63 もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者となる。愚でありながら、しかもみずから賢者だと思うものこそ、愚者である。
— ゴータマ シッダッタさん (@budha_bot) 12月 9, 2012
クリシュナムルティと完全に一致している。シッダッタはパーリ語読み。サンスクリットだとガウタマ・シッダールタとなる。 RT @budha_bot: 63 もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者となる。愚でありながら、しかもみずから賢者だと思うものこそ、愚者である。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 12月 9, 2012
Q――粗野な心も敏感になれるのでしょうか。
質問を、言葉の裏の意味を聴いてごらんなさい。粗野な心も敏感になれるのでしょうか。私の心は粗野だと思い、敏感になろうとするなら、敏感になろうとするその努力こそが粗野なのです。どうかここを見てください。感心していないで、見てごらん。ところが、私が粗野であることを、変えたがらずに、敏感になろうとせずに認識したり、粗野とは何かを理解しはじめて、日々の生活でそれを――私の欲張った食べ方や人々と接するときの粗々しさ(ママ)、誇り、傲慢、習慣や思考の粗雑さを観察するなら、そのときはその観察こそが【ありのまま】を変革するでしょう。
同様に、私は愚かなので、智慧を得なくてはならないと言うなら、智慧を得ようとするその努力はもっと大型の愚行にすぎません。なぜなら、重要なのは愚かしさを理解することだからです。どんなに智慧を得ようとしても愚かしさは残るでしょう。学問の表面的な洗練は獲得するかもしれません。本を引用したり、偉大な著者(ママ)の一節を反復したりはできるかもしれません。しかし、基本的に私は愚かなままでしょう。しかし、日常生活に表現される愚かしさ――私がどのように召使に対して振るまうか、隣の人、貧しい人、豊かな人や会社員をどのようにみなしているのかを見て、理解するなら、そのときはその気づきが愚かしさを断ち切ることになるでしょう。
やってごらんなさい。自分が召使に話しているのを見つめ、知事と接するときのとうほうもない尊敬や、何も与えてくれるものを持たない人にはどれほど尊敬を示さないのかを観察するのです。そのとき、君は自分がどんなに愚かであるのか、見出しはじめます。その愚かしさを理解するところに、智慧や敏感さはあるのです。敏感に【なる】ことはないのです。何かになろうとしている人は醜く、鈍感です。それが粗野人なのです。
【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)以下同】
Q――「進歩」という言葉の意味は何でしょう。
ほとんどの人々のように、あなたも理想を持っていることでしょう。おして、理想は事実や現実ではありません。それはある【べき】ものであり、何か未来のことなのです。そこで、私が言うのはこういうことです。理想は忘れてしまいなさい、そして、自分のありのままに気づいていなさい。あるべきものを追求せずに、【ありのまま】を理解してみなさい。実際のありのままの理解は、あるべきものの追求よりもはるかに重要です。なぜでしょう。なぜなら、ありのままを理解するところから、自然な変革の過程が始まるからです。ところが、自分がこうある【べきだ】と考えるものになっていくとき、そこにはまったく変化がなく、形を変えた同じ古いものの継続だけがあるのです。心が自分は愚かだと知って、その愚かしさを智慧に、すなわちある【べき】ものに変化させようとするなら、それはばかげているし、それでは意味も真実もありません。それはただ自己投影の追及で、ありのままの理解の延期にすぎません。自分の愚かしさを他のものに変化させようとうするかぎり、心は愚かなままなのです。しかし、心が「自分は愚かだと実感しているので、愚かしさとは何かを理解したい。それゆえに、愚かしさに立ち入ろう、それがどのようにして生じてきたのか観察しよう」と言うなら、そのとき、まさにその探究の過程こそが、根本的な変革をもたらします。(中略)
進歩は時間を意味しているでしょう。というのも、牛車からジェット機に至るには何世紀もかかっています。そこで、私たちは同じように真実や神も時間をかければ見つかると考えます。私たちはここにいて、神を向こう側か、はるか彼方にあると考えて、その距離、間隔を埋めるには時間が必要だと言うのです。しかし、神や真実は固定していないし、私たちも固定していません。固定した出発点もなく、固定した到達点もないのです。私たちは真理的な安全という理由のために、一人一人に固定した点があり、真実もまた固定しているという考えにすがります。しかし、これは幻想です。事実ではありません。内的、精神的に進化したり、進歩する時間を求めたとたんに、私たちのしていることはもはや精神的ではないのです。なぜなら、真理は時間のものではないからです。時間に囚われている心は、真実を見つける時間を必要とします。しかし、真実は時間を超えていて、固定した点を持ちません。心は、意識的にも無意識的にも、すべての蓄積から自由でなくてはなりません。そのときにだけ、真理とは何か、神とは何かを見出すことができるのです。
・『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
・本覚思想とは時間的有限性の打破/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ