2011-07-16

サブラ・シャティーラ事件


 サブア大通りで、瓦礫とともにぐしゃぐしゃに砕けた男の死体が二つあった。その先に杖のころがったわきで、手を胸のところに固く握りしめる老人が一人、その近くのもう一人の老人の体の下からは、安全ピンを抜いた手榴弾が見えた。この死体にふれると爆発する仕掛けになっていると理解するまで、かなりの時間がかかった。道いっぱいに脳漿が吹き飛んで、そこにハエが群がる中で、私はぼうぜんと立ち尽くした。
 一人が、路地にうつぶせに倒れていた。男か女か分からないが、ハンカチを頭の上にかぶせてある。のちの証言によると、この人は頭をオノで割られたのだという。男たちが折り重なって倒れていたのは少し丘に上った土の壁の前で、そこには無数の弾痕が見えた。そして一軒の家の庭には、その家の住民と思われる女と子どもたちが、やはり瓦礫の上に投げ出されていた。一番上に幼児が、うつぶせになっているのは、おそらく叩きつけられたのだろう。さるぐつわをかまされた女性が、服をひきさかれて死んでいた。チェックのスカートの女の子が、手を差し伸べるようにして殺され、その隣りに歩いているような姿勢で殺された男の子は、首を針金のようなもので縛られていた。別のガレージには、縛られてトラックにひきずられてきた人々が殺されていた。背の低い小柄な老人が、胸の上に鍵を置いて死んでいた。パレスチナ人たちは、いつか故郷に戻る日のために、かつての自分の家の鍵をいつも持ち歩いている、という話を私は思い起こした。

【『パレスチナ 新版』広河隆一〈ひろかわ・りゅういち〉(岩波新書、2002年)】

「ベイルート虐殺事件から20年」広河隆一
パレスチナの歴史:サブラ・シャティーラの虐殺

パレスチナ新版 (岩波新書) 戦場でワルツを 完全版 [DVD]

田文の光彩に満ちた春秋/『孟嘗君』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光

 ・大いなる人物の大いなる物語
 ・律令に信賞必罰の魂を吹き込んだ公孫鞅
 ・孫子の兵法
 ・田文の光彩に満ちた春秋
 ・枢軸時代の息吹き

『長城のかげ』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

 物語は第4巻でクライマックスに至る。敢えてそう書いておこう。宮城谷作品は、ある種の透明感をもって幕を下ろすのが特徴だ。人が歴史に溶け込むような印象を受ける。目の前で躍るように活躍していた登場人物が、再び歴史の彼方へと去ってゆくのだ。

 田忌(でんき)と鄒忌(すうき)の政争、白圭(はくけい)の堤防事業、田文(でんぶん)と洛芭(らくは)の運命的な出会い。歴史の歯車が音を立てて回り始める。

「田忌(でんき)将軍のご気性からすると、善を喜び、悪を憎むことがどちらもはげしい。それをけむたがる者は、善の仮面をつけて悪をおこなう」

【『孟嘗君』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、1995年/講談社文庫、1998年)以下同】

 宋江(そうこう)が『水滸伝』の主役となっている意味が初めて腑に落ちた。清らかな権力者は必ず他人にも厳しくなる。当然、恨みを買う場面も増える。気づかぬうちに不満分子が寄り集まる。そこに鄒忌(すうき)が付け込む隙(すき)があったといえる。

 斉(せい)の貴族のなかで、いや、中国の貴族のなかで、食客(しょっかく)をかかえはじめたのは、田嬰(でんえい)が最初であろう。

 孫ピンの下(もと)で学んだ田文が今度は食客に揉まれながら著しい成長を遂げる。食客は臣下ではない。このため恩を感じても、忠を尽くす義務はない。主人を助ける助けないも彼らの自発による。若き田文は食客たちの心をつかんでゆく。後々彼らは田文を大いに助けることとなる。

 ――人には他人にいえぬことがある。
 それをことばではなく、心でわかることが、ほんとうにわかるということではないのか。真意というものはことばにすると妄(うそ)になる。だから、いわない。黙っていることが真実なのである。

 これを私は27歳の時に知った。人生を変えるほどの感動に包まれたことがあった。それを友人たちの前で語ろうとしてやめた。「言葉にすると嘘になるから」と私は言った。もちろん文脈は異なっているが、言葉にできぬ思いという点では一致している。

 また、30代半ばではこんなこともあった。後輩の父親が二度にわたって自殺未遂をして行方不明となった。半年後に首を吊った遺体が発見された。風の如く後輩の家を訪ねると、いつもと変わらぬ姿があった。お母さんと妹もニコニコしていた。座卓を囲みしばし沈黙した後、私は後輩の膝を思い切り叩き、「すまん、何もできなかったよ!」と言うなり泣いた。その瞬間、居合わせた全員がわっと声を上げて泣いた。ただ泣いた。泣いて泣いて泣き抜いた。言葉は要らなかった。

 長い人生にはそういうことが何度かあるものだ。真の理解は沈黙の底から生まれる。

「文(ぶん)どのはよい声をしておられる。じつにすがすがしい。天と地とが和したような声だ。億万人にひとりの声だ、と申しておこう」

 声の響きが大切である。声はその人の生命の反響である。文章は嘘をつけるが、声は誤魔化せない。

 ――外交は目でするものではない。耳でするものだ。
 それが田嬰(でんえい)のかけひきの秘訣(ひけつ)であった。

 父・田嬰(でんえい)も声から相手を見抜くことができる人物であった。聞く人が聞けば、おのずと正邪のバイブレーションがわかるものだ。

 白圭(はくけい)は私財をなげうって黄河の堤防事業を開始する。商いで稼いだ金を民に返すというのが持論であった。白圭と再会した田文(でんぶん)は右腕として事業の指揮をとる。そこで赤子(あかご)の時、一緒にさらわれた洛芭(らくは)と巡り会う。

 田文(でんぶん)は光彩に満ちた春秋を歩む。彼には焦りがない。そして、じっくりと時を待つ肚(はら)ができていた。

 数千年の時を超えて英雄が立ち上がってくる。足腰の力がなければ踏みこたえることができない。前屈(かが)みの姿勢で本書を開くべきだ。

    

「武」の意義/『中国古典名言事典』諸橋轍次

2011-07-15

もの言わぬ死の叫び


 それはひどい落胆のしるし、もの言わぬ死の叫び、諦めようとせず、死なぬために、手遅れにならないうちに気勢をもりかえそうとする敗残の軍隊が、秩序も何も乱したような有様だった。(「恋盗人」)

【『11の物語』パトリシア・ハイスミス:小倉多加志〈おぐら・たかし〉訳(ハヤカワ文庫、2005年)】

11の物語 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

2011-07-14

孫子の兵法/『孟嘗君』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光

 ・大いなる人物の大いなる物語
 ・律令に信賞必罰の魂を吹き込んだ公孫鞅
 ・孫子の兵法
 ・田文の光彩に満ちた春秋
 ・枢軸時代の息吹き

『長城のかげ』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

 あしきりの刑を受けた孫ピンは白圭の手で助けられ、九死に一生を得る。

 ――孫子〈そんし〉に、なにかすごみのようなものが、憑(つ)いたな。
 と、白圭は感じていた。からだつきやことばづかいにまるみがあるのは、むかしとかわらないが、ひとつちがったのは目である。目に心の風景がうつるとすれば、孫ピンの目のなかに峻谷(しゅんこく)と峻峰(しゅんぽう)がみえた。さらにいえば、その谷と峰とに霧がかかっている。したがって谷の深さと峰の高さをみきわめようがない。そんな感じであった。

【『孟嘗君』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、1995年/講談社文庫、1998年)以下同】

 艱難(かんなん)が人を玉と磨き上げる。修羅場が胆力(たんりょく)を養う。威厳とはまとうものではない。死を目前にした孫ピンは、生への執着から離れることができたのであろう。

「よかろう。雨や風の日のほかは、庭で教えよう」
 と、孫ピンは入門をゆるし、陽のしたでこの熱心な弟子に教学をさずけることにした。
 慶■〈けいウン/さんずい+云〉は身ぶるいした。
 あたりの空気をうごかしてくる孫ピンのことばは、かつて耳にした孫ピンのことばとはちがい、神韻(しんいん)といってよい深みをそなえている。あえていえば、孫ピンがくぐりぬけてきた苦難の闇の底知れなさと生死の境にあったうつろいやすい微光、そんなものの存在が、足のない孫ピンの容光から慶ウンにつたわってきた。
 戦いにむかう兵は、孫ピンが体験したとおなじ闇と微光の世界に投げこまれる。
 それらの兵を凱帰(がいき)させるために、どうしても戦略というものがいる。兵とは民である。民の力で国は富むものであり、その民を兵として酷使し、しかも戦陣で死なすことは、国にとって二倍の損害になる。国の威信をたもつ戦いをまっとうして兵を生還させるのが為政者(いせいしゃ)のつとめであろう。だが、どの国もそこまで考えて兵をつかってはいない。
 戦略とは、人のいのちの大切さの上に成り立つものである。

 末尾の一文を宮城谷の勝手な想像だと嘲(あざけ)るのは簡単だ。しかしながら合理性を極限まで追求すれば必ず一兵卒(いっぺいそつ)に至る。戦争とは所詮命の奪い合いだ。であるならば、孫ピンが生命を重んじたことは自明といえよう。

 孫ピンは教えを請われた。ここに教育の原風景がある。日本の近代を開いたのも、剣豪の修行の如く学び抜いた若者たちであった。限定された教育現場から学問の気風は生まれない。野放しの自由から求道の心は芽生えるのだろう。

 威王〈いおう〉の目から田忌〈でんき〉をみると、たしかにこの将軍は勇気にすぐれ、つねに敵軍をみくだして、兵をするどくすすめる指揮ぶりで、自軍に不利が生じても一歩も退かぬたのもしさはあるのだが、それをうらがえせば、
 ――権(けん)に欠ける。
 というみかたができる。権は、臨機応変といいかえてもよい。
 城を守りぬくことにおいて、生涯、いちども破れることを知らなかった墨子〈ぼくし〉は、じつは武人ではなく思想家であったのだが、かれは権について、
 ――所体のなかにおいて、軽重を権(はか)る。これを権という。
 と、いっている。所体というのは、あたえられた情況ということであろう。そのなかでものごとの軽さと重さをみきわめることが権であるというのである。また、権は、ものごとの是非(ぜひ)をきめることではなく、利害を正すことである、とも墨子はいっている。
 戦争は将軍にとってまさに所体といえるであろう。

 権に「かり」の意味があるのは知っていたが、かように深い言葉だったとは露知らず。権力とは「かりの力」というよりも「はかる力」なのだろう。公平な分配のために「はかる」のだ。

 ということは平衡感覚を欠いた権力は軽重(けいちょう)を誤る。利権に動かされてしまえば、意図的な加減を加える。労働対価は資本家と国家に吸い取られた挙げ句、経済は停滞してゆく。世界で初めてサラリーマンの源泉徴収を導入したのは日本であった。

 主人公・田文〈でんぶん〉と実父である田嬰〈でんえい〉を巡るドラマが伏線となっている。

「いや、白圭〈はくけい〉の子ではないのです。白圭もわたしも、あの子をあずかっているにすぎません」
「ほう、して、その父母は──」
 田嬰〈でんえい〉の声に、はっと青欄〈せいらん〉は孫ピンをみつめた。
「天、と申しておきましょう」
 孫ピンが微笑すると同時に貌弁〈ぼうべん〉が声をたてて笑った。その笑声に天空の雲が破られたのか、月光が台上にさらさらながれ落ちてきた。

 孫ピンの智謀が光る。そして田文こと孟嘗君〈もうしょうくん〉は天を動かす逸材に育ってゆく。

 遂に田文〈でんぶん〉は田嬰〈でんえい〉の前に進み出た。子は「なぜ私を殺せと命じたのですか」と質(ただ)した。

「五月の子は、身長が門の高さにひとしくなり、父母にとって害になるということだ」(中略)
 田文〈でんぶん〉は笑いたくなった。その笑いをこらえたためか、かれの舌鋒(ぜっぽう)はするどく父にむかった。
「人の命運というものは、天からさずかるものでしょうか。それとも、門からさずかるものでしょうか」
 田嬰〈でんえい〉はむすっと口をむすんだ。不快そのものの表情である。
 田文は父の気色(きしょく)の変化を恐れなかった。さらに、
「人の命運が天からさずかるものであれば、父上はご心配なさることはありますまい。もしも門からさずかるものであれば、門を高くすればよろしいではありませんか。そうすれば、だれがその門にとどきましょうか」
 と、からさをこめていった。

 田文は既に孫ピンの下(もと)で学んでいた。戦略とは知略であり機略でもあった。機をとらえて変化の波を起こすのが兵法といえる。

 戦争というものは、勝つべくして勝つものであり、軍旅をすすめながら勝算を計(はか)るものではない。それは孫子〈そんし〉の兵法の根幹にある考えかたである。

謀(はかりごと)を帷幄(いあく)の中(うち)に運(めぐ)らし、勝つことを千里の外(ほか)に決する」(劉邦が軍師の張良を称賛した言葉)のが兵法の道である。逆から考えると勝敗の帰趨(きすう)が不明な戦いは避けるべきである。

 かのナポレオンも孫子を愛読した。イギリスの軍事史家リデル・ハートクラウゼヴィッツの『戦争論』を批判し、『孫子』を称揚した。

    

『孫子』の意義
兵とは詭道なり/『新訂 孫子』金谷治訳注
日本のデタラメな論功行賞/『孫子 勝つために何をすべきか』谷沢永一、渡部昇一
はかるという漢字の多さ/『なんでも測定団が行く はかれるものはなんでもはかろう』武蔵工業大学編
狂者と獧者/『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦
「武」の意義/『中国古典名言事典』諸橋轍次

世界全体が巨大なテレビ・スタジオになっている


 私が言いたいのは、今や世界全体が巨大なテレビ・スタジオになっているということだ。

【『おテレビ様と日本人』林秀彦(成甲書房、2009年)】

おテレビ様と日本人