2015-11-28
2015-11-27
会津戦争の悲劇/『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人
・『逝きし世の面影』渡辺京二
・『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』原田伊織
・『龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』加治将一
・『武家の女性』山川菊栄
・『覚書 幕末の水戸藩』山川菊栄
・『武士の娘』杉本鉞子
・『乃木大将と日本人』スタンレー・ウォシュバン
・『動乱はわが掌中にあり 情報将校明石元二郎の日露戦争』水木楊
・会津戦争の悲劇
・『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛
・『北京燃ゆ 義和団事変とモリソン』ウッドハウス暎子
・『敵兵を救助せよ! 英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長』惠隆之介
・『國破れてマッカーサー』西鋭夫
・『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫
・必読書リスト その四
・日本の近代史を学ぶ
いくたびか筆とれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過して齢(よわい)すでに八十路(やそじ)を越えたり。
多摩河畔の草舎に隠棲すること久しく、巷間に出づることまれなり。粗衣老軀を包むににたり、草木余生を養うにあまる。ありがたきことなれど、故郷の山河を偲び、過ぎし日を想えば心安からず、老残の身の迷いならんと自ら叱咤(しった)すれど、懊悩(おうのう)流涕(りゅうてい)やむことなし。
父母兄弟姉妹ことごとく地下にありて、余ひとりこの世に残され、語れども答えず、嘆きても慰むるものなし。四季の風月雪花常のごとく訪れ、多摩の流水樹間に輝きて絶えることなきも、非業の最期を遂げられたる祖母、母、姉妹の面影まぶたに浮びて余を招くがごとく、懐かしむがごとく、また老衰孤独の余を憐れむがごとし。
時移りて薩長の狼藉者も、いまは苔むす墓石のもとに眠りてすでに久し。恨みても甲斐なき繰言(くりごと)なれど、ああ、いまは恨むにあらず、怒るにあらず、ただ口惜しきことかぎりなく、心を悟道に託すること能わざるなり。
【『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人〈いしみつ・まひと〉編著(中公新書、1971年)以下同】
柴五郎は会津藩の上級武士の家に生まれた。会津戦争に敗れ、斗南(となみ/下北半島)の地で少年時代を極貧のうちに過ごした。その後12歳で単身上京。陸軍幼年学校、陸軍士官学校で学ぶ。士官学校の同期に秋山好古〈あきやま・よしふる〉がいる。柴はフランス語・シナ語・英語に堪能。北清事変(義和団の乱)で8ヶ国の公使館連合で抜きん出たリーダーシップを発揮し世界各国から絶賛される。これがきっかけとなって日英同盟(1902-23年)が結ばれる。そして1919年(大正8年)に陸軍大将となる。
冒頭「血涙の辞」はこう締め括られる。
悲運なりし地下の祖母、父母、姉妹の霊前に伏して思慕の情やるかたなく、この一文を献ずるは血を吐く思いなり。
それは単なる形容詞ではなかった。柴五郎は大東亜戦争の敗北を見届け、85歳で割腹自殺を図る。だが衰えた力は止(とど)めを刺すに至らなかった。その怪我によって死亡したことを思えば自決は成功したと見るべきか。
村上兵衛〈むらかみ・ひょうえ〉の批判について一言書いておこう。
少年時代の五郎の自筆回顧録は、ほとんど同じ内容の和綴じの3冊が遺されていることが判った。その1冊が底本となって、『ある明治人の記録』(石光真人著)もすでに出版されているが、潤色がある。私はそれには拠らなかった。(「あとがき」)
【『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛〈むらかみ・ひょうえ〉(光人社、1992年/光人社NF文庫、2013年)】
「潤色」との一言が嫌な匂いを放つ。せめて石光本人に確認すべきではなかったか。そもそも石光は「この書は柴五郎翁が、死の3年前に、私に貸与されて校訂を依頼された、少年期の記録である。その折、特に筆者保存を許され、さらに内容については数回お話をうかがった」(「本書の由来」)と記し、重ねて「内容があまりにもショッキングなものであったために、たびたびお会いして多くの補足的説明をしていただかねばならなかった。したがって本書は、草稿に、さらに聞きとったものを補足して整理したものである」と断っている。村上は「拠らなかった」としているが、実際読んでみると大きな相違は感じられない。私が気づいたのは犬の肉で父親に叱咤される場面くらいである。「潤色」は批判というよりも自著を高みに引き上げる宣伝文句と考えてよかろう。
女子は祖母つね(81歳)、母ふじ(50歳)、太一郎妻とく(20歳)、姉そい(19歳)、妹さつ(7歳)の5名なり。これら女子の始末は、それぞれの家にまかせあり、去るもよし、籠城するもよしとのことなり。
五郎少年は大叔母に誘われてキノコ狩りへ出掛けた。それが女家族との永訣となる。会津戦争(1868年)が勃発したのだ。
戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入とともに自害して辱めを受けざることを約しありしなり。
会津では男児に武士道を教えるのは女性の役割だった。「江戸時代は200年以上にわたって 戦乱のない世界史上では ミラクル・ピースと言われる 平和な時代だった」(『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』小林よしのり)。それゆえ武士道は「生きる規範」として伝えられた。死を覚悟する生きざまは日常的に教えられた。
清助翁まず奥の部屋より難民を去らしめてのち、余を招き身じまいを正して語る。
「今朝のことなり、敵城下に侵入したるも、御身の母をはじめ家人一同退去を肯(き)かず、祖母、母、兄嫁、姉、妹の5人、いさぎよく自刃されたり。余は乞われて介錯いたし、家に火を放ちて参った。母君臨終にさいして御身の保護養育を委嘱されたり。御身の悲痛もさることながら、これ武家のつねなり。驚き悲しむにたらず。あきらめよ。いさぎよくあきらむべし。幼き妹までいさぎよく自刃して果てたるぞ。今日ただいまより忍びて余の指示にしたがうべし」
これを聞き茫然自失、答うるに声いでず、泣くに涙流れず、眩暈(めまい)して打ち伏したり。幾刻経たるや知らず、肩叩かれて引きおこさるれば、すでに夜半なり。
これが8歳の子供に起こった現実であった。『セデック・バレ』そのものである。会津藩はルワンダと化した。
あれは何時のことだったろう……? 二人だけのとき、【さつ】が懐ろからそっと懐剣を出して見せ、
「いざ大変のときは、わたしもこれで黄泉路(よみじ)に行くのよ」と、誇らしげに五郎に言ったことがあった。
「ふん、生意気な……」
五郎は、そんなことが起ころうなど、だいいち現実のこととは思えなかった。いや、はるかに遠い、遠い夢のできごと……といった感じで、妹の「たわごと」を聞いたような気もする。しかし、いま大叔父からの報知に接して、あのときの妹の顔が、【うっとり】とあどけない表情で、まざまざと脳裏に立ち戻ってくるのであった。
【『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛〈むらかみ・ひょうえ〉(光人社、1992年/光人社NF文庫、2013年)】
さつは7歳だった。村上本によれば母親が胸を突いたという。功成り名を遂げた柴五郎は晩年に至って書くことで再び会津戦争を生きたのだろう。「この一文を献ずるは血を吐く思いなり」――。その思いを肚(はら)で受け止めようと渾身の力で踏みとどまる。「勝てば官軍」の陰にはこれほどの悲劇があった。とてもじゃないが西郷隆盛を尊敬する気は起こらない。
・日英同盟を軽んじて日本は孤立/『日本自立のためのプーチン最強講義 もし、あの絶対リーダーが日本の首相になったら』北野幸伯
・死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね/『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』西尾幹二
2015-11-26
幕末会津の生活誌/『武家の女性』山川菊栄
・『逝きし世の面影』渡辺京二
・『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』原田伊織
・『龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』加治将一
・『シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー』エリザ・R・シドモア
・幕末会津の生活誌
・『覚書 幕末の水戸藩』山川菊栄
・『武士の娘 日米の架け橋となった鉞子とフローレンス』内田義雄
・『武士の娘』杉本鉞子
・『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人
・『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛
・『國破れてマッカーサー』西鋭夫
おじいさんは十二、三から十四、五くらいのあどけない娘たちが、一日ろくに口もきかずにせっせと針を動かしているのを見て、いじらしくて堪(たま)らなくでもあったのでしょう。そして何とかしてくつろがせ、慰めてやりたくて堪らなかったのでしょう。ときどき余興を始めます。
「ねえお師匠さん、いいでしょう、あれを出して下さいよ、ね、お師匠さん」
と、大きなおじいさんが小さなお師匠さんのそばに来て、何かしきりにせがみます。
「まあ今日はおやめになった方がようございましょう」
とお師匠さんは相手にならず、針を放そうともしません。おじいさんは赤ん坊のようにお師匠さんの傍ににじりよって、おねだりして離れません。
「まあそんなことをいわないで、あれを出して下さいよ、ねえお師匠さん、ねえ」
いつまでもやめないので、お師匠さんも仕方なしに立っていって、奥の長持をあけて何やら出す様子です。やがておじいさんは、郡内(ぐんない)の表にお納戸甲斐絹(なんどかいき)の裏をつけた客夜具(やぐ)を着て――それがうちかけのつもりなのです――右の手には用心棒という六尺の樫(かし)の棒を杖につき、猟にでもいく時のものでしょう、大きな竹の皮の笠(かさ)を左手にもち、一生懸命細い、かわいらしい声を出して、
「もうしもうし、関を通して下さんせ」
と関寺の小町姫になって現われます。裃(かみしも)に大小でもささせたら御奉行様くらいには見えそうな、目の大きな、鼻の高い、立派な顔だちの人ではありましたが、何しろ酒やけの赤ら顔で、頭は禿げ上がり、紫色の大きな厚い唇をした大入道のこと、それが半幅の袖口のついた郡内縞の大夜着(やぎ)を着て、精一杯かわいらしい声を振りしぼって小町姫を踊るのですから、若い娘たちは、お腹を抱えて笑わずにはいられません。座敷中、仕立物もそっちのけにして、笑いどよめくのを見ておじいさんは大得意、嬉しくて堪らないのでした。
【『武家の女性』山川菊栄〈やまかわ・きくえ〉(三國書房、1943年/岩波文庫、1983年)以下同】
「おじいさん」は石川富右衛門という老藩士、「お師匠さん」は細君である。水戸藩士青山延寿〈あおやま・のぶとし〉の娘・千世(ちせ)が山川菊栄の母。幕末会津の生活誌を生き生きとした筆致で綴る。当時、「自分の着物を自分で縫えるようになること」が女性の嗜(たしな)みであったという。
それにしても、まるで実際に見てきたような描き方である。母が語る過去の鮮やかな精彩が読者にまで伝わってくる。菊栄は婦人問題研究家、夫の山川均はマルクス主義者であった。初版は戦時中に刊行されており思想色は見られない。藤原正彦がお茶の水女子大の読書ゼミで採用し、広く知られるようになった(『名著講義』2009年)。
石川富右衛門があずかった少女たちを可愛がる様子は、それこそ目に入れても痛くないといった風で微笑ましい。娘たちが縫った着物に少しでもケチがつくと大変な剣幕で抗議をしたという。何も知らない千世のもとに客が詫びを入れにわざわざ訪れたことが書かれている。
この石川さん夫婦は烈公以前の哀公時代、すなわち文化文政の、のんびりした華やかな時代に青年期を送り、芝居も遊芸も自由に楽しめた時代に育った人でした。したがって芸ごとにも明るく、人柄ものびのびしていました。とはいってもこのおじいさんはただの好々爺(こうこうや)ではなく、きかん気で有名な人だったのです。この人がまだ若い自分たいそう威張りやで意地悪の役人があり、新参の下役をコキ使ったり、苦しめたりして嫌われていました。その人の下役にこのおじいさんがなった時には、さてあのきかん気の石川が無事にすむだろうか、とみな心配しました。間もなく、その意地悪の上役と石川さんとが一所に御殿に宿直することになりましたが、翌朝、上役は例の通り、いばりくさって、石川さんに洗面のお湯をもってこいと命じました。持ってきたお湯は、いつもやかましくいうことですから、熱からず、ぬるからず、ちょうどいい加減のものと思ったのでしょう、上役はいきなり両手を突込みました。ところがグラグラ煮立っていたのですから堪りません。
「アツツ」
と叫んで取り出した両手はただれたように赤くなっています。すると傍で見ていた石川さんは、
「ヤアやけどか、やけどなら灰がいい」
というかと思うと、いきなり火鉢の灰をパッとかぶせました。居合わせた者は気をのまれて声も立てず、やけどの上に灰まみれになった相手も、大男で力持ちの石川さんが仁王立ちになっているのを見て、刀をぬこうともしませんでした。その上役にはみな困りぬいていたこととて、一人の同情者もなく「石川はよくやった」、「石川でなければああはできない」などという者ばかり。石川さんは何のお咎(とが)めもなく他の役に転勤を命ぜられて、その意地悪の上役とは無関係の地位におかれただけ、儲(もう)けものをしたのでした。このことがあってから、身分はいたって低いのでしたが、石川富右衛門といえば誰知らぬ者もなくなったそうです。
石川さんに会(ママ)っては、さすがの藤田東湖もこっぱみじんです。
「何あの古着屋が」
と、てんで問題にしません。
烈公とは徳川斉昭〈とくがわ・なりあき〉(1800-60年)で最後の将軍・慶喜〈よしのぶ〉の実父。哀公は斉昭の養父・徳川斉脩〈とくがわ・なりのぶ〉(1797-1829年)である。藤田東湖は斉昭の腹心で明治維新を染め抜いた水戸学の大家。
会津には名君・保科正之(1611-73年)が定めた「会津家訓(かきん)十五箇条」が伝わる。また10歳未満の子弟には「什(じゅう)の掟」が脈々と叩き込まれる。「ならぬことはなならぬものです」というあれだ。寄り合いでは必ず前日に「掟を守ったかどうか」を確認し合う。そして破った者には制裁が加えられる。「什」はきわめて民主的に運営されており、判断が難しい場合は年長者に知恵を借りた。陪審員裁判の先駆か。現在は「あいづっこ宣言」として児童が唱える。
石川の大暴れには「卑怯な振舞をしてはなりませぬ」「弱い者をいぢめてはなりませぬ」の精神が垣間見える。悪を許さぬ激情と少女たちへの愛情は表裏一体だ。石川の真剣さは明確な殺意となって相手に伝わったことだろう。
私が幼かった頃はまだ「弱きを助け強きを挫(くじ)く」気風が残っていた。陰湿ないじめを見たことがない。やがて戦後教育の成れの果てが校内暴力・家庭内暴力を引き起こす。長幼の序は崩壊した。1970年代後半のことである。
社会におけるタテの関係がズタズタになったまま日本はバブル景気へ向かう。バブルが弾けた後、オウム真理教によるテロ事件や女子中高生による援助交際が露見した。かつての日本にはあり得ない変化であった。
千世刀自(とじ)のように生き生きと語るほどの過去が私にあるだろうか? 豊かな時代になればなるほど些末な人生を生きる羽目に陥る。都会で育てば「兎追ひし彼の山」も「小鮒釣りし彼の川」もない。祖国を思う心を否定した挙げ句、郷土を愛する気持ちすら失いつつあるような気がしてならない。
2015-11-25
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