2008-05-07

“思いやり”も本能である/『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール


『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス
『なぜ美人ばかりが得をするのか』ナンシー・エトコフ
『徳の起源 他人をおもいやる遺伝子』マット・リドレー

 ・“思いやり”も本能である
 ・他者の苦痛に対するラットの情動的反応
 ・「出る杭は打たれる」日本文化

『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
フランス・ドゥ・ヴァール「良識ある行動をとる動物たち」
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール
『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一、小原克博

必読書リスト その三

「本能」の定義が変わるかも知れない、と思わせる内容。取り上げられているのはチンパンジーとボノボ。同じ類人猿でも全く性格が異なっている。わかりやすく言えば、チンパンジーは暴力的な策略家で、ボノボはスケベな平和主義者。社会構造も違っていて、ボノボはメスが牛耳っている。

・動物の世界は力の強い者が君臨している。
・食べる目的以外で殺すのは人間だけ。
・動物は同種同士で殺すことはない。
・動物には時間の概念がない。
・動物は「会話する言葉」を持たない。
・快楽目的の性行為をするのは人間だけ。

 これらは全て誤りだった。丸々一章を割いてボノボの大らかな性の営みについて書かれているが、まるでエロ本のようだ(笑)。ビックリしたのはディープキスもさることながら、オス同士でもメス同士でも日常的に性的な触れ合いがあるとのこと。

 あまりの衝撃に翌日まで脳味噌が昂奮しっ放し(笑)。知的ショックは脳を活性化させる。読めば読むほど、「ヒト」はチンパンジーからさほど進化してないことを思い知らされる。ボノボはエッチだが、穏和なコミュニティを形成していて人間よりも上等だ。

 メガトン級の衝撃は、「“思いやり”も本能である」という考察だ。我々が通常考えている「人間性=非動物的、あるいは非本能的」という図式がもろくも崩れる。全てはコミュニティを存続させるため=種の保存のための営みであることが明らかになる。

 今世界は、米国というボスチンパンジーに支配されている。日本は自民党チンパンジーが支配し、大企業チンパンジーが後に続いている。ヒトがボノボに進化しない限り、滅亡は避けられない。そんな気にさせられる。

 野生チンパンジーに対する先入観は、さらにくつがえされる(1970年代、日本人研究者によって)。それまでチンパンジーは、平和的な生きものだと思われており、一部の人類学者はそれを引きあいに出して、人間の攻撃性は後天的なものだと主張していた。だが、現実を無視できなくなるときがやってくる。まず、チンパンジーが小さいサルを捕まえて頭をかち割り、生きたまま食べる例が報告された。チンパンジーは肉食動物だったのだ。

【『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール:藤井留美訳(早川書房、2005年)以下同】

「ベートーヴェンエラー」とは、過程と結果はたがいに似ていなければならないという思い込みである。
 完璧に構成されたベートーヴェンの音楽を聴いて、この作曲家がどんな部屋に住んでいたか当てられる人はいないだろう。暖房もろくにない彼のアパートメントは、よくぞここまで臭くて汚い部屋があると訪問者が驚くほどで、残飯や中身の入ったままの尿瓶、汚れた服が散乱し、2台のピアノもほこりと紙切れに埋まっていた。ベートーヴェン本人も身なりにまったくかまわず、浮浪者とまちがわれて逮捕されたこともある。そんなブタ小屋みたいな部屋で、精緻なソナタや壮大なピアノ協奏曲など書けるはずがない? いや、そんなことは誰も言わない。なぜなら、ぞっとするような状況から、真にすばらしいものが生まれうることを私たちは知っているからだ。つまり過程と結果は、まったくの別物なのである。

 2対1という構図は、チンパンジーの権力闘争を多彩なものにすると同時に、危険なものにもしている。ここで鍵を握るのは同盟だ。チンパンジー社会では、一頭のオスが単独支配することはまずない。あったとしても、すぐに集団ぐるみで引きずりおろされるから、長続きはしない。チンパンジーは同盟関係をつくるのがとても巧みなので、自分の地位を強化するだけでなく、集団に受けいれてもらうためにも、リーダーは同盟者を必要とする。トップに立つ者は、支配者としての力を誇示しつつも、支援者を満足させ、大がかりな反抗を未然に防がなくてはならない。どこかで聞いたような話だが、それもそのはず人間の政治もまったく同じである。

 ふだん動物と接している人は、彼らがボディランゲージに驚くほど敏感なことを知っている。チンパンジーは、ときに私自身より私の気分を見抜く。チンパンジーをあざむくのは至難のわざだ。それは、言葉に気をとられなくてすむということもあるのだろう。私たちは言語によるコミュニケーションを重視するあまり、身体から発信されるシグナルを見落としてしまうのだ。
 神経学者オリヴァー・サックスは、失語症患者たちが、テレビでロナルド・レーガン大統領の演説を聴きながら大笑いしている様子を報告している。言語を理解できない失語症患者は、顔の表情や身体の動きで、話の内容を追いかける。ボディランゲージにとても敏感な彼らをだますことは不可能だ。レーガンの演説には、失語症でない者が聞いても変なところはひとつもない。だが、いくら耳ざわりの良い言葉と声色を巧みに組みあわせても、脳に損傷を受けて言葉を失った者には、背後の真意が見通しだったのである。

 下の階層に属する者が、力を合わせて砂に線を引いた。それを無断で踏みこえる者は、たとえ上の階層でも強烈な反撃にあうのだ。憲法なるもののはじまりは、ここにあるのではないだろうか。今日の憲法は、厳密に抽象化された概念が並んでいて、人間どうしが顔を突きあわせる現実の状況にすぐ当てはめることはできない。類人猿の社会ならなおさらだ。それでも、たとえばアメリカ合衆国憲法は、イギリス支配への抵抗から誕生した。「われら合衆国の人民は……」ではじまる格調高い前文は、大衆の声を代弁している。この憲法のもとになったのが、1215年の大憲章(マグナ・カルタ)である。イギリス貴族が国王ジョンに対し、行きすぎた専有を改めなければ、反乱を起こし、圧政者の生命を奪うと脅して承認させたものだ。これは、高圧的なアルファオスへの集団抵抗にほかならない。

 民主主義は積極的なプロセスだ。不平等を解消するには働きかけが必要である。人間にとても近い2種類の親戚のうち、支配志向と攻撃性が強いチンパンジーのほうが、突きつめれば民主主義的な傾向を持っているのは、おかしなことではない。なぜなら人類の歴史を振りかえればわかるように、民主主義は暴力から生まれたものだからだ。いまだかつて、「自由・平等・博愛」が何の苦労もなく手に入った例はない。かならず権力者と闘ってもぎとらなくてはならなかった。ただ皮肉なのは、もし人間に階級がなければ、民主主義をここまで発達させることはできなかったし、不平等を打ちやぶるための連帯も実現しなかったということだ。

「他者の苦痛に対するラットの情動的反応」という興味ぶかい標題の論文が発表されていた。バーを押すと食べ物が出てくるが、同時に隣のラットに電気ショックを与える給餌器で実験すると、ラットはバーを押すのをやめるというのである。なぜラットは、電気ショックの苦痛に飛びあがる仲間を尻目に、食べ物を出しつづけなかったのか? サルを対象に同様の実験が行なわれたが(いま再現する気にはとてもなれない)、サルにはラット以上に強い抑制が働いた。自分の食べ物を得るためにハンドルを引いたら、ほかのサルが電気ショックを受けてしまった。その様子を目の当たりにして、ある者は5日間、別のサルは12日間食べ物を受けつけなかった。彼らは他者に苦しみを負わせるよりも、飢えることを選んだのである。

 霊長類は群れのなかにいると、大いに安心する。外の世界は、外敵がいるわ、意地悪なよそ者がいるわで気が休まらない。ひとりぼっちになったら、たちまち生命を落とすだろう。だから群れの仲間とうまくやっていく技術が、どうしても必要なのである。彼らが驚くほど長い時間――1日の活動時間の最高10パーセント――をグルーミング(毛づくろい)に費やすのもうなずける。そうやって相手との関係づくりに努めているのだ。野生のチンパンジーを観察すると、仲間と良好なつながりを保つメスほど、子どもの生存率が高いことがわかる。



進化宗教学の地平を拓いた一書/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
「我々は意識を持つ自動人形である」/『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
大阪産業大学付属高校同級生殺害事件を小説化/『友だちが怖い ドキュメント・ノベル『いじめ』』南英男
曖昧な死刑制度/『13階段』高野和明
社会主義国の宣伝要員となった進歩的文化人/『愛国左派宣言』森口朗

2008-05-05

六次の隔たり/『複雑な世界、単純な法則 ネットワーク科学の最前線』マーク・ブキャナン


『複雑系 科学革命の震源地・サンタフェ研究所の天才たち』M・ミッチェル・ワールドロップ
『新ネットワーク思考 世界のしくみを読み解く』アルバート=ラズロ・バラバシ

 ・六次の隔たり

『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』マルコム・グラッドウェル
『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン

必読書リスト その三

 人や物などのつながりに興味がある人は必読。2200円だが5000円以上の価値がある。

六次の隔たり」とはネットワーク理論の一つで、6段階を経ることによって、世界の現実が「スモールワールド・ネットワーク」となっていることを示したもの。

 なぜこれが逆説的かというと、強い社会的絆はネットワークを一つにまとめるきわめて重要なリンクのように思えるからである。しかし、隔たり次数に関しては、強い絆は実際のところ、まったくといっていいくらい重要ではない。グラノヴェターがつづけて明らかにしたように、重要なリンクは人々のあいだの弱い絆のほうであり、特に彼が社会の「架け橋(ブリッジ)」と呼んだ絆なのである。

【『複雑な世界、単純な法則 ネットワーク科学の最前線』マーク・ブキャナン:阪本芳久〈さかもと・よしひさ〉訳(草思社、2005年)】

「広い世界」を「狭い世間」に変えるのは「弱い絆である」というのがポイント。実際に行われた実験を見てみよう。ミシガン州のある中学で、1000人ほどの生徒全員に「親友を8人」親しい順番で書いてもらう。このリストから社会的つながりを明らかにした。まず、1番目と2番目の親友をたどってゆくと、生徒全体の一部にしかならなかった。ところが、7番目と8番目の名前を書き出してゆくと、はるかに大きいネットワークであることが判明した。

 チト、もどかしいので、手っ取り早く何箇所か抜き書きしておこう。

 グラノヴェターは、だれにも騒乱に加わる「閾値(しきいち)」があるという発想から出発した。大半の人は理由もなく騒乱に加わることはないだろうが、周囲の条件がぴったりはまったときは――ある意味で、限界を越えて駆り立てられれば――騒乱に加わってしまうかもしれない。パブのあちこちに100人がたむろしていたとして、そのなかには、手当たり次第にたたき壊している連中が10人いれば騒動に加わる者もいるだろうし、60人あるいは70人が騒いでいなければ集団に加わらない者もいるだろう。閾値のレベルはその人の性格によって、またこれは一例だが、罰への恐怖をどの程度深刻に受け止めているかによっても変わってくる。どんな状況におかれても、また何人が参加していようとも暴動に加わらない人もいるだろうし、反対に、自分の力で暴動の口火を切ることに喜びを覚える人も、ごく少数ながらいるだろう。


「閾値」とは沸点ともいえよう。熱を加える仕事がマーケティングだ。

 このような結果(「金持ちほどますます豊かになる」「有名サイトほどアクセス数が増える」)は、心理学でよく知られた「集団思考」と呼ばれる考え方ともつながりがある。1970年に社会心理学者のアーヴィング・ジェイナスは、何かを決めるとき人々の集団はどのような経緯をたどるのかを調べている。彼の結論は、集団内では多くの場合、集団力学(グループダイナミクス)のために、代替可能な選択肢をじっくり考える力が制限されてしまうというものだった。集団の構成員は、意見が一致しないがゆえの心理的な不愉快さを緩和するため、なんとか総意を得ようと努め、ひとたびあらかたのところで合意ができてしまうと、不満をもっている者も自分の考えを口に出すのが難しくなってしまう。波風を立てたくなければ、じっと黙っているほうがいいのだ。ジェイナスが書いているように、「まとまった集団内では総意を探ることがきわめて突出し、そのため、代わりにどんな行動がとれるかを現実的に評価することよりも優先されるのである」

 集団が個を殺す。

『ティッピング・ポイント(文庫版=急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則)』(マルコム・グラッドウェル著)の中心をなす考えは、些細で重要とは思えない変化がしばしば不相応なほど大きな結果をもたらすことがあるというものだ。そう考えれば、急激に浸透していく変化は多くの場合どこからともなく生じ、産業、社会、国家の様相を一変させるにいたるという事実も説明できるというのである。この考え方の要点は、グラッドウェルが述べているように、「だれも知らなかった本があるとき突然ベストセラーに躍り出るという事実や10代の喫煙の増加、口コミによる広まり、さらには日常生活に痕跡をとどめるさまざまな不思議な変化を理解するいちばんいい方法は、こうした出来事を一種の伝染病と考えることである。アイデア、製品、メッセージ、行動様式は、まさにウイルスと同じように広がっていくのだ」。

 問題は感染力か。

 こうした事実をもとにすれば、疾病管理予防センターの研究者たちが、ボルチモア市での梅毒流行の原因として、社会や医療の実情がほんの少し変化したことをあげた理由がわかる。病気がティッピング・ポイントを越えるには、ほんのわずかな変化が生じるだけで十分なのだ。1990年代の初期、ボルチモア市の梅毒はもはや消滅の瀬戸際にあったのかもしれない。一人の感染によって引き起こされる二次感染者数は平均では1未満であり、したがってこの病気は押さえ込まれた状態になっていたのかもしれないのだ。けれども、このときにクラックの使用が増加し、医師数が減少し、さらに市の一定地域に限定されていた社会集団が広い範囲に転出したために、梅毒は境界を越えてしまった。梅毒をめぐる状況は大きく「傾いた(ティップト)」のであり、こうしたいくつかの些細な要因が大きな差異をもたらしたのである。

 均衡が崩れると、一気に片方へ傾く。

 だれもが知っているように、水が凝固して氷になるとき、実際には水の分子そのものはなんの変化もしていない。この変化は、分子がどのような振舞いをするかによる。水のなかの分子は、ひどい渋滞に巻き込まれてい身動きがとれなくなった自動車のように、ある位置にしっかりと固定されている。一方、水(液体)のなかでは、分子は固体のなかよりも自由に動き回ることができる。同じように、ガソリンが気化して蒸気になるときや、熱した銅線が溶けるとき、あるいは無数の物質がある形態から別の形態に突然変化するときも、原子や分子は同じであり、変化するわけではない。いずれの場合も、変化するのは、原子や分子の集団が作る全体としての組織的構造だけである。

 社会に求められるのは「流動性」であろう。日本がタコツボ社会のままであれば、有為な人材はいつまで経っても埋もれたままだ。



ソーシャルプルーフを証明する動画
信じることと騙されること/『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節

2008-05-01

命の灯火(ともしび)で周囲を照らす姿/『がんばれば、幸せになれるよ 小児ガンと闘った9歳の息子が遺した言葉』山崎敏子


 ・命の灯火(ともしび)で周囲を照らす姿

『いのちの作文 難病の少女からのメッセージ』綾野まさる、猿渡瞳
『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子

 行間から祈る声が聞こえてくる――。

 昨年の「24時間テレビ」でドラマ化された作品。ドラマの方は見るに堪(た)えない代物だったが、著作は「2冊買って、1冊誰かにあげあたくなる」ほど素晴らしい内容だ。

 山崎直也君は9歳でこの世を去った。ユーイング肉腫という悪性の癌に侵(おか)されたのが5歳の時。短い人生の約半分を闘病に捧げた。

 平凡な両親の元に生まれた直也君は、“本物の天使”といってよい。どんな痛みにも弱音を吐かず、再発する度に勇んで手術に臨んだ。

 それにしても、直也君の言葉は凄い。まるで、「年老いた賢人」のようだ。

「おかあさん、もしナオが死んでも暗くなっちゃダメだよ。明るく元気に生きなきゃダメだよ。わかった?」

【『がんばれば、幸せになれるよ 小児がんと闘った9歳の息子が遺した言葉』山崎敏子(小学館、2002年/小学館文庫、2007年)以下同】

 直也自身、少しでも体調が悪化すると、
「山崎直也、がんばれ!」
 そう口に出して、自分で自分を励ましていました。16日の呼吸困難の発作のさなかにも、「落ち着くんだ」といっていたような気がします。
 あの日、息苦しさが少し治まってから、直也はこうもいいました。
「おかあさん、さっきナオがあのまま苦しんで死んだら、おかしくなっていたでしょ。だからナオ、がんばったんだよ。それでも苦しかったけど。おかあさんがナオのためにしてくれたこと、ナオはちゃんとわかっていたよ。『先生早く!』って叫んでいたよね。でも安心して。ナオはああいう死に方はしないから。ナオはおじいさんになるまで生きたいんだ。おじいさんになるまで生きるんだ。がんばれば、最後は必ず幸せになれるんだ。苦しいことがあったけど、最後は必ずだいじょうぶ」

 夜10時過ぎ、直也は突然落ち着かない様子で、体を前に泳がせるようなしぐさをしました。
「前へ行くんだ。前へ進むんだ。みんなで前に行こう!」
 びっくりするほど大きな力強い声です。そして、まるで、迫り来る死と闘っているかのように固く歯を食いしばっています。ギーギーという歯ぎしりの音が聞こえるほどです。やせ衰えて、体を動かす元気もなくなっていた直也のどこにこれだけの力があったのかと驚くほど、力強く体を前進させます。

 ある日、私が病院に行くと、主任看護婦さんが、「おかあさん、私、今日、ナオちゃんには感動したというか、本当にすごいなと思ったんだけど」と駆け寄ってきました。直也は、
「この痛みを主任さんにもわかってもらいたいな。わかったら、またナオに返してくれればいいから」
 といったそうです。「えっ、痛みをまたナオちゃんに返していいの?」とびっくりして聞くと、
「いいよ」
 と答えたそうです。
「代われるものなら代わってあげたい」。よく私もそういっていました。でも直也はそのたびに力を込めて「ダメだよ」とかぶりを振り、
「ナオでいいんだよ。ナオじゃなきゃ耐えられない。おかあさんじゃ無理だよ」
 きっぱりとそういうのです。

 何だか自分が、ダラダラと走るマラソンランナーみたいな気になってくる。直也君は、人生を全力疾走で駆け抜けた短距離ランナーだった。「生きて、生きて、生きまくるぞ!」と言った通りに生きた。

 山下彩花ちゃんといい、直也君といい、命の灯火(ともしび)で周囲を照らす姿に圧倒される。



8人の意識の力で病状を癒す/『パワー・オブ・エイト 最新科学でわかった「意識」が起こす奇跡』リン・マクタガート

2006-02-07

これが私のいる世界なのか?/『ホテル・ルワンダ』テリー・ジョージ監督


 ・これが私のいる世界なのか?

『それでも生きる子供たちへ』監督:メディ・カレフ、エミール・クストリッツァ、スパイク・リー、カティア・ルンド、ジョーダン・スコット&リドリー・スコット、ステファノ・ヴィネルッソ、ジョン・ウー
『生かされて。』イマキュレー・イリバギザ、スティーヴ・アーウィン
『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ
『なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか PKO司令官の手記』ロメオ・ダレール
『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』写真、インタビュー=ジョナサン・トーゴヴニク
『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア
『メンデ 奴隷にされた少女』メンデ・ナーゼル、ダミアン・ルイス

『ホテル・ルワンダ』を見てきた。いやはや、立川のシネマシティ/City2は凄い。これほど、スクリーンを大きく感じたのは生まれて初めてのこと。前から4列目に陣取ったのだが、真正面にスクリーンがある。音響もパーフェクト。

 インターネットでの署名活動によって、やっと公開にこぎつけた作品。1994年にアフリカのルワンダで100万人が殺戮された実話に基づいている。

「力」とは一体、何なのか――映画館を出た今も頭の中を去来する。街中で起きているチンピラ同士の喧嘩なんぞとは桁違いの軍隊による暴力。そして、それをコントロールする権力。更に、大量虐殺を放置したり、放置させたりする国際間のパワー・オブ・バランス。

 元々同じ種族でありながら、ベルギー人によって、“鼻の形の違い”でツチ族とフツ族に分けられ、いがみ合い、殺し合うアフリカの民。相手の種(しゅ)を絶つために、子供まで殺す徹底ぶりだ。

 政変が起こるまで、金の力で成り上がった主人公は、家族を守るために必死の行動をとる。それだけの内容で、私は全く感動を覚えなかった。それどころか、「自分の家族さえ助かればいいのか?」と嫌な気持ちにさせられたほどだ。

「これが私のいる世界なのか?」――この一点を思い知るために見るべき作品だ、と私は思う。

 見ている最中から、猛烈な無力感に苛(さいな)まれる。私に何ができるのだ? どうせ、何もできない。否、しようともしないだろう。

 それでも、見るべきなのだ。中国から廉価で輸入された鉈(なた)で殺される人々を。虫けらみたいにビストルで撃たれる人々を。殺される前に陵辱される女性達を……。

 何もしなくていい。ただ、罪もなく殺されていった100万の人々の無念を知れ。

2004-09-28

苦痛を味わう/『ダンサー・イン・ザ・ダーク』ラース・フォン・トリアー監督


 ・苦痛を味わう

『イノセント・デイズ』早見和真
『ドッグヴィル』ラース・フォン・トリアー監督・脚本

・監督、脚本:ラース・フォン・トリアー
・出演:ビョーク、カトリーヌ・ドヌーヴ

 一度見て度肝を抜かれた。いずれの方向にせよ人の心が動くことを感動というのであれば確かな感動があった。だがその一方で二度と見ることはないだろう、とも思った。この衝撃は一度見れば十分なもので何度も鑑賞する類いの作品ではない。

 所感を記そうとネット上の情報を物色していたところ、阿部和重がパンフレットに書いた一文に遭遇した。予想もつかない視点から物語を解き、映像の奥深くに込められたメッセージを鮮やかに読み取っていた。私は頭を殴られたようなショックを受けた。

 ネットで見つけた阿部のテキストは一部だったので、それからというもの、パンフレットを入手するまでに3ヶ月ほどを要した。

 そして、私はパンフレットを座右に置き、再びビデオを見た。阿部が汲み取ったものを見逃すまい、と。ビデオが終わって、パンフレットを初めて開いた。やっぱり負けた(笑)。

 二度目ではあったが、予想に反して、私は画面に釘づけとなった。カットの一つ一つが、しっかりと物語を構成していた。

 冒頭、シミのようなものが浮かび、図と地の区別がつかなくなる。

 ハンディカメラで撮影されていて、画面が常にブレている。ブレた分だけ見ている側に緊張感を強いる。あたかも人の視線に入り込んだような感覚にとらわれる。ライトも当てられず、極端な効果音やBGMもない。こうして、揺れる画面は自分の眼となり、観客は無理矢理、映画の中に引きずり込まれる。

 40分ほどが経過してリズムが奏でられ、主人公セルマが踊り出す。場面がミュージカルとなると、映像はピタリと揺れなくなる。現実は揺れ動き、空想は完成された世界だ。

 セルマは歌う。「もう見るべきものはない。何もかも見た」と。

 セルマは踊る。「ミュージカルでは恐ろしいことは起こらないわ」と。

 シナリオはメッセージを主張することなく、見る者に思索を強要する。

 空想シーンであるミュージカルと現実がラストで一致する。セルマは獣のような声で叫び歌う。「これは、最後の歌じゃない!」。

 現実の世界でセルマがステップを踏むと、彼女は宙に舞う。真っ直ぐな姿勢で。運命と戦い、病苦(主演女優の名前とダブって仕方がない)と戦い、世の中の矛盾と戦ったセルマは、遂に自由を手に入れた。

【付記】余談になるが、二度目の方が私は泣けた。特に、獄中のセルマと面会するジェフの姿は、私が知る限りでは、究極のラブシーンである。また、セルマの同僚がカトリーヌ・ドヌーヴであることも後から知った。大女優であることを気づかせないほどの抑制された名演である。また、ミュージカルの曲が好評を博しているようだが、私の趣味とは全く合わないものだ。それでも、お釣りがくるほど堪能できた。尚、パンフレットに掲載されている阿部和重の「反転する世界」は類い稀なレビューである。そっくり紹介したい気持ちに駆られるが、やはり、少々苦労はしても、直接、入手された方がよろしい。