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2011-10-06

地球外文明(ETC)は存在しない/『広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由 フェルミのパラドックス』スティーヴン・ウェッブ


『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン
『黒体と量子猫』ジェニファー・ウーレット
・『重力とは何か アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る』大栗博司

 ・地球外文明(ETC)は存在しない

『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』レオナルド・サスキンド

 神と宇宙人と幽霊はたぶん同一人物だ。いずれも自我の延長線上に位置するもので、人類共通の願望が浮かび上がってくる。で、少なからず見たことのある人はいるのだが、連れてきた人は一人もいない。

霊界は「もちろんある」/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 すなわち神と宇宙人と幽霊は情報次元において存在するのだ。ま、ドラえもんと似たようなものと思えばいい。ドラえもんは存在するが、やはり連れてくることは不可能だ。

「地球外文明(エクストラテレストリアル・シヴィリゼーション/略してETC)〈※原文表記は Extra-Terrestrial Civilization か〉」は、厳密にいえば宇宙人というよりも、高度な文明をもつ知的生命体という意味合いだ。

 ロシアの天体物理学者ニコライ・カルダシェフは、そのような分類について、役に立つ考え方を提案した。ETCの技術水準は三つあるのではないかという。カルダシェフ・タイプ1、つまりK1文明は、われわれの文明と同等で、惑星のエネルギー資源を利用することができる文明である。K2文明になると、地球の文明を超え、恒星のエネルギー資源を利用できる。K3文明ともなると、銀河全体のエネルギー資源を利用できる。さて、(スティーヴン・)ジレットによれば、銀河にあるETCの大半はK2かK3ではないかという。地球上の生命についてわかっていることからすると、生命には利用可能な空間を見つけて、そこへ広がっていくという、生得の傾向があるらしい。地球外生命は別だと考える理由はない。きっとETCは、生まれた星系から銀河へ進出しようとしているだろう。ここで大事なのは、技術的に進んだETCなら、数百万年で銀河系を植民地にできるという点である。それならすでに地球にも来ていていいはずだ。銀河は生命であふれかえっているはずだ。ところがETCが存在する証拠は見つかっていない。ジレットはこれをフェルミ・パラドックスと呼んだ。ジレットにとって、このパラドックスはそっけない結論を示していた。この宇宙にいるのは、人類だけということである。

【『広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由 フェルミのパラドックス』スティーヴン・ウェッブ:松浦俊輔訳(青土社、2004年/新版『広い宇宙に地球人しか見当たらない75の理由』、2018年)以下同】

カルダシェフの定義
フェルミのパラドックス

 科学者の想像力は凄いもんだ。「あ!」と頭の中に電気が灯(とも)る。「ってなわけで、やっぱりいないのよ」以上、で終わってもよさそうなものだが、スティーヴン・ウェッブはここから50の理由を挙証してゆく。

Black Hole Pumps Iron (NASA, Chandra, 09/14/09)

 まずはエンリコ・フェルミの人となりを紹介しよう。

 その後まもなく、ベータ崩壊(大質量の原子核にある、電子を放出するタイプの放射能)に関するフェルミの理論で、その国際的な名声は定まった。その理論は、電子とともに、幽霊のような正体不明の粒子が放出されることを求めていた。この粒子をフェルミは中性微子(ニュートリノ)――「小さな中性のもの」と呼んだ。このような仮説的なフェルミ粒子の存在を誰もが信じた訳ではないが、結局、フェルミは正しかった。物理学者は1956年、とうとう、ニュートリノを検出したのである。

 何と「ニュートリノ」を命名した人物であった。しかも生まれるずっと前の名付け親ときたもんだ。偉大なるオジイサンとしか言いようがない。

 フェルミの同業者たちは、物理学の問題についてその核心をまっすぐ見通し、それを簡単な言葉で述べるフェルミの恐ろしいほどの能力を讃えていた。みんなフェルミのことを法王と呼んでいた。間違うことがないように見えたからだ。それと同様に印象的だったのが、答えの大きさを推定する方法だった(複雑な計算を暗算することも多かった)。フェルミはこの能力を学生に教え込もうとした。いきなり、一見すると答えようのない問題に答えろと命じることがよくあった。世界中の海岸にある砂粒の数はいくらかとか、カラスは止まらないでどのくらいの距離飛べるかとか、人が呼吸するたびに、ジュリアス・シーザーが最後に吐いた息の中にある原子のうち何個を呼吸していることになるかとかの問題である。このような「フェルミ推定」(今ではそう呼ばれている)を考えるには、学生は世界や日常の経験についての理解に基づいて、おおざっぱな近似をする必要がある。教科書やすでにある知識に基づいてはいられないのだ。

 科学は合理性をもって世界を捉える。ここに科学の魅力がある。例えば人体は60兆個の細胞から成る。そして毎日15兆個(20%)が死ぬ。1秒間で5000万の細胞が生まれ変わる。血管全部をつなぐと10万km(地球2周半に相当)になり、肺を広げるとテニスコート半分ほどとなる(「からだの不思議 素晴らしい人体」を参照した)。

 これは単なる数量の計測ではない。人体を小宇宙と開く偉大な発見なのだ。

 パラドックスという言葉は二つのギリシア語に由来する。「~に反する」という意味の「パラ」と、「見解・判断」を意味する「ドクサ」である。それはある見解や解釈とともに、別の、互いに排除し合う見解があることを述べている。この言葉はいろいろな細かい意味をまとうようになったが、どの使い方にも、中心には矛盾という観念がある。ただ、パラドックスはつじつまが合わないだけのことではない。「雨が降っている。雨は降っていない」と言えば、それは自己矛盾で、パラドックスはそれだけのことではない。パラドックスが生じるのは、一群の自明の前提から始めて、その前提を危うくする結論が導かれるときである。外ではきっと雨が降っているに違いないとする鉄壁の論拠があったとして、それでも窓の外を見ると雨は降っていない。この場合、解決すべきパラドックスがあるということになる。
 弱いパラドックスあるいは「誤謬(ファラシー)」は、少し考えれば解決がつくことが多い。矛盾が生じるのは、たいてい、ただ前提から結論に至る論理のつながりを間違えているだけだからだ。これに対して強いパラドックスでは、矛盾の元はすぐには明らかにならない。解決がつくまで何世紀もかかることもある。強いパラドックスには、われわれが後生大事に抱えている理論や信仰を問い直すという力がある。

 パラドックスというテーマにも強弱があるという指摘が面白い。小疑は小悟に、大疑は大悟に通じるということなのだろう。宗教って、こういうところが曖昧なんだよね。彼らはバイブルや経典に束縛されて合理性を見失うのだ。だから、どの宗教でも間違い探しみたいな研鑚ばかりしているのが現状だ。

Black Holes Have Simple Feeding Habits (NASA, Chandra, 6/18/08)

 では、フェルミ・パラドックスが誕生した瞬間を見てみよう。

 4人は腰をおろして昼食をとり、話はもっと現世的なことに転じた。すると、まだほかのこと話しているさなか、だしぬけにフェルミが聞いた。「みんなどこにいるんだろうね」。昼食をともにしていたテラー、ヨーク、コノピンスキーは、フェルミが地球外からの来訪者のことを言っているのだとすぐに理解した。それがフェルミだったので、みな、それが最初思われていたよりも厄介で根本にかかわる問題であることに気づいた。ヨークの記憶では、フェルミは次々と解散して、地球はとっくに誰かが、何度も来ているはずだという結論を出した。(1950年、ロスアラモスにて)

 ロスアラモスの昼食から生まれたというのが示唆的だ。ロスアラモスは核爆弾の総本山である。

 言い換えれば、われわれと通信しようとする文明が、今現在、100万あってもおかしくないということだ。すると、なぜ、向こうからの声が聞こえてこないのだろう。それに、どうしてこちらへ来ていないのだろう。(中略)みんなどこにいるのか。【彼らはどこにいるのだろう】。これがフェルミ・パラドックスである。
 パラドックスは知的生命が存在しないということではないことに気をつけておこう。パラドックスは、知的生命が存在すると予想されるのに、その兆しが見あたらないということである。

 つまり文明が発達していれば当然放射されるはずの電磁波が観測されていないのだ。もちろん宇宙は広大であるがゆえに、たまたま地球の上を通過していないと考えることはできる。

 このパラドックスが別個に四度発見されたことを知れば、このパラドックスの力がわかるだろう。このパラドックスは、正確にはツィオルコフスキー=フェルミ=ヴューイング=ハート・パラドックスと呼ぶべきかもしれない。

 知のシンクロニシティといってよい。一握りの人が先鞭(せんべん)をつける格好で脳内のネットワークシステムは進化し続ける。

Kepler's Supernova Has Fast-Moving Shell (NASA, Chandra, Hubble, Spitzer,10/06/04)

 しかし今のところ何も見つかっていない。探査機は熱を放出しているだろうが、異常な赤外線も観測されていない。

 高度な技術をもつ知的生命体が存在する可能性は極めて低い。

 しかしわれわれは自信をもって、エイリアンの存在を示す証拠はまだ見つかっていないと言うことはできる。それを観測していないのに、なぜいるかもしれないと想定するのだろう(さらに、探査機が太陽系にいるのなら、どうして地球だけ放っておくのかという問題も残る)

 宇宙人を信じる人々は願望を投影しているのだ。著者は物理学者であるが元々はETC肯定派だったという。科学者の間でさえ意見が分かれている。

 もしかしたら、われわれみながエイリアンなのかもしれないのだ。

 人体だって元を尋ねれば星屑に行き着くわけだから、別にエイリアンであっても構わんがね。特に地球という土地に束縛される必要はないだろう。

 地球外文明(ETC)は存在しない。今のところは。



偽りの記憶/『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』スーザン・A・クランシー
宇宙人に誘拐されたアメリカ人は400万人もいる/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー、ブライアン・キング

2011-09-30

ジャーゴン


 ジャーゴン(仲間内の専門用語)

【『触発する言葉 言語・権力・行為体』ジュディス・バトラー:竹村和子訳(岩波書店、2004年)「訳者あとがき」より】

触発する言葉―言語・権力・行為体

はてなキーワード

2011-09-27

2011-09-19

双子のパラドックス


 ニュートンの運動法則は空間内の絶対的位置という概念にとどめをさしてしまった。一方、相対論は絶対時間を排除してしまった。そこで何が起こるか、双児を例にとって考えてみよう。双児の一方が山の上に移り住んでおり、もう一方は海辺にとどまっているとすれば、前者は後者よりも速く齢をとるだろう。したがって二人が再会することがあれば、そのときには一方が他方よりも老いていることになる。この例では年齢の違いはごくわずかだが、双児の一方が光速にほぼ等しい速さの宇宙船に乗って長い旅に出るとすれば、違いはずっと大きくなる。旅から帰ってきたとき、彼は地球に残っていた兄弟にくらべてずっと若いだろう。この現象は双児のパラドックスと呼ばれているが、これをパラドックスと感じるのは実は、心の底に絶対時間の概念が巣食っているからなのである。相対性理論では唯一の絶対時間なるものは存在しない。そのかわりに、個人はめいめいが独自の時間尺度をもっているが、これはその人がどこにいるか、どのような運動をしているかによって決まるのである。

【『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまで』スティーヴン・ホーキング:林一〈はやし・はじめ〉訳(早川書房、1989年/ハヤカワ文庫、1995年)】

Wikipedia
双子のパラドックスについて

ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで (ハヤカワ文庫NF)

2011-07-26

愚行権


 人間には、愚行権があります。それは、他人が考えると愚かな行為に見えても、自分がやりたいと思うことを行う権利です。

【『インテリジェンス人生相談 個人編』佐藤優〈さとう・まさる〉(扶桑社、2009年)】

インテリジェンス人生相談 [個人編]インテリジェンス人生相談 [社会編]

2011-07-24

全能の逆説


【基本的な問い】全能者は自ら全能であることを制限し、全能でない存在になることができるか?

【古典的な問い】全能者は〈重すぎて何者にも持ち上げられない石〉を作ることができるか?

 この問いは次のように分析できる。(哲学者の回答)

1.ある存在は、〈それ自身が持ち上げることのできない石〉を作ることができるか、できないかのどちらかである。
2.もし、その存在が〈それ自身が持ち上げることのできない石〉を作ることができるならば、その存在は全能ではない。
3.もし、その存在が〈それ自身が持ち上げることのできない石〉を作ることができないならば、その存在は全能ではない。

 次のような要請によって逆説を解消しようという立場もありうる。即ち、全能性は、常に全てのことができることを必ずしも要求しない、という要請である。そうすれば、次のように理屈をつけられる。

1.その存在は、作った時点では持ち上げられない石を作ることができる。
2.しかし、その存在は全能であるから、その存在は後からいつでも、持ち上げられる程度に石を軽くすることができる。従って、その存在を全能であるというのは尚も合理的である。

 思慮深いスティーヴン・ホーキングによる創造主と自然法則との関係についての考察に従い、古典的記述法を次のように直すことができるだろう。

1.全能者がアリストテレスの物理学に従う宇宙を創造する。
2.その宇宙で、全能者は自分自身が持ち上げられないほど重い石を作ることができるであろうか。

 存在が偶発的に全能である場合は逆説は解消できる。

 1.全能者は自分に持ち上げられない石(あるいは分割できない原子など)を作る。
 2.全能者はその石を持ち上げられず、全能でない者になる。

 存在が本質的に全能である場合は逆説は解消できる。

1.その全能者は本質的に全能である、故に全能でない者になることはできない。
2.さらに、全能者は論理的に不可能なことをすることはできない。
全能者が持ち上げられない石を創造することは、上記の論理的不可能性にあたる。故に全能者がそのようなことを要求されることはない。
3.全能者はそのような石を創造することはできないが、それでも尚全能性を保つ。

 一部の哲学者は、全能性の定義にデカルトの観点を含めればこの逆説は解消するという姿勢を崩していない。その観点とは全能者は論理的に不可能なことをなし得るというものである。

1.全能者は論理的に不可能なことをすることができる。
2.全能者は自らが持ち上げられない石を作ることができる。
3.全能者は次いでその石を持ち上げる。

 以上、Wikipediaより。

2011-07-18

水槽の脳


 ペンフィールドが1930年代に行なった古典的な脳の実験は、ある有名な謎の元になった。その後ずっと哲学の学徒からは「水槽の脳」と呼ばれている問題である。こんな話だ。「あなたはそこに座ってこの本を読んでいると思っている。実はあなたは、どこかの実験室で体から切り離され、培養液の入った水槽に入れられた脳だけの存在かもしれない。その脳に電極がつながれ、あやしげな科学者(マッド・サイエンティスト)が電気刺激を流し込み、それでまさにこの本を読んでいるという体験を引き起こしているのだ」

【『パラドックス大全』ウィリアム・ストーン:松浦俊介訳(青土社、2004年)】

Wikipedia
心の哲学まとめWiki
荘子と『水槽の脳』。

パラドックス大全

2011-07-08

ウルバッハ・ビーテ病


 人間でも、扁桃体(へんとうたい)がこわれると感情に障害がみられる。扁桃体だけがこわれてしまう「ウルバッハ・ビーテ病」の患者は、表情から相手の感情を読みとることができなくなる。
 このように扁桃体がこわれると、自分にとって好ましいものと、そうでないものの判断がつかなくなったり、感情を理解できなくなったりする。そのため、扁桃体は快・不快の判断などを行っていると考えられている。

【『ここまで解明された最新の脳科学 脳のしくみ』ニュートン別冊(ニュートン プレス、2008年)】

脳のしくみ―ここまで解明された最新の脳科学 (ニュートンムック Newton別冊)

2011-06-11

多幸症(ユーフォリア)


 多幸症とは、常識的には幸せに感じないことに対して、何もかも幸せに感じてニコニコしている不自然な上機嫌をいう。精神症状のひとつ。躁うつ病や認知症の症状として現れることが多い。また、男性ホルモンや副腎皮質ホルモン使用の副作用として現れることもある。

【『介護福祉士 基本用語辞典』田中雅子監修、エディポック編(エクスナレッジ、2007年)】

バブル時代の多幸症(ユーフォリア)/『戦争と罪責』野田正彰
宗教的ユートピアを科学的ディストピアとして描く/『絶対製造工場』カレル・チャペック

介護福祉士基本用語辞典

2011-05-27

属人主義と属事主義/『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一


「偶像崇拝」について書こうとしていたのだが、色々と調べているうちにこちらを先に紹介する必要が生じた。ま、人生が旅のようなものであるなら、なにも目的地を目指して最短距離をゆくこともあるまい。寄り道こそが旅を豊かにするのだから。

 岡本浩一の著作には注意を要する。極めて説明能力が高いにもかかわらず、低俗な結論に着地する悪い癖があるからだ。たぶん野心に燃えている人物なのだろう。社会秩序に寄り添うような考え方が目立つ。だから、批判力を欠いた人には不向きだ。読書会のテキストなどに向いていると思われる。

 本書の中で属人主義と属事主義というキーワードが出てくる。

 最後に、とくに日本の職場風土の問題として顕在性が高いと著者が判断する、二つのトピックを「無責任の構造」の病理としてとりあげる。権威主義と属人主義である。権威主義は、社会心理学で多くの研究がなされて熟した用語であり、属人主義は、著者が評論などで用いている著者の造語である。権威主義は、国籍、文化に特定されず、広く見られる問題であるが、属人主義は、権威主義の日本的な現れ方の代表的なものだと考えればよいだろう。
 この二つは、日本の職場風土において、「無責任の構造」への服従を強いるとき、あるいは、盲従を宣揚するときに、その文法構造として機能する。その文法構造は、会議の発言や政策という具体的な形以外にも、目立たない形でなかば無意図的に用いられていることがある。稟議などの形式や、回覧順、書類の欄の構成、会議の席順、発言順、書類やお茶を配る順など、非言語的で非明示的なところにまで、権威主義、属人主義が紋切り型に浸透していることがある。「無責任の構造」を自覚し、そのなかで、良心を維持するということは、このようなところにまで浸透している権威主義や属人主義をも自覚することなのである。

【『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)以下同】

 つまり、「誰が」言ったか、「誰が」行ったかという視点が属人主義である。

 ネーミングとしてはよくない。なぜなら法律用語として別の意味があるからだ。私がアメリカ国内で犯罪をおかしたとする。この場合に日本の法律を適用するのが属人主義で、米国法を適用することを属地主義という。

 そもそも属人的視点あるいは価値観というべき性質であって、「主義」とは言いがたい。

「属事主義」とは、私の造語である。ことがらの是非を基本としてものを考えるのを属事主義と呼ぶことにした。

 話した「内容」、行った「事柄」に注目するのが属事である。

 属人と属事を一言で表せば「人」と「事」ということになる。このどちらに注目するか?

 本書は権威について書かれた本なので、当然の如く属事的な判断ができないところに組織崩壊の原因があるとしている。確かにそうなんだが、これでは足し算・引き算程度の計算である。

(※属人主義的情報処理のもとでは)誰かが自分の意見を支持してくれると、意見の正邪による発言とみなさず、「自分の味方をしてくれた」という対人的債務のようにみなす風土が発生することが少なからずある。そうすると、その相手が、今度、間違った意見を言っているときでも、「彼にはこのあいだ自分の意見を支持してもらった借りがある」という理由で、間違ったことがわかっていながら、支持を「返済する」ということが起こる。同様に、自分の意見を支持してくれなかった相手に、不支持による報復をするということも起こるわけである。

「対人的債務」というのは絶妙な例えだ。恩の貸し借り。結局、コミュニティ内部の同調圧力と権威が織り成すハーモニーが「服従」の曲を奏でるのだろう。

 私が民主主義を信用できないのは、判断材料が乏しいことと、人間の判断力に疑問を抱いているからである。高度情報化社会となると、メディアから垂れ流される恣意的な情報によって一票を投ずるしかない。現状はといえば、好き嫌いや損得で判断している人が多いのではなかろうか。だからこそ、恩の貸し借り=票の貸し借りみたいな情況がいつまで経ってもなくならないのだ。

 そして一番肝心なことは、誰人に対しても「そんな投票の仕方は間違っている」と言う資格はないのだ。いかなる判断を行使しても構わないし、投票へ行かないのも自由だ。

 大体、政治に「正しさ」を求めること自体がナンセンスなのかもしれない。「国益こそ正義」なあんてことになったら大変だ。

 私は民主主義に不信感を抱く一方で、政党政治を心の底から嫌悪している。ああ、そうだとも。でえっ嫌いだよ(←江戸っ子下町風)。党議拘束で自由な意見を封ずる政党政治は、属人主義というよりは属党主義である。「何でも党の言いなりになるんじゃ、党の犬と言われても仕方がないよ」と告げたら、彼らは「ワン」と返事をすることだろう。

 そう考えると国民は属国主義となりますな(笑)。マイホームパパは属家主義。

 でもさ、自我を支えているのって実は帰属意識なんだよね。

 属人主義的な感覚の人は、善悪などの判断も、じつはかなりの程度に対人依存していると考えてよい。つまり、もしあなたが属人主義なら、いまの職場に「『無責任の構造』がある」と考えて苛立つあなたの義憤そのものが、職場でかつて実力派閥だったグループの考え方を受けているだけのものであったり、あるいは、いま、職場を牛耳っているとあなたが感じているグループに対する反感が核になっているだけのものである可能性がある程度以上に高い。

 コミュニティ内部の敵味方意識が反対意見を排除する。このため組織というネットワークは必ず人々を隷属させる方向へと進む。ピーターの法則によれば、無責任どころか無能へ至るのだ。

残酷なまでのユーモアで階層社会の成れの果てを描く/『ピーターの法則 創造的無能のすすめ』ローレンス・J・ピーター、レイモンド・ハル

 岡本はあとがきにこう記している。

 真摯な判断を目指す人は、自己の選択が「良心的」であるかどうか日々懊悩しては懐疑し、葛藤するものだから、真摯であればあるほど、「自分が良心的だ」という自信からは遠ざかるはずである。
「自分が良心的な人間だ」などと公言できる人は、「良心」の基準がよほど甘いか、現実の複雑な厳しさに気がつかないほど脳天気な人なのだ。この種の公言が、真に良心的たり得ぬ人物の第一条件であるのは、「嘘をついたことがない」という公言がその公言そものを裏切っている無自覚と似ている。

 文章は上手いのだが、正義と善を混同している節が窺える。正義は立場に基づいている。泥棒にとっては盗むことが正義だ。資本家にとっての正義は金儲け(搾取)であろう。ビンラディンを殺害することがアメリカの正義で、そのアメリカに報復するのがアルカイダの正義だ。正義は集団の数だけ存在する。一方、善は異なる。善というのは万人にとって望ましい価値を意味するのだ。

 属事的判断は大変重要ではあるが、実践するのは至難である。それから、詐欺師だってもっともらしいことを言うのだから言葉を過信するのも危険だ。

権威主義と属人主義
脆弱な良心は良心たり得ない/『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一
民主主義の正体/『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル

2011-05-21

パスカルの賭け/『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ


『天才の栄光と挫折 数学者列伝』藤原正彦

 ・ゼロをめぐる衝突は、哲学、科学、数学、宗教の土台を揺るがす争いだった
 ・数の概念
 ・太陽暦と幾何学を発明したエジプト人
 ・ピュタゴラスにとって音楽を奏でるのは数学的な行為だった
 ・ゼロから無限が生まれた
 ・パスカルの賭け

『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎

必読書リスト その三

 amazonレビュー、恐るべし。

パスカルの賭け:Wikipedia

 第10章のパスカルの賭けに、非常に有名な批判が載っていないので書いておく。
「神が存在しても、信じていた神とは違う神(例えば、キリストの神を信じていたら、いたのはイスラムの神だった)、がいた場合、無限の幸福は得られず、おそらく無限の苦しみにあう」。

 なお、パスカルの賭けは、「無限の幸福は無限の価値がある」ということを前提にしているが、将来のことについてはその時間的遠さに基づいて幸福を割り引く(双曲割引など)という考えを導入することで、無限の幸福の価値が現時点では有限になり、この問題は解消される。

神の存在証明、または非存在証明 2007-11-26 By θ

 せっかくなんで、チャールズ・サイフェのテキストも紹介しておこう。

 パスカルの賭けは、このゲームと似ている。ただし、使われる封筒の取り合わせは異なる。キリスト教徒と無神論者だ(実際には、キリスト教徒の場合しか分析していないが、無神論者の場合は論理的な延長にすぎない)。議論の便宜上、差し当たって、神が存在する見込みは五分五分だと想像しよう(神が存在するとしたら、それはキリスト教の神だとパスカルが考えたのは言うまでもない)。ここでキリスト教徒の封筒を選ぶのは、信心深いキリスト教徒であることに相当する。この道を選んだ場合、可能性は二つある。信心深いキリスト教徒なら、神がいない場合、死んだら無のなかへと消え去るだけだ。だが、神がいる場合は、天国にいき、永遠に幸せに生きる。無限大である。したがって、キリスト教徒であることで得るものの期待値は、

 無のなかへ消え去る見込みが1/2……1/2×0=0
 天国に行く見込みが1/2×∞=∞
 期待値=∞

 何しろ、無限大の半分はやはり無限大だ。したがって、キリスト教徒であることの価値は無限大である。では、無神論者だったらどうなるだろう。その考えが正しければ――神などいないのなら――正しいことによって得るものは何もない。何しろ、神などいないのなら、天国もない。一方、その考えが間違っていて、神がいる場合は、地獄にいき永遠にそこで過ごすことになる。マイナス無限大だ。したがって、無神論者であることで得るものの期待値は、

 無のなかへ消え去る見込みが1/2……1/2×0=0
 地獄にいく見込みが1/2×-∞=-∞
 期待値=-∞

 マイナス無限大である。これ以上小さい価値はない。賢明な人なら無神論ではなくキリスト教を選ぶのは明らかだ。
 しかし、私たちはここである仮定をおいている。それは、神が存在する見込みは五分五分だというものだ。もし1/1000の見込みしかなかったら、どうなるだろう。キリスト教徒であることの価値は、

 無のなかへ消え去る見込みが999/1000……999/1000×0=0
 天国にいく見込みが1/1000×∞=∞
 期待値=∞

 やはり同じ、無限大だ。そして、無神論者であることの価値はやはりマイナス無限大である。やはりキリスト教であるほうがずっといい。確率が1/1000でも1/10000でも、結果は同じだ。例外はゼロである。
 パスカルの賭けと呼ばれるようになったこの賭けは、神が存在する見込みがないのなら無意味だ。その場合、キリスト教徒であることで得るものの期待値は0×∞だが、これはばかばかしい。誰も、神が存在する見込みはゼロだとは言わない。どんな見方をするにせよ、ゼロと無限の魔法のおかげで神を信じるほうが常にいい。賭けに勝つために数学を捨てても、どちらに賭けるべきかをパスカルが知っていたのは間違いない。

【『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ:林大〈はやし・まさる〉訳(早川書房、2003年/ハヤカワ文庫、2009年)】


臨死体験/『生命の大陸 生と死の文学的考察』小林勝

2011-05-19

名誉の殺人


 名誉の殺人――殺されるのは女性に限られる。

Wikipedia

防犯カメラという名称


 監視カメラって、いつの間にか「防犯カメラ」という名称になっていたのね。サラ金が消費者金融になったのと同じ変化。言葉のオブラートで包んで、意味の書き換えを行う政治手法だ。