2014-05-19

小林秀雄、藤井厳喜


 1冊挫折、1冊読了。

超大恐慌の時代 私たちが生きる未来』藤井厳喜〈ふじい・げんき〉(日本文芸社、2011年)/良書。タイミングが合わず。後回し。

 33冊目『学生との対話』小林秀雄:国民文化研究会・新潮社編(新潮社、2014年)/小林の講演および質疑応答をそのまま文字に起こした作品。本書を待ち望んだ人は多いに違いない。かつて私も一部を紹介した(集団行動と個人行動/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ)。新潮CD講演『小林秀雄講演 第2巻 信ずることと考えること』を聴いただけでは気づかなかったことが数多く発見できた。小林秀雄は生前、講演や対談の類いを一切録音させなかったという。それは自分の意思に反して部分的に流用されることを避けるためであった。本講演は隠し録りされたもので、小林の没後に遺族の了解を得て発表した。巻末には小林が手を入れ直した『小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること』も収録。物事の本質に迫る骨太の直観力が横溢している。ハードカバーでありながら1404円という値段に抑えたのも良心的な快挙といってよい。

2014-05-15

小林秀雄、高山正之、夏井睦、他


 2冊挫折、2冊読了。

緊迫シミュレーション 日中もし戦わば』マイケル・グリーン、張宇燕〈チョウ・ウェン〉、春原剛〈すのはら・つよし〉、富坂聰〈とみさか・さとし〉(文春新書、2011年)/歯が立たず。数ページだけ読む。

さらば消毒とガーゼ 「うるおい治療」が傷を治す』夏井睦〈なつい・まこと〉(春秋社、2005年)/私は介護の経験があるのでラップ療法は5~6年前から知っていた。数ヶ月前のことだが知人の子供が顔をざっくり切ったと聞き、すかさず教えた。今では殆ど傷跡も残っていない。正確な知識にするべく開いた。中ほどまで読んで、後は飛ばし読み。傷口を「消毒する、乾かす」のは誤りで、医師やナースでも知らない連中が多い。傷口を水で洗って、ラップを貼るだけで十分だ。実用書としては良書。ただ繰り返しの記述が目立つ。

 31冊目『変見自在 サダム・フセインは偉かった』高山正之(新潮社、2007年/新潮文庫、2011年)/正確には高山の高はハシゴの「高」。とうとう50歳になって私もかような本を読むようになってしまった。武田邦彦との対談動画「欧米人が仕掛ける罠」を見ていたので内容は予想できた。ある記述を照会するために取り寄せたのだが、面白くて全部読んでしまった。朝日新聞の悪口がメインなのだが、知識が豊富で人物や歴史の見方が変わる。高山が保守論客の中で信用に値するのは、中国・韓国だけではなく米国批判を行っているためだ。彼が産経新聞をこき下ろせば、もっと高く評価できるのだが。

 32冊目『小林秀雄対話集 直観を磨くもの』小林秀雄(新潮文庫、2013年)/良書。『小林秀雄全作品』の14、15、16、17、19、21、25、26、28巻が底本。私は『小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること』を読んでいたので部分的には再読になるが、それでも新しい発見が多かった。小林秀雄は大嫌いな人物なのだがやっぱり面白い。特に対談と講演が刺激的だ。この人は物怖じするところがない。有り体にいえば生意気で不躾。驚いたのは湯川秀樹との対談で、小林が量子論を1948年(昭和23年)の時点で理解していたこと。恐るべき知性である。今読んでいる『学生との対話』と併せて、格好の小林秀雄入門といってよい。

「物質-情報当量」/『リサイクル幻想』武田邦彦


合理的思考の教科書
・「物質-情報当量」

『「水素社会」はなぜ問題か 究極のエネルギーの現実』小澤詳司

 ・情報とアルゴリズム

 電話が発明されてからすでに100年以上経っていますが、「電話帳と電話線と電話交換機」という「物質」の組合せには、それまでの通信手段と比べれば、膨大な「情報量」が含まれています。電話という「物質」が伝えることのできる情報量と、のろしや飛脚という「物質」のそれとはけた違いで、伝達の効率という点で、電話という「物質」は「情報」のかたまりといっていいわけです。仮に、電話で伝えるのと同量の情報をのろしや飛脚で伝えるとしたら、どれだけの火を起こし、どれだけの人間が往復しなければならないか、想像してみるといいでしょう。
 つまり、人間の活動を支えるものは、決して「物質とエネルギー」だけではなく、情報も、それらの活動を数倍にする価値を付与しているということがわかります。これを「物質-情報当量」と呼びます。「当量」とは、質的に異なってはいるけれども人間の活動に同じ効果を与えるものを、同一尺度で比較するための単位です。

【『リサイクル幻想』武田邦彦(文春新書、2000年)以下同】

 2000年にこれを書いていたのだから凄い。因みに今検索してみたが物質-情報当量でも情報当量でもヒットするページが見当たらない。本書を「必読書」としたのも、ひとえにこの件(くだり)が書かれているからだ。

「物質-情報当量」を使って、循環型社会を整理してみます。
 1972年から1998年までの間では、鉄1トンに対して10ギガビット、つまり鉄1トンが社会に与える影響と情報10ギガビットが同じであることがわかります。この26年間で、鉄の生産は伸びていませんが、日本社会全体の経済規模は情報分野の進展で増大しています。ごくおおざっぱにいえば、増大分の情報ビット数とそれを鉄に置き換えた場合の重量とをイコールすれば、右のような当量関係が得られるのです。鉄1トンが10ギガビットに当たるというのは、集積回路の集積度が現在より少し上がって10ギガビットになった場合、その小さな1チップが鉄1トンと同等の効果を社会に与えるということを意味してします。1チップを仮に10グラムとすると、物質の使用量は10万分の1になり、物質と文化の関係に革新的な変化を与えるでしょう。
 すでに情報革命が始まり、明確にこのような傾向が現われています。たとえば、銀行の窓口業務の多くは無人の現金出納機になりました。無人化は経費節減や人件費抑制のためと捉えられがちですが、環境面からみると、今まで数人がかりで多くの伝票や計算書類を要し処理していたことを、たった一つの機械で、しかも数倍の処理能力をもってこなすのだから、これも「物質-情報当量」による物質削減の効果です。
 じっくり目をこらせば、こうした例は数限りないくらいあります。現代日本はそれによって高い活動力を保っているとも考えられます。しかしながら、依然として経済成長率やGDPの計算では、物質生産を基準に計算が行われています。そのために、物質の生産が落ち込むと不景気になったという判断が下されますが、現実はすでにビットが物質のキログラムに代わりつつあるのです。
 ビットは人間生活に対して格段に効率が高いので、同じ当量での社会的負担が少なく(つまり物質やエネルギーを消費せず)、結果的にGDPの伸びには反映されていないといえます。GDPの計算方法が古いということ自体はさして問題ではありませんが、GDPが上がらないので「景気を回復させるためには物質生産量を上げなければならない」という結論になるのは問題です。

「現実はすでにビットが物質のキログラムに代わりつつある」ということは情報=物質なのだ。これについては『インフォメーション 情報技術の人類史』(ジェイムズ・グリック)の書評で触れる予定だ。地球環境や資源の限界性を思えば、生産量よりも「物質-情報当量」を上昇させることが望ましい。

 科学者の武田がGDPにまで目を配っているのに政治が無視するのはなぜか? 生産量至上主義が経団連を中心とする業界にとって都合がいいからとしか考えられない。そして官僚が天下りをすることで社会資本を寡占する(『独りファシズム つまり生命は資本に翻弄され続けるのか?』響堂雪乃)。

 私たち人間はなぜ百獣の王ライオンよりも強いのでしょうか? 筋骨隆々として運動神経も人間とは比べものにならないけれど、人間に捕らわれて檻の中にいること自体、理解できないのがライオンです。弱い筋肉と鈍い運動神経しかもっていないのに、人間がライオンを支配できているのは、「知恵」つまり「情報の力」に他ならないのです。
 情報は力であり、物質でもあります。それならば、これまで物質を中心として構築されてきたこの世界を、ビットを中心に組み立て直せばよい。ビットの技術は、地球の資源や環境が破壊される前に、私たち人類にもたらされた贈り物なのかもしれません。

 情報とは知恵なのだ。棒や斧という情報が動物に向けられた時、槍や弓矢という知恵の形となったに違いない。つまり知恵の本質は情報の組み換えにあるのだろう。人類の脳内で行われるシナプス結合が他の動物を圧倒したのだ。そしてシナプス結合は人と人とのつながりを生み、社会を育んだ。そこでは当然、物と情報が交換される。このようにして人類は文明を形成してきた。

「これまで物質を中心として構築されてきたこの世界を、ビットを中心に組み立て直せばよい」――実に痺れる言葉ではないか。どのような情報を得るかで人生は変わる。何を見て、何を聞いて、何を読むか。インターネットの出現によってその選択肢は無限に拡大した。その分だけ自分の選択に責任の重みが増している。また情報は受け取っただけでは死んでいる。それを自分らしく発信することが大切だ。

人格コスプレ





2014-05-13

合理的思考の教科書/『リサイクル幻想』武田邦彦


・合理的思考の教科書
「物質-情報当量」

『「水素社会」はなぜ問題か 究極のエネルギーの現実』小澤詳司

 ・情報とアルゴリズム

 この例のように、「使用した材料は劣化する」という原則を無視してリサイクルすることを「リサイクルの劣化矛盾」といいます。劣化矛盾があるのはテレビのキャビネットばかりではありません。冷蔵庫の内ばり材は油でダメージを受け、洗濯機は絶え間ない振動で力学的な損傷を受けます。
 もちろん家電製品ばかりでなく、自動車の材料はさらに厳しい環境におかれます。エンジンルームの部品は油と熱で劣化しますし、バンパーは寒暖の差の激しい外気に接し、太陽の光を浴び、さらに振動とひずみの力を受けて悪くなっていきます。

【『リサイクル幻想』武田邦彦(文春新書、2000年)以下同】

 リサイクルの欺瞞を科学的に検証する。環境に名を借りた国家ぐるみの詐欺行為が横行している。リサイクル利権もその一つだ。かつて岐阜県では産業廃棄物処理場の建設反対を公約に掲げて当選した町長が二人の暴漢から滅多打ちにされて死にかけたことがある(『襲われて 産廃の闇、自治の光』柳川喜郎)。

 我々の社会でリサイクルの実現可能性が問われているわけではない。リサイクルという名のマネーゲームが行われているのだ。


 まるで人類が愚行を繰り返す六道輪廻の様相を描いたようなマークだ。ま、地球と人間のリサイクルは決してできないわけだが。

 製品のどの程度をリサイクルするかを「リサイクル深度」という言葉で表現します。リサイクル深度が浅い場合、つまり、社会で使っているもののほんの一部でリサイクルが行われている場合には、回収する量が少ないので、劣化した材料を下位の製品に回すことができます。つまり、膨大なプラスチックを使うテレビのキャビネットを、公園のベンチに転用しても、量のバランスがとれるのです。
 しかし、リサイクル深度が深くなると、家電製品に使っているだけの量を振り向ける「下位の用途」などというものはなくなります。仮にテレビのキャビネットのすべてをリサイクルしして公園のベンチにすると、日本の公園はベンチで埋まってしまいます。このことは「家電メーカーは巨大なのに、雑貨メーカーは小さい」ということを考えてもわかります。
 このように、リサイクル前後の製品の受容があわず、大量のリサイクル材料が余ってしまう矛盾を「リサイクルの需給矛盾」と呼びます。この矛盾が原因となって、新たな環境破壊が起こります。その一つが、コンクリートや、鉄鋼生産に際して出るコンクリートに似た「スラグ」と呼ばれる石の塊を、地面の上に敷きつめる行為です。

 本書はリサイクルを素材とした合理的思考の教科書である。科学は科学的思考に極まる。感情だけで判断するとやがて瞳が曇る。矛盾に気づかないためだ。武田の指弾は続く。

 すなわり、「リサイクル」という行為は、貿易との関係でみると「消費する国で再び生産すること」なので、毒物を含もうと含むまいと、貿易と本格的なリサイクル・システムは本来、調和しないことがわかります。(中略)
 もし世界の国々が自国で使うものは自国でリサイクルしなければいけないとすると、現在の国際分業と貿易は破壊され、それぞれの国が、その国で使うすべての製品を作る工場を、国内にもたなければならないことになり、非現実的です。
 この矛盾を「リサイクルの貿易矛盾」といいます。リサイクル深度が深くなればなるほど、この矛盾が拡大することは容易に想像できるでしょう。ますます国際化が進む中で、リサイクルの貿易矛盾をどのように考えるかが重要な課題になりつつあります。

 かくも致命的な矛盾がいくつもあるのに我々はリサイクルゲームをやめようとしない。行政という社会の枠組みは揺らぎもしない。なぜか? それはリサイクルが既に宗教へと格上げされたからだ。マヨネーズの容器を切り開いて水で洗う行為にご利益がある(※自治体によって異なる)。無駄に流した水に思いを馳せることはない。リサイクル教は新たな自己満足を捏造(ねつぞう)した。

 さて、ペットボトルを石油から作り消費者の手元に届けるまでの石油の使用量は、ボトルの大きさにもよりますが約40グラムです。
 ところが、このボトルをリサイクルしようとすると、かなり理想的にリサイクルが進んでも150グラム以上、つまり、4倍近く石油を使うことになります。資源を節約するために行うリサイクルによって、かえって資源が多く使われるという典型的な例です。資源が多く使われるのですから、その分だけゴミも増えます。(中略)
 このように、本来資源を有効に使用し、環境汚染を防止するために行うリサイクルが「すればするほど資源を使い、ゴミを増やす」場合、これを「リサイクルの増幅矛盾」といいます。
 リサイクルの増幅矛盾が起こるのは、主として「薄く広がったものは資源として集めることはできない」という分離工学の原理(後述)によるのであり、リサイクルしやすい社会システムができあがれば改善される、というような「社会システムの問題」ではなく、みんなが心を合わせれば解決できる、というような「国民の意識の問題」でもありません。

 全国民が参加する壮大な無駄をどのように考えるべきなのか? 市民の良心に訴えながら、その裏で邪悪なビジネスが横行している。しかも負担は必ず消費者に負わせ、企業にゴミを減らす努力を促すことはないのだ。

 科学の入門書として本書と『人類が知っていることすべての短い歴史』(ビル・ブライソン)を推す。