2016-06-15

イエスの復活~夢で見ることと現実とは同格/『サバイバル宗教論』佐藤優


『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹

 ・イエスの復活~夢で見ることと現実とは同格

『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
宗教とは何か?

 キリスト教の教祖であるイエス・キリストは、紀元30年ごろに復活した。復活というのは、実はそんなに異常な現象ではありません。なぜならば、近代より前の人たちの世界像というのは、日本でもヨーロッパでも中東でも同じで、哲学でいうところの素朴実在論の立場にたっているからです。すなわち、夢で見たこと、坐禅をしているときに体験したことと、現実に起こっていることとの間に差異がない。権利的に同格なんです。
 もちろん、仏教の場合は、存在論が縁起観によって構成されていますから、関係性によって実体が見えてくる。しかし、その実体というものは、そもそも虚妄であるという考え方ですから、そこにはなんら違和感がないと思うんです。
 キリスト教の場合は、夢で見たことと復活ということの間に差異はありません。基本的に同じです。あるいは白昼の幻を見る。当時サウロといってキリスト教徒を弾圧していた後の使徒パウロがダマスカスに行く途中で、光にうたれて幻を見る。これは実際に出会ったのと同じことなんです。
『源氏物語』でも、なぜ六条御息所(みやすどころ)の怨霊をみんなあんなに恐れるのか。それは、実際に六条御息所が出てくるのと同じことだからです。夢の中で見ることと現実とは同格なのです。
 この二つが分かれたのは近代に入ってからです。近代に入って分離したのですが、19世紀の終わりから20世紀になると、フロイト派、ユング派の心理学が生まれて、再び夢の権利を回復しようとしているわけです。

【『サバイバル宗教論』佐藤優〈さとう・まさる〉(文春新書、2014年)】

 臨済宗相国寺派の僧侶を対象に行った講義を再編集したもの。2012年に4回行われた。クリスチャンを講師に招くという度量もさることながら、佐藤に対する質問のレベルもかなり高い。

 カトリック教会ではペトロを初代のローマ教皇とみなすが、キリスト教神学を確立したのはパウロであり、実質上のキリスト教開祖といってよい。

 キリスト者を迫害していたサウロ(後のパウロ)はある時、光に打たれ、イエスの声を聴く。いわゆる啓示である。サウロは失明する。その後イエスの声に従って町へゆく。キリスト者が手を置き祝福を告げると、サウロの目から鱗(うろこ)のようなものが落ち、再び目が見えるようになった。これが「目から鱗が落ちる」の語源である(ペテロ、パウロ、そしてアウグスティヌス)。

 そしてキリスト教を世界宗教にしたのはコンスタンティヌス1世(272-337年)である。彼は夢のお告げによってキリスト教に改宗した(『「私たちの世界」がキリスト教になったとき コンスタンティヌスという男』ポール・ヴェーヌ)。人々は夢に支配されていた。

 これを心理学の夢分析(深層心理学)に結びつけるところに佐藤の卓見がある。夢を鵜呑みにすることは決して笑えない。現代においてもテレビや映画は非現実であり、形を変えた夢といってよい。そして我々も彼らと同じように知性と感情を刺激され、大なり小なり影響を受ける。小説や漫画も同じメカニズムである。

 他にも例えばサードマン現象というのがある(『サードマン 奇跡の生還へ導く人』ジョン・ガイガー)。一種の啓示と考えてよかろう。

 現実と非現実を意識と無意識に置き換えることも可能であろう。私も一度だけだが月明かりの下で亡き友人の声をはっきりと聴いたことがある。それは早まろうとする私を諌(いさ)める声だった。聴こえたのはたった一言だったがそれで私は思いとどまった。

 キリスト教が行ってきた殺戮の歴史を思えば、到底神がいるとは思えない。神よ、あんたが創造した世界は混乱と悲惨に覆われている。近代の扉が開き、科学技術が発達し、世俗化が進んだとはいえ、まだアメリカはキリスト教原理主義国家である。そして現在、ソ連に代わって社会主義国家の中国が台頭する。これまた一党独裁の原理主義国家だ。きっと人間の脳は支配されたがっているのだろう。

 体力の衰えが気力の衰えにつながると考え、少し前から腕立て・腹筋・背筋・スクワットを行っている。まだまだ回数は少ないものの、心地良い疲労感の中でぐっすり眠れる。夢は全く見ない。神様と巡り合うことも当分ないだろう。

『イーリアス』に意識はなかった/『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ

サバイバル宗教論 (文春新書)
佐藤 優
文藝春秋
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2016-06-13

ブッダは論争を禁じた/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳

 ・犀の角のようにただ独り歩め
 ・蛇の毒
 ・所有と自我
 ・ブッダは論争を禁じた

『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

七八〇 実に悪意をもって(他人を)誹(そし)る人々もいる。また他人から聞いたことを真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起っても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとについても心の荒(すさ)むことがない。

【『ブッダのことば スッタニパータ』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1984年/岩波ワイド文庫、1991年)以下同】

「筏(いかだ)の喩え」(『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ)でブッダは「正しい教えにも執着してはならない」と教えた。それを更に検証しよう。

 初期仏教の最古層といわれるスッタニパータの第4章(七六六~九七五)では繰り返し同じことが述べられる。ブッダは論争を禁じた。鎌倉時代に生まれた日蓮が知れば、ぶったまげたことだろう。日蓮は法論を好み、幕府に対して繰り返し公場対決を申し入れた。

 悪意から誹る言葉が生まれる。誹る言葉が風となって悪意の火は盛んになる。怒りの車輪は回転を始める。恨みは必ず同調者を求め、敵と味方を形成してゆく。

七九九 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。
八〇〇 かれは、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分れているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。

「偏見」とは偏った見方に執着することだ。ここで驚くべきことにブッダは「比較から離れる」ことを教える。

 比較と順応がないとき、葛藤は姿を消します。

【『キッチン日記 J・クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン:高橋重敏訳(コスモス・ライブラリー、1999年/新装・新訳版、2016年)】

比較が分断を生む/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ
比較があるところには必ず恐怖がある/『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ

 2500年前に想いを馳せてみよう。権利という意識はまだ芽生えていなかったことだろうし、自由や平等といった概念も稀薄だったことだろう。庶民に至っては自我も確立されておらず、まだ右脳の声が聞こえていたに違いない(統合失調症)。そして夢と現(うつつ)の境も曖昧であったことだろう。「個人」という言葉は近代以降の概念である。

 知識は脳を束縛する。それ以上にコミュニティ(党派)が人々を支配する。出自やカーストから自由になることは想像を絶する。枢軸時代以前の民俗宗教は神の声を代弁するシャーマンチャネラーの言葉に集団が従うシステムであった。人々の脳には検討できるだけの材料(情報)がなかった。たぶん渡り鳥や魚の群れと大差がなかったことだろう。文字がないゆえに知識は神話の形で語り継がれる。神話はただ「受け取る」ものである。それは掟でありルール(法)であり定めであった。

 人々がカーストに執着し、カーストを疑うことすらできなかった時代に、ブッダは執着からの自由を説いた。

八二五 かれらは議論を欲し、集会に突入し、相互に他人を〈愚者である〉と烙印(らくいん)し、他人(師など)をかさに着て、論争を交(かわ)す。――みずから真理に達した者であると称しながら、自分が称讃されるようにと望んで。
八二六 集会の中で論争に参加した者は、称讃されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、(論的の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。
八二七 諸々の審判者がかれの所論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣する。
八二八 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称讃を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。

 まるで創価学会の折伏(しゃくぶく)や共産党のオルグを予言するかの如き言葉である(笑)。分断された自我は競争の道をひた走り、社会全体が闘争に覆われる。ブッダの指摘は資本主義経済や大衆消費社会にまで当てはまる。「朝まで生テレビ」なんかそのまんまである(笑)。議論の目的は自己主張・自己宣伝・自己宣揚に傾き、自己顕示欲の修羅場と化す。政治もまた同様である。党利党略を優先し、国民は単なる票として換算される。経済政策のミスを犯しても誰一人責任を取ることなく、平然と増税するような恥知らずばかりとなってしまった。

八三九 師は応えた。「マーガンディヤよ、『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安でもある。)」

 これが中道の奥深さである。「それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく」との鮮烈な言葉が「筏の喩え」を彷彿(ほうふつ)とさせる。教義に固執することなく、教義の否定にも固執することなく、教義を筏として扱うことが求められるのだろう。

八六三「争闘と争論と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは慳みに伴い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

 三悪道・四悪趣は渇愛と欲望から起こる。戦争の原因もここにある。

八八四 真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異った真理をほめたたえている。それ故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのである。

 アルボムッレ・スマナサーラによれば六師外道という言葉は「『仏教以外の教えを説いている6人の先生』という程度の意味」(『沙門果経 仏道を歩む人は瞬時に幸福になる』)で、ブッダが徹底的に批判したのはマッカリ・ゴーサーラただ一人であった。彼の厳格な決定論・宿命論は社会を無気力にしてしまう。ただしブッダの批判は怒りに基づいたものではない。ただ事実を指摘するだけである。

「その(真理)を知った人は、争うことがない」――つまり争う人は真理を知らないのだ。

八九六(たとい称讃を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は(称讃と非難との)二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。

 毀誉褒貶(きよほうへん)は世間の常である。誰だって褒められれば嬉しいし、貶(けな)されれば落ち込む。しかし社会の評価と人生の幸不幸は別物である。まして悟りとは何の関係もない。論争の勝敗は知的レベルの満足と不満足であり、無明を滅するには至らない。

九〇七(真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。

 伝えられるものは知識である。悟り(涅槃)は伝えることも教えることもできない。これが「他人に導かれるということがない」の意味であろう。簡単な道理である。「人は自転車に乗れるが、どうやって乗っているのかは説明できない」(『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ)。手放し運転はもっと説明できない。野球で打者がヒットを打つことも説明できない。何でも説明できると思ったら大間違いだ。我々はお互いが「できる」という事実に基いてコミュニケーションを図っているだけなのだ。目が見えない人に視覚を伝えることは不可能だ。無明に覆われた者が涅槃(悟り)を知ることはできない。

 ブッダの教えは一切の依存を拒絶する。執着から離れ、論争を超越する。究極的には悟りに至っても悟りに執着しない生き方を示している。

 そして論争から離れる道はただ一つ、傾聴である。

コミュニケーションの本質は「理解」にある/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ

ブッダのことば―スッタニパータ (ワイド版 岩波文庫)ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)キッチン日記―J.クリシュナムルティとの1001回のランチ

2016-06-12

筏(いかだ)の喩え/『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール:今枝由郎訳
『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン

 ・ものごとが見えれば信仰はなくなる
 ・筏(いかだ)の喩え
 ・ドゥッカ(苦)とは

『無(最高の状態)』鈴木祐
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
クリシュナムルティ、瞑想を語る

ブッダの教えを学ぶ

 かつてブッダは弟子たちに因果の教えを説明し、弟子たちはそれをはっきりとわかり、理解したと答えた。そこでブッダが言った。
「弟子たちよ、この見解は純粋で明晰である。しかしあなたたちがそれに固執し、思い入れ、尊び、拘(こだわ)るならば、教えは流れを渡るために乗る筏(いかだ)に似たものであり、保有するものではない、ということを理解していない」
 教えは流れを渡るために必要な筏のようなものであり、保持して背中に負い運ぶものではない、というこの有名な譬えを、ブッダはいたるところで説明している。
「弟子たちよ、ある人が旅の途中で大きな川に出くわしたとしよう。こちらの岸は危険であり、対岸は安全で危険がない。安全で危険がない対岸に渡る舟もなく、橋もない。そこで彼はこう思った。「この流れは大きく、こちらの岸は危険だ。対岸は安全で危険がない。渡るのに舟はなく、橋も架かっていない。草、木、葉を集めて筏を作り、それに乗って手と足で漕ぎ、安全な対岸に渡ろう」と。
 弟子たちよ、こうして彼は、草、木、枝、葉を集めて筏を作り、それに乗って手と足を使って無事対岸に渡った。そして、こう思った。「この筏は大変役だった。そのおかげで、私は手と足を使って安全にこちらの岸に着いた。だから、これからは頭に載せるか、背負うかしてこの筏を持ち歩くことにしよう」
 弟子たちよ、彼の筏に対する思いは正しいかどうか」
 弟子たちは「正しくありません」と答えた。
「では弟子たちよ、どういう態度がふさわしいであろうか。もし彼が「この筏は大いに役立った。そのおかげで、私は手と足を使って安全にこちらの岸に辿り着けた。筏は浜に揚げるか、つなぎ止めて浮かしておき、私は先に進もう」と言ったらどうだろう。これこそが、正しい行ない、正しい態度である。
 弟子たちよ、私の教えは筏と同じである。それは、流れを渡るためのもので、持ち歩くためのものではない。あなたがたは、私の教えは筏に似たものであると理解したならば、よき教えすら棄てなければならない。ましてや悪しき教えを棄てるのは、言うまでもないことである」
 この譬えから明らかなように、ブッダの教えは人を安全、平安、幸せ、静逸、ニルヴァーナへと導くためのものである。ブッダが説いたすべての教えは、すべてこの目的のためである。

【『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ:今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉訳(岩波文庫、2016年/原書1959年)】

筏の喩え
クリシュナムルティ流「筏の喩え」/『クリシュナムルティ・目覚めの時代』、『クリシュナムルティ・開いた扉』

 有名な経典だが物語の背景をきちんと押さえておく必要がある。パーリ中部(マッジマ・ニカーヤ)では第22経『蛇喩経』(じゃゆきょう)、中阿含経では第200経『阿梨吒経』(ありたきょう)となっている(Wikipedia)。そして「筏の喩え」の部分だけを『筏喩経』(ばつゆきょう)と称する。

 元鷹匠のアリッタという修行僧がブッダの教えを誤解した。「欲は修行の障(さわ)りとならない」と。周囲の修行僧が注意をしてもアリッタは耳を貸さない。弟子たちから相談を受けたブッダは直ちにアリッタを呼び、戒める。

 始めにブッダは「蛇の喩え」を説く。蛇を捕える場合、腹や尻尾をつかめばたちまち噛まれてしまう。傷つき、毒が回り、命を失うこともある。そのように苦しむのは正しく蛇をつかまえなかったためである。人が蛇を捕えようとする時は鉄の杖で首を押さえ、次に手で頭を持つ。このようにすれば蛇に噛まれることはない。我が教えもまた同様である。意義を正しく理解しなければ、逆さまに考えて苦しむ者が出る。続いて「筏の喩え」が説かれる。詳細については以下のページを参照せよ。

筏の譬え
筏の如く
中部経典 第二十二経『 蛇喩経(正しい教えの把握の仕方)』その1.
中部経典 第二十二経『 蛇喩経(正しい教えの把握の仕方)』その2.
中部経典 第二十二経『 蛇喩経(正しい教えの把握の仕方)』その3.
中部経典 第二十二経『 蛇喩経(正しい教えの把握の仕方)』その4.
Kesamuttisutta (Kālāma sutta) ―カーラーマへの教え
筏喩経(阿梨咤経)

 尚、実際の経文を知りたい人は『パーリ仏典第一期1 中部(マッジマニカーヤ) 根本五十経篇I』片山一良〈かたやま・いちろう〉訳(大蔵出版、1997年)を参照せよ。

 文脈を考慮すれば「悪しき教え」とは誤解であり犯された誤謬(ごびゅう)である。だが元はといえばアリッタとの個人的なやり取りが「蛇の喩え」と「筏の喩え」を通して真理の高みに達する。その深さは居合わせた弟子たちはもとより、2500年後の私にまで響く。

 これがキリスト教であれば「神を捨てよ」と言ったも同然だ。世間では「嘘も方便」というが、ブッダは「真理も方便」「教えも方便」と言い切った。教えの目的は彼(か)の岸(涅槃)に渡ることである。であれば教えは「地図」と考えてよかろう。にもかかわらず仏教の歴史は「地図」の色彩や精密さを競い合う方向へ動いた。あるいは筏を豪華客船に造り変えたようなものだ。仏教は日本に至ると信仰のレベルに堕し、もはや目的地がどこなのかわからぬ地図となってしまった。仏塔信仰がストゥーパに始まり、法華経では宝塔と巨大化していったのも一種の虚仮威(こけおど)しであろう。

 ブッダは執着から離れる道を教えた。その究極として「正しい教えに執着してもならない」と説いた。ありとあらゆる宗教が神への、教義(ドグマ)への、グル(導師)への執着を説いている。ブッダこそは目覚めた人であった。他の宗教は信者の目を閉ざし、眠らせていることが理解できよう。

 ブッダの教えに従えば、我々は「筏の喩え」にも執着してはならないことになる。これぞ完全無執着の道だ。なぜなら教えもまた「空」(くう)であり、自我もまた「空」であるからだ。テキストではなく、ブッダその人でもなく、ただ真っ直ぐに涅槃(悟り)を求めるのが真の仏弟子だ。

ブッダは論争を禁じた/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳

2016-06-11

マイケル・クローネン著『キッチン日記 J・クリシュナムルティとの1001回のランチ』新装・新訳版

キッチン日記―J.クリシュナムルティとの1001回のランチ

 キッチンで料理を提供し、デイヴィッド・ボームなどの会食者たちと歓談するかたわらで綴られた、精緻にして長大なクリシュナムルティ随聞記。

 インドでは、古来食べ物はブラフマン(意識)だと言われてきた。『キッチン日記』は、当代の最も偉大な賢者の一人の意識の中で揺れ動いている気分ならびに精神の微妙な陰影への洞察をあなたに与えてくれる。一連のランチメニューに順次目を通しながら本文を読み進めていくうちに、あなたは、多くの人々に影響を与えてきたこの偉大な存在のパーソナリティの中にある複雑さ、単純さ、そしてユーモアを体験するであろう。
 ──ディーパック・チョプラ(『富と成功をもたらす7つの法則』の著者)

 マイケル・クローネンの『キッチン日記』は、クリシュナムルティと彼の客たちにシェフとして菜食料理を提供した著者による、一九七五年から一九八六年までの出来事の優れた記録である。この伝記的ポートレートは、クリシュナムルティを聖人扱いしようとする様々な企てへのタイムリーな矯味薬である。ランチ中の打ち解けた会話からの記述と引用は、読んで楽しいだけでなく、真剣に考察するに値する。クリシュナムルティの教えのエッセンスの多くが、本書全体にちりばめられている。メニューが添えられている菜食料理を想像しながら、会食者たちと共に間接的に味わう人は誰であれ、それに満喫させられるだけでなく、スピリチュアルな滋養も与えられることだろう。
 ──アラン・W・アンダーソン(サンディエゴ大学宗教学部名誉教授)

 クリシュナムルティの最も深い理解者の一人による、手作りの菜食料理とジョークによって趣を添えられた、機智に富んだ回顧録。

一読者からクリシュナムルティの料理人となった青年/『キッチン日記 J.クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン

2016-06-10

ものごとが見えれば信仰はなくなる/『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール:今枝由郎訳
『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン

 ・ものごとが見えれば信仰はなくなる
 ・筏(いかだ)の喩え
 ・ドゥッカ(苦)とは

『無(最高の状態)』鈴木祐
『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
クリシュナムルティ、瞑想を語る

ブッダの教えを学ぶ

 ブッダを、一般的意味での「宗教の開祖」と呼ぶことができるとすれば、彼は「自分は単なる人間以上の者である」と主張しなかった唯一の開祖である。他の開祖たちは、神あるいはその化身、さもなければ神からの啓示を受けた存在である〔か、そうであると主張している〕。ブッダは、一人の人間であったばかりではなく、神あるいは人間以外の力からの啓示を受けたとは主張しなかった。彼は、自らが理解し、到達し、達成したものはすべて、人間の努力と知性によるものであると主張した。人間は、そして人間だけが、ブッダ「目覚めた人」になれる。人間は誰でも、決意と努力しだいでブッダになる可能性を秘めている。

【『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ:今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉訳(岩波文庫、2016年/原書1959年)以下同】

 ワールポラ・ラーフラはテーラワーダ仏教の僧侶でセイロン大学に進み哲学博士号を取得。マハーヤーナ(いわゆる大乗)仏教の研究にも着手する。1950年代後半、パリ大学に留学。そこで著されたのが本書である。原書は英語で1959年刊。仏教研究の泰斗であるオックスフォード大学のR・F・ゴンブリッジ教授が「現時点で入手できる最良の仏教書」と評価する。訳者解説に神智学協会が出てきて驚いた。

 人間を超えた存在を「神」という。後期仏教(いわゆる大乗)は大日如来久遠本仏というブッダを超える存在(法身仏〈ほっしんぶつ〉)を設定した。この瞬間にブッダから遠ざかったと見てよい。想像力は像(イメージ)を求めて飛び立つ。出来上がった偶像(アイドル)は巨大な存在となる。その大きさが示すものは自分という存在の卑小さである。仏という名の人格神を創造することで日本仏教は一神教に変質した。

 ほとんどすべての宗教は、信仰――それもむしろ盲信といえるもの――に立脚している。しかし仏教で強調されているのは、「見ること」、知ること、理解することであり、信心あるいは信仰ではない。仏教経典には、一般に「信仰」あるいは「信心」と訳されるサッダー(サンスクリット語ではシュラッダー)という用語がある。しかしサッダーはいわゆる「信心」ではなく、むしろ確信から生まれる「信頼」というべきものである。とはいえ実際には、民衆レベルでの仏教でもまた仏典中の一般的用法でも、サッダーということばは、ブッダ、ダルマそしてサンガに対する一般的な意味での「信仰」的要素を含んでいることは事実として認めねばならない。

 びっくりした。見ること、知ること、理解することを説いてきたのはクリシュナムルティである。確かに「一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず」(法華経)などの経文はあるが、如実知見(にょじつちけん)を強調するような文言はあまり記憶にない。ただし八正道は全て正見に納まり、四法印は正見から導かれるので、「見る」という前提があるのは確かだ。

 信仰は、ものごとが見えていない――「見える」ということばのすべての意味において――場合に生じるものである。ものごとが見えた瞬間、信仰はなくなる。もし私が「私は掌の中に宝石を隠しもっている」と言ったら、あなたはそれが見えない以上、私が言ったことが本当かどうか、私のことばを信じるかどうか、という問題が生じる。しかし、私が掌を開き宝石を見せれば、あなたはそれを自分で見ることになり、信じるかどうかという問題は起こらない。それゆえに、古い経典には、こう記してある。
「掌の中の宝石(あるいはミロバラン訶梨勒〈かりろく〉の果実〕)を見るように、真実を見よ」
 ブッダの弟子でムシーラという者が、一人の僧に言った。
「友サヴィッタよ、信仰、確信あるいは信心からではなく、気乗りあるいは好みからではなく、評判あるいは伝統からではなく、表面的な理由からではなく、もろもろの意見を検討する喜びからではなく、私はものごとの生成の消滅がニルヴァーナであると知っており、それが見えている」
 そしてブッダはこう言った。
「汚れと不純さの消滅は、ものごとを知り、ものごとが見える人にとってのみ可能なことであり、ものごとを知らず、ものごとが見えない人には不可能である」
 常に問題なのは、知ることと見ることであり、信じることではない。ブッダの教えは、「エーヒ・パッシカ」、すなわち「来て、見るように」という誘いであり、「来て、信じるように」ということではない。

 マジっすか? というわけで『スッタニパータ』の第四章「八つの詩句の章」(中村元訳)を参照してみよう。

「七七七 (何ものかを)わがものであると執着して動揺している人々を見よ」
「七七九 想いを知りつくして、激流を渡れ」
「七九二 智慧ゆたかな人は、ヴェーダ(※実践的な認識)によって知り、真理を理解して」
「七九五 かれが何ものかを知りあるいは見ても、執着することがない」
「八〇六 われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って」
「八〇九 諸々の聖者は、所有を捨てて行なって安穏(あんのん)を見たのである」
「八一七 このことわりを見たならば、淫欲の交わりを断つことを学べ」
「八二一 聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り」
「八三〇 このことわりを見て、論争してはならない」
「八三七 諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た」
「八四八「どのように見、どのような戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか?」」
「八八四 真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない」
「八九六 汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない」
「九〇九 見る人は名称と形態とを見る」
「九一一 バラモンは正しく知って、妄想分別におもむかない」
「九一七 内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ」
「九三七 わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを見つけなかった」
「九三八 (生きとし生けるものは)終極においては違逆(※老い)に会うのを見て」
「九五六 眼ある人(ブッダ)は」
「九七一 適当な時に食物と衣服とを得て、ここで(少量に)満足するために、(衣食の)量を知れ」

 確かに本当だ。疑問の余地はない。第四章はブッダの肉声に最も近い内容(最古層)である。バラモン教(古代ヒンドゥー教)を信じる世界でブッダは「見ること、知ること、理解すること」を説いた。そして生まれが支配するカースト社会で努力の道を開いた。

 信じる者は無知にとどまっている。迷いという蒙(くら)さが信じるという飛躍に結びつくのだ。確かなものを求めて何かを信じれば信じるほど自分自身の不確実性が増してゆく。「溺れる者は藁(わら)をも掴(つか)む」という事実はあるに違いない。しかし命からがら助かった後で「藁」をありがたがる人はいるまい。そこで求められるのは溺れた原因であり、溺れるような場所に近づかないことと、溺れることを避けるための水泳技術や救命道具(浮き輪・ライフジャケットなど)を準備することだろう。

 ブッダが信仰を説かなかったことを私が一言で示そう。信仰があれば諸法無我を理解できない。以上である。ま、簡単な話だ。信じる行為は如何なる対象であれ自我を強化する。

 最後にわかりにくいと思われるのでニルヴァーナ(涅槃〈ねはん〉)について述べる。涅槃とは煩悩の火が消えた状態を意味する。「漢訳では、滅、滅度、寂滅、寂静、不生不滅などと訳した」(Wikipedia)。クリシュナムルティが説く静謐(せいひつ)と同じだ。

 上記テキストでは「ものごとの生成の消滅」と「汚れと不純さの消滅」とが対応しているようには見えないが、煩悩・渇愛・執着というキーワードを補えばストンと腑に落ちる。現代の大衆消費社会では欲望を煽り、煩悩の火がより大きくなることに消費者は満足を覚える。煩悩まみれの社会では欲望を満たすことが我々にとっての幸福である。もっと大きな家・もっと高級なクルマ・もっと高い地位・もっと多くのマネーを我々は求める。その結果、国家は必ず戦争を目指す。一人ひとりの消費という欲望を満たすために他国の資源を奪いにゆくのだ。戦争の目的は殺すことだ。兵士は自ずと残虐を競うようになる。

 企業と企業の間で行われるのも小さな戦争であり、個人と個人の間でも戦争が繰り広げられる。受験もまた戦争であり、就職も戦争だ。更にいじめ・貧困という名の戦争もある。我々は戦いに勝つことが得点につながるゲームをしているのだ。勝者の得点を見てみよう。ビル・ゲイツの資産は9兆5040億円である(米誌『フォーブス』2015年)。日本人だと柳井正(ファーストリテイリング)が2兆5320億円、孫正義(ソフトバンク)が1兆6680億円、佐治信忠(サントリー)が1兆3080億円、三木谷浩史(楽天)が1兆2600億円となっている。因みにイチローの絶頂期の年俸が約18億円である。

 その一方に極度の貧困に喘ぐ人々がいる。老々介護が行き詰まり肉親や兄弟に手を掛ける人々がおり、修学旅行や給食の費用を支払うために売春を行う女子中高生がおり、「保育園落ちた日本死ね!」と匿名で書き連ねる若い主婦がいる。借金の肩代わりに福島の原発で働く人々がおり、ブラック企業と知りながらやめるにやめられない若者がおり、ワーキングプアは2008年以降、1000万人を突破し(劣化している雇用と格差拡大)、生活意識別世帯数の構成割合をみると、「苦しい」(「大変苦しい」と「やや苦しい」)との答えが増加している(生活意識の状況)。

 生活保護の支給総額は3.8兆円強(2012年)で155万2000世帯が受給している(2012年)。ほぼ孫正義と三木谷浩史の資産を合わせた額だ。155万2000世帯が最低限の生活を営むことのできる金額を二人が持っているのだ。どう考えてもおかしい。

「私ならそんなにいらない」と思う人が大半だろう。でも実際は違う。彼らは私なのだ。同じ立場になれば必ず同じことをする。チンパンジーですら利益の分配を行う(『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール)。集団(コミュニティ)が進化に有利であるならば、集団を維持することが優先されるからだ。役所の窓口で役人が生活保護を渋るようになれば、もはや国家は信用対象ではなくなる。貧困は死へと直結する。今後、予想されるのは大量死(メガデス)社会だ。

 誰かの利益は誰かの損失である。これが経済の本質だ。消費にまつわる損失を目立たなくさせるために広告会社が存在するのだ。そして広告主がメディアを支配する。広告宣伝費は経費として計上できるので規模が大きい企業ほど有利になる。

ある中学生の死』読売新聞大阪社会部(潮出版社、1978年/角川文庫、1984年)に「パンの耳」という話がある。大阪府寝屋川市の主婦(29歳)がパンの耳で辛うじて命をつなぎながらも衰弱死してしまう。私が読んだのは30年以上前だが「きょうも食べるものがなく、10円でパンの耳を買ってくる」という日記の一文はいまだに忘れることができない。ところがどうだ、昨今は餓死など珍しくない。「2011年、『食糧の不足』で亡くなったのは45人。『栄養失調』で亡くなったのは1701人。合わせて1746人が飢えて死んでいるのだ。1日あたり、5人が亡くなっていることになる」(「1日5人が餓死で亡くなるこの国」雨宮処凛)。

 欲望が満たされることはない。煩悩の焔(ほのお)はいや増して燃え盛り我が身と社会を焼き尽くす。幸福だと思っていた状態が手に入ると、直ぐに別の形の不幸が生まれる。どのような人生であれ四苦八苦を免れることはできない。苦の原因は煩悩にある。ゆえに苦を滅するためには煩悩の火を消すことが求められる。これはまさしく逆転の発想である。「幸福になりたいのであれば、幸福を目指すな」という論法だ。

 欲望が減るにつれて生命空間は広がる。煩悩の火を吹き消せば自我も消える。世界と私の間に差異はなくなる(諸法無我)。これがブッダとクリシュナムルティの説いたことである。