2011-12-10
観測史上最大のブラックホール二つ発見、太陽の100億倍
米カリフォルニア大学などの研究チームが観測史上最大のブラックホールを二つ発見したとして、科学誌「ネイチャー」に発表した。
二つのブラックホールはそれぞれ太陽の約100億倍の質量を持ち、あらゆる物質が重力から抜け出せなくなる「外縁」の大きさは、太陽と冥王星との距離の約5倍に達していた。これまでの観測では1977年に見つかった太陽の60億倍のブラックホールが最大とされていた。
研究チームはハワイにあるケック天文台やジェミニ天文台、マクドナルド天文台を使って地球から比較的近い距離にある銀河を観測。その結果、地球から3億2000万光年離れた獅子座の方向にあるブラックホールと、同3億3600万光年離れたかみのけ座の方向にあるブラックホールを発見した。
今回の発見についてカリフォルニア大学バークリー校の研究者は「われわれは最大のブラックホールに近付いているかもしれない」「この二つのブラックホールが最大なのか、それとも氷山の一角なのかを見極めるために観測を続ける必要がある。現時点では分かっていない」と話している。
【CNN 2011-12-06】
・ブラックホール
2011-12-09
加工可能な現実
私たちのいう「現実」っていうのは、所詮感覚器官から送られてきた信号をもとに脳が作った映像に過ぎないから、それが加工できるということは、現実が加工できることを意味する。そんなことができるようになった社会で、「客観的現実」などというストーリーが果たしてどれほど意味を持てるか
— P-63A5 KingToriniku (@poulet_pensant) 2010, 12月 11
無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元
数年前に初めて『ブッダのことば スッタニパータ』(中村元訳、岩波文庫、1958年)を飛ばし読みした。「フーン」とは思ったものの、さほど心は動かなかった。その後、クリシュナムルティと遭遇する。私は乾いた砂が水を吸うように貪り読んだ。気がつくとブッダの言葉は激変していた。雷光の如く胸に突き刺さった。
言葉はシンボルだ。仏教では文・義・意という立て分け方がある。経文、教義、真意という意味で、一つの言葉を三重に深めている。
シンボルの究極は数式とマンダラである。詩歌や名言がこれに次ぐ。要は抽象度が高いのだ。
なぜ私はブッダの言葉を理解できなかったのだろう? それは文(もん)だけ読んで、義意に辿りつけなかったためだ。そして今、義意をわかったように思っている。しかし実は違う。もしも義意がわかったとすれば、私はブッダと同じ悟りに達したことになるからだ。
おわかりになっただろうか? 言葉とは翻訳機能にすぎないのだ。我々は日常の対話においてすら言葉というシンボルを手繰り寄せながら、コミュニケーションを図っているのである。ゆえに時折誤解や行き違いが生じる。
・日本に宗教は必要ですか?/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳
・教育の機能 2/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
言葉がコミュニケーションのツールであるならば、マンダラも悟りのための道具なのだろう。
前置きが長くなってしまった。シリーズ『人生と仏教』は全12巻となっている。中村元が担当しているのは本巻だけのようだ。温厚な人物だけに時折盛り込まれる手厳しい指摘が鞭のように唸(うな)る。
中村が20年かけ1人で執筆していた『佛教語大辞典』(東京書籍)が完成間近になったとき、編集者が原稿を紛失してしまった。中村は「怒ったら原稿が見付かるわけでもないでしょう」と怒りもせず、翌日から再び最初から書き直し、8年かけて完結させ、1・2巻別巻で刊行。
【Wikipedia】
前半の初期仏教に対して、後半の鎌倉仏教&その他は失速した観がある。やはり些末な教義が言葉の抽象度を低くしているように感じてならない。中村は初心者にもわかる言葉で、深遠な仏法哲理を自在に語る。
したがって、ゴータマは形而上学的な問題については解答を与えることを拒否した。原始仏教聖典を見ると、「我(=霊魂)および世界は常住であるか?(=時間的に局限されていないか?)あるいは無常であるか?(=時間的に局限されているか?) 我および世界は有限であるか、あるいは無限であるか、身体と霊魂とは一つであるか、あるいは別のものであるか? 完全な人格者(タターガタ〈「如来」と訳される〉)は死後に生存するか、あるいは生存しないのか?」などの質問が発せられたときに、かれは答えなかったという。このような問いが14あり、それに対してイエスともノーとも答えを記さないから、漢訳仏典では〈十四無記〉という。また返答を与えないで捨てて置くことが、実は一つのはっきりした立場を表明していることになるので、これを〈捨置記〉(しゃちき/『倶舎論』〈くしゃろん〉における訳語)ともいう。(ここではカント哲学などにおけると相似た二律背反〈アンチノミー〉の問題が想起されているのである)。(句点ママ)
では、なぜ答えを与えなかったのかというと、これらの形而上哲学的問題の論議は益の無いことであり、真実の認識(正覚〈しょうがく〉)をもたらさぬからであるという。(ジャイナ教徒は仏教徒を「不可知論者」とみなしていた)。懐疑論者サンジャヤは懐疑論的立場に立って、このような質問に対しては曖昧模糊(あいまいもこ)たる返答をして問題の焦点をはずしたが、ブッダはそれとは異なって、明確な自覚に基づいて返答を拒否した。この点について興味深いのは毒矢の譬喩(ひゆ)である。
【『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元〈なかむら・はじめ〉(佼成出版、1970年)以下同】
以下、無記に関するリンク。
・原始仏教の教理
・無記説の考察
・輪廻思想は仏教本来の思想か(舟橋尚哉)
・連続ツイート 無記(茂木健一郎)
・茂木健一郎氏の連続ツイート「無記」に関する違和感
続いて「毒矢の喩え」が引用される。
「ある人が毒矢に射られて苦しんでいるとしよう。かれの親友・親族などはかれのために医者を迎えにやるであろう。しかし矢にあたったその当人が、『わたしを射た者が王族であるか、バラモンであるか、庶民であるか、奴隷(どれい)であるか、を知らない間は、この矢を抜き取ってはならない。またその者の姓や名を知らない間は、抜き取ってはならない。またその者は丈が高かったか、低かったか、中位であったか、皮膚の色は黒かったか、黄色かったか、あるいは金色であったか、その人はどこの住人であるか、その弓は普通の弓であったか、強弓であったか、弦(弓づる)や■(竹冠+幹)箭(矢柄)やその羽根の材料は何であったか、その矢の形はどうであったか、こういうことがわからない間は、この矢を抜き取ってはならない』(カギ括弧ママ)と告げたとする。しからばこの人は、こういうことを知り得ないうちにやがて死んでしまうであろう。それと同様に、もしもある人が「尊師がわたくしのために〈世界は常住なものであるか、無常なものであるか〉などということについて、いずれか一方に定めて応えてくれない間は、わたしは尊師のもとで清浄(しょうじょう)行をしないであろうと語ったとしよう。しからば師がそのことを説かれないから、その人はやがて死んでしまうであろう」(MN.I.pp.429-30)
西洋で形而上学が発展したのは、教会がアリストテレスを採用したためだ。多分。キリスト教は砂漠で生まれた。砂漠には何もない。そこに広がっているのは天だけだ。だからキリスト教は自然環境を征服する対象と見なした。これは建築様式にも反映されていて、多くの教会が尖塔(せんとう)となって天を目指している。
「毒矢の喩え」は広く知られているが実に鮮やかな反論である。我々は生まれてから歴史、文化、伝統などの条件づけによって数えきれないほどの小さな毒矢を射(う)たれている。生の本質に暗い理由はそこにある。資本主義が世界を席巻してからというもの、人間の悩みは経済的なものに限定されてしまった。収入、対価、コスト、合理性など、あらゆることが経済的尺度に置き換えられる。
人生で本質的なこと、とりわけ、自らの行動原理にかかわることについて「無記」が大切なのは、言葉に表すことでかえって「動き」が止まってしまうから。
言葉で「こうだ」と決めつけてしまうことは、うごめく生命体をスケッチするようなもの。
【茂木健一郎】
これは卓見だと思う。生は瞬間瞬間とどまることがない。そのダイナミズムを言葉が止めてしまうというのだ。教義に額づく宗教者が愚かであるのも同じ理由だ。生を教義の中に閉じ込めることは本末転倒である。仏教は啓典宗教ではない。
私はやはり「毒矢の喩え」を忠実に読むことが大事であると考える。要はブッダが斥(しりぞ)けたのは「死から目を背け、死から遠ざかる思考」であったといえまいか。
時間は概念であるゆえ、永遠は存在しない。観測者がいなくなった時点で時間は消失する。変化という諸行無常の姿が時間の本質なのかもしれない。
【月並会第1回 「時間」その一】
我々は限定された時間を生きる。その限界性を打ち破るものは思考ではない。なぜなら言葉はシンボルにすぎないからだ。
そもそも言語機能は脳の部分的な働きであり、しかも後天的に獲得されたことを見落としてはなるまい。人間を深いところで支えているのは脳の古い皮質(大脳辺縁系)なのだ。
ブッダが見つめたのは生と死であった。形而上学は生と死を見失わせる。
ブッダは、しばしば良い医者に喩(たと)えられている。
そうして聖典の語るところによると、ゴータマは「わが道は真理である」と主張することなく、また「汝(なんじ)の説は虚妄(もう)である」といって相手を非難することもない(『スッタニパータ』八四三)。他の学説と衝突することもない(同上、八四七)。かれは一つの立場を固守して他の者と争うことがないのである。
したがってブッダの教えは、他の教えと「等しい」とか「勝(すぐ)れている」とか「劣っている」とかいって比較することもできぬものである(『スッタニパータ』、八四二以下、八五五、八六〇参照)。比較ということは、共通の場面の上に立っている者どもの間でのみ可能なのである。次元を異にする者どもの間では、比較は成立し得ない。世の哲人は〈真理の一部分を見る者〉であるが、ブッダは真理そのものを見る者である。この趣意を明かすために群盲が象を評するという譬喩が述べられている(『義足経』巻上。「鏡面王経」第五。大正蔵・四巻、178ページ上-下)。ゴータマ・ブッダは、種々の哲学説がいずれも特殊な執着に基づく偏見である、ということを確知して、そのいずれにもとらわれず、みずから省察しつつ、内心の寂静の境地に到着しようとした(『スッタニパータ』、八三七など)。「無争論」というのが根本的立場であった。「世間はわれと争えども、われは世間と争わず」。――このような「争わない」という立場が原始仏教経典のうちの最古層に表明されているのであるから、ゴータマは、当時の諸哲学説と対立する、なんらか特殊な哲学説の立場に立って、新しい宗教を創始しようとする意図もなく、また新しい形而上学を唱導したのでもない。ゴータマは二律背反に陥るような形而上学説を能(あた)うかぎり排除して、真実の実践的認識を教示したのである。
かれは、みずから〈真実のバラモン〉または〈道の人(沙門)〉となる道を説くのだ、ということを標榜していた。かれは徳行の高い昔の聖仙を称賛していた。ゆえにゴータマ・ブッダには、新しい別の宗教の開祖であるという意識は無かったようである。
私はクリシュナムルティを学んでから、ブッダや日蓮などには「教義を説いた自覚がなかったに違いない」と思うようになった。なぜなら一切の束縛から人間を自由にしようとした彼らが「私の教義に従え」と言うわけがないからだ。それが証明された。
例えば自殺についても無記と同様だと思われる。
・仏教は自殺を本当に禁じているのか?
・自殺を止められた釈尊の譬え話
・自殺についての仏教の視点 現実感覚の確立とあの世への連続感(PDF)
・自殺と向き合えない仏教
私も元々は自殺に絶対反対であった。その理由は強い者よりも弱い者を殺す罪は重く、男性よりも女性を殺す罪は重く、大人よりも子供を殺す罪は重く、他人よりも自分を殺す罪は重いというものであった。
もう10年以上前になるが後輩の父親が自殺をした。行方不明になってから半年後に青木ヶ原の樹海で発見された。掛ける言葉が見つからなかった。ただ一緒に泣いた。
もちろん「自殺するのも自由だ」と言うことは困難だ。しかし「自殺はいけない。自殺は悪である」という単純な論理が、どれほど遺族を苦しめることだろう。「自殺を止められなかったのは家族の落ち度だ」と自分たちを責めているにもかかわらず。
また喫煙や飲酒、コーヒーなどの刺激物、甘い物などの嗜好品を好むのは、「緩慢な自殺」と考えることも可能だろう。オートバイの暴走は文字通りの自殺行為である。不摂生、肥満、運動不足、他人の噂話、不勉強、怠惰、鈍感、凡庸……全部自殺行為だよ(笑)。
事実を見つめてみよう。「自殺した人がいる」「自殺という選択をした人がいる」――それだけの話だ。そこに「余計な物語」を付与してはいけない。
先日、「怨みはついにやむことがない」というツイートを紹介した。クリシュナムルティを通すと読めるようになる。縁起とは、「罵る人と罵られる人がいる」「害する人と害される人がいる」という事実を達観することだ。そこに強弱、あるいは上下という人間関係の物語を与えるから、自我が立ち上がるのだ。
我々は過去の物語に生きている。諸法無我とは「私」という連続性から離れることである。なぜなら過去を死なせることなしに、現在を生きることは不可能であるからだ。
・あなたは「過去のコピー」にすぎない/『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J.クリシュナムルティ
・意識は過去の過程である/『生と覚醒のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
言葉ではなく沈黙の中に無量のものがある。無記という静謐の宇宙を味わう。
人生と仏教〈第11〉未来をひらく思想 (1970年)
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・ドゥッカ(苦)とは/『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・道教の魂魄思想/『「生」と「死」の取り扱い説明書』苫米地英人
・死別を悲しむ人々~クリシュナムルティの指摘
・クリシュナムルティは輪廻転生を信じない/『仏教のまなざし 仏教から見た生死の問題』モーリス・オコンネル・ウォルシュ
・自殺は悪ではない/『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑
・臨死体験/『死 私のアンソロジー7』松田道雄編集解説
2011-12-08
ホロコーストの真実を求めて
「しかしプールが見たければ、前もってそれが存在することを知っている必要がある。ガイドツアーでは見れないからだ。ガイドツアーには原則的に、ホロコーストの話をすでに信じ、それに対しておそらく何らかの感情を持つ観光客が参加する。選択的に編集されたガイドツアーで恐ろしい話を次から次へと聞かされた後、最後に最終駅のガス室に至る。この段階で、ツアーのグループは感情的にどんなことでも信じる準備ができている。ガス室は、観客を沸かせるための2時間の前座の後の主役に似ている」
・人間は偶然を物語化する/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
・1960年以前はホロコーストに関する文献すらなかった/『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン
・「貧しいユダヤ人」だけがナチスに殺された/『新版 リウスのパレスチナ問題入門 さまよえるユダヤ人から血まよえるユダヤ人へ』エドワルド・デル・リウス
・ガス室否定論者フォリソンを弁護したノーム・チョムスキー
Starting Over [Official Music Video]
我々日本人は日々、アンサーソングを歌ってゆかねばなるまい。
@shinpei23
Higashi Shinpei 日本語字幕付き! RT @moribooh: 震災復興チャリティーソング『Starting Over』を歌ったジャマイカの大御所16名が、在ジャマイカ大使館での天皇陛下生誕記念レセプションに招待されたとか。 http://t.co/5RoMr4PI
Dec 07 via ついっぷる/twippleFavoriteRetweetReply
獄中の堀江貴文氏からの手紙
だが、裏返せば、刑務所に入らなければ、堀江氏がテレビを観ることもなかったといえる。“メディア界の風雲児”とも呼ばれ、時代の先頭を切っていた彼が、自由を奪われた際にようやく辿り着いたのが「テレビ」であるとはなんという皮肉な結果だろう。
換言すれば、テレビ自らが“刑務所の娯楽”という安全の中に埋没してしまった観がある。それはメディアとしての停滞に他ならないし、成長を放棄したことを宣言したようなものである。
【上杉隆】
2011-12-07
競争原理がひずみを生み出した
「競争原理」とは、勝者しか幸せになれないシステムになっている。
「1%の金持ちと99%の貧困層」という社会になる。これに反旗を翻しているのが「ウォール街を占拠せよ」という反格差運動だ。
【鈴木傾城〈すずき・けいせい〉】
守屋洋
1冊挫折。
『中国古典 リーダーの心得帖 名著から選んだ100の至言』守屋洋(角川SSC新書、2010年)/完全な手抜き本。右ページに訳文と本文が掲載されている。フォントサイズは訳文がメインとなっていて、古典の香りを台無しにしている。で、守屋の文章は短文の切れ味を欠いている。右ページだけ通読した。
2011-12-06
怨みはついにやむことがない
3 「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれに打ち勝った。彼はわれから強奪した」という思いを抱く人には、怨みはついにやむことがない(ダンマパダ)
— 仏陀 ブッダ ことば 仏教 (@Buddha_Words) December 6, 2011
・無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元
岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ その二
・岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ その一
・岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ その二
・『21世紀の宗教研究 脳科学・進化生物学と宗教学の接点』井上順孝編、マイケル・ヴィツェル、長谷川眞理子、芦名定道
・『業妙態論(村上理論)、特に「依正不二」の視点から見た環境論その一』村上忠良
結論を先に言えば、大乗の理論家たちは、三身説を発見することによって、仏伝の永遠反復が内包する不条理を克服した。仏伝の永遠反復説は、三身説の確立によって、より正確にいえば、仏陀の「報身」説の発見によって、消え失せたのである。
仏伝の永遠反復説は、法身と生身という二仏身観を基にしている。この二仏身観は大衆部から初期大乗へと受け継がれた。仏陀を本体としては無時間的存在と見なし、過去仏や未来仏は時間の中に現われた顕現と見なす考えは、神話的思考に基づく二仏身観が支持される限り、常に当然の帰結であった。しかし仏陀を輪廻の世界に降りてきた「法界の顕現」と見做すと、個々の仏陀は個性を失って、単なる反復ということになる。すると個々の【十四】仏陀は修行の結果、仏陀に成った「人間」であるとは考えられなくなる。すると大乗における菩薩思想は崩壊せざるをえない。凡夫が発心して菩薩に成り、十地の階梯を経て仏に成るという道は形而上学の扉で永久に閉じられ、ただ仏陀のみが仏陀として現われてくるにすぎなくなる。菩薩たちすら、実は法身の仏陀が顕現した存在であるということになる。
【岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」】
いくらか参考にはなるが、仏教の素養がない人にはチンプンカンプンなことだろう。専門家の言葉は大衆に届かない。ま、届けるつもりもないのだろう。「だから何なんだ?」「それがどうした?」と言われてしまえばそれまで。
なぜ永遠に反復しなければならないのか、永遠反復する場合としない場合とでは何が違うのか、こういった点が非常にわかりにくい。精読していない立場でいうのも何だが、永劫回帰の焼き直しにしか見えない。
大体、永遠に反復するのであれば、それ自体が六道輪廻の範疇となってしまう。法(真理)を表現する言葉は社会の変遷に伴って変わらざるを得ない。そこに言葉と知性の更新があるのだ。
つまり仏陀を無始なるものとして崇める、新しい仏教の立場と、仏陀を人間がなったものと考える、オーソドックスな仏教の立場は、ここで絶対に矛盾するものとなる。
仏陀観が発達したために必然的に生じた、この矛盾を乗り越えるために、新たに考え出されたのが三身説である。この三身説では、「法身」と「生身」の従来の二仏身の間に、中間的な仏身としての「報身」(受用身)を立てるのである。
「報身」は、修行の結果としての果を所有し、固有の名前をもつ仏陀である点で、無時間的な「法身」とは異なるが、しかし法界に存在して、ほとんど無限の寿命を持ち、多くの化身を地上に下すという点で、従来の「法身」に等しい超越性をもつ。
この「報身」の成立によって、仏陀は八十歳で入滅する歴史的存在(生身)でもなく、何の具象性ももたない非・歴史的な存在(法身)でもなく、歴史を越えながら歴史性を回復した存在となる。(図式2を参照)
この「報身」の理論的な成立は中期の大乗、特に唯識学派においてであるが、しかしそれ以前にも『法華経』などの大乗経典においては、「法身」という言葉で、普遍的で非・歴史的な仏を指すのではなく、久遠釈迦という、「報身」にあたる仏を意味してきた。つまり、二身説らしく見えながら実際は〈法界〉-〈久遠釈迦〉-〈肉【十五】身釈迦〉の三段階になっており、すでにこの時代において、純粋な二身説の仏陀の非歴史性に対して物足りなさを感じる、熱烈な釈迦信仰を持つ人々が、実質的に三身説にあたる仏身観に移行していたと考えられる。
僣越ながら私が一言で述べてしまおう。大日如来も阿弥陀如来も久遠元初(くおんがんじょ)自受用報身如来(じじゅゆうほうじんにょらい)も全部一緒だ。これらには仏を神格化する目的があったのだろう。仏なのに神を目指すのだから不思議な話だ。人類という種はよほど人格神が好きなのだろう。
では神とは何か? 神とは偶像である。ここ、アンダーライン。キリスト教が偶像崇拝を戒めている(モーゼの十戒)のは、偶像は一つあれば十分だからだ。神が自分に似せて人間を創造したのではない。人間が自分に似せて神という偶像を想像したのだ。
しかもこの作品は目に見えない。会った人もいなければ、言葉を交わした人もいない。啓示とは個々人の脳内に発現した妄想である。「いる」って言い張るのであれば俺の家に連れて来いよ。言いたいことが山ほどあるから(笑)。
結論――人類は神様が大好き。「人智の及ばぬ」という言葉に象徴されているが、一人ひとりは部分情報としての人生を生きるしかない。そこで全体情報という視点として「神」という座標が想定されたのだろう。
・人間は不完全な情報システムである/『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
ブッダとは「目覚めた人」の謂(いい)である。ブッダ以前にもブッダと呼ばれた人々はいた。そしてブッダはアルハット(阿羅漢/独覚〈どっかく〉=独りで悟りを開いた者)と呼ばれることをよしとした。ティク・ナット・ハンによれば、後年は「タターガタ」(真如から来たりし者=如来)と名乗ったようだ。
日本の仏教は鎌倉時代のドグマに支配されている。だから800年近く経っても何の進歩も深化もない。これ自体、教義が知性を眠らせることを示している。
仏教は小乗から大乗へと移り変わる中で教義を構造化した。寺院建築と似たようなもので、脳のネットワーク機能が進むと必ず様式化されてゆくのだ。情報のフィードバック構造が変化するためだ。そして悟りからどんどん離れてゆく結果となる。
仏教における真理は、空=縁起=諸法無我であり、実相=中道であろう。仏の絶対視は諸法無我に反する。
そんなわけで日本語の「仏」ってえのあ、もうダメだと思う。手垢まみれになっちまって神と見分けがつかないもの。敗戦後の日本では「神も仏もあるものか」と並び称されるようになってしまった。
仏という言葉に隔絶感を覚えるのは、悟った人がいないためである。「仏教は凄い」と語る人は多いが、「仏教で悟った」人を見たことがない。
ニコラス・ウェイド
1冊読了。
69冊目『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド:依田卓巳〈よだ・たくみ〉訳(NTT出版、2011年)/天才本。タイミングどんぴしゃり。本書は“進化宗教学”の地平を拓いたといってよい。宗教の発祥を探り、進化に伴って宗教が淘汰されなかった理由を解明している。リチャード・ドーキンスやダニエル・C・デネットを読んでいる人は必読のこと。「高等批評」(聖書の科学的研究)という言葉は知らなかった。私にとっては出会うべくして出会った一冊。
バーバラ・W・タックマン、伊藤計劃、ソール・A・クリプキ
3冊挫折。
『決定的瞬間 暗号が世界を変えた』バーバラ・W・タックマン:町野武訳(みすず書房、1968年/ちくま学芸文庫、2008年)/展開が悪い。力のない握手みたいな出だし。
『虐殺器官』伊藤計劃〈いとう・けいかく〉(早川書房、2007年/ハヤカワ文庫、2010年)/小田雅久仁と文体の印象が似ている。クセのある形容が肌に合わず。伊藤は彗星のように登場し三つの作品を発表。その後、30代半ばで急逝した。意を決して再読するも、「ぼく」という言葉に堪えられず。
『名指しと必然性 様相の形而上学と心身問題』ソール・A・クリプキ:八木沢敬〈やぎさわ・たかし〉、野家啓一〈のえ・けいいち〉訳(産業図書、1985年)/歯が立たず。「およそ語られうることは、明晰に語られうるし、語りえないものについては沈黙しなければならない」(ウィトゲンシュタイン)。恐らく「語られうること」を解明しようとしているのだろう。宗教用語――例えば創世記、久遠、神、仏など――を本書で炙(あぶ)り出せば面白いと思う。後々再読せねばなるまい。
2011-12-04
Google Chrome フォントサイズの変更方法
Google Chromeを使うようになってから最初に困ったのは、ブログ編集画面でフォントサイズが小さくなってしまったことだった。あちこち調べて何とか解決した。ただし、それでもCtrl++を多用してきた。再度、設定を変えたところ上手くいった。facebookのフォントも大きく表示できた。以下にその手順を示す。
まず、Googleのトップページを開く。
次に検索窓内で右クリック。
スペルチェックのオプション→言語設定をクリック。
右上の×ボタンをクリック。左側の何もない部分をクリックでもオッケー。手前の画面を消す。
高度な設定→フォントをカスタマイズ。
ここで最小フォントサイズを変更する。私の場合は14に指定。中年オヤジに優しい設定だ。視力が衰えていない若者であれば13でも十分だろう。
2011-12-03
NATO(北大西洋条約機構)設立の経緯
第二次世界大戦が終わり、東欧を影響圏に置いた共産主義のソビエト連邦との冷戦が激しさを増す中で、イギリスやフランスが主体となり、1949年4月4日締結の北大西洋条約により誕生した。結成当初は、ソビエト連邦を中心とする共産圏(東側諸国)に対抗するための西側陣営の多国間軍事同盟であり、「アメリカを引き込み、ロシアを締め出し、ドイツを抑え込む (Keep the Americans in, the Russians out, and the Germans down) 」(=反共、封じ込め)という初代事務総長ヘイスティングス・イスメイの言葉が象徴するように、ヨーロッパ諸国を長年にわたって悩ませたドイツ問題に対するひとつの回答でもあった。加盟国は集団的安全保障に加えて、域内いずれかの国が攻撃された場合、共同で応戦・参戦する集団的自衛権発動の義務を負っている。
当初はアメリカなどの一部でドイツの徹底した脱工業化・非ナチ化が構想されていた(モーゲンソー・プランも参照)。また連合軍占領下ではドイツは武装解除され、小規模な国境警備隊や機雷掃海部隊以外の国軍を持つことは許されず、米ソ英仏の4カ国が治安に責任を持っていた。しかし冷戦の開始とともに西ドイツ経済の復興が求められ、主権回復後の1950年には西ドイツの再軍備検討も解禁された。西ドイツは新たな「ドイツ連邦軍」の創設とNATOへの加盟の準備を始めたが、フランスなどはドイツ再軍備とNATO加盟に反対し、欧州防衛共同体構想で対抗した。この構想は1952年に西ドイツを含む西欧各国間で調印されたがド・ゴール主義者たちの反対によりフランス議会で否決され、批准に至らなかった。この結果、フランスもドイツ再軍備を認め、ドイツ連邦軍が1955年11月12日に誕生し、西ドイツはNATOに加盟した。
【Wikipedia】
「当初はアメリカなどの一部でドイツの徹底した脱工業化・非ナチ化が構想されていた」とある。しかし実態はどうであったか?
・アメリカ経済界はファシズムを支持した/『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』菅原出
経済は政治体制を無視する。利益こそが重要なのであって政治体制は不問に付される。
今、世界を牛耳る軍事力は米軍、NATO軍、そしてモサド(技術面&無法性)といってよいだろう。
そしてユーロ危機が到来した。
・欧州復興開発銀行元総裁が口にしたユーロ崩壊のXデーは?
・ユーロ問題。「崩壊先送り策」が実施されても一時しのぎだ
・ユーロの正念場
これは、EUから第二次世界大戦以降の枠組みが変わってきていることを示しているのかもしれない。とすると今まで利益を貪ってきた連中が黙って指をくわえているはずもなく、何らかの混乱が起こるはずだ。
・ガイトナー米財務長官はバークレイズ銀行のLIBOR(ライボー)不正操作を何故今になってリークしたのか?
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