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『大師のみ足のもとに/道の光』J・クリシュナムルティ、メイベル・コリンズ
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『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ
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ただひとりあること~単独性と孤独性
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三人の敬虔なる利己主義者
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僧侶、学者、運動家
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本覚思想とは時間論
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本覚思想とは時間的有限性の打破
・一体化への願望
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音楽を聴く行為は逃避である
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『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 2』J・クリシュナムルティ
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『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 3』J・クリシュナムルティ
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『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 4』J・クリシュナムルティ
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『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティ
あなたはなぜ自分自身を、誰か他人や、あるいは集団、国と一体化させるのか? なぜあなたは、自分自身のことをクリスチャン、ヒンドゥー、仏教徒などと呼ぶのか? あるいはまた、なぜ無数にある党派の一つに所属するのか? 人は、伝統や習慣、衝動や偏見、模倣や怠惰を通じて、宗教的、政治的にあれこれの集団と自分自身とを一体化させる。この一体化は、一切の創造的理解を終焉させ、そうなれば人は、政党の首領や司祭、あるいは支持する指導者の意のままになる、単なる道具にすぎなくなってしまうのだ。
先日、ある人物が、誰某はこれこれの集団に属しているが、自分は「クリシュナムルティ信奉者(アイト)」だと言った。そう言っていたとき、彼はその一体化の意味合いに全く気づいていなかった。彼は決して愚鈍な人間ではなく、読書家で教養もあるといった人物であった。いわんや彼は、そのことに決して感傷的になっていたわけでも、また情緒に流されていたのでもない。それどころか、彼は明晰ではっきりとしていた。
彼はなぜ「クリシュナムルティ信奉者」になったのか? 彼は、他の人間たちに従ったり、あるいは数多くの退屈な集団や組織に所属したりしてきたのだが、そのあげくに、ついにこの特定の人物に自分自身を一体化させたのである。彼の語ったところからみて、彼の旅は終わったもののようであった。彼は足場を築き、そして行き着くところまできたのである。彼は選び終えたのであり、いかなるものも彼を揺り動かすことはできなかった。これからは彼は心地良く腰を据えて、これまで語られてきたこと、そしてこれから語られるであろうことのすべてに、熱心に従っていくことだろう。
【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 1』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1984年/新装版、2005年)】
既に再読を終え、三読目に入っている。書写行も開始。翻訳がこなれていない上に不要な読点が多く実に読みにくいのだが、文体は大野純一が一番よい。
amazonレビューでも指摘されているが「“一体化”ではなく“同一化”が翻訳として適切」との意見は以前からある。私は英語に疎いので断言するにわけにはいかないが、一体化と同一化という日本語に違いはないと思う。大野龍一や藤仲孝司の他訳批判に読者も影響を受けているのだろう。
不安定な個人が安定を求めて集団に帰属する。そうして「私」は私より一段上の存在となる。これは不思議なことだが経済的な見返りよりも、集団の有する理想が大きければ大きいほど帰属心が強まる傾向がある。例えば軍隊、古くは宣教師、現在だと東大OBや共産党・
創価学会・
エホバの証人など。最近だとSEALDs(シールズ)あたりか。
別の箇所で「一体化は逃避である」とも指摘されている。小さな自分を大きく見せる手段が一体化であるとすれば、地位や名誉が果たす機能と同じと考えてよさそうだ。虎の威を借る狐と言ってしまえば身も蓋(ふた)もないが、やはり欠けたアイデンティティを補う意味合いが強いのだろう。
尚、文中の「誰某」は「だれがし」と読むのが普通だが「だれそれ」とも読むようだ。クリシュナムルティの客観的な視線は時に辛辣(しんらつ)さを伴う。「クリシュナムルティ信奉者」と名乗った人物を嘲笑うわけでもなく、悲しむわけでもなく、淡々と見つめている。
「一体化は、一切の創造的理解を終焉させ」る意味が何となく伝わってくる。当然ではあるが、クリシュナムルティの近くにいることが彼の教えを理解したことにはならないし、クリシュナムルティ一派に属したところで人生が変わるわけでもない。そもそもクリシュナムルティは弟子を持っていないし、生涯にわたって拒み続けた人物である。
一体化への願望には隠された依存が横たわっている。ブッダは次のように遺言した。
それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
【『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1980年/ワイド版岩波文庫)、2001年】
ブッダの言葉とクリシュナムルティの教えは完全に響き合っている。悟りとは「ありのままの自分自身をありのままに理解すること」である。一体化するのではなく、依存心をありのままに見つめることが即座の理解なのだ。
偉大な人物に傾倒し、理想を実現するための運動に参加し、組織の手足となって身を粉(こ)にする営みは不思議な情熱を生む。そこに罠があるのだ。
情熱の大半には、自己からの逃避がひそんでいる。何かを情熱的に追求する者は、すべて逃亡者に似た特徴をもっている。
情熱の根源には、たいてい、汚れた、不具の、完全でない、確かならざる自己が存在する。だから、情熱的な態度というものは、外からの刺激に対する反応であるよりも、むしろ内面的不満の発散なのである。
【『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』エリック・ホッファー:中本義彦訳(作品社、2003年)】
自分に欠けたものを別の何かで埋め合わせると心理的な充足感が得られる。だがそれは錯覚である。喉の渇きは終始つきまとい、より激しい自己犠牲へと向かう。大きな集団は下位集団を生み、下位集団では下位文化が形成されるが、どこまで行っても承認欲求には限りがない。闘争と競争の連鎖が果てしなく続いてゆくことだろう。
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