・『仏陀の真意』企志尚峰
・『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
・『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
・『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
・「怒り」が生まれると「喜び」を失う
・「私は正しい」と思うから怒る
・正しい怒りなど存在しない
・『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
・『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
・『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
・『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ
正義の味方になるためには悪人を倒さなければなりませんね。では、人を倒したり殺したりするために必要なのは何かというと、「怒り」なのです。
ということは「正義の味方」という仮面の下で、我々は「怒り」を正当化していることになります。正義の味方は「悪人を倒してやろう」などと、わざわざ敵を探して歩きまわるのですから、よからぬ感情でいっぱいというわけです。
正義の味方までいかなくても、そういう「何かと戦おう」という感情が強い人は、すごくストレスが溜まっていて、いろいろな問題を起こします。(中略)
「悪に向かって闘おう」「正義の味方になろう」というのは仏教の考え方ではありません。「正しい怒り」など仏教では成り立ちません。どんな怒りでも、正当化することはできません。我々はよく「怒るのは当たり前だ」などと言いますが、まったく当たり前ではないのです。
【『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)以下同】
私憤は否定しても公憤を肯定する人は多い。そこに落とし穴がある。そもそも私憤と公憤の間(あわい)は人によって異なり、グラデーションを描いている。ともすれば私憤を公憤に見せかける人もいる。「皆が困っている」と言いながら実は自分が一番困っていたりする。
私は幼い頃から困っている人を見ると放っておけない。親切といえば聞こえはいいが、困らせている人物に対する怒りがとてつもなく激しい。中年期を過ぎてからは殺意にも似た感情が芽生えるようになってきた。怒鳴って引き下がるような相手ならいいのだが、それでもダメとなればいつでも実力行使をする準備ができているのだ。「感情には『どんどん強くなる性質』がある」とも書かれているが本当にその通りだ。私はゴミをポイ捨てする人を見ただけで「ぶっ殺してやろうかな」と思う。しかも本気で。
怒りを甘くみてはいけません。怒りが生まれた瞬間に、からだには猛毒が入ってしまうのです。たとえわずかでも、怒るのはからだに良くないとしっかり覚えておいてください。怒りはまず自分を燃やしてしまいます。本当に自分のからだが病気になってしまうのです。
陽気で、もう底抜けに明るいような人が深刻な病気になったという話はほとんど聞きません。そういう人はたとえ病気になっても、お医者さんとすぐに友だちになったりして治療効果も上がるので、治りが早いのです。入院したのが明るい人だったら、看護師さんたちも楽しくなって親切に面倒を見てくれるし、みんなが治るようにと願ってくれますからね。
本書でも引かれているが「怒りが猛毒である」というのはスッタニパータ冒頭の指摘である。
・蛇の毒/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
つまり正当化された怒りとは毒に酔っている状態なのだ。魯迅は「水に落ちた犬は叩け」(「『フェアプレイ』はまだ早い」)と言った。婦女子だけは生かしておいて、男であれば幼児でも殺してしまう発想と一緒だ。林檎堂との論争でさすがの魯迅も筆の勢いが余ったか。
相手を滅ぼそうとする怒りが実は自分を滅ぼす。仏法では迷い(≒不幸)の根本的な原因は三毒にあると説く。その筆頭が瞋恚(しんに/=怒り)だ。瞋恚は地獄の門を開く。地とは最低を表し、獄には束縛の意がある。すなわち地獄とは外部環境ではなく自分の生命が最低の境涯にあることを示す。
怒りには明るさが伴わない。明るさとは智慧の異名だ。老子曰く「人を知る者は智なり、自ら知る者は明なり。人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。足るを知る者は富み、強めて行なう者は志を有す」と。
スマナサーラは具体的なアドバイスを欠かさない。
けれどよく考えてください。ただ「お茶を入れなさい」と言われただけなのに、悩んだり苦しんだり、怒って自分の健康まで害したりするなんて、本当にバカげたことですよ。
「お茶を入れて」と言われたら、お茶を入れればいいのです。べつにどうということもありません。会社に行ったらどうせ終業時間まで会社に縛られているのですから、お茶を入れようが、便所の掃除をしようが、すべては給料のうちなのです。仕事をする時間は決まっていますし、その時間にできることも決まっています。ですから、「私にお茶を入れさせるなんて」などと考えずに、自然の流れの中で、できることをやればいいのです。
確かにそうだ。怒りは合理性を見失わせる。怒りとは狂気なのだ。そして自分を傷つける凶器でもある。
不殺生戒とは怒りの否定なのだろう。怒りっぽい仏など存在しない。本物の強さは穏やかな表情をしている。
・天才博徒の悟り/『無境界の人』森巣博