2012-03-07
2012-03-06
南英男
1冊挫折。
『友だちが怖い ドキュメント・ノベル『いじめ』』南英男(集英社文庫コバルトシリーズ、1985年)/大阪産業大学付属高校同級生殺害事件が取り上げられている。それで読んだわけだが、Wikipediaに劣る内容であった。古い本のため、左翼教師が説くような手垢まみれの道徳観が綴られている。現実のいじめを解決し得ない者が、殺害という解決法を実行した彼らを論じることに意味は見出せない。1章と最終章だけ読んだ。
星の教団と鈴木大拙
@kiyoshikasai
笠井潔 神智学協会日本支部長だった鈴木大拙も幸徳人脈に属し、もしも海外滞在中でなかったら、大逆事件に連座していたはずだ。イギリスやロシアのスピリチュアリズムと社会主義運動の関係は、もっと研究されていい。
Mar 01 via web Favorite Retweet Reply
@komorikentarou
小森健太朗 神智学内のクリシュナムルティを世界教師と仰ぐ教団としてアニー・ベサントの肝入りで〈星の教団〉が設立されたが、鈴木大拙はこの参加は拒んでいる(今東光は参加)。クリシュナムルティ自身が「自分は世界教師でない」と教祖の座を拒み、アムステルダムでの結成式が解散式になってしまった。
Mar 02 via web Favorite Retweet Reply
鈴木大拙のことは知らなかった。
・神智学協会が日本に与えた影響
・安藤礼二氏「明治期の神智学問題におけるチベット・モンゴル学の影響」
・星の教団解散宣言~「真理は途なき大地である」/『クリシュナムルティ・目覚めの時代』メアリー・ルティエンス
・ヘンリー・ミラー「クリシュナムルティは徹底的に断念した人だ」/『ヘンリー・ミラー全集11 わが読書』ヘンリー・ミラー
・神智学協会というコネクター/『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール
石原慎太郎と野口健 遺骨収集活動
いやあ凄い。あの石原慎太郎が神妙な顔つきで耳を傾けている。生の本質に迫る言葉の数々が襟を正さずにはおかない。
8000mを超えた世界には匂いや色、音がないとの指摘が興味深い。仏教では物質的存在を「色法」(しきほう)と名づける。野口の言葉に「いろは歌」を思い出した人も多いのではないか。
色はにほへど 散りぬるを
我が世たれぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず
諸行無常がこの世の実相であれば、8000mから上は変化をも許さない「死の世界」なのだろう。地獄とは地の底にあると思い込んでいたが、どうやら違ったようだ。
五感という知覚そのものが、縁起という相関関係を構成していることがわかる。
・野口健が戦ってきたもの
2012-03-05
野口健が戦ってきたもの
◎佐々木かをり対談 win-win 第59回 野口健さん
32ページに渡る記事が一冊の読書に等しいほど面白い。まず野口の言葉は率直で嘘や飾りがない。開けっ広げな性格が窺える。twitterで紹介するだけではもったいないので覚え書きを残しておこう。
まずは、8000m級の山々がアルピニストの内臓にダメージを与えることに驚かされた。心臓の弁が閉まらなくなる、腸に穴が空く、肝機能低下……。
で、酸欠になると、肝機能が低下するわけです、脳が鈍るんで。だから登山家の人は血が汚いんですよ、みんな。ドロドロしちゃって。で、血が汚いところから病気っていうのは生まれてくるんで、病院に行ったら僕の血は汚すぎてね、人には輸血できないって言うんですよ。見てわかるくらい、他の人と違うんです。
今日、以下のニュースを偶然見つけた。
雑記帳:植村直己さん「最後の日記」 出身地で展示
北米マッキンリー山で84年に消息を絶った冒険家、植村直己さん(当時43歳)の「最後の日記」が出身地・兵庫県豊岡市の植村直己冒険館でパネル展示されている。
捜索隊がマッキンリーの雪洞内で見つけた。84年2月1~6日の日付がある。ノート16ページに、雪をかき分けて登る様子や凍ったトナカイの肉を食べる食事が克明に記されている。展示は13日まで。
「孤独を感じない」「何が何でも登るぞ」とも書いていた。冒険館は「日記は色あせていっても、植村のチャレンジ精神はあれから28年たっても色あせていない」。
【毎日jp 2012-03-05】
実はこの日記が気になり検索したところ、「植村直己さんの最後の日記」のページがヒットした。
私は唸(うな)った。死を目の当たりにしてきた野口の直観にたじろいだ。同じ世界に身を置いた者同士でなければ不可能なコミュニケーションが成立していたからだ。「この『何がなんでも』っていう言葉は素人が使う言葉なんです」と言い切るには一つや二つくらいの修羅場を経たくらいでは無理だ。
あるテレビ番組で野口は、エベレスト山頂付近では文字通り屍(しかばね)を踏み越えて進んだ経験を語っていた。また石原慎太郎との対談では、エベレスト登頂直後にパートナーの最期を看取ったことを紹介していた。
8000mという死線を超えた者だけにわかる世界がきっとある。そこは生きること自体が「有り難い」世界なのだ。
長年ヒマラヤに行っていつも見てるんですが、ゴミを捨てる隊ってあるんです。ゴミを捨てる隊と遭難者を出す隊がね、重なってくるんですよ。
だから、今、韓国隊、中国隊、ロシア隊がぼろぼろですよ。失敗したらたたかれるから、絶対に帰れないって、危なくても突っ込んで死んでしまう。そういう隊は、ほかに気も回らないから、ゴミも出す。ほかの隊に比べて余裕がないからゴミも多いんです。
心の余裕とか精神のゆとりと書くと、いかにも陳腐だ。しかし山を思いやれない人々が、他者を思いやれないのは当然だ。漢字では「思い遣り」と書く。「思い」を「遣(つか)わす」ことが本義であろう。周囲からの厳しさがエゴの温床となる場合があるという指摘は頷ける。
野口は最初のエベレストアタックに失敗。帰国後の記者会見で「いやあ、登頂できなかったのも辛かったけどね、エベレストに日本のゴミがあって、日本は三流とか、日本を否定された。あれも辛かったなあ」と漏らした。これをマスコミが大きく報じた。日本山岳会が野口に猛烈な圧力をかける。尊敬していた登山家の先輩からは「ゴミを見なかったことにしろ」と告げられる。そして日本山岳会の最高責任者であった橋本龍太郎との対決にまで漕ぎ着ける。
組織の力学はリンチであり、いじめであることが明らかだ。私の場合、暴力性で乗り切ってきたが、野口は強い精神力と果敢な行動力で乗り越えている。中々できることではない。
富士山のゴミ拾いでは完全な政治問題にコミットしている。そして散々自分を叩いてきたメディアを今度は逆に利用する。
バラエティに出る時は条件として、「富士山の話ができるなら出ますよ」って言ったら、全部OKだったんですよね。
やり方が聡明だ。鮮やかである。そんな野口が育った家庭環境についても述べられている。実にユニークな父親だ。日本人外交官とエジプト人女性の間に生まれ、世界を渡り歩いてきた彼ならではの独立した気風から学ぶことは多い。
◎公式サイト
◎石原慎太郎と野口健 遺骨収集活動
◎『僕の名前は。 アルピニスト野口健の青春』一志治夫
◎野口健は日本航空を利用しない
2012-03-04
2012-03-03
世界情勢を読む会、ペニー・ルクーター、ジェイ・バーレサン
3冊挫折。
『面白いほどよくわかる 世界の紛争地図 紛争・テロリズムから危険地帯まで、「世界の危機」を読み解く』世界情勢を読む会編著(日本文芸社、2002年/改訂新版、2007年)/硬質な文章でこれは見っけものかと思ったが、パックスアメリカーナに順ずる記述があったのでやめた。実に惜しまれる。日本文芸社が刊行している「学校で教えない教科書」シリーズは、大人の読書に応えられるものがないと判断した。
『面白いほどよくわかる 世界地図の読み方 紛争、宗教から地理、歴史まで、世界を読み解く基礎知識』世界情勢を読む会編著(日本文芸社、2002年/改訂新版、2007年)/というわけで自動的にこちらも中止。
『スパイス、爆薬、医薬品 世界史を変えた17の化学物質』ペニー・ルクーター、ジェイ・バーレサン:小林力〈こばやし・つとむ〉訳(中央公論新社、2011年)/3ヶ月前の発行にもかかわらず品切れが続いている本。私の知識では無理だった。ハードカバーにした心意気は買うが、紙質が悪いので元も子もない。昔のパルプマガジンを思わせる紙だ。
ネオ=ロゴスの妥当性について/『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
・『物語の哲学』野家啓一
・狂気を情緒で読み解く試み
・ネオ=ロゴスの妥当性について
・『新版 分裂病と人類』中井久夫
・『アラブ、祈りとしての文学』岡真理
・『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ
・物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
・『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル
・『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
・『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
・『オープンダイアローグとは何か』斎藤環著、訳
・必読書リスト
我々が生を自覚するのは死を目の当たりにした時だ。つまり死が生を照射するといってよい。養老孟司〈ようろう・たけし〉が脳のアナロジー(類推)機能は「死の象徴化から始まったのではないか」と鋭く指摘している。
・アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司
ま、一言でいってしまえば「生と死の相対性理論」ということになる。
前の書評にも書いた通り、渡辺哲夫は本書で統合失調症患者の狂気から生の形を探っている。
歴史は死者によって形成される。歴史は人類の墓標であり、なおかつ道標(どうひょう)でもある。たとえ先祖の墓参りに行かなかったとしても、歴史を無視できる人はいるまい。
死者たちは生者たちの世界を歴史的に構造化し続ける、死者こそが生者を歴史的存在者たらしめるべく生者を助け支えてくれているのだ、(以下略)
【『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫(筑摩書房、1991年/ちくま学芸文庫、2002年)以下同】
渡辺は狂気を生と死の間に位置するものと捉えている。そして狂気から発した言葉を「ネオ=ロゴス」と名づけた。
・統合失調症患者の内部世界
「あの世で(あの世って死んだ事)子供(B男)が不幸になっています 十二歳中学二年で死にました 私(母親の○○冬子)がころしました
目が見えません 目玉をくりぬいて脳の中に くりぬいた目の中から小石をつめ けっかんをめちゃめちゃにして神けいをだめにして 息をたましいできかんしをつめて息ができません 又くりぬいための中に ちゅうしゃきでヨーチンを入れ目がいたくてたまりません また歯の中にたましいが入ってはがものすごく痛くがまんが出来ません
又体の中(背中やおなかや手足)の中に石田文子のたましいが入って具合が悪く立っていられない それをおぼうさんがごういんにおがんで立たしておきます
又ちゅうかナベに油を入れいっぱいにしてガスの火でわかして一千万度にして三ばいくりぬいた目の中に入れ頭と体の中に入れあつすぎてがまんが出来ません
又たましいの指でおしりの穴をおさえて便が全然でません又おしっこもおしっこの出る穴をおさえてたましいでおさえて出ません
又B男のほねをおはかからたましいでぬすんでほねがもえるという薬をつかってほねをおぽしょて ほねをもやしてその為にB男のほねは一本もありません
又きかんしに石田文子がたましいできかんしをつめて息が出来ません又はなにもたましいでつめて息が出来ません だから私(冬子)母親のきかんしとB男のきかんしをいれかえて下さい」(※冬子の手記)
「……言葉がトギレトギレになって溶けちゃうんです……言葉が溶けて話せない……聴きとれると語尾が出て心が出てくるんですね、語尾がないとダメダメ……秋子の言葉になおして語尾しっかりさせないと……流れてきて、わたしが言う他人の言葉ですね……わたしの話は死人に近い声でできてるからメチャクチャだって……死人っていうのは、思わないのに言葉が出てくる不思議な人体……言葉が走って出てくるんですね。飛び出してくる、……言葉が自分の性質でないんです。デコボコで、デコボコ言葉、精神のデコボコ……」(※秋子)
筒井康隆が可愛く見えてくる。通常の概念が揺さぶられ、現実に震動を与える。このような言葉が一部の人々に受け容れられた時に新たな宗教が誕生するのかもしれない。
「アジャパー!!」「オヨヨ」「はっぱふみふみ」といった流行語にしても同様だろう。
デタラメな言葉だとは思う。しかし意味に取りつかれた我々の脳味噌は「言葉を発生させた原因」を思わずにはいられない。渡辺は実に丁寧なアプローチをしている。
ところが冬子にとっての「たましい」たる「B男」は彼岸に去ってゆかない。あの世もこの世も超絶した強度をもって実態的に現前し続ける。生者を支えるべく歴史の底に沈潜してゆくことがない。つまり、「たましい」は、死者たちの群れから離断された“有るもの”であり続ける。「たましい」は冬子の狂気の世界のなかで、余りにもその存在強度を高めてしまったのである。死者たちの群れに繋ぎとめられない「B男」は、死者たちの群れの“顔”になりようがない。逆に「B男」という「たましい」は、死者たちを圧殺するような強度をもってしまう。「たましい」は、生死を超越して絶対的に孤立している。否、「B男」の「たましい」は、死者たちでなく冬子に融合してしまっている。「B男」は、死者たちの群れを、祖先を、歴史の垂直の軸あるいは歴史の根幹を圧殺し、母たる生者をも“殺害”するほどの“顔”なのである。これはもう“顔”とは呼べまい。「B男」という「たましい」は、死者たちの群れに絶縁された歴史破壊者にほかならない。冬子も「B男」も、こうして本来の死者たちの支えを失っているのである。
つまり「幽明界(さかい)を異(こと)に」していないわけだ。生と死が淡く溶け合う中に彼女たちは存在する。むしろ存在そのものが溶け出していると言った方が正確かもしれない。
仏教の諦観は「断念」である。しがらむ念慮を断ち切る(=諦〈あきら〉める=あきらか、つまびらかに観る)ことが本義である。それが欲望という生死(しょうじ)の束縛から「離れる」ことにつながった。現在を十全に生きることは、過去を死なすことでもある。
他者という言葉は多義的である。私は常識の立場に戻って、この多義性を尊重してゆきたいと思う。
まず第一に、他者は、ほとんどの他者は、死者である。人類の悠久の歴史のなかで他者を思うとき、この事実は紛れもない。現世は、生者たちは、独力で存立しているのではない。無料無数の死者たちこそ、事物や行為を名づけ、意味分節体制をつくり出し、民族の歴史や民俗を基礎づけ、法律や宗教の起源を教えているのだ。否、教えているという表現は弱過ぎよう。最広義における世界存在の意味分節のすべてが、死者たちの力によって構造的に決定されているのである。言い換えれば、他界は現世の意味であり、死者たちは、生者たちという胎児を生かしめて(ママ)いる胎盤にほかならない。知覚や感覚あるいは実証主義的思考から解放されて、歴史眼をもって見ることが必要である。眼光紙背に徹するように、現世を現世たらしめている現世の背景が見えてくるだろう。
死者が他者であることに異論の余地はない。それゆえ、他者は、現世の生者を歴史的存在として構造化する力をもつのである。
第二に、他者は、自己ならざるもの一般として、この現世そのものを意味する。歴史的に意味分節化されたこの現世から言葉を収奪しつつ、また新たな意味分節世界を喚起し形成しつつ、生者各人はこの他者と交流する。この他者は、ひとつの意味分節として、言語のように、言語と似た様式で、差異化され構造化されている。この他者を、それゆえ、以後、言語的分節世界と呼ぶことにしたい。自己ならざるもの一般の世界が言語的分節世界としての他者であるならば、他者は、言葉の働き方に関するわれわれの理解を一歩進めてくれる。
言うまでもなく、言葉は、各人の脳髄に内臓されているのではない。一瞬一瞬の言語行為は、発語の有無にかかわらず、言語的分節世界という他者から収奪された言葉を通じて遂行される。否、収奪そのものが言語行為なのだ。では、言語的分節世界という他者は、言語集蔵体(ママ)の如きものなのであろうか。もちろん、そうではない。言葉は、言語的分節世界という他者の存立を可能ならしめている死者たちから、彼岸から、言わば贈与されるのである。生者が収奪する言葉は、死者が贈与する言葉にほかならない。この収奪と贈与が成功したとき、言葉は、歴史的に構造化された言葉として力をもつのである。それゆえ、われわれの言葉は、意識的には、主体的に限定された他者の言葉なのであるが、無意識的には、歴史的に限定された死者の言葉なのである。死者の言葉は、悠久の歴史のなかで、死者たちの群れから生者たちへと、一気に、その示差的な全体的体系において、贈与され続ける。それゆえに、言語的分節世界としての他者は歴史的に構造化され続けるのである。
言語集蔵体とは阿頼耶識(あらやしき/蔵識とも)をイメージした言葉だろう。茂木健一郎が似たことを書いている。
「悲しい」という言葉を使うとき、私たちは、自分が生まれる前の長い歴史の中で、この言葉を綿々と使ってきた日本語を喋る人たちの体験の集積を担っている。「悲しい」という言葉が担っている、思い出すことのできない記憶の中には、戦場での絶叫があったかもしれない、暗がりでのため息があったかもしれない、心の行き違いに対する嘆きがあったかもしれない、そのような、自分たちの祖先の膨大な歴史として仮想するしかない時間の流れが、「悲しい」という言葉一つに込められている。
「悲しい」という言葉一つを発する時、その瞬間に、そのような長い歴史が、私たちの口を通してこの世界に表出する。
【『脳と仮想』茂木健一郎(新潮社、2004年/新潮文庫、2007年)】
ここにネオ=ロゴスが立ち上がる。
言い換えるならば、言語的分節世界という他者から排除され、言葉を主体的に収奪限定する機会を失ってしまった独我者が、自力で創造せんとする新たなる言葉、ネオ=ロゴスこそ独語にほかならない。主体不在の閉鎖回路をめぐり続ける独語に、示差的機能を有する安定した体系を求めるのは不可能であろう。それにもかかわらず、他者から排除された独我者は、恐らくは人間の最奥の衝動のゆえに、ネオ=ロゴスを創出しようとする。もちろんここに意識的な意図やいわゆる無意識的な願望をみることなど論外だろう。もっと深い、狂気に陥った者の人間としての最も原初的かつ原始的な力動が想定されねばなるまい。
ネオ=ロゴスは、死者を実体的に喚起し創造し“蘇生”させると、返す刀で狂的なる生者を“殺害”するのである。これが先に述べた、ネオ=ロゴスの死相の二重性にほかならない。ネオ=ロゴスは、全く新奇な“死者の言葉”あるいは“死の言葉”であると言っても過言ではない。
スリリングな論考である。だが狂気に引き摺り込まれているような節(ふし)も窺える。はっきり言って渡辺も茂木も大袈裟だ。無視できないように思ってしまうのは、彼らの文体が心地よいためだ。人は文章を読むのではない。文体を感じるのだ。これが読書の本質である。
言葉や思考は脳機能の一部にすぎない。すなわち氷山の一角である。渡辺の指摘は幼児の言葉にも当てはまる。そして茂木の言及は幼児の言葉に当てはまらない。
生の営みを支えているのは思考ではなく感覚だ。我々は日常生活の大半において思考していない。
どうすればできるかといえば、無意識に任せればできるのです。思考の無意識化をするのです。
車でいえば、教習所にいたときには、クラッチを踏んでギアをローに入れて……、と、順番に逐次的に学びます。
けれども、実際の運転はこれでは危ないのです。同時に様々なことをしなくてはなりません。あるとき、それができるようになりますが、それは無意識化されるからです。
意識というのは気がつくことだと書きましたが、今気がついているところはひとつしかフォーカスを持てないのです。無意識にすれば、心臓と肺が勝手に同時に動きます。
同時に二つのことをするのはすごく大変です。けれどもそれは、車の運転と同じで慣れです。何度もやっていると、いつの間にかその作業が無意識化されるようになってくるのです。
無意識化された瞬間に、超並列に一気に変わります。
【『心の操縦術 真実のリーダーとマインドオペレーション』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(PHP研究所、2007年/PHP文庫、2009年)】
結局、「生きる」とは「反応する」ことなのだ。思考は反応の一部にすぎない。そして実際は感情に左右されている。ヒューリスティクスが誤る原因はここにある。
・自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他
意外に思うかもしれないが、本を読んでいる時でさえ我々は無意識なのだ。意識が立ち上がってくるのは違和感を覚えたり、誤りを見つけた場合に限られる。スポーツを行っている時はほぼ完全に無意識だ。プロスポーツ選手がスランプに陥ると「考え始める」。
渡辺と茂木の反応は私の反応とは異なる。だからこそ面白い。そして学ぶことが多い。
・圧縮新聞
・物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一
・『カミの人類学 不思議の場所をめぐって』岩田慶治
・ワクワク教/『未来は、えらべる!』バシャール、本田健
2012-03-02
「さあ、躍ろう!」
2012-03-01
クリシュナムルティと菜食主義
クリシュナムルティはベジタリアンであったが、他人にも強要する菜食主義者ではなかった。彼はその理由を問われ「(食べるために殺される動物達が)哀れだから」と答え、それ以上は何も語らなかった。私も極力、肉食は避けている。(続く)
— 小野不一さん (@fuitsuono) 8月 21, 2010
我々がスポーツに熱狂するのは、狩りに由来しているのだろう。肉食は興奮をもたらす。その昔、多くの国々では天変や伝染病を鎮める目的で、動物を生け贄として祭壇に捧げた。祈祷を終えた人々は、怒りと悲しみを肉食にぶつけたのではあるまいか? 肉食にはどこかファナティックなところがある。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 8月 21, 2010
不思議な法則があって、肉を食べることを覚えると、人間は絶対にその味を捨てることができないんです。人口13億の中国人が肉を食べ始めるようになったということは世界のエネルギーの消費量が今後ぐんぐん上がっていくことを意味するんです。(佐藤優)http://bit.ly/bchjEj
— 小野不一さん (@fuitsuono) 8月 21, 2010
◎中国人が肉を食べ始めた
【動画】人間が動物に行っている仕打ちを直視せよ。/『さらばアフリカ』ヤコペッティ監督 http://bit.ly/9LfM9C
— 小野不一さん (@fuitsuono) 8月 21, 2010
◎中東が砂漠になった理由/紀元前5世紀に肉食をやめたインド
◎仏教と菜食主義
2012-02-29
「アラブ人はどこにいるのか?」レバノン人歌手ジュリア・ブトロス
シオニスト政権によるレバノン攻撃、パレスチナ人迫害を見て見ぬふりをするアラブ諸国指導者への非難をこめた、アラブ民族の抵抗の歌。ジュリア・ブトロス(Julia Boutros)はレバノンの歌手でマロン派キリスト教徒。母はパレスチナ出身のアルメニア人。
この歌が胸の内側で鳴り響いて止むことがない。朝、目を覚ます前に耳の中で炸裂するほどだ。
カマラリたちの新たな人生(ネパール)~プラン・ジャパン
「カマラリたちの新たな人生」は、ネパールで「カマラリ」と呼ばれる少女たちの物語です。カマラリとは、貧しい家庭の少女が親の借金返済のために、他人の家に住み込み、家事労働をする習慣です。働きに出される少女たち自身とも「カマラリ」と呼ばれます。幼い少女には過酷すぎる労働を課され、学校にも通えず、時として雇い主から虐待を受けることもあります。
この映像では、そんな過酷な環境から脱出し、あるいは救出され、「新しい生活」と呼ばれる家で人生の再スタートを切った少女たちを追っています。自身も元カマラリで、現在は「カマラリ・ガールズ・フォーラム」代表のウルミラという女性が、力強く少女たちの未来を支える姿を、ぜひご覧ください。
プラン・ジャパンは、「Because I am a Girl 途上国の女の子に笑顔を!」キャンペーンを展開し、「女の子だから」という理由だけで、自由を奪われ、搾取され、時に命の危険するある女の子たちを応援しています。キャンペーンにぜひご参加ください。
【ご参考】
・「Because I am a Girl途上国の女の子に笑顔を!」キャンペーン
・プラン・ジャパン
・21世紀になっても存在する奴隷/『メンデ 奴隷にされた少女』メンデ・ナーゼル、ダミアン・ルイス
・プラン・ジャパン
2012-02-28
初代ベンツ
1886年にドイツの技術者、カール・ベンツによって創設された世界最古の自動車メーカーの一つ。1886年に世界初の自動車として初の特許を取得している。当時は自動車の有用性に気が付く者はなく、交通の主役であった「馬を怖がらせる邪魔者」であった。
そうした中、妻のベルタ・ベンツは、夫の発明がすばらしいことを世間に認めてもらいたいと考え1888年8月5日、夫が寝ている間に二人の息子と自動車に乗りマンハイムの町を出発した。当時の道は舗装されたものではなく、空気タイヤもまだ自転車用が発明されたばかりで、その過酷さは余りあるものだった。ガソリンスタンドなどもなく、薬局でシミ抜き用のベンジンを購入しそれを給油しながら旅行を続けた。やがて陽の暮れる頃、106km離れたプフォルツハイムの町に到着する。自動車の回りには人々が集まり、ベルタたちに賞賛の声を送った。この時の速度(距離と時間)は当時の馬車で、10頭以上の馬を乗り換えなければならないほどのもので、この成功によりカールの発明は知られるようになり、ベルタは世界初の女性ドライバーとして、自動車長距離旅行の歴史にその名を残すことになる。
【Wikipedia】
1885年
1885年
1886年
・世界で初めてのガソリン車を展示
シリア情勢を別の視点から見てみよう
2011年12月。軍隊に敬意を表するデモ、シリア人の証言、息子を失ったムフティの演説、ヒズボラの演説、パレスチナ抵抗運動の発言、ハフィズ・アル・アサドの演説など。
井沢元彦、アニー・ディラード、ジョン・ダービーシャー
『〈決定版〉 世界の〔宗教と戦争〕講座 生き方の原理が異なると、なぜ争いを生むのか』井沢元彦(徳間書店、2001年/徳間文庫、2011年)/ハードカバーの活字が実に読みにくい。一昔前の講談社文庫より酷い。内容も軽薄だ。
『石に話すことを教える』アニー・ディラード:内田美恵〈うちだ・みえ〉訳(めるくまーる、1993年)/類稀なエッセイ。稀有といってもよい。が、挫けた。翻訳の文体が微妙なのと、最大の理由はソローの超越主義的臭みがあるため。ま、ソローを読んでいない私が言うのも何だが。アメリカ自然主義はオルコットの親父の系譜に連なるため注意が必要だ。真摯なスピリチュアリズムはインディアンの焼き直しにしか見えない。
『素数に憑かれた人たち リーマン予想への挑戦』ジョン・ダービーシャー:松浦俊輔訳(日経BP社、2004年)/流麗な文章なんだが、数学の説明が私には難しすぎた。もうちょっと知識をつけてから再チャレンジする予定だ。