2014-02-20

正しい怒りなど存在しない/『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・「怒り」が生まれると「喜び」を失う
 ・「私は正しい」と思うから怒る
 ・正しい怒りなど存在しない

『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 正義の味方になるためには悪人を倒さなければなりませんね。では、人を倒したり殺したりするために必要なのは何かというと、「怒り」なのです。
 ということは「正義の味方」という仮面の下で、我々は「怒り」を正当化していることになります。正義の味方は「悪人を倒してやろう」などと、わざわざ敵を探して歩きまわるのですから、よからぬ感情でいっぱいというわけです。
 正義の味方までいかなくても、そういう「何かと戦おう」という感情が強い人は、すごくストレスが溜まっていて、いろいろな問題を起こします。(中略)
「悪に向かって闘おう」「正義の味方になろう」というのは仏教の考え方ではありません。「正しい怒り」など仏教では成り立ちません。どんな怒りでも、正当化することはできません。我々はよく「怒るのは当たり前だ」などと言いますが、まったく当たり前ではないのです。

【『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)以下同】

 私憤は否定しても公憤を肯定する人は多い。そこに落とし穴がある。そもそも私憤と公憤の間(あわい)は人によって異なり、グラデーションを描いている。ともすれば私憤を公憤に見せかける人もいる。「皆が困っている」と言いながら実は自分が一番困っていたりする。

 私は幼い頃から困っている人を見ると放っておけない。親切といえば聞こえはいいが、困らせている人物に対する怒りがとてつもなく激しい。中年期を過ぎてからは殺意にも似た感情が芽生えるようになってきた。怒鳴って引き下がるような相手ならいいのだが、それでもダメとなればいつでも実力行使をする準備ができているのだ。「感情には『どんどん強くなる性質』がある」とも書かれているが本当にその通りだ。私はゴミをポイ捨てする人を見ただけで「ぶっ殺してやろうかな」と思う。しかも本気で。

 怒りを甘くみてはいけません。怒りが生まれた瞬間に、からだには猛毒が入ってしまうのです。たとえわずかでも、怒るのはからだに良くないとしっかり覚えておいてください。怒りはまず自分を燃やしてしまいます。本当に自分のからだが病気になってしまうのです。
 陽気で、もう底抜けに明るいような人が深刻な病気になったという話はほとんど聞きません。そういう人はたとえ病気になっても、お医者さんとすぐに友だちになったりして治療効果も上がるので、治りが早いのです。入院したのが明るい人だったら、看護師さんたちも楽しくなって親切に面倒を見てくれるし、みんなが治るようにと願ってくれますからね。

 本書でも引かれているが「怒りが猛毒である」というのはスッタニパータ冒頭の指摘である。

蛇の毒/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳

 つまり正当化された怒りとは毒に酔っている状態なのだ。魯迅は「水に落ちた犬は叩け」(「『フェアプレイ』はまだ早い」)と言った。婦女子だけは生かしておいて、男であれば幼児でも殺してしまう発想と一緒だ。林檎堂との論争でさすがの魯迅も筆の勢いが余ったか。

 相手を滅ぼそうとする怒りが実は自分を滅ぼす。仏法では迷い(≒不幸)の根本的な原因は三毒にあると説く。その筆頭が瞋恚(しんに/=怒り)だ。瞋恚は地獄の門を開く。地とは最低を表し、獄には束縛の意がある。すなわち地獄とは外部環境ではなく自分の生命が最低の境涯にあることを示す。

 怒りには明るさが伴わない。明るさとは智慧の異名だ。老子曰く「人を知る者は智なり、自ら知る者は明なり。人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。足るを知る者は富み、強めて行なう者は志を有す」と。

 スマナサーラは具体的なアドバイスを欠かさない。

 けれどよく考えてください。ただ「お茶を入れなさい」と言われただけなのに、悩んだり苦しんだり、怒って自分の健康まで害したりするなんて、本当にバカげたことですよ。
「お茶を入れて」と言われたら、お茶を入れればいいのです。べつにどうということもありません。会社に行ったらどうせ終業時間まで会社に縛られているのですから、お茶を入れようが、便所の掃除をしようが、すべては給料のうちなのです。仕事をする時間は決まっていますし、その時間にできることも決まっています。ですから、「私にお茶を入れさせるなんて」などと考えずに、自然の流れの中で、できることをやればいいのです。

 確かにそうだ。怒りは合理性を見失わせる。怒りとは狂気なのだ。そして自分を傷つける凶器でもある。

 不殺生戒とは怒りの否定なのだろう。怒りっぽい仏など存在しない。本物の強さは穏やかな表情をしている。


天才博徒の悟り/『無境界の人』森巣博

女性パンクバンドを鞭打つコサック兵(ソチ)




プッシー・ライオット
プッシー・ライオットをソチで拘束:Bloomberg

2014-02-19

目撃された人々 54






「私」とは属性なのか?~空の思想と唯名論/『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵

2014-02-18

「私は正しい」と思うから怒る/『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・「怒り」が生まれると「喜び」を失う
 ・「私は正しい」と思うから怒る
 ・正しい怒りなど存在しない

『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 怒らないほうがよいとわかっているのに、我々はなぜ怒るのでしょう。
 いつでも、我々には「こういうことで怒ったのです」という理由があります。その理由をひとつひとつ分析してみると、「自分の好き勝手にいろいろなことを判断して怒っている」というしくみがあります。
 人間というのは、いつでも「私は正しい。相手は間違っている」と思っています。それで怒るのです。「相手が正しい」と思ったら、怒ることはありません。それを覚えておいてください。「私は完全に正しい。完全だ。完璧だ。相手の方が悪いんだ」と思うから怒るのです。
 他人に怒る場合は「私が正しくて相手方が間違っている」という立場で怒りますが、自分に怒る場合はどうでしょうか。
 そのときも同じです。
 何か仕事をしようとするのだがうまくいかないという場合、すごく自分に怒ってしまうのです。
 たとえば「自分がガンになった」と聞いたら、自分に対して「なぜ私がガンになったのか」とずいぶん怒るのです。「なぜこの仕事はうまくいかないのか」「どうして今日の料理は失敗したのか」とか、そういうふうに自分を責めて、自分に怒る場合もあります。「私は完璧なのに、なぜ料理をしくじったのか。ああ嫌だ」「私は完璧に仕事ができるはずなのに、どうして今回はうまくいかないのか」と怒ります。

【『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)】

 この前に絶妙な例えで「怒りという感情が生じるプロセス」を教えている。美しいバラを見て「きれいだ」(愛情)と思う。再び目をやるとそこにゴキブリがいる。「ああ、嫌だ。気持悪い」(怒り)との感情が芽生える。これらの感情は誰のせいにすればよいのか、と。

 感情とはある対象への反応にすぎない。喜びも怒りも自分の内側から湧いたもので、バラが喜ばせてくれたわけでもなければ、ゴキブリが怒らせたわけでもない。ひょっとすると感情は妄想の可能性さえある。いや妄想なのだ。我々は自分勝手に周囲の世界を低いレベルで創造するから互いを理解し合うことができないのだろう。

 怒りの元(原因)は自分の中にある。何らかのきっかけ(条件/縁)によって、怒りという現象(結果)が生じ、自分と周囲に影響を及ぼす(報い)。これを因縁果報という。

 例えば韓国を憎むようになった「きっかけはフジテレビ」という人もいる。確かに。ま、一理ある。と私が思うのはフジテレビに対して同じ感情を抱いて、その物語に乗っかっているためだ。自分の憎悪や怒りそのものを正面から見つめることは決してない。

 とすれば、より多くの人々に共有される感情を煽り、皆が求める妄想を示すところに政治家、宗教家、芸術家、音楽家の役割があるのだろう。感情の手配師。

 またスマナサーラはバラの例えで「受け入れること」(愛情)と「拒絶すること」(怒り)と示す。自我の形成や社会における自己存在性もこうした条件に大きく左右される。

 ああ、わかった! 今書きながら悟った。「感情は比較から生まれる」のだ。

比較が分断を生む/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ
比較があるところには必ず恐怖がある/『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ

 泥棒にとっては盗むことが正しいのだ。吟味されない正義が何と多いことか。

「怒り」が生まれると「喜び」を失う/『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・「怒り」が生まれると「喜び」を失う
 ・「私は正しい」と思うから怒る
 ・正しい怒りなど存在しない

『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 怒りというのは愛情と同じく、心にサッと現れてくるひとつの感情です。
 私達は自分の家族を見たり、自分の好きな人を見たりすると、心の中にすぐ愛情という感情が生まれます。何かを食べる場合、おいしい食べものを見たときも口に入ったときも、楽しい感情が生まれてきます。それは瞬時に起こるのです。怒りは、愛情と同じように人間の心に一瞬にして芽生える感情です。
 大雑把にいうと、我々人間はこの2種類の感情によって生きていると言えます。ひとつは愛情で、もうひとつが怒りの感情です。

 怒りを意味するパーリ語(お釈迦さまの言葉を忠実に伝える古代インド語)はたくさんありますが、一般的なのは《ドーサ》です。この《ドーサ》という言葉の意味は「穢れる」「濁る」ということで、いわゆる「暗い」ということです。
 心に、その《ドーサ》とうい、穢れたような、濁ったような感情が生まれたら、確実に我々はあるものを失います。それは、《ピーティ》と言って、「喜ぶ」という意味の感情です。我々の心に怒りの感情が生まれると同時に、心から喜びが消えてしまうのです。

【『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)】

 パーリ語は省略しカタカナを二重山括弧でくくった。

私のダメな読書法」で紹介した通り、気に入ったテキストを見つけると片っ端からデジカメで撮影し、SkyDriveに保存するというのが私のやり方だ。付箋を挟んだままにしておくと本が傷んでしまう。時に半分以上のページに付箋をつけることもあるため本の形が実際に変形したこともある。デジカメのカウンターを何気なく見たところ、既に2万枚を軽く超えていた。Windows8に買い換えたところ、なんと最初からSkyDriveが内蔵されていた。以前より格段に作業効率もアップ。ノートパソコンの15.6インチでも画面を2分割できるので頗(すこぶ)る重宝している。

 ただし問題が一つだけある。ウェブ上からログインできなくなってしまった。で、アップロードしたフォルダの更新日がなぜか全部一緒になっているのだ。タイトルをつけたフォルダーはあいうえお順で表示される。今のところ私に解決策はない。ってなわけでこれまでは読了順に紹介してきたわけだが、今後はランダムに展開してゆく予定である。

 スマナサーラの言葉は極めてやさしい。たぶん中学生でも理解できるだろう。ただしそこでわかったような気になるのが凡夫(ぼんぷ)の浅はかなところだ。人間の残酷さはすべて怒りから生まれる。怒りこそ暴力の温床だ。ゆえに我々の暴力的な現実世界を変革するためには、怒りのメカニズムを知り、勇気を出して怒りを捨て、怒りから離れることが重要なのだ。

 本書は微に入り細を穿(うが)つようにして怒りの様相を示す。短気な私にとっては耳が痛い話ばかりだ。「私が怒るのは怒るだけの理由があり、その理由は絶対に正しい」と誰もが思い込んでいる。これが国民の総意となるところに戦争が生まれる。日本では反中国・半韓国感情が昂(たかぶ)りつつある。中国や韓国の首脳が国際舞台で扇情的な日本叩きを続ければ、日本国民の間で静かに開戦への気運が高まることだろう。

 バブル景気が弾け、失われた20年の間にソフトな暴力が社会を雲のように覆った。貧富の格差、セクシャルハラスメント、パワーハラスメント、児童虐待、いじめ問題、銀行による貸し渋り・貸し剥がし、振り込め詐欺、検察の国策捜査、メディアリンチ、就職時の圧迫面接、増税……。鬱屈した思いや鬱積した感情がはけ口を求めている。そして慢性的な疲労が人々の判断力を誤らせる。

 暴力行為は必ず弱い者に向かう。これが暴力の法則だ。喧嘩っ早い私だって、相手が本物のやくざ者やプロレスラーであれば必ず下手(したて)に出る。日本は韓国や中国と戦争をする可能性はあるがアメリカとは絶対にやらない。

「怒り」が生まれると「喜び」を失う。ということは怒りこそが不幸の最たる原因と考えてよかろう。怒っている人と喜んでいる人とが喧嘩になることはない。「自分は大したものだ」との錯覚から怒りは生まれる。「自分なんて何者でもない」と自覚すれば諸法無我だ。怒りの恐ろしさはエゴを強化するところにある。そして強化されたエゴはどこまでも肥大化し、怒りの波に翻弄されてゆくことだろう。西洋の神を見よ。あいつは怒ってばかりいたよ。

聖書の中で、人を一番殺してるのは誰なの?


怨みと怒り/『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎
テーラワーダ仏教の歩み寄りを拒むクリシュナムルティ/『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ