2018-09-19

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日本人の農民意識/『勝者の条件』会田雄次


『アーロン収容所』会田雄次
『敗者の条件』会田雄次
・『決断の条件』会田雄次

 ・日本人の農民意識

 私たち日本人は、世界でも稀といってよいほど純粋に農民的な歴史を持っている。日本人は歴史の中で狩猟段階を持っていない。原始は拾集(しゅうしゅう)で生きていたようだ。したがって遊牧も知らない。有畜産業はもちろん存在しない。砂漠や草原や粗林帯や、さらにはヨーロッパのように下生えの灌木や草などがなく、騎馬軍が自由に通行できる森林から成り立っているところには、大規模な隊商隊が活躍する。しかし、日本の商業ではそれらが見られない。馬やロバなど貴重品で、上級武士の使用品で、町人や百姓が自由に使えるものとならなかったからである。馬や牛は家族のように養う。何十頭もを家畜として取り扱う習性は、日本人には与えられないからである。会場取引も、応仁期から瀬戸内や日本海には見られたが、表日本では寥々(りょうりょう)たるものだ。海外通商にいたっては荒波と大洋にさえぎられ、ヨーロッパ封建時代とくらべてはほとんど問題とするに足りぬ量である。
 こういう国だから、商人精神や商人文化はいっこう自立できない。日本人の商人根性とか町人根性とかいわれたものは、実は農民根性を色づけしただけのことである。ヨーロッパでは、この農民根性と商人根性が、近代では生産者意識と流通関係者の意識が、それぞれ独自な理論と価値体系を持って両立し、対立し、争い、補充しあっている。しかし日本では、今日もなお、この商人意識は、独立し完結した体系を作るにはいたっていない。それに刺激されない生産者意識は、今もなお、農民根性そのままである。はっきりいえば、現在の日本人の意識も文化も、いまだに農民意識であり文化であるに過ぎぬ。最高技術を駆使する技師も、超高層ビルで電子計算機のつくりあげた数字にとりくむサラリーマンも、その精神の本質は、水田に腰をまげて対していた徳川時代の農民そのままである。国内では、何かというと、商社が仇敵視される。海外でのこの商社の行動は、農民のように不決断でいやしいとして嫌がられるのもそのためだ。変わったのは、火打石がガス・ライターに、もも引きと草鞋(わらじ)が、細手のズボンと編革の靴になっただけに過ぎぬ。

【『勝者の条件』会田雄次〈あいだ・ゆうじ〉(雷鳥社、1976年/中公文庫、2015年)】

 文章に苛立ちが見えるのは、やはり戦争に負けたためだろう。現在では商人を科学と言い換えた方がわかりやすい。要は個人意識の問題である。

 英語のindividualは「神と向き合う個人」を意味すると柳父章〈やなぶ・あきら〉が指摘している(『翻訳語成立事情』1982年)。私は長らくキリスト教由来の文化と考えてきたのだが間違っていた。古代ギリシャに淵源があるようだ(『木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか』リチャード・E・ニスベット、2004年)。トマス・アクィナス(1225頃-1274年)がキリスト教をアリストテレスで味付けしたわけだが、これをギリシャ化と見立ててもよさそうだ。キーワードは交易、主体性、討論である。

 日本人が議論を苦手とするのも同じ理由である。我々は個人である前に役(身分)を自覚する(『日本文化の歴史』尾藤正英、2000年)。そして合理性よりも道理を重んじるのだ。会議が予定調和になるのも当然である。意見や批判は「出る杭」として扱われて打たれることが珍しくない。

 農民感覚に基づく村意識は責任の所在を曖昧にする。武士の切腹は一見すると責任を取っているように思えるが、実際は「誰かの首を差し出している」犠牲的な側面がある。私がつくづく不思議に思うのは国民に対して最も影響力が強いと考えられる官僚や教員の責任が不問に付されている現実だ。天下りは平然と行われ、それどころか斡旋・手配をしてきたトップが退官後に政府を批判してマスコミにもてはやされている。教員はいじめによる自殺があっても名前すら報じられることがない。また国旗や国歌を拒否する日教組教員が児童に偏った教育を施しても吊るし上げられることがない。きっと「役目であって本意ではない」との言いわけが通用するのだろう。

 日本人に必要なのは「和を以て貴しとなす」(聖徳太子)と「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」(孔子)を両立させることではないか。

勝者の条件 (中公文庫)
会田 雄次
中央公論新社 (2015-03-20)
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2018-09-17

異常な経験/『アーロン収容所 西欧ヒューマニズムの限界』会田雄次


 ・異常な経験

『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン
『敗者の条件』会田雄次
『勝者の条件』会田雄次

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 この経験は異常なものであった。この異常ということの意味はちょっと説明しにくい。(中略)

 想像以上にひどいことをされたというわけでもない。よい待遇をうけたというわけでもない。たえずなぐられ蹴られる目にあったというわけでもない。私刑(リンチ)的な仕返しをうけたわけでもない。それでいて私たちは、私たちはといっていけなければ、すくなくとも私は、英軍さらには英国というものに対する燃えるような激しい反感と憎悪を抱いて帰ってきたのである。異常な、といったのはそのことである。

【『アーロン収容所 西欧ヒューマニズムの限界』会田雄次〈あいだ・ゆうじ〉(中公新書、1962年/中公文庫、1973年/改版、2018年)以下同】

 若い頃に何度か読んでは挫けた一冊である。その後、何冊もの書籍で引用されていることを知った。竹山道雄も本書に触れていたので直ちに読んだ。やはり読書には季節がある。それなりの知識と体力が調(ととの)わないと味わい尽くすのが難しい本がある。何気ない記述に隠された真実が見えてくるところに読書の躍動がある。

 会田雄次は敗戦後、1年9ヶ月にわたってビルマでイギリス軍の捕虜となった。その経験を元に「西欧ヒューマニズム」の欺瞞を日本文化から照らしてみせたのが本書である。

 それはとにかくとして、まずバケツと雑巾、ホウキ、チリトリなど一式を両手にぶらさげ女兵舎に入る。私たちが英軍兵舎に入るときには、たとえ便所であるとノックの必要はない。これが第一いけない。私たちは英軍兵舎の掃除にノックの必要なしといわれたときはどういうことかわからず、日本兵はそこまで信頼されているのかとうぬぼれた。ところがそうではないのだ。ノックされるととんでもない恰好をしているときなど身支度をしてから答えねばならない。捕虜やビルマ人にそんなことをする必要はないからだ。イギリス人は大小の用便中でも私たちは掃除しに入っても平気であった。

 一読して理解できる人がいるだろうか? 特に我々日本人は汚れ物に対する忌避感情が強く、トイレを不浄と表現することからも明らかなように、人目を忍ぶのは当然である。今、無意識のうちに「人目」と書いた。私なら幼子に見られるのも嫌だね。「人の目」であることに変わりはないからだ。つまり白人にとって有色人種の目は「人目」ではないのだ。きっと「人目」に該当する語彙(ごい)もないことだろう。

 会田が「異常」と記したのは、人種差別の現実が日本人の想像も及ばぬ奇っ怪な姿で目の前に現れたためだ。私の世代だと幼い頃にウンコを踏んだだけで周りから人が去ったものだ。かくもウンコには負のパワーがある。それがウンコをしている姿を見られても平気だと? すなわち彼らにとって有色人種の人間は文字通り「動物以下の存在」なのだ。これが「喩(たと)え」でないところに彼らの恐ろしさがある。

 その日、私は部屋に入り掃除をしようとしておどろいた。一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をすいていたからである。ドアの音にうしろをふりむいたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったようにまた髪をくしけずりはじめた。部屋には二、三の女がいて、寝台に横になりながら『ライフ』か何かを読んでいる。なんの変化もおこらない。私はそのまま部屋を掃除し、床をふいた。裸の女は髪をすき終ると下着をつけ、そのまま寝台に横になってタバコを吸いはじめた。
 入って来たのがもし白人だったら、女たちはかなきり声をあげ大変な騒ぎになったことと思われる。しかし日本人だったので、彼女らはまったくその存在を無視していたのである。
 このような経験は私だけではなかった。

 有色人種は白人女性の性行為の対象にすらなり得ないということなのだろう。インドのカースト制度を軽々と超える差別意識である。無論、彼女たちは「差別」とすら感じていないことだろう。人種の懸隔は断崖のように聳(そび)える。まさに犬畜生扱いだ。

 はじめてイギリス兵に接したころ、私たちはなんという尊大傲慢な人種だろうかとおどろいた。なぜこのようにむりに威張らねばならないのかと思ったのだが、それは間違いであった。かれらはむりに威張っているのではない。東洋人に対するかれらの絶対的な優越感は、まったく自然なもので、努力しているのではない。女兵士が私たちをつかうとき、足やあごで指図するのも、タバコをあたえるのに床に投げるのも、まったく自然な、ほんとうに空気を吸うようななだらかなやり方なのである。

 イギリス兵にとって最大の侮辱は日本軍が優勢であった時に、捕虜として市中を行進させ、便所の汲み取りを行わせたことだった。七つの海を支配してきた大英帝国の威信は地に墜(お)ちた。黄禍(おうか/イエロー・ペリル)が現実のものとなったのだ。イギリスがアメリカを引きずり込んで第二次世界大戦の戦況は大きく動いた。勝った側となったイギリス人が日本人に思い知らせてやろうとするのは当然である。この流れは現在にまで引き継がれている。イギリス・フランス・オランダは自分たちを潤す植民地を失ってしまったのだ。戦前と比べて貧しくなった状況を彼らが簡単に忘れることはない。

 こうした文脈の上に南京大虐殺や従軍慰安婦というストーリーが作成されていることを日本人は知る必要がある。憲法9条もそうだ。アメリカは玉砕するまで戦う日本軍を心底から恐れた。二度と戦争に立ち上がることができないように埋め込まれたソフトが憲法9条なのだ。アメリカは原爆ホロコーストを実行しておきながら、日本の報復を恐れいているのだ(『日本最後のスパイからの遺言』菅沼光弘、須田慎一郎)。

 その人種差別の頂点にいるイギリス女王やローマ教皇ですら天皇陛下に対しては敬意を払わざるを得ないところに日本の不思議がある。

アーロン収容所 改版 - 西欧ヒューマニズムの限界 (中公新書)
会田 雄次
中央公論新社
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2018-09-16

苛烈にして酷薄なヨーロッパ世界/『敗者の条件』会田雄次


『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
『アーロン収容所 西欧ヒューマニズムの限界』会田雄次

 ・苛烈にして酷薄なヨーロッパ世界

『勝者の条件』会田雄次

 ヨーロッパ人というものは、勝者となりえたのちもなお闘争の精神を失わない。かれらは復讐でも何でも、ここまで執拗に、計画的に、そして徹底的に実行するのである。

【『敗者の条件』会田雄次〈あいだ・ゆうじ〉(中公新書、1965年『敗者の条件 戦国時代を考える』/中公文庫、1983年)以下同】

 大東亜戦争敗戦直後のビルマでイギリス人中尉がこう語った。「ジャップは、死ぬことを、とくに天皇のために死ぬことをなんとも思っていない。おれたちは、ジャップの英軍捕虜への残虐行為と大量殺害に復讐する。戦犯(ワー・クライムド)の処刑はその一つだ。だが、信念を持っている人間は殺されても平気だし、信念を変えようとも思わない。そういう人間に肉体的苦痛を与えても、なんの復讐にもならない。だからおれたちは、ジャップの精神を破壊(デストロイ)してから殺すのだ」。

 会田雄次が戦地で直接聞いた言葉である。具体的には死刑を宣告した上で一旦減刑し、時間を置いてからまた死刑の宣告をした。「再び家族と会える」「帰れないと思っていた祖国に戻ることができる」――何ものにも代え難い喜びに全身を震わせたことだろう。その希望を英軍は絶(た)つのだ。イギリス兵は甘美な復讐の味に酔い痴れた。

 敵を倒すにはその弱点をつけ。油断は大きい弱点である。相手に好意を持つものは、相手に対してどこか油断し、すきを見せるものだ。そこを見破り、突いて倒せ。自分を愛し信頼する叔父、自分に好意を持つ飯番――それが第一の餌食となる人間なのである。
 私が示した2例は、この論理を忠実に実行し、成功したある男の姿なのだが、ここにも、さきに言及した、ヨーロッパ人のうちに流れる勝負への徹底性を読みとることができる。
 このようにはげしく執拗な闘争の精神は、別に西ヨーロッパ人だけのものではない。アメリカ人やロシア人を含む白人全部に共通するものだ。それは彼らの住む風土と歴史の産物なのである。ヨーロッパの歴史をちょっとひもとくなら、そのことはすぐ理解できるだろう。

 自分が助かるためなら味方をも犠牲にする酷薄極まりない例が挙げられている。殺すか殺されるかという苛烈な世界だ。会田は事実を示すだけで批判をしているわけではない。かくの如きヨーロッパに立ち向かうだけの気構えが日本にあるのかと問い掛けているのだ。本書はヨーロッパ世界に比較的近いと思われる戦国武将のエピソードがメインである。戦乱のさなかから逞しい精神が立ち上がる。後に長過ぎる江戸時代の平和が日本人から逞しさを奪っていったのだろう。

 しりぞくことは死を意味する闘争の世界――それがヨーロッパである。それは同時に与えることが餓死を意味する世界でもある。このような条件下で数千年間鍛えられた人間性が、現在のヨーロッパ人のなかに生きている。いわば彼らは、ヨーロッパの歴史的風土のなかでそれを骨肉化してきたものなのだが、勝負に関し、かれらが私たちには想像外の徹底さと執拗さを持ちつづけているのは当然といわねばならない。

 更に神の計画を元とした欧米人の計画性を挙げておくべきだ。国際条約の恣意的な運用、世界銀行や国際通貨基金を通した経済支配、メディアを通じた世論操作、人種差別や奴隷文化の歴史的漂白など、第二次世界大戦~ソ連崩壊を経た後は完全にアングロサクソン・ルールが罷(まか)り通っている。

 大東亜戦争の歴史認識は少しずつ正しい方向に向いつつあるが国民的な気運の上昇には至っていない。学者やジャーナリストの影響力はそれほど大きくないのだろう。カリスマ性をまとった天才政治家の出現を待つ他ないのかもしれない。しっかりとした史観を持つ人なら、我が子の担任が日教組教員であればこれを断乎拒否すべきである。迂遠な道のりに見えるができることを一つひとつやってゆくしかない。

敗者の条件 (中公文庫)
会田 雄次
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ペダリング革命の覚え書き


ペダリングの悟り

 ・ペダリング革命の覚え書き

自転車~幅寄せ対策と保険について

 動画はシクロクロスという競技である。巡航性を基準にすると、TT(タイムトライアル)バイク→ロードレーサー(ロードバイク)→エンデュランスロード→シクロクロス→グラベルロードとなる。エンデュランスは長距離向きで、シクロ・グラベルは舗装路以外も走るため太いタイヤとディスクブレーキに特徴がある。空気抵抗を考慮する必要がないのでポジションはアップライト。タイヤが太くなればサスペンションの機能を果たすので乗り心地がよくなる。でもまあ、乗り心地の悪い道を走るので相殺(そうさい)されてしまうわけだが(笑)。


 年をとると用意周到になる。私は自転車に乗ることを決意してから直ぐにストレッチを開始した。頭は柔らかいのだが体が硬い。前屈すると床に手が届かない。10cmほどの距離があった。ふた月ほどで床に親指が着くようになった。長く険しい道のりだった。そして週に二度エアロバイク(フィットネスバイク)を30分ほど漕(こ)いでいる。

 エアロバイクにはモニターがあり、距離、ケイデンス、心拍数、負荷などの数値が表示される。自転車に乗るのは風を感じるのが目的だ。風がないわけだから視覚情報で誤魔化すしかない。いつもだと負荷は最低の1で、ラスト10分になると2分間隔で5まで上げてゆく。ところがどうだ。ペダリングのコツを掴んでしまった私は勢い余って負荷を10まで上げてしまった。変われば変わるものである。なぜ回せるか? ふくらはぎに力を入れないためだ。より太い腿の筋肉を使うことで効率がよくなっているのだ。

 ここで慌ててはいけない。自転車に乗っても調子に乗ってはダメだ。オーバーワークが怪我の原因となる。そこで逸(はや)る脚を抑えて近所のパトロールに向かった。坂はいくらでもある。

 忘れないうちに覚え書きを残しておこう。まず「泥こそぎペダリング」だが、足指を軽く曲げて指の付け根でペダルの前方を掴み、拇指球で前に回す感覚で行う。こうすると1時の位置で力が加わる。股関節の動きも自然に大きくなる。私はギョサン以外で漕いだことがないのでスニーカーを履いたら再検証する。

 登坂の土踏まずペダリングは何も考える必要がない。斜度に合わせて頭を前方向に傾けるだけだ。重心を前に掛けても手には体重を乗せない方がいいと思う。ハンドルには手を添える程度で、残酷な上り坂に対してはハンドルを引いて立ち向かう。

 少し前までなら絶対に避けて通った坂道を次々とクリアした。輪っかの坂(真空コンクリート舗装のO型滑り止め)も辛うじて制覇した。上り坂はもはや敵ではない。きっと人生も上り坂となるはずだ。