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努力と理想の否定
・自由は個人から始まらなければならない
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止観
質問者●あなたは、われわれインド人が独立を獲得したのだということを考慮していないように思われます。あなたによれば、真の自由とはどのような状態なのですか?
クリシュナムルティ●自由が民族(国家)主義的なものであるとき、それは孤立になるのです。そして孤立は必然的に葛藤に帰着します。
【『自由とは何か』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1994年)以下同】
本書はテーマ別シリーズの一冊で、講話の抄録+質疑応答となっていて読みやすい。期間は1948~1985年に渡っている。つまり第二次大戦後からクリシュナムルティが亡くなる前年に及ぶ。前回掲載した講話と同じく、1948年3月7日ボンベイ(現
ムンバイ)にて。
インド・パキスタン分離独立が1947年8月14~15日のこと。国父
ガンディーが凶弾に斃れたのが1948年1月30日であった。87年もの間、イギリスの植民地であったインドの歴史を思えば質問内容は決して的外れとはいえない。
第二次世界大戦が行われている間、クリシュナムルティは公開講話をせずに沈黙の中で過ごしている(1940年8月末~1944年5月中旬まで)。クリシュナムルティは一貫して反戦の態度を示した。だが多くの人々はそれを理解できなかった。聴衆が去っていったこともあった。
【クリシュナムルティが放つ光/『クリシュナムルティ・実践の時代』メアリー・ルティエンス】
インドの国民が国家意識に目覚める中でクリシュナムルティはあっさりと国家主義を否定してみせた。
皆さんが国家という存在として自分自身を孤立させたとき、皆さんは自由を得たのでしょうか? 皆さんは搾取からの自由、階級闘争、飢餓、異宗教間の衝突からの自由、司祭、宗教的・人種的団体間の争い、指導者たちからの自由を得ましたか? 明らかに得ませんでした。皆さんはたんに白い皮膚の搾取者たちを追い出し、代わりに浅黒い――たぶん、もう少し冷酷な――搾取者たちをかれらの後釜に坐らせただけなのです。私たちはあい(ママ)変わらず以前と同じものを持ち、同じ搾取、同じ司祭、同じ組織宗教、同じ迷信、そして同じ階級闘争をかかえています。で、これらは私たちに自由を与えたでしょうか? そう、私たちは実は自由になりたくないのです。ごまかさないようにしましょう。なぜなら、自由は英知、愛を意味しており、それは搾取しないこと、権威に屈従しないこと、並外れて廉直であることを意味しているからです。先ほど言いましたように、独善は常に孤立化していく過程なのです。なぜなら、孤立と独善は相伴うからです。これに反して、廉直と自由は共存するのです。主権国家は常に孤立しており、それゆえけっして自由ではありえないのです。それは、絶えざる紛争、猜疑、敵意そして戦争の原因なのです。
何と辛辣(しんらつ)な指摘か。当時を生きる人々が理解できたとは到底思えない。それでも尚クリシュナムルティは「変わらぬ現実」を指摘し抜いた。現在、インドはIT大国となった。既に核爆弾も保有している。BRICsの一翼を担い、
2026年には中国を抜いて世界一の人口となることも予想されている。だが実態はどうか? カースト制度が生む暴力が止むことはなく、強姦は頻繁に繰り返され、児童虐待は後を絶たない。
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両親の目の前で強姦される少女/『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ
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外交官が描いたインドの現実/『ぼくと1ルピーの神様』ヴィカス・スワラップ
クリシュナムルティがアメリカで受け入れられたのは多分ベトナム戦争が泥沼化した後のことだろう。私だってバブル景気以前であれば理解できなかったに違いない。我々は時代という波に翻弄される存在だ。聴きたいのは真実ではなく耳触りのよい言葉だ。
「そう、私たちは実は自由になりたくないのです」――頭からバケツで冷や水を掛けられた思いがする。私が求めていたのは心地よい束縛であったのだ。ソフトSM。自由には責任が伴う。そして重大な判断を自分が下さなければならない。そうであれば国家や会社や組織に乗っかった方が楽だ。これが私の本音なのだ。
そして二度に及ぶ世界大戦が宗教と教育の無力を完全に証明した(『
クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳)。
ですから、自由は全的な過程である個人、集団に対立した存在ではない個人から始まらなければなりません。個人こそは世界の全過程であり、そしてもし彼が自分のことをたんにナショナリズムや独善のなかで孤立させれば、彼は災いと不幸の原因になるのです。が、もし個人――全過程である個人、集団に対立しておらず、集団、全体の結果である個人――が自分自身、自分の人生を変容させれば、そのとき彼にとって自由があるのです。そして彼は全過程の結果なので、彼が自分自身をナショナリズム、貪欲、搾取から解放させれば、彼は全体に対して直接作用を及ぼすのです。個人の再生は未来においてではなく、【いま】起こらなければなりません。もし自分の再生を明日に延期すれば、皆さんは混乱を招き、暗黒の波に呑まれてしまうのです。再生は明日ではなく【いま】なのです。なぜなら、理解はいまの瞬間にのみあるからです。皆さんがいま理解しないのは、自分の精神・心・全注意を、自分が理解したいと思っているものに向けないからです。もし皆さんが自分の精神・心を理解することに傾ければ、皆さんは理解力を持つことでしょう。もし自分精神・心を傾けて暴力の原因を見い出すようにし、充分にそれに気づけば、皆さんはいま非暴力的になることでしょう。が、不幸にして、皆さんは自分の精神を宗教的延期や社会道徳によってあまりにも条件づけられてきたので、皆さんはそれを直接見ることができなくなっているのです――そしてそれが私たちの困難なのです。
私が変われば世界が変わるのだ。だとすれば問題は世界ではなくして私にある。しかも修行を積んで時間をかける(「宗教的延期」)のではなくして、「今直ぐただちに変われ」というのだ。すなわち真の自由とは「今この瞬間に変わる自由」なのだ(
本覚思想とは時間的有限性の打破/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ)。
「人は自由であるか自由でないかのどちらかです」(『
あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ)とも。つまり自由であれば変わることができ、不自由であれば変わることができない。考える余地もなければ、準備する猶予もない。つべこべ言わずに今変わる。変わった。明日、世界も変わっていることだろう。