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『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』エリック・ホッファー
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沖仲仕の膂力と冷徹な眼差し
・自己犠牲
最も利己的な情熱にさえ、自己犠牲の要素が多分に含まれている。驚くべきことに、極端な利己主義でさえ、実際には一種の自己放棄にほかならない。守銭奴、健康中毒者、栄光亡者たちは、自分を犠牲にする無私の修練において人後に落ちるものではない。
あらゆる極端な態度は、自己からの逃避なのである。
【『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』エリック・ホッファー:中本義彦訳(作品社、2003年)以下同】
間もなく読み終える『
クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ:阿部宏美訳(紀伊國屋書店、2013年)につながる内容を見つけた。恐るべき偶然である。私のようなタイプは記憶が当てにならないので、やはり本を開くに限る(正確には画像ファイルをめくったわけだが)。
エリック・ホッファーの抽象度の高さは「学歴がない」位置から生まれたように見える。つまり知識や学説に依存するのではなくして、ひとりの人間として学問に向き合う真摯な姿勢が独自性にまで高められているのだ。本書を開けば立ちどころに理解できる。ここにあるのは「誰かの言葉」ではなく「彼自身の言葉」なのだ。
過剰な筋肉をまとったボディビルダーや完璧なコスチュームプレイも「極端な態度」である。自己表現というよりは、むしろ表現によって自己を規定する顛倒(てんとう)が窺える。一種のフェティシズム(手段と目的の倒錯)なのだろう。その自己放棄は暴走族と似ている。放棄が「損なう」ベクトルを描く。
放蕩は、形を変えた一種の自己犠牲である。活力の無謀な浪費は、好ましからざる自己を「清算」しようとする盲目的な努力にほかならない。しかも当然予想されるように、放蕩が別の形の自己犠牲へと向かうことは、決して珍しいことではない。情熱的な罪の積み重ねが、聖者への道を準備することも稀ではない。聖者のもつ洞察は、多くの場合、罪人としての彼の経験に負っている。
頭の中でライトが灯(とも)った。マルチ商法のセールスや新興宗教の布教はまさしく「放蕩」という言葉が相応(ふさわ)しい。そこには下水のようなエネルギーが溢(あふ)れている。彼らはただ単に洗脳されて動いているわけではなく、自らを罰する(「清算」)ためにより活動的にならざるを得ないのだ。Q&A集に基づくセールストークは「他人の言葉」だ。
「活力の無謀な浪費」で想起するのは、アルコール・ギャンブル・ドラッグなどの依存症だ。共産主義の流行や学生運動の広がりも実際は「放蕩」であったことだろう。
ある情熱から別の情熱への転位は、それがたとえまったく逆方向であると、人びとが考えるほど困難なものではない。あらゆる情熱的な精神は、基本的に類似した構造をもっている。罪人から聖者への変身は、好色家から禁欲主義者への変身に劣らず容易である。
信者は教団を変えても尚、信者である。依存対象を変えた依存症患者と同じだ。往々にして情熱は盲目を意味する。走っている人に足下(あしもと)は見えない。自己犠牲という欺瞞は何らかの取り引きなのだ。それゆえブッダは苦行を捨てたのだろう。
エリック ホッファー
作品社
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