2011-09-09

哀れな中古品(セコハン)人間/『自己変革の方法 経験を生かして自由を得る法』クリシュナムルティ


 われわれが生活と呼ぶ不断の戦いにおいて、われわれは自分たちが育った社会、それが共産主義社会であれ、いわゆる自由社会であれ、それにしたがって行動の基準を確立しようとする。そして、ヒンズー教や回教もしくはキリスト教、あるいはわれわれがたまたま関係する他の宗教といった伝統的存在の一部としてその行動基準を受けいれるのである。また、何が正しい行為で何が間違った行為であるか、そして何が正しい思想で何が間違った思想であるかを誰かに教わり、それを一つの絶対的基準として遵奉するが、その場合、すでにわれわれの行動と思考は型にはまったものになり、あらゆるものに対して機械的な反応しかできなくなる。このことは、われわれ自身の中にきわめて容易に見出すことができるのである。
 何世紀もの間、われわれは学校の教師や権威者、書物や聖者の教えによって育て導かれてきている。われわれはいう、「あの丘や山や陸地の向うには何があるのでしょうか、本当のことを全部教えて下さい」と、そして彼らから与えられた説明に満足し、教えられたとおりに生きてゆく。だが、その人生は浅薄で、しかも空虚なものにすぎない。われわれはそこで、哀れな中古品(セコハン)人間になりはてる。自分の性向と傾向にしたがうか、あるいは境遇や環境に強制されて、その教えられた言葉を固守して生きてゆくだけである。われわれ人間はあらゆる種類の存在の影響によって生みだされた産物であって、何一つとして新しいものはわれわれの中には存在しないし、われわれ自身で発見したもの、独創的で清新で明確なものは何一つ存在しない。

【『自己変革の方法 経験を生かして自由を得る法』クリシュナムーティ著、メリー・ルーチェンス編:十菱珠樹〈じゅうびし・たまき〉訳(霞ケ関書房、1970年)】

 人間が生まれる時は白紙状態なのかどうかについては議論が分かれている。私はタブラ・ラサ論を支持する。

 E・O・ウィルソンが社会生物学の立場から批判しているようだ。詳細はわからない。

 E・O・ウィルソンがいうところの「遺伝」とは何か? よもや遺伝子のことではあるまい。遺伝子にはタンパク質をコピーする情報はあるが、性格や個性を反映するものではない。

 また、同じ遺伝情報を持つ兄弟であっても性格が異なるのが普通である。離れ離れで育った一卵性双生児がびっくりするほどよく似た人生を歩んでいたという話もあるが、これは類似した情報だけピックアップしているので合理性はないものとされている。

 生まれた時はもちろん白紙状態ではない。妊娠5ヶ月くらいから赤ちゃんは耳が聞こえている。怒鳴ったり、泣いたり、笑ったりする声は全部伝わっているのだ。

 喧嘩の絶えない夫婦のもとであれば、赤ちゃんは「戦争をしている世界」と認識することだろう。笑い声や歌声に触れていれば「楽しい世界」と判断することだろう。その意味でドアをバタンと閉めたり、けたたましい電話の音を妊婦は避けるべきだ。

 更にこんな話もある。妊娠(着床)直後に母親がジャンクフード中心の食事をすると、生まれてくる赤ちゃんは肥満児になりやすいという。母胎を通して「食糧事情が悪い」という情報を受け取るためだ(『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス)。

 とすれば妊娠直後から胎児は情報を受け取っているものと考えていいだろう。

 一方、クリシュナムルティが説くのは「心理的なパターン」のことである。人は教育の名のもとに社会のルールを叩き込まれる。大体、我々が「正しい」と思い込んでいるものは、「正しい」と教えられただけであり、自分で検証した人はまずいない。

 親孝行なんて言葉が最たるもので、実際は経済的見返りを与えることを意味する。親といっても色んな親がいるわけで、それを一把一絡げにして「孝行せよ」という論理は明らかにおかしい。

 恩返しなんてのもそうだ。鶴や亀の恩返しを見れば一目瞭然だが完全なギブ&テイクとなっている。「鶴の恩返し」に至っては強制労働をそそのかす匂いを発しており、我が身を犠牲にするところは売春を連想させるほどだ。

 我々は親や友人、はたまた尊敬する人物の影響下で価値観を形成している。で、偉人と称される人々はたいてい社会にとって都合のいい人物である。つまり「反社会的である」ことは価値としては認められていないのだ。

 腐敗した社会で生きる人々はおのずと腐敗してゆく。米軍基地は沖縄に押し付け、原子力発電所は福島につくるのが我々の流儀である。病人や要介護者を社会の厄介者として扱う。これは事実として政治がそのように対応している。

 幸福とは何か? それは成功することである。そう我々は教えられ、教えられた価値観を疑うことがない。

 仕事は目的ではなく成功するための手段と化している。ミュージシャンは歌うことが目的ではなく、ヒット曲を出すことが目的である。目の前の聴衆も「売れるため」の手段に他ならない。

 政治家、学者、文化人、芸術家、みな同じだ。我々は金銭に額づく奴隷なのだ。これが資本主義ルールである。

 確かにクリシュナムルティが教えるように、生そのものがパターン化し、機械的な反応を繰り返すだけになっている。私の人生はどこにもない。ただ社会から与えられた役割をこなしているだけだ。

 苦情があれば平身低頭し、見込み客の前では愛想を振りまき、アルコールの力を借りて「まったくやってられねえよな」と気炎を上げるのが私の人生になってしまった。

 すなわち「時給なんぼ」の人生だ。

 私は明らかに「生きていない」。きっと幼い頃から牙を抜かれ、少しずつ殺されてきたのだろう。もはや完全に屍体のレベルで腐臭を放っている。

 私の生はどこへ行ってしまったのだろう?



Jiddu Krishnamurti

画像はflickrにアップするのが正しい


「正しい」と書いたのはもちろんブラフだ。今日気がついたのだが、flickrでコードが発行されている画像は、はてなダイアリーにも貼り付け可能だ。

 ってことはだよ、はてなフォトライフにアップするより、flickrにアップしたくなる。

 なぜなら、flickrであればtumblrで紹介してもらえる可能性があるからだ(プライベート指定は除く)。あなたの撮影した写真が世界中で紹介されるかもしれない。

 で、ひょっとしたら、「年俸5万ドルで専属契約をしませんか?」というオファーがくることも十分考えられる。

 だから腕に自信のある人はどんどんflickrに画像をアップするのが正しい、と私は主張する。

まだ中毒になっていない人のためのtumblr入門

パレスチナの国連加盟問題、米国が拒否権発動を初めて明言


 米国務省のヌランド報道官は8日、パレスチナが国連加盟を申請した場合、米国が安全保障理事会での採決で拒否権を行使する方針であることを明らかにした。
 米政府はパレスチナの国連加盟問題をめぐり、イスラエルとともに反対する姿勢を繰り返し示してきたが、拒否権発動を明言したのは初めて。
 ヌランド報道官は記者会見で、「米国は(国連本部がある)ニューヨークでパレスチナが国家樹立を目指して行っている動きに反対を表明する。国家樹立は交渉を通じてのみ達成可能だ」と強調した。
 ただ、外交関係者からは、今月の国連総会でパレスチナがどのような動きに出るかはっきりしていないとの声も聞かれ、パレスチナが安保理の勧告が必要のない「非加盟国」としての参加を要請する可能性もあるという。

ロイター 2011-09-09

 パレスチナの国連加盟が認められるとどうなるか?

 最近では、中国やスペインがパレスチナの国連加盟を認める表明をしている。パレスチナが国家承認されて国連加盟すると、パレスチナがイスラエルの悪事を国際司法裁判所や人権理事会、安保理などに訴えることができるようになる。パレスチナ問題は、イスラエルの「国内問題」から、イスラエルが「隣国」パレスチナを侵略する「国際法違反」の行為に変質する。イスラエルは国際的に「悪」のレッテルを貼られ、かつてのイラクや最近のシリアのように経済制裁される可能性が高まる。

「イスラエルを悪者に仕立てるトルコ」田中宇

 このような背景から「国連総会(9月20日)の直前にテロが起こるのではないか」という指摘もある。9.11テロからちょうど10年ということもあって、「アラブ勢力による犯行」とでっち上げることも容易だ。

 チョムスキーは9.11テロもイスラエルとアメリカが共謀して行った可能性が高いとしている。両国は宗教的独善国家という共通性がある。何をしでかすかわかったものではない。自ら混乱状態をプロデュースし、国民感情をファナティックな方向へ誘導してきたのがアメリカの歴史だ。

9.11から10年狙った「信頼できる」テロ情報、米 警戒強化を指示
タルキ・アル=ファイサル王子がNYtimes紙に寄稿
『9.11 アメリカに報復する資格はない!』ノーム・チョムスキー

伝統と調和


 アフガニスタンは長老、部族長、封建地主、ムラー(イスラム僧)などの年長者に支配された社会であった。だが、戦争が新陳代謝を促し、いま確実に世代交代が行われ、各地にマスードのような若い司令官が続々と生れている。彼も老人たちを無視しようと思えばできるのだが、長老たちに敬意を払い、彼らの面目を保てるようにしている。彼はいう。
「彼らとの関係は大変よいし、若いから力があるからと鼻を高くすべきでない。いつも年寄りを大切にする。革命とは年寄りに成果を見せるものでもある。いまは革命中です。そして彼らの経験やヒントを聞いて、それを時代に合わせて取り入れていく」

【『マスードの戦い』長倉洋海〈ながくら・ひろみ〉(河出文庫、1992年/『峡谷の獅子 司令官マスードとアフガンの戦士たち』朝日新聞社、1984年に一部加筆)】

マスードの戦い (河出文庫)

AAEC001308

AAEC001272

AAEC001231

アフマド・シャー・マスードの思い出

2011-09-08

ジョーゼフ・ヘラー


 1冊挫折。

キャッチ=22(上)』ジョーゼフ・ヘラー:飛田茂雄訳(ハヤカワ文庫、1977年)/翻訳が肌に合わず。フォントもかなり小さい。新訳で3分冊にすべきだろう。

2011-09-07

自らを島とし、杭とせよ(自帰依・法帰依)


 ・自らを島とし、杭とせよ(自帰依・法帰依)

『ブッダ入門』中村元

Lynmouth Sunset

 アーナンダよ。私はもう老い朽ち、齢を重ね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。例えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らく私の身体も革紐の助けによってもっているのだ。(中略)
 それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。

【『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1980年)】

「島」とは砂洲(さす)のことである。すなわち大河の氾濫(はんらん)にも流されないことを意味する。我々にとっては杭(くい)の方がわかりやすいだろう。この写真を見ながらブッダの遺言を思った。「依法不依人」(法四依のひとつ)の原典である。

ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 (ワイド版岩波文庫)ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 (岩波文庫)
【左がワイド版で右が文庫版】

クリシュナムルティ流「筏の喩え」/『クリシュナムルティ・目覚めの時代』、『クリシュナムルティ・開いた扉』
日本の仏教は祖師信仰/『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司

4人に1人が強姦されている南アフリカの女性


 南アフリカは大英帝国がつくった人口国家である。その成れの果てがこれだ。キリスト教覇権国家はこうしたことを世界中で行っている。日本が助かったのは資源がないおかげ。

 南アフリカの男性の4人に1人を上回る27%が、「過去に成人女性または少女をレイプしたことがある」と回答するという調査結果もある。また、比較的安全と思われる高級ホテルの中ですら、従業員が鍵を開けて客室に侵入し女性旅行客をレイプするといった事件も発生している。2010年11月26日に発表された、ヨハネスブルグやハウテン州などで南アフリカ政府によって行われた調査によると、男性は3人に1人を上回る37.4%が過去に女性をレイプした経験があると回答(男性の7%が集団レイプの経験があると回答)、さらに女性は25.3%がレイプされた経験があると回答した。

Wikipedia

南アフリカのジェイコブ・ズマ大統領「前にエイズ感染してる女をレイプしたけどすぐシャワー浴びたら大丈夫だったわ」

2011-09-06

世界のどこかで虐げられる人々が目の前に現れる


 アムネスティ・インターナショナルの人権啓発ポスター。ポスターが同じ場所の背景となっていて、驚くべき迫真性に満ちている。それでも尚、我々はこうした人々を無視し続けるのだ。

amnesty

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我々は虐殺される人に背を向けている
女子割礼に警鐘を鳴らすアムネスティのポスター

ジャン・ジュネ著『シャティーラの四時間』


 私はジャン・ジュネの「シャティーラの四時間」を読むことができない。(中略)
 私にとって「シャティーラの四時間」が読みえぬテクストであるのは、それが、惨殺された死体の様子を職業作家の冷徹な視線でカメラのように生々しく再現しているからではない。そこにあるのは、ジュネと死体とのあいだの親密な交歓、あるいはまなざしによる愛撫である。愛撫するようなそのまなざしのなかで、拷問され殺されて、いまは眼窩に蛆が湧く死体自らが、ほんの何十時間前には若い女として、たしかに生きていた事実を読む者に訴えはじめるのだ。私にとって耐えられないのはそのことだ。(「訳者あとがき」岡真理)

【『シャヒード、100の命 パレスチナで生きて死ぬこと』アーディラ・ラーイディ:イザベル・デ・ラ・クルーズ写真:岡真理、岸田直子、中野真紀子訳(「シャヒード、100の命」展実行委員会、2003年)】

シャヒード、100の命―パレスチナで生きて死ぬことシャティーラの四時間

2011-09-05

空飛ぶシルエット


 君たちは泳いでいるのか、それとも飛んでいるのか?

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怒りは人生を破壊する炎


 怒りとは人生を破壊する炎です。炎を消すためには水が必要です。しかし、いったん怒りの炎が暴れ出してから、消化対策を考えたり、水を探しに行くようでは手遅れです。怒りは思わぬ、ささいなことで点火されるので、日頃から心の井戸に水を溜めておくことが賢明です。

【『怒り 心の炎の静め方』ティク・ナット・ハン:岡田直子訳(サンガ、2011年)】

怒り(心の炎の静め方)

自由と所有/『怒り 心の炎の静め方』ティク・ナット・ハン

2011-09-04

雨水に映える赤い砂


 ナミビアの砂漠が燃えている。雨に現れた砂が生き生きと赤色を放つ。水際にはうっすらと青が刷(は)かれている。水と砂が生と死を象徴しているかのようだ。人間を寄せつけない厳しき世界の何と美しいことよ。

Desert Reflections

未来を明るく照らす言葉/『重耳』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光

 ・占いこそ物語の原型
 ・占いは神の言葉
 ・未来を明るく照らす言葉

『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光

 宮城谷昌光が描く政(まつりごと)には人の息遣いがある。それを著者の創作として一笑に付すわけにはいかない。資料を通じて人間と人間とが出会うことは可能であるからだ。

 それにしても中国は凄い。重耳(晋の文公)は紀元前696-628年の人物である。卑弥呼(170年頃-248年頃)が生まれる800年前の時代に、これほどの君主を輩出していたのだ。

 中国の伝統は毛沢東の文化革命によって破壊されたと思われるが、いくばくか継承されているものはあるのだろうか? 気になるところである。

 19年間に及ぶ放浪は重耳を鋼(はがね)のように鍛え上げた。運命は容赦なく鉄槌(てっつい)を振り下ろした。

 飢渇(きかつ)も極限に近かったのであろう。重耳は馬車をその農夫に寄せ、声をかけた。農夫は黒い顔を上げた。重耳は車上で頭をさげた。農夫はしゃがみ、器らしきものに飯を盛り、ささげるようにもってきた。
「秬(くろきび)らしいが、ありがたい」
 重耳は車輪のかたわらにいる狐偃(こえん)にいった。狐偃がその器をうけとった。山と盛られているものをみた重耳は嚇(かっ)とし、鞭(むち)をふりあげて、馬車から飛び降り、農夫を打とうとした。
 ――衛(えい)は、君主も民も、わしを侮辱した。
 それにたいする怒りである。器に盛られていたものは、秬ではなかった。土であった。農夫は悪声を放って逃げようとした。重耳は鞭で足をはらい、ころんだ農夫のうしろえりをつかむと、曳きずってきた。
「公子」
 狐偃にしてはめずらしく明るい声であった。重耳は眉をひそめた。狐偃が静かに笑みをみせている。かれは高々と器をかかげ、
「これこそ、天の賜(たまもの)です」
 と、いった。なぜなら、民がこの土を献じて服従したのであるから、これ以上、求めるものがあろうか。天意にはかならず兆(きざ)しがある。公子が天下を制するのであれば、それはこの土塊を得たことからはじまる。狐偃はそういうと、農夫を重耳の手からはなし、群臣のまえに立たせ、みずからひざまずいて拝稽首(はいけいしゅ)をした。重耳ははっと気づき、狐偃にならうと群臣はみなその農夫にむかってぬかずいた。
 農夫は魂が飛んだような顔つきになり、この一団が去ったあとも、ぼんやり野面をながめていた。
 農夫から献じられた土は捨てず、重耳はだいじに車に載(の)せた。

【『重耳』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、1993年/講談社文庫、1996年)以下同】

 拝稽首(はいけいしゅ)は最も重い礼で、両手を組んで地に頭をつけるというもの。この件(くだり)を読んだ瞬間に閃光が走った。

 狐偃(こえん)は土を通して未来を占った。しかも行きずりの農夫から小馬鹿にされた一事を反転させた上で、劇的な物語を描いてみせた。すなわち、未来を明るく照らす言葉こそが「占い」であり、ここに物語の原型(モデル)があるのではなかろうか。

「馬鹿にされた」と思えばそれまでの話だ。実際、そういう物語は我々の周りにいくらでも転がっている。事実のみを語るのであれば、言葉は死んでいるといってよい。新聞には死んだ言葉が並んでいる。それを活字と称するのだから皮肉だ。

 現実を客観視して笑い飛ばす力が英知であるとすれば、英知は強靭な否定に支えられている。それは現実を無視するという意味での否定ではなく、環境から自分に働きかけるマイナス作用に対する完全否定である。前を向いて強気で進めば、環境を引きずってゆくことができる。

 不況になると何かにつけ自分が否定されているような場面に出くわすことがあるものだ。しかし相手が否定しようとも自分で自分を否定しなければよい。どこまでも自分を信じながら、自分を否定した相手を否定すればいいのだ。身勝手な振る舞いを慎みながら、時を稼いでいると思えばストレスも溜まらない。

 物語とは展望でもある。視点が低ければ低い物語で終わってしまうことだろう。今がどんなに苦しくとも志だけは高く堅持することだ。貧しくとも富者(ふしゃ)のように振る舞うことは可能だ。

 自分で自分を占い、未来を明るく照らす言葉を紡ぐことが求められている。

 重耳は徳をもって人を治めた。

「信は国の宝である。信があってこそ、民の財を守り、身を守り、生命を守ることができる。たとえ原(げん)を得ても、民から信頼されなければ、なにをもって民を守ることができるのか。そうなれば、得るものより、失うもののほうが多かろう」
 と、いって、引き揚げ、原邑(げんゆう)から一舎離れたとき、重耳の信条をきいた原邑の民は門をひらいて降伏した。

 重耳より150年あとに生まれた孔子は「信無くば立たず」(『論語』)と教えた。孔子は兵や食よりも信を重んじた。

 では我々の政治はどうだろうか? 既に政治不信というキーワードは手垢まみれになっている。政治不信にすら不信を抱きたくなるような体たらくだ。放射能にさらされている人々がいる。生活保護の申請を拒まれている人々がいる。働きたいのに就職できない人々がいる。子供が欲しくてもつくれない人々がいる。

 政府を信頼している国民が少ないとすれば、この国は既に滅んでいるのだろう。国家のふりをしている領土で政治ごっこが行われているのだろう。

 たしかに民は義と信とを知った。が、それで充分というわけにはいかない。人が家族でまとまり、一族でまとまり、国でまとまり、中華でまとまり、というふうに、小さな存在が集合して大きな組織をつくり、人それぞれが協調して組織を動かしてゆくには原則があり、その原則の基(もとい)にあるものが礼なのである。礼はべつなことばでいえば、他者を尊ぶということである。自分が生きていることは、他者があってはじめて成り立つ。他者といっても、人とはかぎらない。水があり、火があり、というように宇宙を形成しているものも、人を生かしている。したがって礼を知るということは、宇宙の原則を知る、ということである。

 文化とはもともと礼楽(れいがく)を意味した。礼を弁(わきま)え、音楽を嗜(たしな)むところに人生の豊かさがあったのだ。孔子は作詞家でもあり作曲家でもあった。

 ストーリーにひときわ光彩を与えているのが晋から送られた刺客である閻楚〈えんそ〉と介子推〈かいしすい〉の闘いである。介子推は低い身分であったため、陰で重耳を守っている事実を誰も知らない。彼自身、黙して功績を語ることがなかった。

 後に重耳は閻楚〈えんそ〉から介子推の働きを聞かされる。が、論功行賞から漏れた介子推は既に去った後だった。

 言は身の文(かざり)なり。身まさに隠れんとす。
 いずくんぞこれを文に用いん。
 これ顕(けん)を求むるなり。

 介子推がこの世に残したさいごのことばである。
「ことばというものは身を飾るものです。これから身を隠そうとするのに、どうしてことばで飾る必要がありましょう。飾りは顕(あらわ)われるために求めるものです」
 そういったのである。

 介子推こそ真の忠臣であった。重耳は大いに恥じて介子推を探させたが見つかることはなかった。後世、中国の民は晋の文公以上に介子推を称(たた)えた。重耳の瑕疵(かし)とするにはあまりにも大きな過失であった。信賞必罰はかくも難しい。

重耳(上) (講談社文庫)重耳(中) (講談社文庫)重耳(下) (講談社文庫)介子推 (講談社文庫)

2011-09-03

光と闇


 濡れた道を歩く二人が決定的なアクセントとなってドラマ性を与えている。

グレッグ・モーテンソン


 1冊読了。

 60冊目『スリー・カップス・オブ・ティー 1杯目はよそ者、2杯目はお客、3杯目は家族』グレッグ・モーテンソン、デイヴィッド・オリヴァー・レーリン:藤村奈緒美訳(サンクチュアリ出版、2010年)/アメリカで360万部を突破したベストセラーだけのことはある。一気読み。K2登頂に失敗した登山家が、その後パキスタンの山間部に学校を建てる話だ。9.11テロ~アフガニスタン紛争も描かれている。マスードの名前も何度か出てくる。グレッグ・モーテンソンは中央アジア協会の会長となり、本書が刊行された時点で何と53もの学校を建設した。中村哲との併読を勧める。厳選120冊に追加した。

連合型失認の患者は視覚体験に意味を付与することができない/『もうひとつの視覚 〈見えない視覚〉はどのように発見されたか』メルヴィン・グッデイル、デイヴィッド・ミルナー


 つまり、連合型失認の患者は、視覚体験は問題ないが、その体験に意味を付与することができない。これがどのようなものかを想像するには、ふつうの西洋人が漢字を前にしてどう感じるかを考えてみてほしい。

【『もうひとつの視覚 〈見えない視覚〉はどのように発見されたか』メルヴィン・グッデイル、デイヴィッド・ミルナー:鈴木光太郎、工藤信雄訳(新曜社、2008年)】

 とすると「見る」行為は「読み解く」能力を意味する。連合型視覚失認と関連性があるかどうかはわからないが、長期間にわたって眼の不自由な人が手術で見えるようになると様々な視覚障害が報告されている。彼らは錯視画像を見ても錯覚することがない。また顔の表情も認知できない。

 失認は心理レベルにおいて数多く見受けられる。先入観や差別意識に染まった人は物事を正しく見ることが極めて困難である。

 同じ本を読んでも感じ取るものは人によって千差万別である。感受性の乏しい人は意味の浅い世界で生きているのだろう。

「悟る」とは「見える」ようになることである。ウロコだらけの目に真実は映らない。

もうひとつの視覚―〈見えない視覚〉はどのように発見されたか

2011-09-01

ルワンダ大虐殺を扇動したラジオ放送


 ハビャリマナにとってアルーシャ協定が政治的な自殺に等しい、というのは事実だった。フツ至上主義党の指導者たちは裏切りだと叫び、大統領その人が同調者になったと告発した。アルーシャ協定の署名から4日後、アカズのメンバーと友人から出費を受けた千の丘の自由ラジオ(ラジオ・テレヴィジョン・リブル・デ・ミル・コリン/RTLM)がジェノサイドのプロパガンダ専門局としてキガリから放送をはじめた。



 そうした(※ラジオからの)メッセージ、そして社会のあらゆる階層の指導者たちからの命令によって、ツチ族の虐殺とフツ族反体制派の暗殺は各地に広がっていった。民兵たちの手本にならい、フツ族は老いも若きも仕事にとりかかった。隣人が隣人を自宅で切り刻み、同僚が同僚を職場で切り刻んだ。医師が患者を殺し、教師が生徒を殺した。多くの村ではわずか数日でツチ族の人口がほぼゼロになった。キガリでは、囚人たちが釈放されて労働班を編成され、道路沿いにならぶ死体を片づけた。虐殺にともなうレイプと略奪がルワンダじゅうに広がった。酔っぱらった民兵集団は薬品店から略奪したドラッグで景気をつけ、虐殺から虐殺へと駆けまわった。

【『ジェノサイドの丘』フィリップ・ゴーレイヴィッチ:柳下毅一郎〈やなした・きいちろう〉訳(WAVE出版、2003年)】

ジェノサイドの丘〈新装版〉―ルワンダ虐殺の隠された真実


ルワンダ大虐殺の爪痕
強姦から生まれた子供たち/『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』写真、インタビュー=ジョナサン・トーゴヴニク

母の胸に抱かれながら死んでいったパレスチナの少年


 私は心の底からイスラエルを憎む。私は忘れない。血にまみれて母親にしがみつく少年の姿を。眼の前で我が子を奪われた母親の悲しみを。

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自爆せざるを得ないパレスチナの情況/『アラブ、祈りとしての文学』岡真理

赤誠の人物がいない


「全く人がない。出来る奴はいる、策の立つ奴もいる。智慧の溢れる奴もいる。外交折衝の巧みな奴も――。が、赤誠の人物がいない。今の世の中あ、智慧や策ではいけねえのでんすからねえ、素っ裸で、対手(あいて)にぶつかっていける人間、それがいない」

【『勝海舟』子母澤寛(日正書房、1946年/新潮文庫、1968年)】

勝海舟 (第1巻) (新潮文庫)勝海舟〈第2巻〉咸臨丸渡米 (新潮文庫)勝海舟 (第3巻) (新潮文庫)

勝海舟 (第4巻) (新潮文庫)勝海舟〈第5巻〉江戸開城 (新潮文庫)勝海舟〈第6巻〉明治新政 (新潮文庫)