2012-06-15

『週刊新潮』と『週刊文春』の共同歩調

2012-06-13

2012-06-10

神の支配とは何か?/『イエス』ルドルフ・カール・ブルトマン


目指せ“明るい教祖ライフ”!/『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世

 ・新約聖書の否定的研究
 ・神の支配とは何か?
 ・教条主義こそロジックの本質

『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
『世界史の新常識』文藝春秋編
『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静
『イスラム教の論理』飯山陽

キリスト教を知るための書籍

 神は支配し、時に怒り、そして裁く。ま、これが神の仕事だ。

 その前にイエスの宗教的出自を紹介しておこう。

 従ってヨハネが教えた洗礼も、終末論聖礼典と規定していいだろうと思う。洗礼を受け、それと結びつく悔改めの義務を果たす者は、きたるべき神の支配に対して潔められるのであり、きたるべき怒りの審判からまぬがれる人の群に属するのである。恐らくオリエント的、非ユダヤ教的観念がこの洗礼運動に影響していたであろう。

【『イエス』R・ブルトマン:川端純四郎、八木誠一訳(未來社、1963年)以下同】

 ここでいうところの「オリエント的」というのは古代オリエントを指すのだろう。

 こう推論することが許されるであろう。すなわちイエスはもともと洗礼者の一派に属していた。そしてイエス一派はヨハネ派から分かれたものである、と。

 飽くまでも思想的、文献的あるいは文学的立場からの推論であることに留意せよ。考古学的、科学的推論ではない。結果的には事実がどうあれ、最終的に物語を構築するわけだから、実証や時代考証に重きを置く必要もあるまい。宗教とは物語の異名である。

 イエス宣教は【終末論的告知】である。すなわち今や約束の成就は門のところまで来ている、今や神の支配が入来する、という告知である。

 サタンとの最終戦争(ハルマゲドン)を経て、最後の審判が下るってわけだよ。既に2000年が経過しているが千年王国が現れそうな気配は微塵もない。

 かといって冷笑するわけにもいかない。なぜならかような思想を実現すべく世界支配を目論む連中が存在するためだ。すなわちヨーロッパ人による植民地化政策、金融支配、メディア・コントロールは一神教の教えから派生したものと考えることができよう。神と人間との隔絶が拭い去ることのできないコンプレックスとなって、その反動が有色人種に襲いかかるってな寸法だ。神を信じた瞬間から、自分は「裁かれるべき存在」と化すわけだから、被害妄想的にならざるを得ない。

 もしあなたの目があなたを誘惑するなら、えぐり出して捨てよ。体の一部がなくなる方が、全身が地獄(ゲヘナ)に投げ込まれるのよりましだから。
 もしあなたの手があなたを誘惑するなら、切り取って捨てよ。手足が一本なくなる方が、全身が地獄(ゲヘナ)へ行くのよりましだから。(マタイ5・29、30)

 神は犠牲を求めてやまない。ま、自分で造ったわけだから人形の手をもぎ取るようなものか。私としては、地獄を持ち出して脅さなければならないような粗悪品を製造した神の責任を問いたい。腕が悪すぎる。

 ところで【神の支配】とは何を意味するのだろうか。神の支配というとき何を考えたらよいのだろうか。答えは差し当り簡単である。神の支配は人にとって【救い】なのである。それもあらゆる地上的事物に終わりをもたらす【終末論的な】救いなのである。この救いはおよそ救いとして語りうる唯一の救いなのである。だからこそそれは人間から決断を要求し得るのであり、他の財貨と同列に所有したり、ほかの関心事と同列に心を労したりできるものではないのである。この救いは人の前にあれか-これかとして立っている。  だから神の支配を【最高善】と規定するのは無意味なのである――もし最高善を、人が善いと考え得るあらゆる事物の冠、頂点とするならば。

 ポイントその一――「神の支配は人にとって【救い】なのである」。これは公式であって、議論の余地は猫の額ほどもなければ、雀の涙ほどもない。公式といっても証明を必要とするような代物ではなく、絶対的な基準であり、すべての前提となる。

「馬鹿馬鹿しい。ケッ、そんな無理無体が通るものか」と大半の日本人なら思うところだろう。それは極東に住むキリスト教ルールを知らない哀れな衆生が考えることであって世界では通用しない。なぜなら、ただ「信じて仰ぐ」のが信仰の原義であるからだ。だから仰がない連中は殺戮される。歴史を少しでも紐解けばたちどころに理解できる。

 しかもその絶対性(≒聖性)は1位、2位、3位の1位ではない。動かし得ない座標軸としての絶対性なのだ。つまり神とは西洋的世界観の座標軸を示すものなのだ。世界の中に神がいるのではなくして、神がいるから世界があるのだ。

 いずれにせよ、神の支配は【倫理の意味での最高善ではない】ことが既にここで明らかである。それは人の意志や行為の目的となる善ではなく、何等かの意味で人の行為によって実現されるもの、その存在のために何等かの意味で人を必要とするものではない。それは終末論的なものとして、絶対に非世界的なのである。

「非世界的」と来たもんだ。彼らにとって世界なんざ、神と比べればクソみたいなものだ。

「創世は神の言葉(ロゴス)からはじまった」(新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章)――で、神様はどこにいたんだ? そもそも空間がなければ存在することは不可能だ。「言葉を発した」ということは大気があった事実を示している。それから神様はどこで言葉を覚えたんだ? それはヘブライ語なのか?

哲学の限界/『現代思想の冒険』竹田青嗣

【神の支配はゆえに何か奇蹟的なもの】、それも絶対的に「奇蹟的なもの」であり、今・ここにあるすべてに対立するもの、「絶対他者」、天的なもの(ルドルフ・オットー)なのである。

 形容詞をいくら並べても神は形容し得ないってわけだ。そりゃそうだろう。誰も見たことがないのだから、どんな風にでも言えらあ。

「神の国」は人間の歴史の中に実現されるものではない。神の国の基を礎え、建て、完成するとは言われないし、言うこともできない。ただ近づき、来たり、あらわれると言われるだけである。それは【超自然的】、【非世界的なもの】である。人間はその救いを「受け」、その中に「入る」。しかし【人間】の共同体や活動が国を構成するのではなく、それはただ神の摂理なのである。

 これこそ純粋な「教条主義」という手本である。啓典宗教にとっては、ただひたすらバイブルの前に額(ぬか)づくことが正しい。人間の論理など必要ない。ただ神の論理を追求するのだ。そしてここにロジックの本質がある。

 もちろん信じなくても構わない。ただ国際社会においてキリスト教の概念やアブラハムの宗教を弁えずにコミュニケーションが成立することはない。日本が外交音痴といわれてきた理由もここにある。我々は世界の常識としてキリスト教を学ぶ必要がある。

 神の支配は同時にユダヤ民族の支配なのである(ダニエル2・44、7・27)。

 ってことは実現されつつあるのかもしれない。先進国の金融とメディは、ほぼ完全にユダヤ資本が牛耳っているのだから。