2011-07-04

大乗仏教運動の成り立ちと経緯/『大乗とは何か』三枝充悳


 私が宗教書を読む際は「合理性」に注意を払う。昂(たかぶ)った感情や、劇的な体験は最初から無視する。それを求めるのであればタレント礼賛本を読めばいい。宗教的情熱といえば聞こえはいいが、外側から見れば異常性に映る。マルチ商法セミナーの熱気みたいなものだろう。

 三枝充悳〈さいぐさ・みつよし〉にはバランス感覚の優れた合理性がある。妙なこだわりや執着がなく恬淡(てんたん)としている。そこに私は仏教の精神を見る。

 感情と信仰が結びつくとファナティックになる。熱狂が周囲を見えなくする。狂信者は覚醒剤中毒のような症状を示す。真の宗教性は情操を豊かにし、視野を限りなく広げ、人間を一切の束縛から自由に導くはずだ。

 本書は構成がデタラメな上、エッセイ風の散漫な文章が多い。で、高価ときている(3990円)。中級者以上でよほど必要としない限り、買って読むような代物ではない。法蔵館の怠慢を戒めておきたい。

 生あるものはたえず欲望に逐われている。欲望はその満足・達成を求めてやまないけれども、なかなか果たされず、その欲望はますますつのるばかり。幸い、あれこれに恵まれて、欲望はついに満たされた。ゴールに達した。その途端、もはや【その】欲望は【そこ】にはない。だれが滅ぼしたのでもない。欲望みずからが跡かたもなく消え失せてしまっている。それは、あるいは一杯の水にせよ、あるいは最高の栄誉にせよ、あるいは多額の賞金にせよ、文字どおりピンからキリまで、あらゆる欲望が現実にそのようにある。
 欲望に惹かれ、欲望の赴く途・指示する方向をひたすらに進み、万難を排して、ようやく行きつくと、そこではもはや消えている。欲望は、そのようないわば自己矛盾・自己否定を、その本質とする〔かえってそのために、つづいて別の欲望が生ずる。しかしもちろんそれも果たされれば滅びる。ここに俗にいう「欲望は無限」の根があるとはいえ、実はこの俗言は正確さを欠いている〕。

【『大乗とは何か』三枝充悳〈さいぐさ・みつよし〉(法蔵館、2001年/ちくま学芸文庫、2016年)以下同】

 井上陽水もそんなふうに歌っていた。三枝の指摘は、空(くう)思想の属性論に基づくものだ。

「私」とは属性なのか?~空の思想と唯名論/『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵

 欲望は泡沫(うたかた)のように浮かんでは消え、消えてはまた浮かぶ。これ自体を六道輪廻と捉えることも可能だろう。欲望といっても色々ある。下劣な欲望はわかりやすが、願望や希望もまた欲望である。結局、自我を延長・拡大しようという働きなのだろう。その根底にあるのは死への恐怖に他ならない。

 次に大乗仏教運動について。

 この新たなる運動は次第に高まり、力を増していって、ついにそのなかに、さとれるもの=ブッダがあらわれる〔以下はこれを仏と記す〕。換言すれば、ゴータマ・ブッダとは別の新たな仏の誕生があり、しかしその名は一切伝わらない。これら無名の仏の教えは、釈尊の場合と同様、やはり経にほかならず、これらの経は、当然のことながら従来の伝統仏教とは異質のものをもはらみ、それらの高唱のうちに、やがてみずからを「大乗」(マハーヤーナ)と称するようになる。
 大乗の語を最初に記したのは般若経であり、その原初型はおそらく紀元前後のころの成立とされている。それは短く小さな経であったと推定されるが、次第に増広され、また多様化して、多種の般若経がつぎつぎと生まれてゆき、それは数百年に及ぶ。

 大乗仏教成立に関して数年前までは関心が高かったのだが、今となっては熱も冷めてしまった。歴史が動くことについては、マーク・ブキャナンの史観が当たっていると思う。

歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン

 更に脳科学を加えると、大体読めてくる。歴史が変わるという事実は、人々の脳内ネットワークの変化を示したものだ。天候や食料事情、そして政治体制などが密接に絡み合って人々の欲望が刺激されてゆく。ある日、英雄が出現して溜まりに溜まったストレスが爆発するのだ。

 ブッダとは「目覚めた人」の謂いである。釈尊以前にもブッダは存在した。そして大乗仏教成立の過程でも存在したはずだという考えは、さほど見当違いのものではないだろう。事実として大乗仏教は2000年にもわたって人々の心をつかんでいるのだから。

 思想の寿命は合理性によって末永くなる。仏教が令法久住(りょうぼうくじゅう/ 法をして久しく住〈じゅう〉せしめん)を目指したのも、理法という合理的な裏づけがあったからだ。その意味では政治が現在の問題を扱うのに対して、宗教は現在と未来を視野に入れているといってよい。

 法華経に、はじめて「小乗」(ヒーナヤーナ)の語が、従来の仏教に対する貶称としてあらわれ、しかもこの法華経は、大乗・小乗の別なく、ことごとくを一乗(一仏乗)に導くという。ここに方便(ウパーヤ)というありかたが見なおされて、成仏に向かうさまざまな通路を開く。それらを支えるものに、時間・空間その他のすべての限定をこえた仏が立てられて、「久遠(くおん)の本仏(ほんぶつ)」と呼ぶ。なお後述するように、法華経そのものの読誦や書写などがとりわけ強調されるが、それは他の諸経典にはあまり見られない。

 小乗とは大乗による悪口であった。エリート化した部派仏教に対する当てこすりだったのか、用意周到な政治的画策であったのかはわからない。いずれにせよ仏教の大乗化は総合的な理論構築を目指すこととなる。久遠本仏にしても大日如来にしても同様だが、明らかに仏の唯一神化が見られ、大乗仏教と神学との類似性も窺える。

 人間がトータルな学問領域を目指すのは、やはり脳の気質によるものだろう。

 中国はもともと仏教伝来以前に独自の高度な精神世界を築きあげており、その民族意識の底流のうえに、漢訳するさい、それらを織りこませている。さらには、インドに欠如して中国には強烈である諸思想、たとえば現世中心(輪廻の無視)、国家意識、祖先崇拝(死者供養)、家の尊重その他によって、中国人に適した新たなる経を、中国人みずから〔体裁はインド原典に似せて〕つくありあげる。仁王(にんのう)〔般若〕経(きょう)、盂蘭盆経(うらぼんきょう)、父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)、四十二章経ほか、多数の経典を、中国人がすでに疑経と自認している。それらは偽経とも評されようが、それでも経である〔経と呼ばれている〕ことにはちがいないところから、一般には、そのすべてがほぼそのまま仏説と信じられて、国家の要請や民衆の渇望に応(こた)えつつ、歴史の年輪を刻んだ。

 すると日蓮の国家観は中国の影響を受けていたことになるのだろうか?(「立正安国論」「守護国家論」など) 中国は元々王朝国家で歴史という概念も古くからあった。

世界史は中国世界と地中海世界から誕生した/『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘

 そして漢字という表意文字が仏教に複雑な陰影を与えることとなる。報恩という思想も中国由来か。

 日本仏教の最も特筆すべき性質は、在家の重視であり、これは当初の聖徳太子以来つづいている。当然、国家や政治とのつながりも密で深い。また日本人の一種のマジカルな霊力への傾向も、日本仏教に色濃く反映している。

 これは文化の違いだろう。元々瞑想文化があったインドとは背景が異なる。中国は官僚制度が発達していた。日本の共同体はインド、中国と比べると未発達であったと思う。

 マンダラは当初はヒンドゥー教の影響のもとに密教が独自におこなう宗教儀式の場であり、その行事のたびに、諸仏・諸尊の集まるその壇が設けられ、あとは取り払われていた。それがいつか定着して、やがては図像化され、また彫像をも伴うようになり、ここに、大乗仏教に登場した諸仏ほかがことごとく招きいれられて、昔の流行語でいえばオン・パレードの檜舞台にたがいに妍(※けん)を競い合う。

 最澄も空海も密教の影響を強く受けているため、鎌倉仏教は全てが密教の匂いを放っている。有り体にいえば密教とはマンダラ&マントラのことだ。

 過去と未来にくりひろげられた仏は、ついにはいわば時間を横に倒して、空間的に展開・拡大され、四方に一仏ずつが立って、一時多仏が誕生する。それは大乗仏教運動の所産であり、あるいはこの多仏思想が大乗仏教を引きおこす一翼をになっていた。

 時間と空間に対する数学的アプローチは大乗特有の宇宙観にまで発展する。大乗思想は空(くう)を通して無限を展望していた。

 ところで、仏教において実体が無いという説明が空に関してなされるのは、実は部派仏教のひとびとが、この実体という概念を重要視して、実体というものに或る意味で取りつかれていたからなのです。そこで、この実体という考えを否定する、あるいは破壊する、実体化することを打ち破るものとして、シューンヤということばが使われました。(中略)
 空を説明するのに、実体が無いというのは、一つの論理的な表現であり、とらわれないというのは、実践的な表現です。部派仏教のひとびとが、論理的には実体を考え、あるいは実践においても或る制約にとらわれていたあり方に対する反省を求め、それを排して、釈尊の初期仏教に立ち返れというスローガンとして、大乗仏教の、そして般若経の空が説かれました。

数字のゼロが持つ意味/『人間ブッダ』田上太秀
ゼロから無限が生まれた/『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ

 三枝の指摘が事実であれば、部派仏教はブラフマンを払拭できていなかったことになる。それはいくら何でも考えにくいと思う。ブッダが草葉の陰で泣くなんてことがあるのか? もしもそうであったとすれば、大乗仏教との勢力争いの中から出てきた戦略だったのではあるまいか。「諸法無我って、説明のしようがないよな?」確かに。「だったら、面倒だから“実在がある”ってことにしてしまわないか?」マジ?「ああ、こっちのメンバーになってから諸法無我を教えればいいだろうよ」合点承知。ってな経緯があってもおかしくはない。

 部派仏教と大乗仏教、そして仏法東漸(とうぜん)の思想的変遷(へんせん)が、教義絶対主義を斥(しりぞ)ける。空(くう)思想が仏教の本義であれば、「絶対なる義」を設定することが矛盾をはらむ。欲望を始め、名称からも形態からも離れることをブッダは勧めた。であるならば言葉からも離れる必要があろう。

 上座部と大衆部の違いは、悟りと理論、個別性と全体性、超越性と実用性、個人と組織、真理と言葉の問題をはらんでいて実に深遠なテーマである。

 悟りは思考ではない。思考を離れるところに悟りが存在するのだ。大乗とは全人類を乗せることのできる大地のような思想である。



仏教的時間観は円環ではなく螺旋型の回帰/『仏教と精神分析』三枝充悳、岸田秀

力道山とジャック・デンプシー


 1920年代は、またラジオが急激に普及した時代でもあった。ラジオ放送は1920年11月に初めて行われたが、ラジオ受信機の売上げは、早くも1922年には6000万ドルになり、7年後の29年には8億4000万ドルを超えた。
 日本でテレビの普及をうながしたのは、力道山のプロレスだったが、1920年代アメリカでラジオの普及を促進したのは、ジャック・デンプシーのボクシングの試合だった。大衆は、自分たちの思いを託した英雄たちの活躍をラジオで聞くことを好んだのである。

【『「1929年大恐慌」の謎 経済学の大家たちは、なぜ解明できなかったのか』関岡正弘(PHP研究所、2009年/ダイヤモンド社、1989年『大恐慌の謎の経済学 カジノ社会が崩壊する日』改題)】

「1929年大恐慌」の謎

2011-07-03

乾いた熱風のような暴力/『荒ぶる血』ジェイムズ・カルロス・ブレイク


 ノワール(暗黒小説)が男心をくすぐるのは、苛酷な状況で厳しい選択を迫られるためだろう。死がありふれた光景において生(せい)はギラギラと輝く。のるかそるかの勝負に身を置いて、初めて生の証をつかむことができるのだ。イベントのような死は緊張感を欠いている。マラソンランナーがゴールを切るような躍動感がない。だらだらと散歩でもするような老境であれば生きながら死んだも同然だ。

「今日、この手で赤のやつらを300人殺した」暗い窓の外を見つめた。「やったのは昨日だったかもしれない。こうして日々は過ぎていく」また彼女に眼を戻す。「記憶と歴史のなかへ、嘘つきだらけの博物館のなかへと流れていく」

【『荒ぶる血』ジェイムズ・カルロス・ブレイク:加賀山卓朗訳(文春文庫、2006年)以下同】

 アメリカとメキシコの国境が舞台である。赤道に近づくほど灼熱の太陽が脳味噌を沸騰させる。水に恵まれた国土のような細やかな感情はどこにも見当たらない。乾いた大地に住む動物は攻撃的だ。

 名うての殺し屋に抱かれた娼婦が男の種を宿す。それは自ら選んだ行為であった。経済が支配する時代には金持ちを、暴力が支配する国では殺し屋を選択するのが女の本能ともいえる。進化的優位性は国や時代によって異なるのだ。「荒ぶる血」を受け継いだ男が本書の主人公である。

 エル・カルニセロは彼の髪をつかんで持ち上げ、自分のほうを向かせた。血まみれの眼球を手のひらにのせ、ドン・セサーロに見せた。こいつは──眼球の価値を見積もるかのように、手のひらを上下させながら獣はそう言った──ずっと正義を、真実を見ないできた。そしてドン・セサーロの顔を下に向けながら眼球を地面に落とし、ブーツの踵で踏みつけて土にめり込ませた。

 主人公のジミー・ヤングブラッドはエル・カルニセロの息子であった。そして後半で大農場主となったドン・セサーロとヤングブラッドは一人の女性を巡って対決する運命となる。

 闘い方は子供のころから知っていた──ボクシングではなく、文字通りの【闘い】だ。誰かが教えてくれたわけではないが、自然に身についていた。本物の闘いにルールなどないことも学んでいた。止める者もいなかった。本物の闘いは一方が戦えなくなるまで続く。それでも終わらないときもある。ボクシングは本物の闘いではない。技術と忍耐を要し、セルフコントロールを試される運動だ。自分が負けていても、どれほど傷つけられ、腹を立てていても、ルールを守らなければならない。ルールなど無視してしまえば、相手を殺せることがわかっていてもだ。リングの中で闘うことによって、規律が身につく。おれはそこが好きだった。

 ヤングブラッドはボクシングから人生を学んだ。リングでの乱闘シーンも絶妙なアクセントになっている。

 それまでにも死体は見たことがあった。盲腸が破裂して死んだ男、溺死した男、線路のうえで酔いつぶれ、汽車に轢かれた男。死者のちがいはただ、きれいに死ぬか、汚らしく死ぬかということだけだ。おれは死は死だと思っていた。この泥棒たちに引き金を引くずっとまえから、おれは死は死だと思っていた。汚らしく死んだ人間を見て胸を悪くしても仕方がない。牛肉を見て気分を悪くする理由がないのと同じだ。これは俺の座右の銘と言ってもいい。

 死は他人の眼によって目撃される。我々は睡眠を自覚できないように、死もまた自覚することができないのだろう。安全な位置を望めば堕落せざるを得ない。周囲に合わせて泳ぐように生きることを強いられる。

 男は一人の女性を愛することで信念を貫く。結末が悲劇で終わるのも安っぽくなくていい。

 歯軋(はぎし)りばかりしているうちに牙が丸くなってしまった男たちよ、本書を開いて牙を研(と)ぎ直せ。

無反応であること、無関心であること、無視され続けること


「無反応であるということ、無関心であるということ、無視され続けるということは、軍事攻撃を受けるということと同じように私たちを苦しめ続けます」

【『「パレスチナが見たい」』森沢典子〈もりさわ・のりこ〉(TBSブリタニカ、2002年)】

パレスチナが見たい

ゼロから無限が生まれた/『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ


 ・ゼロをめぐる衝突は、哲学、科学、数学、宗教の土台を揺るがす争いだった
 ・数の概念
 ・太陽暦と幾何学を発明したエジプト人
 ・ピュタゴラスにとって音楽を奏でるのは数学的な行為だった
 ・ゼロから無限が生まれた
 ・パスカルの賭け

『宇宙を復号(デコード)する 量子情報理論が解読する、宇宙という驚くべき暗号』チャールズ・サイフェ

 数字のゼロはバビロニアで生まれ、インドで育った。ゼロは西洋で嫌悪され、東洋で大切に扱われた。そしてキリスト教がゼロを亡き者にし、仏教がゼロに魂を吹き込んだ。

 バビロニアの天文学とともにバビロニアの数ももたらされた。天文学上の目的でギリシア人は六十進法の数体系を採用し、1時間を60分に、また1分を60秒に分けた。紀元前500年頃、バビロニアの文献に空位を表すものとしてゼロが現れはじめた。当然、ゼロはギリシアの天文学界にも広まった。(中略)ギリシア人はゼロを好まず、使うのをできるだけ避けた。

【『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ:林大〈はやし・まさる〉訳(早川書房、2003年/ハヤカワ文庫、2009年)以下同】

 バビロニアのゼロは空位を示すだけのものであった。計算に用いられることはなかった。ギリシア人はなぜゼロを嫌ったのか?

 無限と空虚には、ギリシアを恐れさせる力があった。無限は、あらゆる運動を不可能にする恐れがあったし、無は、小さな宇宙を1000個もの破片に砕け散らせる恐れがあった。ギリシア哲学は、ゼロを斥けることによって、自らの宇宙観に2000年にわたって生きつづける永続性を与えた。
 ピュタゴラスの教義は西洋哲学の中心となった。それは、宇宙全体が比と形に支配されているというものだった。惑星は、回転しながら音楽を奏でる天球の一部として動いているのだった。だが、天球のむこうには何があるのか。さらに大きな天球があり、そのまたむこうにはさらに大きな天球があるのか。いちばん外の天球は宇宙の果てなのか。アリストテレスやその後の哲学者たちは、無限の数の天球が入れ子状になっているはずはないと主張した。この哲学を採用した西洋世界に、無限を受け入れる余地はなかった。西洋人は無限を徹底的に排除した。というのも、無限はすでに西洋思想の根元を蝕みはじめていたからだ。それはゼノンのせいだった。同時代人から西洋世界でもっとも厄介な人物と見なされていた哲学者だ。

 ギリシアは無限を嫌ったのだ。気持はわかる。無限は想像することを拒み、人間をどこまでも卑小にする。ま、底なし沼みたいなものだ。ギリシアの理性は「万物のアルケー」から始まっているから無限とは相性が悪い。そこでゼノンがちょっかいを出した。

 ギリシア人はこの問題に悩んだが、その根源を探り当てた。それは無限だった。ゼノンのパラドクスの核心にあるのは無限である。ゼノンは連続的な運動を無限の数の小さなステップに分割したのだ。ステップが無限にあるから、ステップが小さくなっていっても、競争はいつまでもつづくのだとギリシア人は考えた。競争は有限の時間のうちには終わらない――そうギリシア人は考えた。古代人には無限を扱う道具がなかったが、現代の数学者は無限を扱うすべを身につけている。無限は注意深く処理しなければならないが、征服できる。ゼロの助けを借りれば。2400年分の数学で武装した私たちにとって、振り返って、ゼノンのアキレス腱を見つけるのはむずかしくはない。

 永遠の向こう側にある無限ではなく、0と1の間にある細分化された無限だ。アキレスは亀に追いつくことができない。

 ギリシア人はこのちょっとした数学上の芸当をやってみせることができなかった。ゼロを受け入れなかったため、極限の概念をもっていなかった。無限数列の項には極限も目的地もなかった。終点もなく小さくなっていくように思われた。その結果、ギリシア人は無限なるものを扱うことができなかった。無の概念について思索はしたが、数としてのゼロは斥けた。そして、無限なるものの概念を弄んだが、数の領域の近辺のどこにも無限――無限に小さい数と無限に大きい数――を受け入れようとしなかった。これはギリシア数学最大の失敗であり、ギリシア人が微積分を発見できなかったただ一つの理由だった。
 無限、ゼロ、極限の概念はすべて結びついて一束になっている。ギリシアの哲学者は、その束をほぐすことができなかった。そのため、ゼノンの難問を解くすべがなかった。だが、ゼノンのパラドクスはあまりにも強力だったので、ギリシア人は、ゼノンの無限を説明して片づけてしまおうと繰り返し試みた。しかし、妥当な概念で武装していなかったので、失敗する運命にあった。

 当時の数学は宗教と密接に結びついていた。それを踏まえると思想的影響の大きさが窺い知れよう。ゼノンはエレアの圧政者ネアルコスを打ち倒そうと武器を密輸していた。これが発覚し逮捕、拷問。ネアルコスに共謀者の名前を告げるふりをして耳に噛み付いた。ゼノンは撲殺されるまで口を開かなかった。

 5世紀頃、インドの数学者は数体系を変えた。ギリシア式からバビロニア式に切り換えたのだ。新しいインドの数体系とバビロニア式との重要な違いの一つは、インドの数が60ではなく10を底としていたことだ。私たちの数字は、インド人が用いた記号が発展したものだ。だから本来、アラビア数字ではなくインド数字と呼ばれるべきである。

 アラビア経由でヨーロッパに伝わったため、アラビア数字という名称がついた。

 インド人にとっては、負の数は文句なしに意味をなした。負の数がはじめて姿を表したのは、インド(および中国)だ。7世紀のインドの数学者、ブラフマグプタは、数を割る規則を述べ、そこに負の数も含めた。「正の数を正の数で割っても、負の数を負の数で割っても、正である。正の数を負の数で割ると、負である。負の数を正の数で割ると、負である」と書いた。これらは今日認められている規則だ。二つの数の符号が同じなら、一方をもう一方で割ると、答えは正である。

 負の数は理解しやすい。借金がそうだ。返すことでゼロになるわけだから、マイナスの概念は腑に落ちる。ブラフマグプタはゼロに魂を吹き込んだ。

 ブラフマグプタは、0÷0は0だと考えた(後で見るように、これは間違っている)。そして、1÷0は……何だと考えたのか、実はわからない。何しろ、ブラフマグプタの言っていることは大した意味がないから。要するに、ブラフマグプタは、手を振って、問題が消え去ってくれるよう願っていたのだ。
 ブラフマグプタの誤りは、それほど長続きはしなかった。やがてインド人は、1÷0が無限大であることに気づいた。「ゼロを分母とする分数は、無限量と名づけられる」と、12世紀のインドの数学者、バスカラは書いている。バスカラは1÷0に数を加えると、どうなるかを語っている。「多くを足しても引いても、何の変化もない。無限にして不変の神のなかでは何の変化も起こらない」
 神は見いだされた。無限大のなかに。そしてゼロのなかに。

 よき問いはよき答えそのものだ。偉大なる問いが人類の知性を開拓してきた。ゼロは無限に変貌した。100という数字の00は、99.999……を示している。おわかりだろうか? 小数点以下の999……が無限に続いているのだ。ゼロは無であると同時に無限となった。それはそのまま「空」(くう)の概念をも意味した。

数字のゼロが持つ意味/『人間ブッダ』田上太秀

 アリストテレスはまだ教会をしっかり支配していて、どんなに優れた思想家も、無限に大きなもの、無限に小さなもの、無を斥けた。13世紀に十字軍が終わっても、聖トマス・アクイナスは、神が無限なるものをつくるなどというのは、学のある馬をつくるようなもので、そんなことはありえないと言い放った。しかし、だからといって、神が全能でないわけではなかった。神が全能でないという考えは、キリスト教神学で御法度だった。

 西洋で無限が認められるのは神だけであった。キリスト教は啓典宗教なのでテキスト絶対主義である。断固たる教条主義であり、神以外の権威を認めない。ゼロを否定したせいで、西洋の学問は大幅に後(おく)れを取る。元々十字軍(1096年)以前は中東の方が先進的であった。

 教会はさらに数百年アリストテレスにしがみつきつづけるのだが、アリストテレスの没落と、無と無限の台頭は明らかにはじまっていた。ゼロが西洋世界に到来するのに好都合な時代だった。12世紀半ば、アルフワリズミの Al-jabr の最初の翻訳がスペイン、イングランド、ヨーロッパのその他の地域に入ってきていた。ゼロは迫ってきていたのであり、教会がアリストテレス哲学の足かせを断ち切るとすぐに登場した。

 つまり端的にいってしまえば、教会とアリストテレスが西洋世界を作り上げたわけだ。数学世界ではゼロが風穴を開けたわけだが、今も尚両者の呪縛は随所に見られる。2000年に及ぶ緊縛プレイだ。

 ゼロは無限だ。だから資産がゼロでも嘆くな。



ゼロ