2019-01-26
旧ブログ移転の件
長らく親しんできたはてなダイアリーが終了するようだ。春にははてなブログへの強制移行を実施するとのこと。20年も経ってからこんな仕打ちをされたら堪(たま)ったもんじゃない。何につけ無料というのは結果的に高く付く好例だ。当初は全ての記事をBloggerへ移動しようと考えていたのだが、Movable Type形式をXMLに変換する方法がわからず(変換サイトが既にリンク切れ)結局諦めることにした。ま、大したことは書いてないのだが、記録に対する執着は自我意識そのものといってよい。
はてなダイアリー http://d.hatena.ne.jp/sessendo/
→はてなブログ https://sessendo.hatenablog.com/
投稿数は7113。大量のリンク切れが発生するが何卒ご容赦願いたい。
2019-01-25
読み始める
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2019-01-23
「武」の意義/『中国古典名言事典』諸橋轍次
・『中国古典 リーダーの心得帖 名著から選んだ一〇〇の至言』守屋洋
・狂者と狷者
・人生の目的
・「武」の意義
・『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
・『孟嘗君』宮城谷昌光
・『新訂 孫子』金谷治訳注
・『呉子』尾崎秀樹訳
・必読書リスト その五
孫子
『孫子』十三巻は孫武(そんぶ)の著述、「武経七書」(ぶきょうしちしょ)の一つといわれている。「七書」とは、『孫子』、『呉子』(ごし)、『尉繚子』(うつりょうし)、『六韜』(りくとう)、『三略』(さんりゃく)、『司馬法』(しばほう)、『李衛公問対』(りえいこうもんたい)の七つをいう。この「七書」のうち、最も古いといわれていた『三略』は、漢の張良(ちょうりょう)が黄石公(こうせきこう)から教えられたものといわれているが、文体そのものから考えて、『六韜』も『三略』も、いわれている時よりものちのものらしく、その内容の大部分は『孫子』、『呉子』に含まれて、それ以上に出ていないから、今日兵書としては『孫子』、『呉子』が最も尊ばれるのである。
孫武ははじめ呉の闔閭(こうりょ)に仕えてその兵法を実践し、呉国を大いに盛んならしめたが、闔閭の子の夫差(ふさ)は不詳でついに越王勾践(えつおうこうせん)に亡ぼされてしまう。
元来「武」という文字は「戈(ほこ)を止(とど)める」ことを意味し、征伐の「征」という文字は「正」と音義共に通ずるのであるから、不義の者を平らげて太平をいたすことが武であり正である。『孫子』は兵法の書ではあるが、この本義にもとづくところが多く、単に戦争のための軍略だけを論じたものではない。その点、人事万般の教訓になる句も少なくはない。
【『中国古典名言事典』諸橋轍次〈もろはし・てつじ〉(新装版、2001年/座右版、1993年/講談社、1972年/講談社学術文庫、1979年)】
「『孫子』以前は、戦争の勝敗は天運に左右されるという考え方が強かった」(Wikipedia)という。人々の脳を支配していたのは呪術であった。ただし現代人は合理性を過信してはなるまい。脳は錯誤を回避できないのだから。むしろバイアス情報に基づくシステムが脳であるといっても過言ではない。実生活の中から行動経済学の原理を発見することは難しい。
闔閭に仕える際、孫武はこう言った。「将は軍に在(あ)りては、君命をも受けざる所有(あ)り」(『香乱記』宮城谷昌光)と。千変万化する戦(いくさ)においては現場を知る将軍の判断が優先される。私はこれをシビリアンコントロールを否定する言葉と勘違いしていたのだが、文民が統制するのは飽くまでも予算と人事権であろう。すなわち満州事変における関東軍の暴走は孫子の教えからも逸脱していると考えてよかろう。
「戈(ほこ)を止(とど)める」という武の意義が専守防衛と重なる。もちろん現在の専守防衛は防衛の名に値するものではないが、攻めることよりも守ることを重視するのが国家の正道だ。現在、日本の平和を脅かすものは中国・北朝鮮の核兵器であるが、この「戈(ほこ)を止(とど)める」には核保有の一手しかない。日本が核を保有すれば限定戦争で済むが、躊躇(ちゅうちょ)していれば総力戦になるだろう。どちらにするかは国民が選ぶことだ。
父の名に「武」の字があるせいか思い入れが深い。シナ文化では「文」を重んじるが、武に守られればこそ文が伸びることを忘れてはなるまい。
2019-01-22
五百旗頭真
ローズベルトとハルの確執。アメリカは権力闘争が政治向上の機能として働いている(『米国の日本占領政策 戦後日本の設計図(上)』67ページ)。当時の日本は政党政治が力を失い藩閥・軍閥がまかり通っていた。日本における集団は共同体と化す(『日本人と「日本病」について』岸田秀、山本七平)。そこに初めてメスを入れたのが小室直樹だ(『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』『日本「衆合」主義の魔力 危機はここまで拡がっている』)。
2019-01-21
日本近代史にピリオドを打った三島の自決/『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介
・『決定版 三島由紀夫全集 36 評論11』三島由紀夫
・『三島由紀夫が死んだ日 あの日、何が終り 何が始まったのか』中条省平
・『三島由紀夫の死と私』西尾幹二
・日本近代史にピリオドを打った三島の自決
・『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝
・『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹
・必読書リスト その四
三島から徳岡への手紙は、彼の判断で全文が「サンデー毎日」に掲載され、さらに徳岡の著書『五衰の人』にも引用されている。
前略
いきなり要用のみ申上げます。
御多用中をかへりみずお出でいただいたのは、決して自己宣伝のためではありません。事柄が自衛隊内部で起るため、もみ消しをされ、小生らの真意が伝はらぬのを怖れてであります。しかも寸前まで、いかなる邪魔が入るか、成否不明でありますので、もし邪魔が入つて、小生が何事もなく帰つて来た場合、小生の意図のみ報道関係に伝はつたら、大変なことになりますので、特に私的なお願ひとして、御厚意に甘えたわけであります。
小生の意図は同封の檄に尽されてをります。この檄は同時に演説要旨ですが、それがいかなる方法に於て行はれるかは、まだこの時点に於て申上げることはできません。
何らかの変化が起るまで、このまま、市ヶ谷会館ロビーで御待機下さることが最も安全であります。決して自衛隊内部へお問合せなどなさらぬやうお願ひいたします。
市ヶ谷会館三階には、何も知らぬ楯の会会員たちが、例会のために集つてをります。この連中が警察か自衛隊の手によつて、移動を命ぜられるときが、変化の起つた兆であります。そのとき、腕章をつけられ、偶然居合わせたやうにして、同時に駐屯地内にお入りになれば、全貌を察知されると思ひます。市ヶ谷会館屋上から望見されたら、何か変化がつかめるかもしれません。しかし事件はどのみち、小事件にすぎません。あくまで小生らの個人プレイにすぎませんから、その点御承知置き下さい。
同封の檄及び同志の写真は、警察の没収をおそれて、差上げるものですから、何卒うまく隠匿された上、自由に御発表下さい。檄は何卒、何卒、ノー・カットで御発表いただきたく存じます。
事件の経過は予定では二時間であります。しかしいかなる蹉跌が起るかしれず、予断を許しません。傍目にはいかに狂気の沙汰に見えようとも、小生らとしては、純粋に憂国の情に出でたるものだることを、御理解いただきたく思ひます。
万々一、思ひもかけぬ事前の蹉跌により、一切を中止して、小生が市ヶ谷会館へ帰つて来るとすれば、それはおそらく、十一時四十分頃まででありませう。もしその節は、この手紙、檄、写真を御返却いただき、一切をお忘れいただくことを、虫の好いお願ひ乍らお願ひ申上げます。
なほ事件一切の終了まで、小生の家庭へは、直接御連絡下さらぬやう、お願ひいたします。
ただひたすら一方的なお願ひのみで、恐縮のいたりであります。御厚誼におすがりすばかりであります。願ふはひたすら小生らの真意が正しく世間に伝はることであります。
御迷惑をおかけしたことを深くお詫びすると共に、バンコク以来の格別のご友誼に感謝を捧げます。怱々
十一月二十五日 三島由紀夫
徳岡孝夫様
二伸 なお同文の手紙を差し上げたのは他にNHK伊達宗克氏のみであります。
【『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介〈なかがわ・ゆうすけ〉(幻冬舎新書、2010年)以下同】
字下げがあったりなかったりするのもテキスト通りである。三島の原文を忠実に再現したものか。
三島は自分が何をするのかを伏せた上で、徳岡にカメラと腕章を持ってくるよう伝えた。計画は用意周到であり細心の注意が払われていた。三島は自らの決起が自衛隊を動かすとは考えていなかった。時期尚早というよりも三島自身が戦後日本に見切りをつけてしまったのだろう。彼は自分の死と引き換えにメッセージを残した。嘘偽りのない誠を示すために切腹までしてみせた。その凄絶な死から50年を迎えるのが明年である。
120人に及ぶ証言や記録を収録している。荒井由実や丸山健二まで出てきて驚いた。因(ちな)みに丸山の反応は実に底の浅いもので、後々アナーキズムを礼賛するようになる萌芽を見る思いがした。折に触れて三島を批判したのも三島の丸山評が本質を衝いていたためだろう。
その日、永山則夫〈ながやま・のりお〉は「日本人民を覚醒させる目的で以(もっ)て、天皇一家をテロルで抹殺しろ!」と東京地裁の法廷で叫んだ。永山は審理中に左翼理論を学び、徹底して無罪を訴える。4人もの人々を射殺した犯罪者が生き永らえて、天皇中心の日本を再建しようとした三島が死ぬ不思議に思いを致さざるを得ない。
後に後藤田は、「何とも気持ちのわるい事件だった。思い出すのも厭だ」という印象を語る。
後藤田正晴はわかりにくい政治家である。「河野洋平を非常に可愛がり、与党の対中外交に影響を与えた。また、『つくる会』の新しい歴史教科書(扶桑社発行)の採択には、一貫して反対の立場をとった」(Wikipedia)。高度経済成長の中で政策が社会主義化した自民党を体現する人物なのかもしれない。アメリカの戦争で日本が発展するというぬるま湯に浸かりすぎたのだろう。現実は見えていても将来を見通すことのなかった政治家であるように感じる。
「サンデー毎日」の徳岡孝夫は三島の演説をしっかり聞いた。「声は、張りも抑揚もある大音声で、実によく聞こえた」と彼は回想する。この演説については、ヘリの音がうるさく聞こえなかった、三島はハンドマイクの用意をするべきだったとの批判や揶揄が後にされるが、徳岡はそれを否定する。徳岡が演説内容をメモできたということは、聞こえたということだ。さらに徳岡には垂れ幕に書かれた要求書の文言を書き移(ママ)す余裕と、そのうえさらに感想を持つ時間的余裕があった。事件直後の「サンデー毎日」に徳岡はこう書く。
《三島のボディービルや剣道は、このためだったんだな、と私は直感した。最後の瞬間にそなえて、彼はノドの力を含む全身の体力を、あらかじめ鍛えぬいておいたのだ。畢生の雄叫びをあげるときに、マイクやスピーカーなどという西洋文明の発明品を使うことを三島は拒否した。》
参集した自衛官は群衆と化した。野次を飛ばした連中はその事実すら覚えていないことだろう。そこに群衆・大衆の無責任がある。三島が命懸けで発した言葉を彼らは嘲笑した。戦争から遠ざかり、軍隊の名にも値しない自衛隊もまた政治家同様、敗戦の屈辱を忘失していた。
私は東亜百年戦争にピリオドを打ったのが三島の自決であったと考える。三島由紀夫の存在は時を経るごとに大きな影を残してゆくに違いない。鍛え上げた腹筋に突き立てた短刀に込められた力を想う。ただ想う。ただ想え。
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