2022-03-06

およそ国を治むるの道は、かならずまず民を富ます/『管仲』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光

 ・管仲と鮑叔
 ・およそ国を治むるの道は、かならずまず民を富ます

『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光

 いままでひそかに自分の才徳を誇ってきたが、そのようなものは運命の力でたやすく拉殺(ろうさつ)されてしまう。

【『管仲』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(角川書店、2003年/文春文庫、2006年)以下同】

 なぜなら正しさよりも狡猾さが進化的に有利なためだ。世の成功者には胡散臭さが漂っている。犯罪スレスレの行為に手を染める者も少なくない。法に触れなければ何をやっても構わないと考える連中もいる。大才ですら運に恵まれない場合がある。ましてや小才(こさい)であれば何をか言わんやだ。

 兵卒は策戦に関与していない。
 それゆえかれらは、何のためにどこへゆくのか、戦場に到着するまでわからない。

 民主政の問題もこれに尽きる。国家の行く末を案じて激論を戦わせた明治維新がむしろ不思議である。昭和20年(1945年)以降、日本国民が覚えた危機感は経済問題に限られており、かくも国防に無頓着な国家は世界に見当たらない。平和は国を蝕む。

 伝統のほんとうのよさは、完璧な伝承にあるわけではなく、人に新旧を教え、創意を生じさせるところにある。

 これを温故知新(『論語』/故〈ふる〉きを温〈たず〉ねて新しきを知る)という。戦後教育で刷り込まれた自虐史観を払拭するためにも日本の国史を学ぶべきである。就中(なかんずく)、近代史を知れば日本が起こした戦争によってアジア諸国を始めとする世界中の植民地が独立し得た歴史を理解できる。

 管仲の政治思想の主題は、
 ――およそ国を治むるの道は、かならずまず民を富ます。
 というものであり、すなわち富国(ふこく)が先で、強兵(きょうへい)は後である。民が富めば政治がたやすくなり、民が貧しければ政治はむずかしい。行政と軍事の良否は、民の貧富の上にある。下を固めなければ、上は建たない。

 経済は経世済民の謂(いい)である。失われた20年は「民を済(すく)う」どころか「民を失う」期間であった。失業率と自殺者数には相関関係がある。アベノミクスは失業率を下げたが、左翼による「反安倍」「アベ死ね」の絶叫がやむことはなかった。来る日中戦争を思えば暗澹(あんたん)たる思いに駆られる。多くの国民が預貯金を取り崩す生活を余儀なくされる状態で、どのように軍備を強化するというのか?

 心ある政治家が管仲に学べば、それが立派な温故知新である。「倉廩(そうりん)実(み)ちて則(すなわ)ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱(えいじょく)を知る」――管仲の言葉が色褪せることはない。否、時代を経るごとに輝きを増してゆくだろう。

 管仲は春秋時代の前期に出現した巨大な頭脳といってよい。この頭脳は、知らぬことがないといってよいほど、諸事に精通し、しかも独創性をもっていた。桓公の輔相(ほしょう)となった管仲は貧弱な国力の斉をつくりかえた。たとえば、土地の良否によって課税の増減をおこなう農地改革をすすめ、士農工商を分居(ぶんきょ)させるなど、司法と行政の整備を徹底的におこない、庶民の暮らしにかかわる物価を安定させるなどの経済政策を実行し、さらに軍制をあらため、のちに管氏の兵法(へいほう)とよばれる戦いかたさえ創定(そうてい)した。孫武(そんぶ)は斉に生まれたということもあって、かれの兵法の源泉(げんせん)は、管氏の兵法にあるのかもしれない。

【『湖底の城 七巻』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、2016年講談社文庫、2018年)】

 時代を経て人と人とがつながるところに歴史の妙味がある。それを断絶したのが文化大革命であった。我が国の歴史もGHQの占領によって一旦は途絶えた。歴史を学ぶとは、数百年の単位に身を置き、自らの死後をも見渡す営みである。

 

【鉄フライパンを再生】くっつかない鉄フライパンの手入れのコツ



 今回は#120の粗さの紙やすりを用意しました。(鉄には#100~#150くらいが適しているようです):鉄フライパンのお手入れ方法|紙やすりで磨いてピカピカに | まなレポ

2022-03-05

エルンスト・フリードリッヒ著『戦争に反対する戦争』が在庫限りのプライスダウン販売


戦争で異形にされた人々/『戦争に反対する戦争』エルンスト・フリードリッヒ編

出版社からのコメント

 1988年に復刻出版したがその後絶版。倉庫から若干数出てきた分をプライスダウンして、在庫限りの販売です。経年劣化により、黄ばみなどあります。ご了承下さい。原本はドイツ語・フランス語・英語・オランダ語。

 こんなことがあるのね。四六版より一回り大きいA5判の写真集で1100円は破格である。

管仲と鮑叔/『管仲』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光

 ・管仲と鮑叔
 ・およそ国を治むるの道は、かならずまず民を富ます

『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光

 鮑(ほう)は氏であり、姓は姒(じ)である。姒という姓は、夏(か)王朝の禹(う)王からはじまる。禹王の子孫はみな姒姓をもち、住みついた地の名によって氏が生じた。鮑敬叔(ほうけいしゅく) は封邑(ほうゆう)をもつ中級貴族であるが、当然のことながら、その血胤はの公室にかかわりがない。とはいえ、斉は太公望(たいこうぼう)という軍事の天才によって建国されたときから多民族国家であった。周の文王武(ぶ)王成(せい)王を輔成した太公望の姓は(姜〈きょう〉)であるが、かれは羌族ばかりを優遇し重用したわけではなく、要職に異姓の才俊(さいしゅん)をすえた。すなわち太公望は血筋より能力を重視したのである。その点、斉という国の体質は他国とはまるでちがった。周王室の思想のなかには血を尊ぶというものがあり、それが当時では、新思想であった。ちかう、という字をおもえばよい。周以前では、誓う、つまり言(ことば)でちかうのであり、周以後は、生(い)け贄(にえ)の血をすすりあってちかうので、盟という字を用いる。盟の下部の字は皿ではなく血がほんとうである。むろん斉の君主が周王に従っているかぎり、そういう思想のなかで違和を生じないようにこころがけたにはちがいないが、斉公室の始祖である太公望がもっていた民族平等の思想がまったく消滅したわけではなかった。それゆえ、異姓人あるいは異邦人が、住みやすさをおぼえるのは、天下広しといえども、斉だけであるといってよい。

【『管仲』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(角川書店、2003年/文春文庫、2006年)】

管鮑の交わり」という故事成語がある。深い友情を意味する言葉で管仲と鮑叔は実在した人物だ。「仲(ちゅう)曰(いわ)く、我を生む者は父母、我を知る者は鮑子(ほうし)なり」(Web漢文大系)と称(たた)えた言葉が数千年を経て現代の日本にまで届いている。

 太公望(紀元前1000年頃)と管仲は350年ほど時代を経ているが、まだ情報が発達していない時代なので隔世の感はやや薄いと考えていいと思う。この時代で名を残した日本人はいない。卑弥呼が西暦200年代の人物であることを思えばシナ文明の古さを理解できよう。

 鮑敬叔(ほうけいしゅく)は鮑叔(ほうしゅく)の父親である。まだ社会が安定していない時代である。人の性分はまだ動物に近かったことだろう。盗む、殺すといった行為も平然と行われたに違いない。仏教の五戒モーセの十戒が示したのは動物性からの脱却であろう。人道は社会の力を高める。それは「群れの優位性」だ。

 血縁は動物の論理である。「民、信無くば立たず」(『論語』)が社会の生命線であり、血縁を重んじれば他の縁が弱くなる。日本においては皇統以外の血縁は不要であると私は考える。

 明治維新においても薩長閥の形成を許さなければ、昭和も大いに異なる表情を見せたことだろう。日本の社会は基本的に利権の構造があり、あらゆるところでムラ社会が形成される。日本特有のセクト主義と言ってよい。大東亜戦争でも陸軍と海軍が団結することはなかった。悪しき排他性を払拭できないところに自民党長期政権の理由がある。

 

2022-03-04

ワシントン・コンセンサスが世界中を破壊/『超帝国主義国家アメリカの内幕』マイケル・ハドソン


『円高円安でわかる世界のお金の大原則』岩本沙弓
『ボーダレス・ワールド』大前研一
IMF(国際通貨基金)を戯画化するとこうなる

 ・ワシントン・コンセンサスが世界中を破壊
 ・ブレトン・ウッズ体制の崩壊~米国債本位性=ドル債務本位制

世界銀行は米軍の一部門
『ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 影の支配者たちがアジアを狙う』宋鴻兵
『通貨戦争 影の支配者たちは世界統一通貨をめざす』宋鴻兵
『ペトロダラー戦争 イラク戦争の秘密、そしてドルとエネルギーの未来』ウィリアム・R・クラーク
『ドル消滅 国際通貨制度の崩壊は始まっている!』ジェームズ・リカーズ

必読書リスト その二

 2001年の9月11日は、どうしてアメリカが――そして特にアメリカ政府が――これほど広範に憎まれているのかという問題をアメリカ人を含む世界中の人々につきつけた。アメリカの評論家ですらもが、テロリストの攻撃は、かなりの程度アメリカ自身の外国での行動の結果であったと述べているが、それは、軍事面ばかりか、大多数の国々に対する財政的な圧力を通じての行動を指している。この意味で、9月11日は、アメリカの金融がIMFと世界銀行を支配し、それらの機関を経済的破壊の道具としていたことの間接的な結果と言えるかもしれない。
 パキスタン政府がわずかな収入を外国の債権者への支払いにあてざるをえなくなったのは、結局のところ何年か前のIMFとの“付帯条件”(コンディショナリティ)のせいだった。外貨調達にあたり、IMFのアドバイザーたちが繰り返したのは、過去50年間ワシントン・コンセンサス〔アメリカ政府、IMF、世界銀行などによって唱導された経済的綱領で、民営化、規制緩和、自由化を強調し市場至上主義的傾向が強い〕の核心となってきたフレーズだ。パキスタン政府は、外国の債権者に支払うためさらに多くの収入を“とりのける”べく、緊縮財政を実施するよう指図を受けたのである。
 特に腹立たしく思えるのは、アメリカ国際開発局(AID)が債権者となっていることだ。現在“対外援助”と称されているものは、主として、ドルで支払わねばならない貸付の形を取っている。そこでパキスタンは、国内収入を国民の教育に振り向けることをやめてまでも、外国の債権者に支払わざるをえない。公教育システムとそれにかかわる文化活動を奪い去るのは、子供たちに読み書きを教える役割を宗教教育施設に任せることにほかならない。そういう施設こそが、“学生”を意味するタリバンなのである。ワシントンが押しつけたそういう緊縮財政に対する返答が激しい憤りであり、それが最も顕著な形で爆発した場所が、あのニューヨークの世界貿易センタービルとワシントンのペンタゴンだった。(日本語版への序文)

【『超帝国主義国家アメリカの内幕』マイケル・ハドソン:広津倫子〈ひろづ・ともこ〉訳(徳間書店、2002年)】

 冒頭より。こうした正確な情報がニュースとして報じられない。アメリカは人工国家である。たかだか2世紀半程度の歴史しかないし、サブカルチャー以外の文化も乏しい。人種の坩堝(るつぼ)と化しているため民族性も無色透明だ。西部開拓を原動力にして、インディアンを殺戮し、黒人奴隷の労働力を駆使しながら、日本にマシュー・ペリーを送り込み(1853年)、1945年にはダグラス・マッカーサーが占領の指揮を執った。ペリーが司令を受けたのが1852年で、GHQの占領終了が1952年でちょうど100年である。林房雄はこれを「百年戦争」と名づけた(『大東亜戦争肯定論』)。その後、ゴー・ウエストは中国を目指したが奏功することはなかった。

 軍事力と借金の押しつけがアメリカの流儀であれば、世界を動かす力は獣の時代からそれほど進化していないと考えるのが妥当だろう。日本人が考える「平和」は甘すぎる。我々は島国で安閑と過ごしているうちに世界の現実を見失ってしまったのだろう。

 ウクライナが戦火に包まれている。在日ウクライナ大使館が義勇兵を募るツイートをしたところ、直ちに70人の日本人が名乗り出たという。敗戦後、帰国することなくアジア諸国独立のために戦った日本兵を思い出させる義挙である。願わくは金門島決戦を指揮した根本博中将のような人物が現われんことを。

 アメリカは自らの悪逆非道によって滅ぶことだろう。株式市場に流れ込んだ緩和マネーがそろそろ逆流してもおかしくない頃合いだ。個人的には間もなく大暴落が訪れると睨んでいるが、ドル崩壊でグレート・リセットへ誘導するのは確実だと思われる。