・『ボーン・コレクター』ジェフリー・ディーヴァー
・『レイチェル・ウォレスを捜せ』ロバート・B・パーカー
・『鷲は舞い降りた』ジャック・ヒギンズ
・ヴァレリー艦長の威厳
・必読書リスト その一
また長い咳き込みがあり、長い間があり、ふたたび口をひらいたとき、声の調子はまったく変わっていた。それはあまりにしずかな声だった。
「私は諸君になにをたのんでいるか、よくわかっている。諸君のだれもが、いかに疲れ、いかにみじめな、苦しい思いをしているか、私にはわかる。私は知っている――だれよりも知っている――諸君がどんな目に会(ママ)ってきたか、いま諸君にとって、なにがいかに必要か、諸君が休養を得るにふさわしいか。休養はあたえられる。18日ポーツマスに入港、さらにアレキサンドリアで艦修復の予定だが、その間、乗組員全員に10日間の休暇が許される」自分にはなんの意味も持たないかのような、無造作な言葉だった。「だが、その前に――残酷な、人道を無視したことにきこえるだろうが――いや、きこえないはずはない――いまいちど諸君に、それも諸君がかつて味わったことのないほどのものに耐えてくれと、たのまねばならない。だが、私にはいかんともしがたい――だれにもしがたいのだ」ひとことごとに、ながい沈黙がつづいた。艦長の声はひくく、そして遠く、言葉をききわけるのがむずかしかった。
「だれにも、諸君にそれをやってくれという権利はない。だれよりも私にはない……この私には。だが、諸君がかならずやってくれることを、私は知っている。私は信じている。諸君が私を見すてないことを、諸君がユリシーズを送りとどけてくれることを。幸運を祈る。幸運と神のご加護を。そして、いい夜(グッド・ナイト)を」
拡声器の音は消えた。だが、静寂はつづいた。だれもしゃべらず、だれもうごかない。目さえうごかない。拡声器をみつめていた者は、なおも呆然とみつめている。両手に目をおとしている者、疲れた目にひりひりとしみる煙も忘れて、禁じられたたばこの赤い火をじっと見ている者。それはまるで、だれもが自分ひとりになって、自分の心をのぞき、自分ひとりの考えをすすめようとしているみたいだった。ほかの者と目が会(ママ)えば、もう自分ひとりにはなれないと思っているかのようだった。それは異様な、一種幻妙な静寂、人間がおよそまれにしか味わうことのないあの無言の悟入であった。ヴェールがあがって、ふたたびおりる。人はなにかをかいま見たのか思いだすことはできないが、なにかを見たことを、二度とおなじものはあらわれないことを知っている。それはめったに、ほんと(ママ)にめったにあるものではない。それは絶妙なたぐいない日没の一瞬、偉大なシンフォニーの一断片、大闘牛士の剣があやまたず突き刺されたとき、マドリードとバルセロナの巨大なリングをつつむ恐ろしい静寂。スペイン人は、それをたくみによぶ――〈真実の瞬間〉と。
【『女王陛下のユリシーズ号』アリステア・マクリーン:村上博基〈むらかみ・ひろき〉訳(ハヤカワ・ノヴェルズ、1967年)/ハヤカワ文庫、1972年/原書は1955年】
「ジャック・ヒギンズを知らない? 死んで欲しいと思う」と内藤陳〈ないとう・ちん〉が見出しに書いたのは1983年であった(『読まずに死ねるか!』)。私がヒギンズを読んだのは丁度同じ頃で、それ以降ミステリや冒険小説にハマった。『鷲は舞い降りた』(ジャック・ヒギンズ:菊池光訳、早川書房、1976年/完全版、1992年)、『初秋』(ロバート・B・パーカー:菊池光訳、早川書房、1982年)、そして本書の3冊は金字塔といってよい。
ユリシーズ号のモデルとなったダイドー級軽巡洋艦。/ダイドー級軽巡洋艦 - Wikipedia https://t.co/m87aQ5UQz7 pic.twitter.com/Z4Z1OStlZz
— 小野不一 (@fuitsuono) 2017年9月23日
再読は一度挫けている。文章が硬質なため一定の覚悟を持たなければ読むのが困難だ。上記テキストは100ページの手前だが、ここに辿り着けば後は一気読みである。
ヴァレリー艦長の威厳と影の濃い群像がユリシーズ号そのものであった。戦争の悲惨・矛盾を記しながらも決して子供じみた平和論に堕していない。
フィクションということもあろうが、ここには旧日本海軍のようなビンタやリンチがない。私は日本文化をこよなく愛する者だが、日本に特有のいじめや村八分といった気風を嫌悪する。
男の曲がった背中を正す物語として本書は永く読まれることとなるだろう。