2011-10-05

私を変えた本


 個人的な覚え書き。人間は人間と出会うことで変わる。触発という言葉は手垢まみれで好きではない。ここはやはり脳内のネットワークが変わるとすべきだろう。本を読むこともまた人との出会いを意味する。

 感動には2種類ある。今までの自分の反応を強化する感動と、それまでにない全く新しい感動である。例えば私は人がバタバタと死ぬ映画を好むが、そのような映画を何本見たところで私が変わることはない。

 面白い本は多い。ためになる本も山ほどある。だが自分の価値観を揺さぶり、思考を木っ端微塵にし、概念を破壊する本は少ない。

 私を変えた本たちを紹介しよう。

『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ

文庫 女盗賊プーラン 上 (草思社文庫)文庫 女盗賊プーラン 下 (草思社文庫)

 34歳の時に読んだ。私はどちらかというと積極的――あるいは攻撃的――な平和論者であった。しかし暴力が支配する世界では暴力でしか立ち向かうことができない事実を知った。しかも本書に書かれていることは大昔のことではなかった。プーラン・デヴィは私と同い年だった。世界平和など戯言(たわごと)であることを思い知らされた。

両親の目の前で強姦される少女/『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ

『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ

ルワンダ大虐殺 〜世界で一番悲しい光景を見た青年の手記〜

 私はキリスト教の運命論を否定して仏教の宿命論を信奉していた。それなりに勉強もしてきたつもりだった。ところがルワンダ大虐殺には全く通用しなかった。わずか100日間で100万人近い人々が殺戮された。もしも殺された原因が過去世にあるとするならば、全ての犯罪は容認されてしまう。レヴェリアン・ルラングァは本書の後半で神との対話を試みて、完膚なきまでに神の欺瞞を暴いている。だがそれで彼が救われるわけではない。私には彼に掛ける言葉がなかった。「生きていてよかったね」ということすらはばかられた。45歳にして迷いは深まり、懊悩(おうのう)する日々が続いた。

『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ

『石原吉郎詩文集』石原吉郎

石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)

 読書にはタイミングがある。『女盗賊プーラン』以外はいずれも45歳で読んだ作品である。石原はシベリア抑留者であった。それは国家から見捨てられた経験であった。クリスチャンとしての信仰スタイルも変わらざるを得なかった。石原は平凡な人物であった。しかし彼の目は鹿野武一〈かの・ぶいち〉をしかと捉えた。本書を読んで国家、組織、集団に対する考え方が一変した。

究極のペシミスト・鹿野武一/『石原吉郎詩文集』~「ペシミストの勇気について」

『一九八四年』ジョージ・オーウェル

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 20代で新庄哲夫訳を読んでいたが、これほど面白いとは思わなかった。管理社会と自由をテーマにした作品であるが、より本質的には集団と権力(≒暴力)の実相を描いている。つまり集団そのものが暴力であると考えることも可能だ。メディア社会(≒高度情報化社会)は人間のつながりをコントロールする関係に変えてしまった。

現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル

『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

 クリシュナムルティを知り、私が抱いてきた数々の疑問は完全に氷解した。初期仏典の意味もわかるようになった。クリシュナムルティとの出会いは人生最大の衝撃といってよい。自由とは離れることであった。

自由の問題 1/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ

 不惑(40歳)と知命(50歳)のちょうど真ん中になる45歳で私は変貌した。自分でも驚いているほどだ。なお適当なカテゴリーがないため「併読」にしておく。

どう生きたらいいかを考えさせる本

IMF(国際通貨基金)を戯画化するとこうなる


 ・IMF(国際通貨基金)を戯画化するとこうなる

『超帝国主義国家アメリカの内幕』マイケル・ハドソン

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 まったくもって「お見事」。嫌悪感を抱くよりも、笑うことが正しい。発展途上国の貧困を維持するのがIMFの目的だ。ローマクラブが尖兵(せんぺい)となって環境問題に警鐘を鳴らしたのが1972年のこと。それ以来、先進国が決して立つことのない「イス取りゲーム」が始まったのだ。「エネルギーと食糧には限りがある。だからお前たちが先進国になることは絶対に認められない」というのが先進国ルールだ。

 バブル景気で図に乗っていた日本を崩壊させ、ジャパンマネーがアメリカに還流する仕組みをつくった上で京都議定書は採択された。日本をイスから下ろすための新しいルールに基づいてゲームは続行中だ。

 IMFと世界銀行は第二次世界大戦に勝利を収めた連合国の意志に基づく機関で、真の目的は資源の豊富な発展途上国を債務漬けにすることである。そして先進国の人々は娯楽に興じながら、ぶくぶくと肥え太ってゆくのだ。自分で身体を支えることもできない人物よ、汝の名はアメリカなり。政治と宗教が手を組んでいるテレビの映像が示唆的だ。

貧富の差
世界中でもっとも成功した社会は「原始的な社会」/『人間の境界はどこにあるのだろう?』フェリペ・フェルナンデス=アルメスト
経済侵略の尖兵/『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス
利子、配当は富裕層に集中する/『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』河邑厚徳、グループ現代
ウォール街を占拠せよ
グロ-バル化 IMF(国際通貨基金)が貧困を作るときなくならない飢餓/『面白いほどよくわかる「タブー」の世界地図 マフィア、原理主義から黒幕まで、世界を牛耳るタブー勢力の全貌(学校で教えない教科書)』世界情勢を読む会

マイケル・ハワード、プリーモ・レーヴィ


 2冊挫折。

ヨーロッパ史における戦争』マイケル・ハワード:奥村房夫、奥村大作訳(学陽書房、1981年/中公文庫、2010年)/翻訳の文体に馴染めない。中世から第二次世界大戦に至る戦争を中心にヨーロッパ史が描かれている。いつの日か再読する必要がある。

天使の蝶』プリーモ・レーヴィ:関口英子〈せきぐち・えいこ〉訳(光文社古典新訳文庫、2008年)/最初の三つは結構面白かったのだが、「天使の蝶」でガクッとなって挫ける。関口の翻訳が素晴らしい。

2011-10-04

バビヤールのユダヤ人虐殺から70年、ウクライナ


 ウクライナのビクトル・ヤヌコビッチ(Viktor Yanukovych)大統領は3日、70年前にナチス・ドイツ(Nazi)によるユダヤ人の虐殺が行われたバビヤール(Babi Yar)渓谷を追悼訪問した。
 ナチスは1941年9月29~30日、バビヤール渓谷でユダヤ人3万3771人を殺害した。この虐殺は、近年になってようやく正式な追悼が行われるようになった。
 1941年、旧ソ連当局者をキエフ(Kiev)から追放したナチスは同市を占領し、移住を口実に市内に残ったユダヤ人全員を集めた。
 ナチスはキエフで起きた連続爆発事件の責任をユダヤ人に押しつけた。しかし実際には、爆発はキエフに残った旧ソ連の内務人民委員部(NKVD)要員や、旧ソ連の赤軍が撤退前に残した爆弾によるものだった。
 ナチスはユダヤ人を市郊外のバビヤール渓谷に行進させ、そこで射殺した。
 ソ連の作曲家ドミトリ・ショスタコービッチ(Dmitry Shostakovich)は、1960年代にバビヤールの虐殺を主題に作曲をして、エフゲニー・エフトゥシェンコ(Yevgeny Yevtushenko)の詩「バビヤール」に音楽をつけた。

ホロコースト最大の虐殺

 バビヤールの虐殺はナチスのホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の中で最大の虐殺だっただけでなく、大都市で行われた戦時の大がかりなユダヤ人抹殺としても初めてのものだった。
 1943年にキエフから撤退するまで、ナチスはバビヤールを処刑場として利用した。少なくとも10万人のユダヤ人やロマ人、レジスタンス運動家や旧ソ連の受刑者たちが処刑された。だが、殺害された正確な人数については現在も議論の的となっている。
 第2次世界大戦(World War II)のソ連はバビヤールの虐殺を大きく扱うことはなかった。ユダヤ人の苦難に注目が集まれば、最大の戦争被害者はソ連国民だったというソ連政府の主張を妨げるからだった。
 1976年に建立された記念碑は、ユダヤ人について触れていない。1991年にようやく、ユダヤ人犠牲者の記念碑建立が認められた。エフトゥシェンコの詩はこう始まる。「バビヤールに記念碑はない。切り立つ崖は荒くれた墓石のようだ」
 2009年には、サッカー欧州選手権2012(UEFA Euro 2012)の観光客向けのホテルの建設計画が上がったが、市民や国際的な反対を受けて市長が建設を断念していた。

AFP 2011-10-04

「ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)」という表記は意図的なものだろう。ワシントンに米国国立ホロコースト記念博物館がある。これは常識的に考えてもおかしなことだ。「アメリカ先住民大虐殺記念館」なら理解できる。ユダヤロビーがどれほどの力を持っているかが窺えよう。で、宣伝工作を行っているのがエリ・ヴィーゼルだ。

「ホロコースト=ユダヤ人大虐殺」という構図の嘘/『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン
「アメリカ・ホロコースト記念館: 高くついた危険な誤り」セオドア・オキーフ

イスラエルの作家に「無宗教」認める判決


 イスラエル・テルアビブ(Tel Aviv)の裁判所は前週、同国の作家に対し、公式に登録されている宗教を「ユダヤ教」から「無宗教」にすることを認める判決を下した。2日の同国日刊紙ハーレツ(Haaretz)が伝えた。
 作家のヨラム・カニュク(Yoram Kaniuk)氏は内務省に対し、自身の宗教を「ユダヤ教」から「無宗教」に変更したいと申し出たが拒否されたことを受け、5月に提訴した。
 同紙によると、判決文は「宗教からの自由は、(イスラエルの)基本法の『人間の尊厳と自由』で保護されている人間の尊厳の権利に由来するものだ」と述べた上で、「唯一検討しなければならない問題は、原告が自分の意思の深刻さを証明できたかどうかということだ。自分の要求を法廷に持ち込んだこと以外、原告にいかなる重荷も負わせる必要はないと判断する」と付け加えている。
 カニュク氏は同紙に、「裁判所は個人が自分の良心に従ってこの国で生きる正当性を認めた。この判決では、人間の尊厳と自由は自分のアイデンティティを自分で決められることを意味しているとされた。だから、私は無宗教でも国籍としてユダヤ人を名乗ることができる。非常に興奮している」と述べ、判決を「歴史的」と評価した。
 イスラエル政府は国民を宗教と民族籍によって登録している。民族籍には「イスラエル人」という選択肢はなく、ユダヤ系国民は「ユダヤ人」と登録される。これを不服とした世俗主義者団体は何年も前から、内務省に「ユダヤ人」ではなく「イスラエル人」に置き換えるよう要請している。

AFP 2011-10-04

 これは重要なニュースだ。無宗教の思想性が認められたという事実は重い。それでも尚、人間は宗教的ドグマから解放されない。なぜなら感情を直接支えているのが宗教であるからだ。

ありふれたパレスチナの日常


 何の前触れもなく家を破壊され、撃たれ、爆弾を落とされる。内蔵の飛び散った遺体の後始末を年端(としは)も行かぬ子供が行っている。これが、ありふれたパレスチナの日常だ。瓦礫(がれき)の間に見える幼児の手、脚がくの字に曲がったまま息絶えた少年の姿を私は忘れない。

People in Palestine

Phalisteen GAZA

GAZA HOLOCAUST

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GAZA HOLOCAUST

Innocent child KILLED

Gaza-Palestina

pb13

「商品は持っていけ」…優しい店員に強盗自首


 富山県警富山中央署は3日、富山市問屋町、自称無職M容疑者(53)を強盗の疑いで緊急逮捕した。
 発表によると、M容疑者は同日未明、同市綾田町のコンビニエンスストアで、男性アルバイト店員(61)に包丁を突きつけ、「俺は金が無い。金を出せ」と脅し、清涼飲料水やパンなどの商品計7点(販売価格合計1174円)を奪った疑い。店員にけがはなかった。M容疑者が同日正午頃、同署の広田交番に自首してきたため発覚した。
 同署によると、店員から「悪いことはやめろ、商品は持っていけ」と諭され、店員がレジ袋に入れて渡した商品を持って逃走したという。
 森竹容疑者は「職もなく、悪いことを重ねるかもしれないと思い出頭した。店員が優しく、申し訳ないと思った」と話しているという。店から被害届は出ていなかったという。

YOMIURI ONLINE 2011-10-04

 被害届が出ていなかったということは店員が建て替えたのだろう。富の再分配が良心的な自主性で行われたのだ。店員は政府の過ちを正したといえる。時に「犯罪」という場面を通して、人と人とが出会うこともあるのだ。何という不思議だろうか。

人は後ろ向きに未来へ入っていく


 湖に浮かべたボートをこぐように、
 人は後ろ向きに未来へ入っていく。
 目に映るのは過去の風景ばかり。
 明日の景色は誰も知らない。(ポール・ヴァレリー)

【『読売新聞朝刊一面コラム「編集手帳」 第11集』竹内政明(中公新書ラクレ、2007年)】

読売新聞朝刊一面コラム「編集手帳」〈第11集〉 (中公新書ラクレ)
竹内 政明
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アメリカとイスラエルの共通点


 宗教的な立場を理由にして弾圧され、今度は自分たちが新たな天地で暴虐・殺戮の限りを尽くす。これがアメリカとイスラエルに共通する歴史である。

国連総会のテロ非難決議に反対したアメリカとイスラエル(1987年)
パレスチナ人女性を中傷するイスラエルの若者たち

救うべからざる大学の退廃


 それでは大学が大学に成るために求められているものは何なのか。入ってきた学生にたいする「教育」である。教育は一定の事を教えて、これを覚えさせることではない。学生の自ら学ぶことをたすける仕事が、教育である。学ぶ意志と能力を失いつくして大学に入ってきたものを、そのまま知識若干を与えて卒業させているところに、救うべからざる大学の退廃がある。大学は、その学生に学ぶことを教え、学ぶことをさせなければならない。学ぶ意志を失いつくしたものに、その意志を恢復させ、自ら学ぶ能力の若干を身につけさせた上で、学生を社会に出すことに大学は責任をもつべきである。これは至難のことだが、大学が大学になるためには、この一つのことだけは避けることはできない。大学で学ぶということは、人間や社会や、世界を、その根底においては自己を、根本から問いなおす作業をはじめることである。

【『教育の再生をもとめて 湊川でおこったこと』林竹二〈はやし・たけじ〉(筑摩書房、1984年)】

教育の再生をもとめて―湊川でおこったこと

2011-10-02

マルコス副司令官

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Marcos y Tacho

subcomandante MARCOS

Subcomandante Marcos

Cutthroat Subcomandante Marcos

SUBCOMANDANTE MARCO

マルコス・ここは世界の片隅なのか―グローバリゼーションをめぐる対話サパティスタの夢 インディアス群書(5)もう、たくさんだ!―メキシコ先住民蜂起の記録〈1〉 (メキシコ先住民蜂起の記録 1)老アントニオのお話―サパティスタと叛乱する先住民族の伝承

Wikipedia
サパティスタ民族解放軍
メキシコを動かした先住民の闘い
EZLNの闘争
EZLNへの質問状とマルコス副司令官による回答
サパティスタ民族解放軍・マルコス副司令官のガザに関する演説
マルコス副司令官 サパティスタ民族解放軍

耳が聴こえるようになった瞬間の表情


視覚の謎を解く一書/『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン

 ・耳が聴こえるようになった瞬間の表情

色盲の人が初めて色を見た瞬間の感動動画
生まれて初めて色を見て咽(むせ)び泣く人々

 生後8ヶ月の赤ちゃんと、29歳の女性の動画だ。世界が変わる瞬間を捉えた映像といってよい。




 耳が聴こえるのはこんなにも凄いことなのだ。ありのままの世界は美しく豊かな姿をしている。彼女たちの姿を見て我々健常者の鈍感を思わずにはいられない。耳が聴こえることは、多分それだけで「悟り」だ。美しさ、豊かさを「素晴らしい」と感じられることが真の人間性であることを教えられる。

故郷とは


 人は幼い頃、世界を完全なものとして見ている。大きくなるにつれ、次第にそれらの一切が力を失い、歪(ゆが)んで色あせたものにしか感じられなくなってしまう。“故郷”とは、地理上に位置づけられた地点をさすのではなく、心の中にあって、焼きつけられた様々な時間の集合のことである。どこに行ったとしても再び回復されることはないし、探せば探すほど感光したフィルムのように像は消え失せてしまうはずのものだ。

【『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1989年/リバイバル版 小学館、2000年/小学館文庫、2003年)】

汝ふたたび故郷へ帰れず (小学館文庫)

2011-10-01

生まれる前に殺されたパレスチナの赤ちゃん


「妊婦撃てば2人殺害」 イスラエル兵Tシャツ

 アラブ人妊婦に銃の照準を合わせた絵に「1発で2人殺害」の文字――。イスラエル軍兵士が部隊の仲間内で、パレスチナ人の生命を軽視するような図柄のオリジナルTシャツを作って着用していることが24日までに、イスラエル紙ハーレツの報道で分かった。
 照準の中に少年の絵を描き「小さいほど難しい」と書かれたTシャツもあり、兵士の一人は「子供を撃つのは道徳的に問題で、また標的として小さい(から難しい)」という意味だと解説した。シャツを町中で着れば非難されるため、軍務時に着用しているという。
 兵士や士官はこうした絵柄について「本当に殺そうと考えているわけでなく、内輪の冗談」などと説明。同紙は一方で「2000年のパレスチナとの大規模衝突以降、イスラエル世論が右傾化し、兵士の間でパレスチナ人の人権を無視する傾向がみられる」とする社会学者の話も伝えた。
 軍報道官は同紙に対し「兵士が私的に作ったものだが、軍の価値観と相いれない」として、かかわった者の処分を検討する方針を示した。

【共同通信 2009-03-24】

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IDF unit t-shirt hq IDF durex t-shirt

No doubt that Israel will find an excuse for killing this baby.  He must have been a terrorist hiding in his mother's womb!!

Where was Western media when this fetus was killed?

 私は元々反シオニズムであるが、この写真を見て反ユダヤ教に改宗した。イスラエルは徴兵制度を採用(男女を問わずユダヤ教徒のイスラエル国民と永住者に対して兵役の義務が課せられている)しているので、ほぼ全てのイスラエル人がパレスチナ人虐殺に関与していると考えていい。せめて母親だけでも助かっていればよいのだが。

死者数が“一人の死”を見えなくする/『アラブ、祈りとしての文学』岡真理

猿谷要


 1冊読了。

 65冊目『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』猿谷要〈さるや・かなめ〉(河出書房新社、1975年『生活の世界歴史 9 新大陸に生きる』/河出文庫、1992年)/岸田秀が紹介していた本。確か『ものぐさ精神分析』だったと記憶している。ドンピシャリのタイミングであった。私の選球眼は冴える一方だ(笑)。アメリカが世界の警察として我々を牛耳っている以上、その歴史を辿る必要がある。つまり近現代を読み解くためには、宗教改革+産業革命+市民革命~アメリカ建国に鍵があると考えられる。目の付けどころがいいのは、魔女焚殺(ふんさつ)からアメリカ先住民大虐殺、および黒人の奴隷化といった暴力の共通項があるところだ。今、世界が必要としているのは全アメリカ人に反省を促し、詫びを入れさせる学問的見解であると思う。本書は「厳選120冊」に入れる予定。

歴史の本質と国民国家/『歴史とはなにか』岡田英弘


『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘
『歴史とは何か』E・H・カー

 ・歴史の本質と国民国家

『世界システム論講義 ヨーロッパと近代世界』川北稔
『歴史の起源と目標』カール・ヤスパース

世界史の教科書
必読書リスト その四

 必ずE・H・カー著『歴史とは何か』を事前に読んでおきたい。そうでないと本書の迫力は理解できない。

 結局、学問とは原理を指し示し、そこへ導く営みであることがよくわかった。つまり学問の最終形態は数学と宗教に辿り着く。ザ・原理。

 岡田英弘の主張には鉈(なた)のような力が働いている。まさしく一刀両断という言葉が相応(ふさわ)しい。

 なにが歴史かということが、なぜ、なかなか簡単に決まらないか。その理由を考えてみる。理由はいくつもある。いちばん根本的な理由は、歴史が、空間と同時に、時間にもかかわるのだという、その性質だ。
 空間は、われわれが体を使って経験できるものだ。両手両足を伸ばしてカバーできる範囲の空間は知れたものだけれども、2本の足を使って歩いて移動すれば、もっと遠くまでカバーできる。行ってみて確かめることができる。
 しかし、時間はそうはいかない。むかしの時間にちょっと行って、見て、またもどってくるということはできない。空間と時間はここが違う。この違いが、歴史というものの性質を決める、根本的な要素だ。

【『歴史とはなにか』岡田英弘(文春新書、2001年)以下同】

 時間の不可逆性といっていいだろう。時間を計ることはできても、同じ時間を計り直すことはできない。

 個人の経験だけに頼って、その内側で歴史を語ろうとしても、それは歴史にはならない。歴史には、どうやら「個人の体験できる範囲を超えたものを語る」という性質があるようだ。
 そこで、私の考えかたに従って歴史を定義してみると、

「歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである」(岡田英弘『世界史の誕生』ちくま文庫、32頁)

 ということになる。ここでは、「一個人が直接体験できる範囲を超え」るということがだいじだ。そうでなければ、歴史をほかの人と語り合う意味がなくなる。つまり、歴史の本質は認識で、それも個人の範囲を超えた認識であるということだ。
 つぎにだいじなことは、歴史は人間の住む世界にかかわるものだ、ということだ。人間のいないところには、歴史はありえない。「人類の発生以前の地球の歴史」とか、「銀河系ができるまでの宇宙の歴史」とかいうのは、地球や宇宙を人間になぞらえて、人間ならば歴史に当たるだろうというものを、比喩として「歴史」と呼んでいるだけで、こういうものは、本来は歴史ではない。

 一発目の右フックだ。歴史はコミュニティ内部で成立する。

 少々敷衍(ふえん)しておくと、時間とはそもそも概念である。それゆえ永遠は存在しない。なぜなら計測する人がいないためだ。

月並会第1回 「時間」その一

 ここで念を押すと、直進する時間の観念と、時間を管理する技術と、文字で記録をつくる技術と、ものごとの因果関係の思想の四つがそろうことが、歴史が成立するための前提条件である。言いかえれば、こういう条件のないところには、本書で問題にしている、比喩として使うのではない、厳密な意味の「歴史」は成立しえないということになる。

 権力の本質に関わる定義ともなっていて興味深い。そして権力者は歴史を検閲し、修正し、改竄(かいざん)するのだ。

 もう一つの歴史の重要な機能とは、「歴史は武器である」という、その性質のことである。文明と文明の衝突の戦場では、歴史は、自分の立場を正当化する武器として威力を発揮する。

 物語としての正当性は具体的には大義名分として機能する。文字をもたぬ文明が滅んでしまうのも、ここに本質的な原因があるのだろう(アフリカ人、インディアンなど)。

 国民国家という観念が19世紀に誕生してから、国家には歴史が必要になってきた。それで、いまではあらゆる国で国史を作りはじめているが、18世紀までの世界では、自前の歴史という文化を持っている文明は、たった二つしかなかった。一つは中国文明で、もう一つは地中海文明だ。

世界史は中国世界と地中海世界から誕生した/『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘

 岡田史観によれば、歴史はヘロドトス(紀元前485年頃~前420年頃)と司馬遷(紀元前145年~?)から始まる。この件(くだり)も恐るべき指摘で、国家はもちろんシステムとして作用するわけだが、国家を成り立たせているのは歴史なのだ。

 中国文明と地中海文明とでは、まず歴史を語る物語の筋が違う。人間の頭には、筋のない物語は入らない。物語がなければ叙述できない。名詞や数字を雑然と列挙したのでは歴史にならない。

 歴史とは「書かれたもの」である。否、「書かれたもの」だけが歴史なのだ。そして今、世界史は西洋のコンテクストで描かれている。

 司馬遷が『史記』で書いているのは、皇帝の正統の歴史である。世界史でもないし、中国史でもない。第一、「中国」という国家の観念も、「中国人」という国民の観念も、司馬遷の時代にはまだなかった。こういう観念は、19~20世紀の国民国家時代の産物である。

 正史という概念である。皇帝が支配する世界を「天下」と称し、その範囲内を記したのが司馬遷の『史記』であった。

 言いかえれば「正史」は、中国の現実の姿を描くものではなく、中国の理想の姿を描くものなのだ。理想の姿は、前漢の武帝の時代の天下の姿である。なんどもくりかえし言っているが、中国的な歴史観のたてまえでは、天下に変化があってはならない。実際には変化があっても、それを記録したら、歴史にはならない。

 先ほどの文脈からいえば国家は歴史的存在であり、歴史とは政治であるといえよう。この三位一体によって国家は成立する。

 この『ヒストリアイ』の序文でヘロドトスが言っていることは、三つの点に要約できる。
 その一は、世界は変化するものであり、その変化を語るのが歴史だ、ということ。
 その二は、世界の変化は、政治勢力の対立・抗争によって起こる、ということ。
 その三は、ヨーロッパとアジアは、永遠に対立する二つの勢力だ、ということ。

 2500年前にヘロドトスが歴史を悟った瞬間から、人類は歴史的な存在となったのだろう。「万物は流転する」(ヘラクレイトス、紀元前540年頃~前480年頃)。

Herodotus

 こうして、世界最初の一神教王国が誕生した。これがユダヤ教の起源である。
 その35年後、新バビュロニア帝国のネブカドネザル王がイェルサレムを攻め落とし、ヤハヴェの神殿を破壊し、ユダ王国の民をバビュロニアに連れ去った。これを「バビュロニア捕囚」と言う。
 連れ去られたユダ王国の民は、ヤハヴェ神との契約を守って、それから半世紀のあいだ、捕囚の生活のなかで、独自の種族としての意識を持ち続けた。これがユダヤ人の起源である。政治に関係なく、ヤハヴェ神との契約を守るものがユダヤ人、ということになったわけだ。

 ここが急所だ。ユダヤ教を長男とするアブラハム三兄弟が歴史を牛耳っている。連中は「神が創造した世界」という前提で思考する。それゆえ中国文明との遭遇は少なからず西洋に衝撃を与えた(『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世)。

 もう一つ付言しておくと、インディアンも聖書には書かれていないため、ヨーロッパ人はどう扱えばよいのか慌てた事実がある。

 中国文明は歴史のある文明だから、それに対抗して独自性を確立しようとすれば、中国文明の有力な武器の一つである歴史を、日本文明も持たなければならない。
 そこで『日本書紀』という、日本で最初の歴史が描かれることになった。
 天武天皇が歴史の編纂を命じたのが681年、『日本書紀』30巻が完成したのは720年で、39年かかっている。これが日本最初の歴史である。ふつうには『古事記』が日本で最初の歴史だということになっているが、712年に『古事記』が書かれたというのはうそだ。『古事記』は、ほんとうは『日本書紀』の完成から約100年後の平安朝の初期、9世紀のはじめにつくられた偽書であることは、あとでくわしく述べる。

 歴史のでっち上げだ。歴史に偽書はつきものだ。

 日本人がおなじみの「正統史観」は、西ヨーロッパにはない。西ヨーロッパとは、つきつめて言うと、ローマ市の支配が及んだ範囲だ。ところで中国では、「正統」の皇帝が支配した範囲が天下だった。外見は似ているが、まず枠組みの中心になる軸が違う。

 地政学がヨーロッパ基準であることがわかる。中国や日本の歴史は系譜といってよい。

 歴史は物語であり、文学である。言いかえれば、歴史は科学ではない。
 科学を定義すれば、まず第一に、科学はくりかえし実験ができる性質がある。歴史は一回しか起こらないことなので、この点、科学の対象にならない。
 第二に、もっと重要なことだが、それを観察する人がどこにいるかの問題がある。
 科学では、粒子の違いは問題にならない。みんな同じだとして、それらを支配する法則を問題にする。
 ところが歴史では、ひとりひとりはみんな違う。それが他人に及ぼす機能も違う。それを記述する歴史を書く人も、歴史を読む人も、みんなが同じ人間だ。
 そういうわけだから、歴史は科学ではなく、文学なのだ。

 歴史の相対性理論だ。「それを観察する人がどこにいるか」との指摘には千鈞(せんきん)の重みがある。

「理想的年代記」は物語を紡げない/『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』野家啓一

 現代史は、国民国家の時代の歴史であり、国民国家は18世紀の末までは存在しなかった、(以下略)

 我々の頭にある国家の概念は国民国家を意味する。当たり前の話だが鎌倉時代には国という概念はあったが、国家としての枠組みは確立していない。これは多分、情報伝播(でんぱ)の速度とも関係しているのだと思う。すなわち通信や乗り物などの技術革新が国民国家を形成したのだろう。だから産業革命(1760年~19世紀)と市民革命(ピューリタン革命 1641~1649年、フランス革命 1789年~1799年、アメリカ独立革命 1775年~1783年)はセットで考えるべきだろう。

 結局、人間が時間を分けて考える基本は、「いま」と「むかし」、ということだ。これを言いかえれば、「現在」と「過去」、さらに言いかえれば、「現代」と「古代」、という二分法になる。二分法以外に、実際的な時代区分はありえない。

 これは歴史が進歩するという唯物史観に対して書かれたもの。そして歴史家の立ち位置は「いま」に束縛される。現在から過去を見つめる視線の中にしか歴史は存在しない。

 ちゃんとした歴史では、善とか悪とかいう道徳的な価値判断も、なにかの役に立つとか立たないとかいう功利的な価値判断も、いっさい禁物だ。こうした価値判断は、歴史家がついおちいりやすい落とし穴だが、ほんとうを言えば、対立の当事者以外には意味がない、よけいなおせわであり、普遍的な歴史とは無縁のものなのだ。

 溜め息をつきすぎて酸欠状態になるほどだ。結局、善悪を判定することは政治的行為なのだ。しかもそれは、現在の権力者の都合で決まるのだ。歴史は常に書き換え可能であることを踏まえる必要がある。

(※君主の土地と自治都市が入り乱れており)国境線がないのだから、ひと続きの国土というものもなく、国家など、存在しようがなかった。
 そういう状態のところで革命が起こると、市民が王から乗っとった財産、つまり「国家」は、だれのものか、ということが問題になる。市民と言っても、だれが市民で、だれが市民でないかの範囲は漠然としているから、もっとはっきりしただれかを、王の財産権の正当な相続人として、設定しなければならないことになる。そこで「国民」という観念が生まれて、「国民」が「国家」の所有者、つまり主権者だ、ということになった。「国民国家(nation-state)」という政治形態は、このときはじめて生まれたのだ。

 自分のデタラメな言葉遣いを思い知らされた。我々が使う「国家」とはこういう意味だったのだ。隙間だらけの脳味噌に岡田の放つピースが一つずつきっちりと収まってゆく。それでも尚、ジグソーパズルが完成することはない。

 たとえば、「日本建国」と言うと、つい、「大和民族」が結集して、日本という「国家」を創ったことだ、と思いたくなる。ほんとうは、「日本天皇」という称号を帯びた君主が出現し、その日本天皇の宮廷が列島の政治の中心になった、ということであり、日本天皇のもとに統合された人たちが、外から「日本人」と呼ばれるようになった、ということであるにすぎない。

 民族も国家も一つの現象にすぎない。

 結局、世界史の上で現代(Modern Age)を特徴づけるものは国民国家であって、国民国家という政治形態をとることが、すなわち近代化(modernization)である、と考えればいい。
 この国民国家というものは、「歴史の法則」などによって、必然的に生まれてきたものではない。北アメリカと西ヨーロッパに、続けざまに起こった二つの革命によって、偶然に生まれた政治形態だ。しかも、それが世界中に広まったのは、国民国家のほうが戦争に強いという理由があって、国民国家にならなければ生きのこれなかっただけのことだ。

 鳩尾(みぞおち)にボディブローが突き刺さる。意識が遠のいてゆく。国民国家の誕生は、人と人との関係性や脳内情報の構造をも変えたはずだ。我々が生きるのは「国民国家世界」といえる。ただし民主主義の内実が伴っていないが。

 ところで、国民というものは、ばらばらの名前のない人たちの集まりだから、目に見える国民統合の象徴は、どうしても必要だ。だから、共和制の大統領は、任期中、かれの人格をもって、もともとは決まった形のない国民国家というものに、個性を与えているわけだ。ところが、大統領が交代すると、人格はひきつげない。つぎには違う大統領が、違う個性を国家に与えることになる。
 共和制の国家が一貫した個性を持てないことの弊害は、アメリカ合衆国の対外政策にめだっている。アメリカの世界政策は、大統領の任期が終わるたびにころころ変わり、つぎにどちらの方向に向かうか、大統領選挙まで待たなければわからない。しかもアメリカの大統領は、世界でもっとも強大な権力を手にしているために、その人のちょっとした癖や、間違った思いこみで、どんな大きな結果が生じるかわからない。

 私はホール・ケイン著『永遠の都』を読んで以来、何となく共和国に憧れを抱いていたのだが、あっさりと吹き飛ばされた。もはや完全に見えなくなった。

 国民国家というのは、観念の上のものだ。言いかえれば、理想であっても、実在のものではない。

 所詮、国家なんてものは脳の枠組みにすぎないのだ。痺れる。実に痺れるではないか。

 人間は概念世界を生きる動物である。E・H・カーや岡田英弘はその概念を激しく揺さぶる。堪(たま)らない快感だ。



修正し、改竄を施し、捏造を加え、書き換えられた歴史が「風化」してゆく/『一九八四年』ジョージ・オーウェル
物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
超高度化されたデータ社会/『ソウル・コレクター』ジェフリー・ディーヴァー
古代イスラエル人の宗教が論理学を育てた/『数学嫌いな人のための数学 数学原論』小室直樹
シオニズムと民族主義/『なるほどそうだったのか!! パレスチナとイスラエル』高橋和夫
歴史という名の虚実/『龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』加治将一

2011-09-30

ジャーゴン


 ジャーゴン(仲間内の専門用語)

【『触発する言葉 言語・権力・行為体』ジュディス・バトラー:竹村和子訳(岩波書店、2004年)「訳者あとがき」より】

触発する言葉―言語・権力・行為体

はてなキーワード

ウンコはゲロよりましだ


 たとえうんこであろうとも、ゲロよりマシだ。とにもかくにも、それは消化されているのだから……。

【『安全太郎の夜』小田嶋隆(河出書房新社、1991年)】

安全太郎の夜

2011-09-29

クラスメートはイスラエル軍に殺された


 絶対に目をつぶってはいけない。これがパレスチナ人の日常なのだ。こうした情況が既に60年以上も続いている。終わることのない殺戮は今も進行中だ。

APTOPIX MIDEAST ISRAEL PALESTINIANS

GAZA HOLOCAUST

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Gaza غزه

9.11テロは物質文明の幻想を破壊した/『パレスチナ 新版』広河隆一

ジュディス・バトラー


 1冊挫折。

触発する言葉 言語・権力・行為体』ジュディス・バトラー:竹村和子訳(岩波書店、2004年)/歯が立たず。読むべき本であり、読まれるべき本でもあるわけだが、私の顎(あご)の力が及ばない。ガヤトリ・C・スピヴァクといい勝負だと思う。もっと勉強しなくては。ゆくゆく『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』と併読する必要あり。

日英同時バス内差別


 たまたま読んだ二つのブログ記事がバス車内での差別を取り上げていた。一つは日本、もう一つはイギリスでの光景。これを日英の違いとするのは深読みのしすぎだろう。しかし、パーソナルな要素が強いとはいえ、背景の隔絶を見過ごしてはなるまい。

「その席に福島県人が乗ってるぞ! 降ろした方がいいんじゃねーか? 放射能うつるぞ? 運転手さんよー!」
 私は言葉が出なかった。
 こんな人間いるのか? 本当に苦しんでる我々、福島県民をそう思っているのか?
 親父はその怒鳴ってるオヤジに言い返さなかったらしい。
 その辺が親父なのだが、酒が入りオレについ愚痴をこぼしたのだろう。
 その方は関東圏の方らしい、その原発にかなり依存していたはずである。

親父の告白……。(口調が厳しいのでスルーでも可)/Ayumu_Creative-Laboratory

「注意するレベル」を軽々と超えている。かような人物にはリンチが相応(ふさわ)しい。本当の自治にはそれくらいの覚悟が求められると私は思う。

 進化論的に考えても、差別主義者やデマを流す人物はコミュニティを危険に陥れる要素が強い。なぜならルールが破壊されてしまうからだ。共同という概念はなし崩しとなる。

 正義とは「裁く」ことを意味する。もちろん内容については吟味が必要だ。だが、この男の発言は断じて議論を必要とするものではない。

 次に紹介するのはイギリスのエピソードである。

「誰かがそこの真ん中あたりで、不愉快な雑音を発しただろう」
 運転手はそう言いながら、その目は明らかにスキンヘッド二人組のほうを見ていた。
 運転手から誰が見てもそれとわかるような明瞭な視線を向けられ、二人組は激昂した。
「なに格好つけてんだよ」
 と、背の高い方のスキンヘッドが言う。
「ファッキン・チンクはファッキン・チンクだろうが。ちょっとファッキン金の貰えるファッキン仕事をしてるからと言って、人を見下ろすな」
 背の低い小太りのスキンヘッドも、ファッキン、ファッキンとリズミカルに怒鳴っている。

「降りろ」
 と運転手は言った。
「卑語や他人を蔑む言葉を使う人間は、俺のバスには乗れない。降りろ」

リトル・アンセムズ 1. Never Mind The Fu**ers/THE BRADY BLOG

 まるで映画のワンシーンを観ているようだ。しかも運転手は紳士的な態度を貫いており、それが民意の合意形成にまで及んでいる。

 私はイギリスという国が大嫌いだがこういうイギリス人は大好きだ。運転手は柄の悪そうな白人だった。それでも相手が違えば殴られるか、刺されるか、撃たれる可能性もあった。

 彼はそれだけのリスクを引き受けた上で、小さな暴力に目をつぶらなかった。これこそ「フェアの精神」であろう。

 この記事は9月20日に書かれている。そして福島の記事は翌日に書かれたものだ。偶然といってしまえばそれまでだ。

 世界経済が混乱の度合いを深めている。既に不況から恐慌への段階に差し掛かっている。人々の生活が苦しくなってくると必ずモラルが綻(ほころ)び始める。そして犯罪率が増加する直前に「小さな暴力」が蔓延するのだ。

 正義の鏡を磨くためには、自分自身が正しく生きるしかない。

【※読者からの指摘で気づいたのだが、アメリカではなくイギリスであった。9月30日訂正】

公民権運動の母ローザ・パークスとバス
クー・クラックス・クラン(KKK)と反ユダヤ主義

パレスチナの子供たち


 パレスチナに生まれたというだけで、子供たちがこんな目に遭わされている。ユダヤ教は邪教としか考えられない。イスラエルはヒトラー以上の悪党だ。

Kids Right 2 Live

Israel Killed family this child

gal_gaza_bombing_12

People in Palestine

GAZA HOLOCAUST

虫けらみたいに殺されるパレスチナの人々/『「パレスチナが見たい」』森沢典子

2011-09-28

合理的な思考と関係性の構築/「民主主義における正義」武田邦彦 2011年9月27日


 3.11以降、武田邦彦(中部大学)は毎日のようにホームページを更新し、次々とテレビやインターネット放送に出演し、国会や政治家の勉強会にも招かれている。これだけでも十分尊敬に値するのだが、この人が凄いのは「学問への信頼」という姿勢であり、政治性や損得を退け、学問に照らした合理性を堂々と語っている一点にある。

 明朗でいつもニコニコしている。明快な語り口で淀むところがない。更に該博な知識と絶妙な比喩で問題の本質を炙(あぶ)り出す。

 原子力行政や事故対応などについて声を上げた学者は少ないながら他にもいた。彼らは学問の底力を満天下に示したといってよい。

 そして私は思った。「その他大勢の学者連中は何をしているのだろうか?」と。国内で大惨事が起こっている時に、通常通りのカリキュラムをこなしているのだろうか? 立ち上がる学者や教育者はあまりにも少なかった。つまり「学問は死んだ」のだ。

 いかなる分野の学問であろうと、東日本大震災に結びつけ、東電原発事故を問うことは可能であろう。それすら怠っている職業教師は教壇から降りるべきだ。

 武田に至っては近頃、音声のメッセージまで発信している。「伝えずにはいられない」という思いが、彼を駆り立てているのだろう。武田こそ「先生」と呼ばれるのに相応(ふさわ)しい大人であると思う。

【「技術者の倫理」という講義で】「何が正義なのか?」「自分が正しいと考えるものは正しいわけではない」「正しいというのは、神様が決めるか、偉人が決めるか、相手が決めるか、法律で決めるか――主にはこの四つで定まっていると考えてよい」



NYC - Metropolitan Museum of Art - Jacques-Louis David - The Death of Socrates

 遵法(じゅんぽう)精神を明らかにすることで科学者・技術者としての分際を弁える姿勢を教えている。その謙虚さが政治家は元より、政治家を選ぶ国民にまで突きつけられるのだ。

 一見すると単純な原理を示しているようでありながら、正義と民主主義というテーマは哲学・宗教の領域に踏み込むものである。

 この国の最大の不幸は、国家を運営する政治家や官僚、そして大企業が「正しさ=利権」という価値観から脱却できないところにある。これほどの犠牲を払いながら、目を覚ますことなく旧態依然とした判断しかできないのだ。

 反原発を口にすると、「じゃあ電気はどうするんだ? 代替案を出せ」などという馬鹿者がいるが、原発導入が国民の相違に基づくものでない以上、それを考えるのは政治家の仕事だ。

 もしも現行法で東京電力を潰せないとすれば、法律に不備があるとしか言い用がない。贈収賄、独占禁止法、私有地における電柱問題、意図的な高額メニューの設定など、突っつくところはいくらでもあると思う。

武田邦彦【動画】

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