動画で見ると更に身の毛もよだつおぞましさ
— azalée_ (@azalee_) June 8, 2020
子供たちも完全に嫌がっている
もしトランプ氏が同じ行動をとったらそれこそ全米デモレベルで炎上するだろうし、これに物申すべき層がだんまりなのは異常で相変わらずのダブスタにげんなりする
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2020-06-25
ジョー・バイデンの隠しきれない性癖
フランス人哲学者の悟り/『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル
・宗教の語源
・フランス人哲学者の悟り
・幸福を望むのは不幸な人
・『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん
・『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール
・キリスト教を知るための書籍
・悟りとは
夕食のあとのある晩、いつものように友人たちと気にいっていた森へ散歩にでかけた。暗さが深まっていったが、歩きつづけていた。笑いも少しずつ消えてゆき、口数も少なくなっていった。友情や信頼、共有された現前やこの夜のあらゆるものの心地よさといったものはありつづけた。私は、なにも考えていなかった。眼を開いて、耳をかたむけていた。あたりは一面漆黒の闇で、空は驚くほどあかるく、森はかすかにざわめきながらも沈黙につつまれていた。ときおり、枝がみしみし音をたてたり、動物の鳴き声がしたり、歩く一歩ごとにかすかな足音がした。このとき、沈黙はますますはっきりと聴きとれるようになっていた。そして突然……。なにが起こったのだろうか。なにが起こったわけでもなかった。そこには万物があった。まったく、会話のひとつも、意味も問いかけもなかった。ただ驚きとあたりまえのことと、終わることのないようにさえ思われた幸福と、いつまでもつづくかに思われた平穏だけがあった。私の頭上には、無数の、数えがたい数の、光り輝く満点の夜空があり、私のまわりにはこの空のほかにはなにものもなく、私はその一部と化していた。私のまわりには、いわば幸福な振動であり、主体も客体もない喜びにほかならない(万物のほかには、なんの対象もなく、それ自身のほかには、なんの主体もないのだから)この光のほかにはなにもなく、この漆黒の闇のなかにあって、私のうちには万物のまばゆいほどの現前のほかにはなにもなかった。平穏。はかりしれないほどの平穏。単純さ、平静さ。歓喜。最後の二つのことばは矛盾しているように思われるかもしれないが、そこにあったのはことばではなく経験であり、沈黙であり調和だったのだ。それはいわば、まったく正しい和音のうえに付された終わることのないフェルマータであり、つまるところ世界そのものだった。私は申し分なく、驚くほど申し分なかった。もはやそれについてなにひとつ語る必要など感じないくらいに、それがずっとつづけばいいのにという欲望すら感じないくらいに、申し分なかった。もはやことばも、欠如も、期待もなかった。現前の純然たる現在。自分が散歩していたと言うのさえはばかられるほどだ。そこにはもはや散歩しか、森しか、星ぼししか、私たちの一団しかなかった……。もはや【自我】も、分離も、表象もなかった。万物の沈黙に満ちた現前以外のなにもなかった。もはや価値判断もなく、現実以外のなにものもなかった。もはや時間もなく、現在以外のなにもなかった。もはや無もなく、存在以外のなにもなかった。もはや不満も、憎しみも、恐れも、怒りも、不安もなかった。喜びと平安以外のなにもなかった。もはや演技も、幻想も、嘘もなく、私をふくみこんではいるものの私がふくみこんでいるわけではない真理以外のなにもなかった。この状態が持続したのは、おそらく数秒のことだったろう。私は高揚させられると同時に宥(なだ)められ、高揚させられると同時にかつてないほどの穏やかさのうちにあった。離脱。自由。必然性。やっとそれ自身へとたちもどった宇宙。それは有限なのだろうか、それとも無限なのだろうか。そんな問いがたてられることさえなかった。もはや問いかけすらなかった。だからこそ、答えがでるはずもなかった。あたりまえのものだけが、沈黙だけがあった。あるのは真理だけで、ただしそれを語ることばはなかった。あるのは世界だけで、ただしそこには意味も目標もなかった。あるのは内在だけで、ただしその逆をなすものはなかった。あるのは現実だけで、ただし他人はいなかった。信仰もなければ、希望も、約束もない。あるのは万物だけ、その万物の美しさ、その真理、その現前だけだった。それで十分だったのだ。それだけで十分だなどという以上のものになっていた。
【『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル:小須田健〈こすだ・けん〉、C・カンタン訳(紀伊國屋書店、2009年)】
もう少し続くのだがこれで十分だろう。悟りとは真理に触れた瞬間である。生き生きと語られるのは生の流れ(諸行無常)と万物が一つにつながる生の広大さ(諸法無我)である。これに優る不思議はない。思議し得ぬがゆえに不可思議とは申すなり。
悟りは不意に訪れるものだ。人は忽然(こつぜん)と悟る。風や光のように自ら起こすことはできない。
ここで一つの疑問が立ち上がる。修行や瞑想に意味はあるのだろうか? クリシュナムルティは「ない」と断言している。だが私は「ある」と思う。
クリシュナムルティは努力をも否定した(『自由とは何か』J・クリシュナムルティ)。努力とは一種の苦行である。そのメカニズムは抵抗や負荷に耐えることで、「耐性の強化」に目的がある。ま、我慢比べみたいなものだろう。今たまたま「我慢」という言葉を使ったがここにヒントがある。元々この言葉は仏教用語で「我慢ずる」と読む。つまり「我尊(たっと)し」との思い込みが我慢の語源なのだ。
宗教家という宗教家が皆思い上がっている。真理の独占禁止法があれば全員逮捕されていることだろう。額に「我こそは正義」というシールを貼っているような輩(やから)ばかりだ。
努力は一定の形に自分を押し込める営みだ。そして努力は成果を求める。思うような結果が出ないと「無駄な努力」といわれる。努力によって培われるのは技術である。それが最も通用するのは職人やスポーツ選手の世界だろう。特定の動きに特化した体をつくることで必ず何らかのダメージが形成される。鍛えることができるのは筋肉に限られるため、鍛えられない関節や腱が悲鳴を上げる。
技術が洗練の度合いを増して芸術の領域に近づく過程で真理が垣間見えることは決して珍しいことではない。彼らの言葉に散りばめられた透徹、達観、洞察が悟性を示す。
だが真の悟りには世界を一変させる衝撃がある。共通するのは「ただ現在(いま)」「ただ在る」という瞬間性である。過去のあれこれを足したり引いたりして未来の答えを求めるのが我々の日常だ。不安も希望も現在性を見失った姿だ。過ぎ去った過去と未だに来ない未来を我々は生きているのだ。
私が修行に意味があると考える理由は「行為を修める」ところにある。欲望を慎み鎮(しず)める作業を修行と考えることはできないだろうか? クリシュナムルティが「(瞑想の)方式に意味はない」としたのは方式が目的化することを嫌ったためだろう。だが想念を冥(くら)くするためには先を往く人の手助けが必要だ。悟りはアザーネス(他性)であるとしても自分の感度を高めておくことは必要だろう。
2020-06-24
2020-06-22
凝りすぎたプロット/『幻夏』太田愛
・『犯罪者』太田愛
・凝りすぎたプロット
・『天上の葦』太田愛
・『未明の砦』太田愛
【世界の涙の量は常に不変である。】
【『幻夏』太田愛〈おおた・あい〉(角川書店、2013年/角川文庫、2017年)】
たぶん気合を入れたのだろう。凝りすぎたプロットが読みにくくしている。更には子供が描けていない。ここに登場するのは子供の姿をした大人だ。謎解きの説明もセリフで行われることが目立ち、ドラマ性を失う結果となっている。それでも並みのミステリよりは面白い。今回は刑事である相馬の物語である。
現実には世界から貧困は減っている(『FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンランド)。文盲も劇的に少なくなっているし、大きな戦争もなくなった。実際の涙の量は減っていることだろう。それでも尚、上記テキストに説得力があるのは【形を変えた不幸】がそこここに存在するためだ。
資本主義国で富の再分配がうまく機能せず格差を生んでいる。社会の至るところが見えない湿気に覆われている。それは常態化した苛立ち、疲労、無気力、嫌悪、怒りだ。日本の場合、ロスジェネ世代以降は夢を抱くことすら許されない経済情況が続いている。
戦後、一党支配を続けてきた自民党は二度下野しているがあまりにも期間が短かった。利権を断つほどの改革はできなかったと見てよい。国民の意識は緩やかに穏健な保守に傾きつつあるが、米軍に依存する国防のあり方を見直す機運はなかなか高まらない。つまり国民は「国家が変わること」を望んではいないのだろう。
まともなジャーナリズムが存在しない以上、この国で民主政が機能するとは思えない。例えば利権、利権と散々書きながらも、その利権がどこにあるかをマスメディアは報じてこなかった。なぜなら彼らもまた利権構造の一翼を担っているからだ。知性とは狡猾の異名である。騙した者が勝利を収めるゲームが終わる気配はない。だからこそ「涙の量」が同じなのだろう。
日本人の悪徳/『半沢直樹1 オレたちバブル入行組』池井戸潤
・日本人の悪徳
・『半沢直樹2 オレたち花のバブル組』池井戸潤
・『半沢直樹3 ロスジェネの逆襲』池井戸潤
・『半沢直樹4 銀翼のイカロス』池井戸潤
・『隠蔽捜査』今野敏
・『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』西川善文
銀行には様々な人間たちがやってくるが、こと態度が悪いという点で国税はヤクザの比ではない。ヤクザならせいぜい店頭で怒鳴り散らすぐらいが関の山だが、こいつらは銀行の中にまで土足で入り込み、国家権力を笠に来て威張り散らした挙げ句、気に入らないことがあると「シャッター閉めるか?」と常套句と化した脅しの言葉を吐く。間違ったエリート意識、歪んだ選民思想の産物で、つまらぬ奴らに権力を持たせるとこうなる、の典型だ。テレビドラマの「窓際太郎」など現実には存在しない。
【『半沢直樹1 オレたちバブル入行組』池井戸潤〈いけいど・じゅん〉(講談社文庫、2019年/文藝春秋、2004年『オレたちバブル入行組』改題/文春文庫、2007年)以下同】
全4冊を2日間で読んだ。テレビドラマの土下座シーンだけは見たことがあるが明らかなミスキャストだ。半沢役がひ弱すぎる。大和田役も大根すぎて見るに堪(た)えず。失われた20年で奮闘する銀行マンを主軸に「働く意味」を問いかける。
日本人の悪徳は「弱い者いじめ」である。明治維新以降は薩摩・長州が会津をいじめ、陸軍では若い兵隊を散々ビンタし、やむなく帰還した特攻隊員は裏切り者扱いをされた。戦時中に思想を取り締まった特高警察も決して国民の味方ではなかった。旧内務省・軍需省が築いた経済システムは戦後も維持された。カルテル、株式持ち合い、系列など。そして大陸から引き上げてきた満州閥が政治・経済の第一線に返り咲いた。バブル崩壊後になると中小企業が大企業や銀行からいじめ抜かれた。
警察や国税には捜査権という強大な権力がある。彼らが家宅捜索や税務調査をすると後片付けもしていかない。かつて日本は昭和初期まで世界有数のテロ国家であった。私からすれば殺害される国税専門官がいないのが不思議である。武士道が滅び、仇討ちの精神は跡形もなく消え去った。日本人はいじめと闘うことを知らず、ただ自裁するだけである。国全体がいまだに村の論理で動いている現実がある。
池井戸作品は初めて読んだが時折キラリと光る言葉がある。
「夢を見続けるってのは、実は途轍(とてつ)もなく難しいことなんだよ。その難しさを知っている者だけが、夢を見続けることができる、そういうことなんじゃないのか」
これはチト臭すぎる。半沢直樹はどこか竜崎伸也(『隠蔽捜査』今野敏)を想わせるところがある。
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