベルにとどまっていて、新書レベルの考察すら欠いている。医学セミナーへ行ったところ実は健康食品の販売だった、ってな感じだ。

 というわけで、文明論入門の雑談として読むことをお勧めしておこう。

 しかも、毎年毎年同水準の生活や産業を維持してゆくだけなら、同じ規模の土地を「エンクロージャー(囲いこみ)」して守っていけばいいが、その水準をあげてゆくためには、土地の規模を拡大していかなければならない。かくして、北フランスやイギリスなどの石の風土に成立した牧畜業は、不断に新しい土地(テリトリー)を外に拡大する動きを生む。これが、いわゆるフロンティア運動を生み、アメリカやアフリカやアジアでの植民地獲得競争(テリトリー・ゲーム)を激化させるのである。
 つまり、西欧に成立し、ひいてはアメリカにおいて加速されるフロンティア・スピリットは、本来、牧畜を主産業とするヨーロッパ近代文明の本質を「外に進出する力」としたわけである。これは、ヨーロッパ文明に先立つ、15〜16世紀のスペイン、ポルトガルが主導したキリスト教文明、いわゆる大航海時代の外への進出と若干その本質を異にする。
 いわゆる大航海時代の外への進出は、17世紀からのイギリスやオランダやフランスが主導した、国民国家(ネーション・ステイト)によるテリトリー・ゲームとは若干違う。大航海時代というのは、キリスト教文明の拡大、つまり各国の国王が王朝の富を拡大するとともに、その富を神に献ずる、つまり「富を天国に積む」ことを企てるものであった。

【『砂の文明・石の文明・泥の文明』松本健一(PHP新書、2003年/岩波現代文庫、2012年)以下同】

 わかりやすい話ではあるが、牧畜がヨーロッパの主産業であったという指摘は疑わしい。ここだけ読むと、農業をしていなかったように思い込んでしまうだろう。危うい文章だ。

 更に指摘しておくと、大航海時代に至った要因には様々なものがあって、貴金属の不足によって悪貨が出回り、新たな貴金属を求めて始まったとする説もある。また、モンゴル帝国が陸上輸送という弱点(コストが高い)を抱えて崩壊していったという背景も見逃せない。松本の指摘はファウスト的衝動に含まれる。

 たとえば、西欧の牧場で羊や牛を飼っている家で、子どもが生まれたり、子どもを学校に行かせたり、あるいはもう少しいいものを食べたいと思えば、その分だけ羊や牛を増やさなければならない。仮に100頭いる羊を120頭にしたいとおもったとしたら、牧場を20パーセント分ひろげる必要がある。いわゆるエンクロージャーした土地を外に拡大しなければならないわけだ。
 こうして牧場をひろげていくと、フロンティアの精神が顕著になる。それによってヨーロッパが発展するためには、ヨーロッパ外に進出しなければならない。ニューフロンティアを求めてアメリカに渡り、アメリカで足りなければアフリカに行き、またアフリカで足りなければアジアで進出する。西欧の近代は、そういう意味で「外に進出する力」というものを文明の本質として持つようになったのである。

 これも話としては理解できるが、根拠が何ひとつ示されていない。歴史的事実であったのか、それとも単なる例え話なのかが不明だ。極端に言えば農業に置き換えることも可能な内容となっている。

 こういった牧畜文明としてのヨーロッパ・アメリカの「外に進出する力」と、農耕文明としてのアジアの「内に蓄積する力」とが激突したのが、160年まえから100年まえあたりの「西力東漸」、言い換えるとアジアにおける「ウェスタン・インパクト」であった。

 これが真実であるなら、まずヨーロッパ圏内で牧畜vs農業の激突が起こってしかるべきではないのか? 日本国内でも起こっているはずだろう。

 何だかんだと言いながら、散々腐してしまったが決して悪い本ではない。



「異民族は皆殺しにせよ」と神は命じた/『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
残酷極まりないキリスト教/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
資本主義のメカニズムと近代史を一望できる良書/『資本主義の終焉と歴史の危機』水野和夫

2009-06-19

人生の逆境を跳ね返し、泣きながら全力疾走する乙女/『裸でも生きる 25歳女性起業家の号泣戦記』山口絵理子


 ・人生の逆境を跳ね返し、泣きながら全力疾走する乙女
 ・バングラデシュでは、みんな、生きるために、生きていた

真っ黒な顔の微笑み
・『裸でも生きる2 Keep Walking 私は歩き続ける』山口絵理子
・『輝ける場所を探して 裸でも生きる3 ダッカからジョグジャ、そしてコロンボへ』山口絵理子
・『Third Way(サードウェイ) 第3の道のつくり方』山口絵理子
・『自分思考』山口絵理子
『地下足袋の詩(うた) 歩く生活相談室18年』入佐明美
『七帝柔道記』増田俊也

必読書リスト その一

 山口絵理子は「マザー・ハウス」というバッグメーカーの社長である。バングラデシュのジュート(麻)を使用したバッグは、すべて現地工場で製造されている。

 小学校に上がって直ぐいじめに遭う。中学では非行少女に。そして高校時代は柔道選手として埼玉県で優勝。一念発起をして偏差値40の工業高校から慶應大学に進学。在学中に米州開発銀行で働く機会を得て念願の夢がかなった。だがそこは、貧しい国の現場からあまりにも懸け離れていた。ある日のこと、山口はインターネットで検索した。「アジア 最貧国」と。出てきたのは「バングラデシュ」という国名だった。1週間後、山口はバングラデシュ行きの航空券を手配した。

 山口絵理子は逆境に膝を屈することがない。だが、山口はよく泣く。そして泣きながら全力疾走するのだ。

 彼女の生きざまは高校時代の柔道によく現れている。埼玉県内の強豪である埼玉栄高校を打倒するために、男子の強豪である工業高校へ山口は入学する。女子柔道部がないにもかかわらずだ。監督はバルセロナ五輪の代表を古賀稔彦(としひこ)と争ったこともある元全日本チャンピオンだ――

 そんな不安を振り切るために練習量を多くしていった。
 私は、高校の朝練の前に自宅の前にある公園で一人練習をはじめた。
 そして朝と午後の部活が終わってからは学校の1階から5階までを逆立ちで上がるというトレーニングを5往復毎日実践した。
 それから電車で30分かけて町の道場に直行し、また2時間練習をし、それからまた家に帰り一人打ち込み、筋トレをする、三食の前にはいつもプロテインという、今思えばゾッとするような日々を365日、休みなく続けた。
 私の部屋は、そこら中「目指せ、日本一!」「打倒 埼玉栄!」などと書かれた汚い壁紙でいっぱいだった。
 そして、毎日つけている柔道日記は、悔し涙でどのページもはっきりと見えなくなっていた。それでも、勝つことはできなかった。
 夏の合宿があった。猛暑の中、私はいつものとおり稽古をした。
 監督が久しぶりに柔道着になって私の名前を呼んだ。
「やるぞ!」
 私はこの監督との稽古で、通算10回も絞め落とされたのだった。「絞め落とされる」とは、簡単に言えば頚動脈を絞められて、意識を失う状態が10回もあったということである。
 私はその稽古中、唇は真っ青になり、青あざのある顔面は鼻水と涙でぐちゃぐちゃになり、どうしようもなくこの場にいるのが怖く耐えられなくなり、脱走を試みた。
 自分でもどういった精神状態だったかは正確に覚えていないが、私は柔道着のまま全力で走った。
「もうやだ!」
 走る、走る。
「家に帰るんだ! もう柔道なんてやりたくない!」
 後ろから、巨漢の先輩が追いかけてくる。
 担ぎあげられた。監督の前に連れて行かれ、「てめぇ! 逃げ出す奴がいるか!」
 と思いっきり殴られた。
 私はプッチンと切れ、思いっきり監督の腹をパンチした。監督は思いっきり私をまた殴った。私は全力で殴り返した。
 そんな死闘の末、合宿は終わり、私はもう「やめたい」と本気で思った。人の何倍も練習しているのに、全然勝てない。
 練習でこんな目にあって、そして周りからは白い目で見られ、心も体もボロボロだった。
 私は泣きながら、部屋に飾ってある「目指せ、日本一!」の壁紙を破り捨て、柔道着を段ボール箱にしまい、柔道をやめる決心をした。

【『裸でも生きる 25歳女性起業家の号泣戦記』山口絵理子(講談社、2007年/講談社+α文庫、2015年)以下同】

 私も運動部だったので、彼女の練習量がどれほど凄まじいかがよく理解できる。吐くゲロすら残っていない状況だ。育ち盛りとはいえ、これほどの練習をしてしまえば、今尚深刻なダメージが残っていることだろう。監督を「殴り返した」ことから、ぎりぎりまで追い詰められた彼女の様子が見てとれる。

 高校生の山口は泣き明かし、泣き通す――

 1週間くらい部屋に閉じこもったままで、ずっと泣いていた。
 7冊以上たまった柔道日記を見た。そこには、
「絶対にあきらめない。絶対にあきらめない。あきらめたらそこで何かも終わってしまうから」
 と書かれていた。
 袖がちぎれて半そで状態になっているボロボロのミズノの柔道着を、段ボール箱から出してみた。
 柔道着の裏には、秘密で私がマジックで書いた「必勝」という汚い字が見える。その柔道着を見て、今までの辛い猛練習が頭いっぱいに広がった。
 雑巾みたいに、毎日投げられ続けた日々。それでも私は、いつも立ち上がって向かっていった。
 投げられても、投げられても、「来い!」って言って私は巨漢に立ち向かっていったはず。
 次の日、朝練に向かった。
 また地獄のような練習がはじまった。
 ずっと練習に参加していなかった私を白い目で見る先輩たち。
 練習ではいじめられた。壁にわざとたたきつけられ、引きずり回され、また絞め落とされ、私は吐いた。耳はつぶれてしまったが、それでも頭にぐるぐるテーピングを巻きつけ練習を続けた。
 ある日、膝の靭帯(じんたい)を3本も切断し歩けなくなった。
 病院に行ったらお医者さんが言った。
「手術をしないと30歳になったとき、確実に歩けなくなる」

 勝てなかった山口だったが、3年生の時に埼玉県で優勝。全国大会で7位に輝いた。もう少し手を伸ばせばオリンピックが見える位置まで上り詰めていた。しかし、柔道をやり切った彼女は別の道を選ぶ。

 そんじょそこいらの成功物語を自慢気に語るビジネス書ではない。心清らかな乙女の見事な半生記だ。10代、20代の女性は必読のこと。30過ぎの男どもは、本書を読んで己の姿を恥じよ。



マザーハウス 山口絵理子代表 −志をかたちに−
株式会社マザーハウス 山口絵理子氏 代表兼デザイナー - 経営者・起業家インタビュー第74回 | Goodfind
第81回 株式会社マザーハウス 山口絵理子 | 起業・会社設立ならドリームゲート

2009-01-06

苦楽を分かち合えぬ人間は「わらくず同然」/『妻として母としての幸せ』藤原てい


 ・苦楽を分かち合えぬ人間は「わらくず同然」

『夫の悪夢』藤原美子

 講演を編んだもの。これは聴いてみたかった。既に長女の藤原咲子さんが『母への詫び状 新田次郎、藤原ていの娘に生まれて』(山と渓谷社、2005年)で明らかにしているが、ていさんは既に認知症である。藤原正彦(次男)の『祖国とは国語』でも、記憶が薄れゆく姿が描かれていた。

 満州からの壮絶な引き上げ体験(『流れる星は生きている』)が、単純明快な哲学となってほとばしっている。

 この人生を生きていくうえに、人様の喜びを素直に手を取り合って喜び合うことのできない人生、人様の悲しみを悲しんでやることのできない人生、それはわらくず同然だと私は思います。生きていく甲斐のない人生だと思います。

【『妻として母としての幸せ』藤原てい(聖教新聞社、1982年)】

 わかりやすい言葉には、鞭のような厳しさが込められている。死線をくぐり抜けた者だけが知る真実に彩られている。問いかけではなく断定。「生きる姿勢」は考えるものではなく、先人である大人が指し示すべきものだ。小気味いいほどの確信こそ、藤原ていの魅力だ。

「わかる」とは、「分ける」の謂いである。「はっきりした言葉」が善悪を分けるのだろう。

2008-12-22

ユダヤ民族はヘブライ語を失わなかったから建国できた/『祖国とは国語』藤原正彦


『妻として母としての幸せ』藤原てい
『天才の栄光と挫折 数学者列伝』藤原正彦

 ・ユダヤ民族はヘブライ語を失わなかったから建国できた

『国家の品格』藤原正彦
『日本人の矜持 九人との対話』藤原正彦
『日本人の誇り』藤原正彦

 人間は言葉でしか思考できない。それゆえ、言葉に支配されていると言ってもよいだろう。我々は、言葉の外側に脱出することができない。「祖国とは国語である」と藤原正彦は言い切る――

 祖国とは国語である。ユダヤ民族は2000年以上も流浪しながら、ヘブライ語を失わなかったから、20世紀になって再び建国することができた。私には英米にユダヤ人の友達が多くいるが、ある者は子供の頃、家庭でヘブライ語で育てられ、ある者はイスラエルの大学や大学院へ留学し、ヘブライ語を修得した。ユダヤ人の国語に対する覚悟には圧倒される。
 それに比べ、言語を奪われた民族の運命は、琉球やアイヌを見れば明らかである。
 祖国とは国語であるのは、国語の中に祖国を祖国たらしめる文化、伝統、情緒などの大部分が包含されているからである。血でも国土でもないとしたら、これ以外に祖国の最終的アイデンティティーとなるものがない。

【『祖国とは国語』藤原正彦(講談社、2003年/新潮文庫、2005年)】

 そう言われれば確かに。言葉の乱れは文化が崩壊する様相なのだろう。ポピュラーミュージックの歌詞は、既に英語の奴隷と成り果てている。

 数学者の藤原正彦が、義務教育における国語の重要性を叫んでいる。ともすると、日本人だから日本語を話せると我々は思い込んでいるが、ひょっとすると満足に日本語すら話せていない可能性がある。

 言葉の貧しさ、卑しさ、乱雑さは、精神の空洞化を表象している。小難しいテクニックを弄する必要はない。ただ、嘘のない言葉を私は綴りたい。

2008-11-30

アイルランドが生んだ天才数学者ウィリアム・ハミルトンの悲恋/『天才の栄光と挫折 数学者列伝』藤原正彦


『妻として母としての幸せ』藤原てい

 ・アイルランドが生んだ天才数学者ウィリアム・ハミルトンの悲恋

『祖国とは国語』藤原正彦
『国家の品格』藤原正彦
『日本人の矜持 九人との対話』藤原正彦
『日本人の誇り』藤原正彦

必読書リスト その三

 9人の天才数学者をスケッチした紀行風の評伝。明晰な文章が数学者らしい。また、いつもながら藤原正彦のユーモラスな頑固ぶりに、両親(新田次郎、藤原てい)の面影が偲(しの)ばれる。歴史に名を残した天才達の有為転変をすくい取り、成功に至るまでの苦心惨憺と、人生の不遇や悲哀まで描かれている。いずれも小説になりそうなほど劇的な生きざまである。不思議なまでに振幅が激しい点で共通している。

 ハミルトンの神童ぶりが凄い。わずか5歳にして英語、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語を読解し、10歳までに10ヶ国語(イタリア語、フランス語、ドイツ語、アラビア語、サンスクリット語、ペルシア語)をマスター。10歳でユークリッドの『原論』を、12歳でニュートンの『プリンキピア』を読んだという(Wikipedia)。

 そんなハミルトンだったが、初恋は相思相愛であったものの途中で引き裂かれてしまった。彼女の父親が、資産のある中年牧師と強引に婚約させてしまったのだ。父親は、無一文の学生(ハミルトンは当時19歳)と娘を一緒にさせるつもりはなかった。

 その後、ハミルトンは別の女性と結婚。しかし、彼は初恋の人キャサリンに対する思慕を終生捨てることはなかった。苦心の末に刊行した『四元数講義』は難解過ぎて、誰からも理解されなかった。

 その中にあって彼の心を慰めたのは、初恋の人キャサリンの思い出だったかも知れない。彼は終生キャサリンへの愛を抱き続けたのだった。彼女が不幸な結婚生活を送りながら、ハミルトンをいまだに慕っていることを、友人である彼女の兄から聞いていただけに、なおさら想いが募ったのだろう。
 45歳の時には、キャサリンを見初めた、今ではすっかり朽ち果てた家を訪れ、黄昏の光の中、彼女が26年前に立っていた、その床に接吻をしたのである。

【『天才の栄光と挫折 数学者列伝』藤原正彦(新潮選書、2002年/文春文庫、2008年)以下同】

 そして3年後、キャサリンからのメッセージが届けられた。彼女は既に死の床に就いていた。ハミルトンは彼女の下へ走った。そこで二人は生まれて初めて静かに唇を合わせた。キャサリンは2週間後に黄泉路へ旅立った。死神が二人の再会を手引きした格好となった。

 締め括りの文章はこうだ――

 遥か届かぬ人への一途の想い、私は妙に胸が塞ぐままに天文台を辞し、待たせてあったタクシーで四元数発見のブルーム橋へ向かった。天文台から3キロほどの、田園を貫く運河にかかる小さな石橋であった。タクシーを止めると、歴史的発見の現場にたどり着いた興奮のためか、私は走り出した。橋のたもとの土手を下り、橋の直下に回ると、幅5メートルほどの小さな運河に面した壁に、碑文が埋め込まれてあった。
「ここにて、1843年10月16日、ウィリアム・ハミルトンは、天才の閃きにより、四元数の基本式を発見し、それをこの橋に刻んだ。i2乗=j2乗=k2乗=ijk=1」
 ハミルトン自身の刻んだ式は見つからなかったが、壁にそっと手を触れると、彼の人生における最大の歓喜が、指を通して電気のように私の胸まで伝わった。
 ハミルトンの散歩道だった運河沿いの一本道を、私は歩き始めた。歩きながら、この一本道は、ハミルトンの歓喜とともに、涙をも滲(にじ)ませた一本道であると思った。栄光と悲劇の一本道は、ハミルトンが通り、アイルランドが通った一本道であった。私は行きつ戻りつしながら、次第に足の重くなるのをしきりに感じていた。
 どのくらいたったろうか、どこかから「大丈夫ですか」という声が聞こえた。振り返ると橋の上で、タクシー運転手が私を見下ろしていた。黙ってうなずく私の表情に何かを察したのか、「いやごゆっくりどうぞ」と慌てて言うと、橋の向こうに消えた。

 絶品としか言いようがない。

2002-11-25

新しい生き方を切り開いて全てを「価値」に変えていく/『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子


『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『淳』土師守

 ・絶望を希望へと転じた崇高な魂の劇
 ・無限の包容力
 ・新しい生き方を切り開いて全てを「価値」に変えていく

・『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
・『心にナイフをしのばせて』奥野修司
・『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
・『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル:霜山徳爾訳
・『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
・『石原吉郎詩文集』石原吉郎

必読書リスト その一

 これほどまでに生きる事の美しさを描いた本を私は知らない。わずか数センチの中に有り余るほどの愛情で紡ぎだされた生命(いのち)の言葉の数々に、幾度も胸を締め付けられ、感動し、涙を流した。

 どのページのどの文字にも生命(いのち)の崇高さを感じた。憎しみを慈愛に変え、絶望を生きる喜びと希望、そして感謝の心に変えていった母の偉大さに胸を打たれた。

 事件を知ったのは何気なくつけたテレビのニュースからだった。我家から程近い町で小学生の二人の女の子が立て続けに何者かに襲われたらしい……。犯人は捕まっていない。

 何か言いようのない怒りと恐怖が町中を覆いはじめたのはその頃からだった。様々な噂が飛び交い犯人像がまことしやかに囁かれはじめた。小学生達は集団登下校となり、保護者達は皆交代で通学路の道々に見張りに立った。下校後、外で遊ぶ子供達は日増しに減っていった。そんな不安が増していく中で、信じられない残忍な凶行が新たに報道された。そして、少女の一人が亡くなった事を知った。

 連日その話題でどこもかしこももちきりであった。あの時ほど人間不信に陥った事はなかった。そう、町中が人間不信の坩堝(るつぼ)の中に入り込んでいった。犯人はまだ見つからない。事件の起こった町では人影をつくる木という木は切り取られ、空にはヘリコプターが飛び交い、町を歩く自衛官や警察官の数は相当なものであった。そんな中でマスコミ人らしい人影が妙に活気を帯びて、なんともいえない違和感を感じていた。

 近くの町に住む私達も、子供を外で遊ばせる事を一切やめてしまった。公園に行っても人っ子一人姿を見せなかった。そして、登下校の見張りは益々熱を帯び、その後、数ヶ月続いた。黒い車、中年男性、がっちりした体型等、犯人像の噂は具体性を増し、またも、まことしやかに流れはじめ、通りすがりの男性にも警戒心を抱くようになっていった。

 そんな中で、やっと犯人が捕まった。それは、日本中を揺るがせる程の衝撃だった。 誰がこんな結末を予想しただろうか。日本中が暗雲立ち込める中、メディアはお祭り騒ぎであった。被害者の方々やそのご家族に思いを馳せたなら、胸が悪くなるような報道の数々。日本のマスコミの悪辣さを思い知ったのだった。

 それにつけても、山下さんの母としての偉大さは、それらとあまりにもかけ離れ、 対照的であった。人間はこれほどまでに美しく気高く、崇高になれるものだろうか。残虐な手によって、幼い命は傷つけられたが、最後の命の炎を燃やしこの世の生を全うした魂。それは春に舞う桜の花吹雪のように、美しく美しく。そして、その生を終える時、まさに漆黒の闇から旭日が昇らんがごとく威厳に満ちた光を帯びて宇宙に帰っていった。

「少年の凶行は彩花の命の力が自ら選択した『きっかけ』にすぎず、彩花は粛々と自分自身の寿命の最終章にすすんでいくのです」

 まさに、突き抜けるような苦しみの中で、どうにもあらがえなかった運命を価値あるものに変えていかれたのだった。それは、想像を絶する苦しみの中で荘厳ともいえる光景であったに違いない。

 私は、何があっても顔を上げて生きるという決意を彩花に伝えようと、集中治療室に戻りました。
 するとどうでしょう、決意した私の心をすでに知っていたように、彩花は今までとは比べものにならないほど、にっこりと微笑んでいるではありませんか。目もとには明らかな笑い皺ができ、口の両脇にも笑った皺が出来ていました。
 それは、
「お母さん、よかったね。大事なものを手に入れることができたね。これで、彩花は安心できた。お父さん、お母さん、本当にありがとう」
 そう語りかけるかのような、信じがたい笑顔でした。
 そして、それから3時間ほど経った午後7時57分、彩花はこぼれるような笑顔のまま、悠然と旅立ったのです。

【『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子(河出書房新社、1997年/河出文庫、2002年)】

 事件直後すぐにでも生きを引き取ってもおかしくない状態からの奇跡ともいえる彩花ちゃんの様子を思い描き、私は感動で体中が身震いするのを感じた。

 その柱にも、畳にも、この道、あの公園、そこかしこに彩花ちゃんの息づかいを感じる。彩花ちゃんは生き生きとした輝きを放って確かに生きていた。それを証明するように、最後に笑顔で旅立った。

 どのような苦痛がこの世にあったとしても、これほどの苦しみはありえないと思った。あまりにも衝撃的な事件であり、それはあの震災に匹敵するものだった。私には到底読めないと思っていた。けれど、それはとんでもない間違いであった。もっと、もっと早くに読むべきだったと心から後悔した。

 私の父の死に思いを巡らせ、それを価値あるものとして受け入れる事を教えて下さった。あの時突然父は居間で倒れた。すぐに救急車で病院に運ばれ、ありとあらゆる手を尽くしていただいた。「生きて、生きて、死なないで」と、ほとんど意識のない父の背中をさすり父の回復を祈った。けれど、程なく父は霊山へと旅立った。確かに父は体調を悪くしていた。けれど、それほどまでに悪化していた事を全く気付いてやれなかった。そんな自分を何年も何年も責め続けていた。そんな苦痛の日々を送ってきた過去を、山下さんは暖かく価値あるものとして教えて下さった。私はこの本のお陰で、乗り越えられなかった過去に決別する事ができた。

 気高く昇華された人の心は何をもってしても決して悪に犯されることはないのだと実証して下さった。

 京子さんは今も彩花ちゃんを思うとき、涙を流しておられるに違いない。けれど、その涙は無数にきらめく星々のごとく、あまねく照らす月の光のように多くの人々の心に染み渡り、暖かく癒す涙となった。

 憎しみとあきらめを乗り越えて、私たちは前に進むしかないのです。新しい生き方を切り開いて、全てを「価値」に変えていくしかないのです。

 いかなる行きづまりをも打ち破る、自分の内なる「生きる力」に目を開き、耳を傾けなければなりません。

 これらの言葉の数々は、今後の私の人生の大いなる目的となるでしょう。

 強く雄々しく生きていくことの素晴らしさを教えて下さった、山下京子さんと、彩花ちゃんに心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

【Ryoko】

 

2001-09-03

無限の包容力/『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子


『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『淳』土師守

 ・絶望を希望へと転じた崇高な魂の劇
 ・無限の包容力
 ・新しい生き方を切り開いて全てを「価値」に変えていく

・『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
・『心にナイフをしのばせて』奥野修司
・『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
・『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル:霜山徳爾訳
・『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
・『石原吉郎詩文集』石原吉郎

 彩花ちゃん、今ごろあなたは既に生まれ変って、どこかお母さんの近くにいるのでしょうね。

 あなたのお母さんが綴った本を読みました。あなたが亡くなったことは、全国を揺るがせた悲しく許し難い事件で、わたしも知っていました。そのお母さんのお心はどれほどのもであるか察するに余りあるものでしょう。手記を読むことでわたしが少しでもその悲しみを共有することができれば、と思って手にとってみたのです。わたしにも彩花ちゃんと同い年の娘がいます。あなたのお母さんがあなたを大事に思うのと同じように、わたしも娘をとても愛していて、自分の命より大事だと思っています。その娘が、ある日突然他人の手によってその生を永遠に奪われてしまう、これほど辛く悲しい出来事はありません。けれど、どんなに想像してみても、本当の悲しみは当事者でなければわからないことでしょう。そのことに申し訳なさを感じながら読み始めてみました。ところがね、驚いてしまったの。悲しみを共有するどころか、反対に私のほうが励まされ、読み終えた今では子供達へのますますの愛情や自分の中にある勇気を信じる力、そして明日からまた続いていく未来への希望、そんなもので心の中は今いっぱいになっているのです。

 嬉しいことに読み始めてすぐ、わたしとお母さんには共通点があることがわかりました。それは、「息子も娘も、偶然にわが家に生まれてきたのではないと思っています。この二人は、まぎれもない私たちとの『縁』によって、遠いところから間違いなく夫と私を選び取り、私のお腹を借りてやってきてくれたのだと信じています。決して、誰でもよかったのではありません」とお母さんが考えているところです。わたしも、うちの子ども達はわが家に必要なメンバーだったから、お互いに呼び合って、私たちを家族と選んで生まれて来てくれたと思っています。生まれたてのくにゃくにゃの赤ちゃんを抱いて「やっと会えたね、ずっと待ってたのよ」と声を掛けチュッとしたあのホッペのあたたかさ柔らかさは今でも覚えています。きっと彩花ちゃんのお母さんも同じ気持ちだったでしょうね。

 そんな大事な娘を他人に奪われた悲しみ、悔しさ、怒り、苦しみ、そのような状況の中へ一人にしてしまった後悔、自分を責め、なぜこんな事件があったのか、なぜ彩花ちゃんでなければいけなかったのか、彩花ちゃんの身に起きたこと、自分に降り掛かってきた事を受け止めなければならないこと、自分の中に受け入れなければならないこと。どうやって納得して心に収めていくのか、この問題は実は私にとっても意味のあることでした。この事件から逃げることや忘れることをせず、しっかり目を開け、心を開いて立ち向かっていったお母さんは立派でしたね。恐ろしいことにも目を背けずに臨む姿勢は、人間として見習わなければいけないことだと気づかされました。

 わたしには子どもの頃、とても悲しく辛いことがたくさんありました。2歳の時に母と別れたので、母のわたしを呼ぶ優しい声やあたたかい抱っこの記憶がありません。寂しさに加え、一緒にいた父には、わたしの存在は怒りの対象にしかならなかったのです。その事がどうしても悔しくて悲しくて、あった事をみんな心の奥深くにしまってしまいました。心がザワザワするよりは忘れた振りをしている方がずっと楽なのです。そうして結婚するまでずっと、楽しいことが全く無い家庭で暮らしてきました。この気持ちは誰にも打ち明けず、外では「明るい笑顔のわたし」で過ごしてきました。けれども、いくら忘れた振りをしていてもその事実が無くなったわけではありません。ときどきフッと浮かんできてはとても悲しい気持ちになります。特に子どもが生まれてからは「こんな可愛いわが子を、どうしてお母さんは置いていったのかしら」「どうしてわたしだったのかしら」「本当なら違う暮らしをしていたはずなのに」と、たまらなく悔しくてあきらめきれない怒りに襲われて、その気持ちがどうにも処理できず、すっかり疲れ切ってしまうことも度々ありました。事実を許さず受け入れず、そのことに囚われて自分のことを哀れんでばかりいました。けれどもある日、そんな親をわたし自身が選んで生まれてきたんだと気づいたのです。そして今度はその理由を探したくなりました。そんな時、彩花ちゃんのお母さんの本を読んだのです。

 運命が動いていくときというのは、人間があらがってもあらがってもどうしようもないくらい、すべてがひとつの方向に流れていきます。人間は、定められた運命や宿命というものの前では、まったく無力なのでしょうか。私は今、人間を貫く運命というものの巨大な力を思い知らされながら、しかし、ときに人間は、流されてしまったように見えるなかにも、運命を乗り越えて勝ってみせることができるのだと信じられるのです。

【『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子(河出書房新社、1997年/河出文庫、2002年)】

 このくだりでは勇気と希望を感じることができました。わたしに起きた納得できない、取り戻すことの出来ないわたしに向けられるべき母の愛、この悔しさや悲しさに立ち向かい、乗り越えて、心からの笑顔を取り戻すことが本当にできるのかも、という希望です。母からの愛情を渇仰したわたしが、今、溢れ出る愛情で子ども達を包んでる。そうしてわたしの心が満ちていくことを確かに感じていました。それでも心の中には常に暗いものがあったままでした。でも、そこにとうとう希望のひかりが射したのです。

 わたしがもっとも心を打たれたのは、どんな状況にあってもそこに留まらず、前進しなければいけない、という考えです。彩花ちゃんのお母さんに、手を取ってもらって歩き出したような気がしました。

 運命だからあきらめよう、というあきらめの思想でも、私たちは悲しみの現場に置き去りにされてしまいます。生きる勇気を奪われてしまいます。憎しみとあきらめを乗り越えて、私たちは前に進しかないのです。新しい生き方を切り開いて、すべてを「価値」に変えていくしかないのです。

 わたしは自分にあった出来事を、変えられないならあきらめようと自分に課していました。あきらめればすっきりした気分で歩き出せると信じて疑わなかったのです。けれど、それはまったくの誤りで、間違っていたからこそ、どうにもこうにも前へ進めず苦しばかりがつきまとっていたことに気づいたのです。わたし自身に起きたことは、わたしにとって必要不可欠な出来事で、これを自分の「価値」として「栄養」に変えていくことこそが、わたしの課題だったのです。

 苦しみながら立ち止まっていては何も生まれません。悲しみや辛さだけで心は一杯になってしまいます。それと同じく愛情や優しい気持ちで、心を一杯にすることもできるはずです。それどころか、わたしが溢れるほどの愛情をもって子ども達を抱き締めても、心の中にはまだあり余る愛情が溢れてきます。母もきっと、そんな気持ちで遠く離れて暮らすわたしを思っていてくれただろうと、今ではとても自然に信じられるのです。そして、わたしが幸せにならなければ、もちろん母の幸せもあり得ないと気づいたのです。今はとてもゆったりとしたあたたかいもので、心の中が満たされています。進んでいく道が開けたので、もうそれほど苦しむこともないでしょう。

 彩花ちゃんを亡くしたお母さんの苦しみにはほど遠いものですが、わたしの問題もまた、わたしにとっては抱え切れない苦しみでした。けれどもお母さんの気持ちに、わたしの気持ちを重ねて読み進んでいくうちに、不思議な力が湧いてくるのがわかりました。この先なにか大変なことがあっても、頑張って乗り越えていける力だと信じています。幸せに向かって歩き続け、努力する力です。こんな素晴らしいことを教えてくれた彩花ちゃんとお母さんに感謝の気持ちを伝えたくてこうして手紙を書きました。とうとうわたしを抱き締めることなく、去年亡くなったわたしの母の分のお礼もつけ加えます。本当にありがとう。

 最後に、加害者の少年に対して「共に苦しみ、共に闘おう。あなたは大切なわたしの息子なのだから」と手を差し伸べる山下さんには心から敬意を表します。母性というものは、無限の包容力に支えられていることを知りました。

 彩花ちゃんへ。それから、いつか母になる娘へ――。

【のり】

 

2001-06-02

絶望を希望へと転じた崇高な魂の劇/『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子


『がんばれば、幸せになれるよ 小児ガンと闘った9歳の息子が遺した言葉』山崎敏子
『いのちの作文 難病の少女からのメッセージ』綾野まさる、猿渡瞳
『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『淳』土師守

 ・絶望を希望へと転じた崇高な魂の劇
 ・無限の包容力
 ・新しい生き方を切り開いて全てを「価値」に変えていく

『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
神戸・小学生連続殺傷事件:彩花さんの母・京子さん手記全文「どんな困難に遭っても、心の財だけは絶対に壊されない」
帰ってきた少年A
『心にナイフをしのばせて』奥野修司
『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル:霜山徳爾訳
『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
『石原吉郎詩文集』石原吉郎

必読書リスト その一

 泣いた。
 感動した。
 魂を揺さぶられた――。

 事件(神戸少年事件)から一年と経たないうちにワープロと向かい合うまでにどれほどの勇気を奮い起こしたことだろう。キーを叩くことは我が子の死を見つめることに他ならない。指先に込められた力は心の勁(つよ)さそのものだと私は想像する。

 娘の死、しかも惨殺、その上犯人は少年。三重の悲劇は言語に絶する苦悩をもたらし、精神がズタズタに切り刻まれるほどのストレスを与えたに違いない。余りにも過酷な運命と対峙し、もつれ合い、叩きつけられそうになりながらも立ち上がった母。それを可能にした力の源は何か? 生きる力はどこから湧き出したのか? 絶望の淵から希望の橋を架けられたのはなぜか?

 ページをめくり、感動を重ねるごとに疑問は大きくなる。

 音楽コンサートを通して文化を語り、報道被害の体験からマスコミに警鐘を鳴らす。実生活の中から紡ぎ出された。人生観・人間観がちりばめられている。机上の哲学など足許(あしもと)にも及ばぬほどの人間の叡智が輝いている。それはぜか?

 疑問はどんどん膨らみ雲のように立ち込める中で、彩花ちゃんの姿の輪郭がくっきりと見えるような気がした。あっ、と思うと雲は吹き払われ、彩花ちゃんの直ぐ後ろに山下京子さんがいた。

 母と娘(こ)の絆だったのだ。死をもってしても揺らぐことのない、死をも超えた永遠性をはらんだ絆だ。時空をも超越した生命的なつながり。次なる生によって再び母子(ははこ)と見(まみ)えるであろう確信。事件を必然性から捉える達観。山下さんは永遠なる絆を絶対的ともみえる態度で信じられるのだ。その生命と生命の絆は更に普遍なるものへと昇華し、犯人とされる少年Aをも母性によって包み込もうとする。行間に涙があふれ、紙背に血が滴る思いで記された言葉は限りなく優しい。

 山下京子さんの崇高な生きざまに接し、私の心までもが浄化された感を抱いた。

 事件に同時代性があるだけに、『夜と霧』(V・E・フランクル著、みすず書房)以上の感動を覚えた。

 これほどの魂の劇と、慈愛の詩(うた)と、聖なる物語を、私は知らない。

 

1999-02-09

生死を超えた母子の絆/『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子、東晋平


『がんばれば、幸せになれるよ 小児ガンと闘った9歳の息子が遺した言葉』山崎敏子
『いのちの作文 難病の少女からのメッセージ』綾野まさる、猿渡瞳
『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『淳』土師守
『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子

 ・生死を超えた母子の絆

加害男性、山下さんへ5通目の手紙 神戸連続児童殺傷事件
神戸・小学生連続殺傷事件:彩花さんの母・京子さん手記全文「どんな困難に遭っても、心の財だけは絶対に壊されない」
元少年A(酒鬼薔薇聖斗)著『絶歌』を巡って
『心にナイフをしのばせて』奥野修司
『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル:霜山徳爾訳
『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
『石原吉郎詩文集』石原吉郎

必読書リスト その一

 いまだ闘い続ける女性から再びのメッセージである。

 平成9年暮れに『彩花へ 「生きる力」をありがとう』を出版。年が明け、読者から続々と手紙が寄せられ、あっという間にその数1000通に及んだという。

 あなたがいてくれるから──。亡くなった娘が、見ず知らずの多くの人々の心の中で生き続けていることほど、今の私にとってうれしいことはありません。

【『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子、東晋平〈ひがし・しんぺい〉(河出書房新社、1998年/河出文庫、2002年)以下同】

 この本は読者への感謝を込めて綴られた母からの返事である。

 第1章が前作の出版の経緯とその後、次に『私たちこそ「生きる力」をありがとう』と題して読者からの手紙を紹介。そして、最後に構成を手掛けてきたジャーナリスト・東晋平による解説、の3章で構成されている。

 感動がまざまざと蘇る。山下彩花という少女が私の中で息づく。私は既に彼女を知っている。10年という歳月を流れる星の如く駆け抜けるように生き、死して尚、幾十万の人々に希望の光を降り注ぐ、鮮烈なる魂の持ち主。犯人とされる少年が振るったハンマーも、彼女の魂にかすり傷ひとつ負わせることはできなかったに違いない。

 山下さんは言う、「私は決して強くなんかない」と。「悲しみを乗り越えたわけでもない」と。反響の大きさに驚きながらも、自分への過大な評価を斥(しりぞ)ける。「たしかに、立ち直る努力はしています。でも、そんなに簡単なものではないのです。1年半を過ぎた今でも、泣かない日は1日たりともありません。大事な大事な子供を他人の手で奪われて、立ち直れるような母親はいないでしょう」。

 彼女を特別視して得られるのは「自分には無理だ」との諦観に他ならない。それでは、いくら感動しても、たちどころに冷めてしまうだろう。そうした行為自体が底の浅い己自身となって跳ね返ってくるのだ。挙げ句の果てには、泣いたり笑ったりということがテレビの前でしかできないようになるだろう。

 だが、私は敢えて言おう「彼女は強い」と。強がるような素振りを見せないのがその証拠だ。ありのままの自分をさらけ出し、自分の弱さをも否定しようとはしない。そこに強靱なしなやかさが秘められている。「疾風に勁草を知る」(疾風が吹いて強い草がわかる)との俚諺(りげん)があるが、そうした「心の勁(つよ)さ」を感じてならない。バネのような弾力をはらんだ瑞々しい人間性。それは「汝自身を知る」者の強さなのだ。

 一周忌を終え、5月に納骨。その際、錯乱に近い悲しみに襲われた事実が書かれている。悲しみにのたうちまわる中で、山下さんは一つの哲学を見出す。

 人間として生きていくうえには、深く悲しむこともまた必要なのだ。

 そして、「悲しむということは、自分とその人との関係を深く考えること」であり「深く悲しむことができる人のみが、深い喜びと深い怒りを知ることができるのだ」と。

 実際に地獄を経験した者のみが知り得る言葉は、悟性の輝きに包まれている。

 第3章で東晋平が、

 あの戦時中、中国大陸で生体実験や虐殺に手を染めた医師や兵士の大半が、わずかな罪の意識をを抱きつつも、あれは戦争の狂気だったのだと割り切って、罪の意識に苛まれることもなく戦後を生きているのです。
 殺された者が自分と同じ人間であるということすら想像できず、その悲しみに共感する能力が欠落していたがゆえに、自分の行為への悲しみも感じない。自分が背負うべき重圧と悲しみを、軍隊という集団に預けて、自分が傷つかないように生きてきたのでしょう。

 と敷衍(ふえん)している。

 悲しみを心に深く抱き続けながら、それを価値へと変えていく生き方を知ることができました。(中略)そういう生き方を見いだしていくことができれば、私たちは人生のどんな苦悩や失敗も、未来のための財産に変えていかれるような気がします。

 涙の海の涯(はて)から金色の太陽が昇る。

 第2章の圧巻は東京都世田谷区の大野孔靖くん(小学校4年生)。

 すごい本ですね。この文は、人間に本当のことをおしえてくれるすごい文です。はじめは、この事けんで悲しかったのに本当にこんなすごい文ですごいと思いました。ぼくは「自分で自分とたたかい、自分をすこしでもよくしていくのです」というところがよかったです。ぼくは、自分で自分とたたかってよくしていきたいです。

 偉いっ! と私は膝を打った。さすが諸葛孔明と井上靖を併せたような名前を持つだけのことはある。子供の直観が見事に本質を捉えている。たどたどしい文章がかえって感動を鮮やかに表現している。

 言葉を紡ごうとするよりも静かに内省するがいい、そんな気分に浸される。軽佻浮薄で小賢しい評論、世俗の垢(あか)にまみれた貪欲な宗教、問題の全てを子供に押しつける教育、そうした暗雲を遙か下方に見下ろし、山下さんの言葉は無窮を遍(あまね)く照らす。

 我が娘を喪い、生命の尊厳さを思い知った母は、多くの青少年の自殺に心を痛め、次のように語る。

 けれども私は今、思うのです。死にたくなるほど苦しい思いをしたときが、人間が本当に幸福になっていくチャンスなのだと。自分の人生を、大きく変えていくときなのだと。
 苦しいとき、辛いとき、虚しいときには、目をつぶらないで、その悲しみと徹底的につきあうことです。ハラを決めて、水底まで沈んでみることです。深く深く悲しめば、必ず新しい力が湧いてきます。
 自分が変われば、必ず何かが動き始めます。死ぬ勇気を、自分の変革に向けていくのです。他人に苦しめられているように思えることでも、全部、自分の人生なのです。そうであれば、自分で新しい道を切り開くしかありません。
 その、人間の生命の深い方程式が見えてくると、身に起こるあらゆる不幸も、悲しみも、苦しみも、自分の人生を飾る意味のあるものに見えてくるはずです。
 この世に必要のない人間なんて1人もいませんし、価値のない人間も1人もいないはずです。自分には価値がないように思えるときがあっても、決めつけないで、自分で価値ある自分をつくっていけばいいのだと思います。(中略)
 人間には、価値を創り出していくすごい力があります。
 生きている人間に、何ができないといえるでしょうか。

 この言葉を聞けば自殺せずにすんだ子供も山ほどいただろう。なんと優しく、力強い言葉だろう。悲母観音さながらではないか。

 市井にこうした人物がいるという事実に、まだまだ日本も捨てたものではない、と心を強くした。河野義行さん(『「疑惑」は晴れようとも』文藝春秋、『妻よ! わが愛と希望と闘いの日々』潮出版社)にしてもそうだが、平凡にして偉大な人物はいるものだ。

 生死(しょうじ)を超えた母子の絆に永遠を感じた。