アムネスティ・インターナショナルの広告ポスター。小さな悪は見て見ぬ振りをし、巨悪には気づきもしないのが我々の姿だ。見ざる、聞かざる、言わざる。自分が殺される番になって初めて慌てふためくのだ。
・世界のどこかで虐げられる人々が目の前に現れる
・女子割礼に警鐘を鳴らすアムネスティのポスター
アメリカ滞在中、アンベードカルの心に強い印象を刻んだものが三つあった。一つは合衆国憲法、なかんずく黒人の解放を宣言した憲法第14次改正であり、もう一つは、彼の滞在中、1915年に死んだ、偉大な黒人指導者であり教育者であったブーカー・T・ワシントンであり、プラグマティズム哲学のジョン・デューイも大きな影響を彼にあたえた一人であった。彼の授業には欠かさず出席していたという。
【『不可触民の父 アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール:山際素男〈やまぎわ・もとお〉訳(三一書房、1983年/光文社新書、2005年)以下同】
彼は文字通り寸暇を惜しんで生活した。時間と費用を節約するため昼食も抜いた。朝8時の開館を待ちかねたように図書館に入ると、夕方5時の閉館時間までほとんど休みなしに本を読み漁った。守衛に追い出されるように最後に出てくるのはいつもアンベードカルであった。頬はげっそりとこけ、疲労は色濃くにじみ出ていたが、ポケットは写し取ったノートで一杯だった。外の新鮮な空気を吸いながら30分ほど散歩をすると真直ぐ帰宅し夕食を取り、再び机に向った。夜10時頃になると空腹が彼を悩ました。彼の下宿の女主人は恐ろしくけちで、朝食はトースト1枚、小さな魚のフライに1杯の紅茶。夕食は一皿のスープに数枚のビスケットとバターという貧弱なものだった。飢餓感に耐えかねると、友人から分けてもらったパパード(インド製の薄焼きせんべいのようなもの)を焼いて飢えをしのいだ。それからまた暁方まで読書をつづけるのである。同室の友人がいつ眼を覚ましても起きているアンベードカルの健康を案じいい加減に床に入るように忠告しても、アンベードカルは微笑し、「ぼくには時間が限られているんだ。お金が尽きてしまわない内にやらねばならぬ仕事が山程ある」というと、再び机に向った。
アンベードカルは今やロンドン大学、コロンビア大学の両博士号、ボン大学留学という輝かしい実績と、上級法廷弁護士という資格で身を固め、いよいよインド学界に風雲を巻き起こしつつ不可触民解放運動の先頭に立って進んでゆくのである。
キリスト教の後に犯罪の思想的正当化の試みは啓蒙主義や自由主義によって行われ、フランシス・ベーコンやシャルル・ド・モンテスキュー、デイヴィッド・ヒュームらはインディオを「退化した人々」とし、ヨーロッパ人による収奪を正当化した。19世紀に入ると、「近代ヨーロッパ最大の哲学者」ことヘーゲルはインディオや黒人の無能さについて語り続け、近代哲学の立場から収奪を擁護した。(スペインによるアメリカ大陸の植民地化)
「射は、人格そのものといえます。正しければ、中(あた)り、正しくなければ、中りません。矢には邪悪なものを祓(はら)う力があり、その矢をもって周王を護り、外敵をしりぞけるのが、侯なのです」
【『重耳』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、1993年/講談社文庫、1996年)以下同】
出師にさきだってかならず占いをおこなう。戦争は国の大事であるから、亀の甲を焼き、そのひびで占う卜(ぼく)という占いの方法をもちいる。
史蘇〈しそ〉としても意外であったのだろう、どこか割り切れぬ表情であった。兆(ちょう)の形はおそらく百通りほどあり、むろん史蘇の頭のなかにはそれらのすべてが記憶されていて、その兆を自分のことばにおきかえるためには、故事に精通していなければならない。実例のつみかさねの上に兆の形によって予言をおこなうところに確実性がある。
史蘇〈しそ〉には詭諸〈きしょ〉の出陣を止める力はない。が、占いをおこなった者は腹蔵のないことを吐露する義務がある。それをとりあげるかどうかは、君主しだいである。
「さいごに申し上げます。民を離そうとするものが、君のもとにはいってくるときは、かならず甘く、その快さによって、害であることがわかりませんから、防ぎようがありません」
と、史蘇は恐ろしいことを大胆に予言した。
兆(ちょう)だけをみて、これだけのことを、確信をもっていえるというところに、史蘇の天才ぶりをみることができる。
「穢(けが)れのないところにしか神は降り立ちません。純正な史官のことばは、神のことばであり、それを聴く方も心を端(ただ)さねばなりません」
と、小さな力を口調にこめていった。
「端すとは──」
「雑念を去ることです。あるいは親のことばを聴く子どもの心に帰ることです」
──たった一人の女が……。
と、士蔿〈しい〉は信じられぬおもいにうちのめされる。あれほどうまくいっていた父子と君臣との仲が、たった一人の女によって、それぞれずたずたに引き裂かれようとしている。