2011-10-06

地球外文明(ETC)は存在しない/『広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由 フェルミのパラドックス』スティーヴン・ウェッブ


『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン
『黒体と量子猫』ジェニファー・ウーレット
・『重力とは何か アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る』大栗博司

 ・地球外文明(ETC)は存在しない

『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』レオナルド・サスキンド

 神と宇宙人と幽霊はたぶん同一人物だ。いずれも自我の延長線上に位置するもので、人類共通の願望が浮かび上がってくる。で、少なからず見たことのある人はいるのだが、連れてきた人は一人もいない。

霊界は「もちろんある」/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 すなわち神と宇宙人と幽霊は情報次元において存在するのだ。ま、ドラえもんと似たようなものと思えばいい。ドラえもんは存在するが、やはり連れてくることは不可能だ。

「地球外文明(エクストラテレストリアル・シヴィライゼーション/略してETC)〈※原文表記は Extra-Terrestrial Civilization か〉」は、厳密にいえば宇宙人というよりも、高度な文明をもつ知的生命体という意味合いだ。

 ロシアの天体物理学者ニコライ・カルダシェフは、そのような分類について、役に立つ考え方を提案した。ETCの技術水準は三つあるのではないかという。カルダシェフ・タイプ1、つまりK1文明は、われわれの文明と同等で、惑星のエネルギー資源を利用することができる文明である。K2文明になると、地球の文明を超え、恒星のエネルギー資源を利用できる。K3文明ともなると、銀河全体のエネルギー資源を利用できる。さて、(スティーヴン・)ジレットによれば、銀河にあるETCの大半はK2かK3ではないかという。地球上の生命についてわかっていることからすると、生命には利用可能な空間を見つけて、そこへ広がっていくという、生得の傾向があるらしい。地球外生命は別だと考える理由はない。きっとETCは、生まれた星系から銀河へ進出しようとしているだろう。ここで大事なのは、技術的に進んだETCなら、数百万年で銀河系を植民地にできるという点である。それならすでに地球にも来ていていいはずだ。銀河は生命であふれかえっているはずだ。ところがETCが存在する証拠は見つかっていない。ジレットはこれをフェルミ・パラドックスと呼んだ。ジレットにとって、このパラドックスはそっけない結論を示していた。この宇宙にいるのは、人類だけということである。

【『広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由 フェルミのパラドックス』スティーヴン・ウェッブ:松浦俊輔訳(青土社、2004年/新版『広い宇宙に地球人しか見当たらない75の理由』、2018年)以下同】

カルダシェフの定義
フェルミのパラドックス

 科学者の想像力は凄いもんだ。「あ!」と頭の中に電気が灯(とも)る。「ってなわけで、やっぱりいないのよ」以上、で終わってもよさそうなものだが、スティーヴン・ウェッブはここから50の理由を挙証してゆく。

Black Hole Pumps Iron (NASA, Chandra, 09/14/09)

 まずはエンリコ・フェルミの人となりを紹介しよう。

 その後まもなく、ベータ崩壊(大質量の原子核にある、電子を放出するタイプの放射能)に関するフェルミの理論で、その国際的な名声は定まった。その理論は、電子とともに、幽霊のような正体不明の粒子が放出されることを求めていた。この粒子をフェルミは中性微子(ニュートリノ)――「小さな中性のもの」と呼んだ。このような仮説的なフェルミ粒子の存在を誰もが信じた訳ではないが、結局、フェルミは正しかった。物理学者は1956年、とうとう、ニュートリノを検出したのである。

 何と「ニュートリノ」を命名した人物であった。しかも生まれるずっと前の名付け親ときたもんだ。偉大なるオジイサンとしか言いようがない。

 フェルミの同業者たちは、物理学の問題についてその核心をまっすぐ見通し、それを簡単な言葉で述べるフェルミの恐ろしいほどの能力を讃えていた。みんなフェルミのことを法王と呼んでいた。間違うことがないように見えたからだ。それと同様に印象的だったのが、答えの大きさを推定する方法だった(複雑な計算を暗算することも多かった)。フェルミはこの能力を学生に教え込もうとした。いきなり、一見すると答えようのない問題に答えろと命じることがよくあった。世界中の海岸にある砂粒の数はいくらかとか、カラスは止まらないでどのくらいの距離飛べるかとか、人が呼吸するたびに、ジュリアス・シーザーが最後に吐いた息の中にある原子のうち何個を呼吸していることになるかとかの問題である。このような「フェルミ推定」(今ではそう呼ばれている)を考えるには、学生は世界や日常の経験についての理解に基づいて、おおざっぱな近似をする必要がある。教科書やすでにある知識に基づいてはいられないのだ。

 科学は合理性をもって世界を捉える。ここに科学の魅力がある。例えば人体は60兆個の細胞から成る。そして毎日15兆個(20%)が死ぬ。1秒間で5000万の細胞が生まれ変わる。血管全部をつなぐと10万km(地球2周半に相当)になり、肺を広げるとテニスコート半分ほどとなる(「からだの不思議 素晴らしい人体」を参照した)。

 これは単なる数量の計測ではない。人体を小宇宙と開く偉大な発見なのだ。

 パラドックスという言葉は二つのギリシア語に由来する。「~に反する」という意味の「パラ」と、「見解・判断」を意味する「ドクサ」である。それはある見解や解釈とともに、別の、互いに排除し合う見解があることを述べている。この言葉はいろいろな細かい意味をまとうようになったが、どの使い方にも、中心には矛盾という観念がある。ただ、パラドックスはつじつまが合わないだけのことではない。「雨が降っている。雨は降っていない」と言えば、それは自己矛盾で、パラドックスはそれだけのことではない。パラドックスが生じるのは、一群の自明の前提から始めて、その前提を危うくする結論が導かれるときである。外ではきっと雨が降っているに違いないとする鉄壁の論拠があったとして、それでも窓の外を見ると雨は降っていない。この場合、解決すべきパラドックスがあるということになる。
 弱いパラドックスあるいは「誤謬(ファラシー)」は、少し考えれば解決がつくことが多い。矛盾が生じるのは、たいてい、ただ前提から結論に至る論理のつながりを間違えているだけだからだ。これに対して強いパラドックスでは、矛盾の元はすぐには明らかにならない。解決がつくまで何世紀もかかることもある。強いパラドックスには、われわれが後生大事に抱えている理論や信仰を問い直すという力がある。

 パラドックスというテーマにも強弱があるという指摘が面白い。小疑は小悟に、大疑は大悟に通じるということなのだろう。宗教って、こういうところが曖昧なんだよね。彼らはバイブルや経典に束縛されて合理性を見失うのだ。だから、どの宗教でも間違い探しみたいな研鑚ばかりしているのが現状だ。

Black Holes Have Simple Feeding Habits (NASA, Chandra, 6/18/08)

 では、フェルミ・パラドックスが誕生した瞬間を見てみよう。

 4人は腰をおろして昼食をとり、話はもっと現世的なことに転じた。すると、まだほかのこと話しているさなか、だしぬけにフェルミが聞いた。「みんなどこにいるんだろうね」。昼食をともにしていたテラー、ヨーク、コノピンスキーは、フェルミが地球外からの来訪者のことを言っているのだとすぐに理解した。それがフェルミだったので、みな、それが最初思われていたよりも厄介で根本にかかわる問題であることに気づいた。ヨークの記憶では、フェルミは次々と概算して、地球はとっくに誰かが、何度も来ているはずだという結論を出した。(1950年、ロスアラモスにて)

 ロスアラモスの昼食から生まれたというのが示唆的だ。ロスアラモスは核爆弾の総本山である。

 言い換えれば、われわれと通信しようとする文明が、今現在、100万あってもおかしくないということだ。すると、なぜ、向こうからの声が聞こえてこないのだろう。それに、どうしてこちらへ来ていないのだろう。(中略)みんなどこにいるのか。【彼らはどこにいるのだろう】。これがフェルミ・パラドックスである。
 パラドックスは知的生命が存在しないということではないことに気をつけておこう。パラドックスは、知的生命が存在すると予想されるのに、その兆しが見あたらないということである。

 つまり文明が発達していれば当然放射されるはずの電磁波が観測されていないのだ。もちろん宇宙は広大であるがゆえに、たまたま地球の上を通過していないと考えることはできる。

 このパラドックスが別個に四度発見されたことを知れば、このパラドックスの力がわかるだろう。このパラドックスは、正確にはツィオルコフスキー=フェルミ=ヴューイング=ハート・パラドックスと呼ぶべきかもしれない。

 知のシンクロニシティといってよい。一握りの人が先鞭(せんべん)をつける格好で脳内のネットワークシステムは進化し続ける。

Kepler's Supernova Has Fast-Moving Shell (NASA, Chandra, Hubble, Spitzer,10/06/04)

 しかし今のところ何も見つかっていない。探査機は熱を放出しているだろうが、異常な赤外線も観測されていない。

 高度な技術をもつ知的生命体が存在する可能性は極めて低い。

 しかしわれわれは自信をもって、エイリアンの存在を示す証拠はまだ見つかっていないと言うことはできる。それを観測していないのに、なぜいるかもしれないと想定するのだろう(さらに、探査機が太陽系にいるのなら、どうして地球だけ放っておくのかという問題も残る)

 宇宙人を信じる人々は願望を投影しているのだ。著者は物理学者であるが元々はETC肯定派だったという。科学者の間でさえ意見が分かれている。

 もしかしたら、われわれみながエイリアンなのかもしれないのだ。

 人体だって元を尋ねれば星屑に行き着くわけだから、別にエイリアンであっても構わんがね。特に地球という土地に束縛される必要はないだろう。

 地球外文明(ETC)は存在しない。今のところは。



偽りの記憶/『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』スーザン・A・クランシー
宇宙人に誘拐されたアメリカ人は400万人もいる/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー、ブライアン・キング

2011-10-05

米市民デモ:南部にも飛び火する兆し 異例の事態に


 世界金融の中心地・ニューヨークのウォール街付近で始まった米国の市民デモは4日、テキサス州など米南部にも飛び火する兆しを見せ始めた。保守色の強い南部地域で大規模な抗議行動に発展すれば、異例の事態だ。全米各地に広がるデモは3週目に突入し、深まる寒さの中、参加者らは寝袋を持ち込んで「長期戦」に備えている。
 4日付の米紙ニューヨーク・タイムズなどによると、米南部のテキサス州マッカレンやテネシー州メンフィスでも、若者らが抗議行動を開始。今後はさらに、アラバマ州モービルやアーカンソー州リトルロック、米西部のニューメキシコ州サンタフェなどでもデモが計画されているという。
 抗議団体の拠点であるニューヨークのズコッティ公園では4日、寝袋にくるまって寒さをしのぎながら夜を明かす参加者の姿があった。テントを設営して泊まり込む人もおり、「徹底抗戦」の構えだ。

毎日jp 2011-10-05

 テロから暴動への変化か。

スティーブ・ジョブズ

Fortune: The trouble with Steve Jobs

 スティーブ・ジョブズとのトラブルを説明するために作られたモザイク画像のようだ。表示を拡大するとわかるが小さな画像を集めたもので錯視画像の一種だ。せっかくなんで、伝説のスピーチもどうぞ。



スティーブ・ジョブズ I スティーブ・ジョブズ II スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン―人々を惹きつける18の法則 スティーブ・ジョブズ名語録 (PHP文庫)

【付記】この記事をアップした日にスティーブ・ジョブズは逝去した。哀悼。

《速報》米アップル社のジョブズ氏死去

 米アップル社の創業者で、取締役会長スティーブ・ジョブズ氏が5日、亡くなった。56歳だった。CNNなど米主要メディアが報じている。同社のホームページでもジョブズ氏の逝去を報告。ジョブズ氏のモノクロ写真とともに、「アップル社は独創的な天才を亡くしました。世界にとっても輝かしい功績を残した人を亡くしました」と追悼のメッセージを掲載している。ジョブズ氏は米カリフォルニア州出身。iPhoneやiPadなどの人気製品を次々と生み出したカリスマ経営者として知られる。04年にすい臓がんを患い、09年には肝臓移植のため休職。今年1月、病気を理由に再び休職することが発表され、8月には最高経営責任者(CEO)職を辞任していた。

tv asahi 2011-10-06

 哀悼の意を表して画像を追加。(10月7日)

WBK steve jobs

Remembering Steve Jobs Wallpaper by Matt Fairbrass

Steve Jobs

Steve Jobs iPad - Time Magazine

Steve Jobs 1955-2011

金で人生を台無しにされたりなんかしないぞ
スティーブ・ジョブズは仏教徒だった

私を変えた本


 個人的な覚え書き。人間は人間と出会うことで変わる。触発という言葉は手垢まみれで好きではない。ここはやはり脳内のネットワークが変わるとすべきだろう。本を読むこともまた人との出会いを意味する。

 感動には2種類ある。今までの自分の反応を強化する感動と、それまでにない全く新しい感動である。例えば私は人がバタバタと死ぬ映画を好むが、そのような映画を何本見たところで私が変わることはない。

 面白い本は多い。ためになる本も山ほどある。だが自分の価値観を揺さぶり、思考を木っ端微塵にし、概念を破壊する本は少ない。

 私を変えた本たちを紹介しよう。

『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ

文庫 女盗賊プーラン 上 (草思社文庫)文庫 女盗賊プーラン 下 (草思社文庫)

 34歳の時に読んだ。私はどちらかというと積極的――あるいは攻撃的――な平和論者であった。しかし暴力が支配する世界では暴力でしか立ち向かうことができない事実を知った。しかも本書に書かれていることは大昔のことではなかった。プーラン・デヴィは私と同い年だった。世界平和など戯言(たわごと)であることを思い知らされた。

両親の目の前で強姦される少女/『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ

『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ

ルワンダ大虐殺 〜世界で一番悲しい光景を見た青年の手記〜

 私はキリスト教の運命論を否定して仏教の宿命論を信奉していた。それなりに勉強もしてきたつもりだった。ところがルワンダ大虐殺には全く通用しなかった。わずか100日間で100万人近い人々が殺戮された。もしも殺された原因が過去世にあるとするならば、全ての犯罪は容認されてしまう。レヴェリアン・ルラングァは本書の後半で神との対話を試みて、完膚なきまでに神の欺瞞を暴いている。だがそれで彼が救われるわけではない。私には彼に掛ける言葉がなかった。「生きていてよかったね」ということすらはばかられた。45歳にして迷いは深まり、懊悩(おうのう)する日々が続いた。

『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ

『石原吉郎詩文集』石原吉郎

石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)

 読書にはタイミングがある。『女盗賊プーラン』以外はいずれも45歳で読んだ作品である。石原はシベリア抑留者であった。それは国家から見捨てられた経験であった。クリスチャンとしての信仰スタイルも変わらざるを得なかった。石原は平凡な人物であった。しかし彼の目は鹿野武一〈かの・ぶいち〉をしかと捉えた。本書を読んで国家、組織、集団に対する考え方が一変した。

究極のペシミスト・鹿野武一/『石原吉郎詩文集』~「ペシミストの勇気について」

『一九八四年』ジョージ・オーウェル

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 20代で新庄哲夫訳を読んでいたが、これほど面白いとは思わなかった。管理社会と自由をテーマにした作品であるが、より本質的には集団と権力(≒暴力)の実相を描いている。つまり集団そのものが暴力であると考えることも可能だ。メディア社会(≒高度情報化社会)は人間のつながりをコントロールする関係に変えてしまった。

現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル

『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

 クリシュナムルティを知り、私が抱いてきた数々の疑問は完全に氷解した。初期仏典の意味もわかるようになった。クリシュナムルティとの出会いは人生最大の衝撃といってよい。自由とは離れることであった。

自由の問題 1/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ

 不惑(40歳)と知命(50歳)のちょうど真ん中になる45歳で私は変貌した。自分でも驚いているほどだ。なお適当なカテゴリーがないため「併読」にしておく。

どう生きたらいいかを考えさせる本

IMF(国際通貨基金)を戯画化するとこうなる


 ・IMF(国際通貨基金)を戯画化するとこうなる

『超帝国主義国家アメリカの内幕』マイケル・ハドソン

imf

 まったくもって「お見事」。嫌悪感を抱くよりも、笑うことが正しい。発展途上国の貧困を維持するのがIMFの目的だ。ローマクラブが尖兵(せんぺい)となって環境問題に警鐘を鳴らしたのが1972年のこと。それ以来、先進国が決して立つことのない「イス取りゲーム」が始まったのだ。「エネルギーと食糧には限りがある。だからお前たちが先進国になることは絶対に認められない」というのが先進国ルールだ。

 バブル景気で図に乗っていた日本を崩壊させ、ジャパンマネーがアメリカに還流する仕組みをつくった上で京都議定書は採択された。日本をイスから下ろすための新しいルールに基づいてゲームは続行中だ。

 IMFと世界銀行は第二次世界大戦に勝利を収めた連合国の意志に基づく機関で、真の目的は資源の豊富な発展途上国を債務漬けにすることである。そして先進国の人々は娯楽に興じながら、ぶくぶくと肥え太ってゆくのだ。自分で身体を支えることもできない人物よ、汝の名はアメリカなり。政治と宗教が手を組んでいるテレビの映像が示唆的だ。

貧富の差
世界中でもっとも成功した社会は「原始的な社会」/『人間の境界はどこにあるのだろう?』フェリペ・フェルナンデス=アルメスト
経済侵略の尖兵/『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス
利子、配当は富裕層に集中する/『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』河邑厚徳、グループ現代
ウォール街を占拠せよ
グロ-バル化 IMF(国際通貨基金)が貧困を作るときなくならない飢餓/『面白いほどよくわかる「タブー」の世界地図 マフィア、原理主義から黒幕まで、世界を牛耳るタブー勢力の全貌(学校で教えない教科書)』世界情勢を読む会

マイケル・ハワード、プリーモ・レーヴィ


 2冊挫折。

ヨーロッパ史における戦争』マイケル・ハワード:奥村房夫、奥村大作訳(学陽書房、1981年/中公文庫、2010年)/翻訳の文体に馴染めない。中世から第二次世界大戦に至る戦争を中心にヨーロッパ史が描かれている。いつの日か再読する必要がある。

天使の蝶』プリーモ・レーヴィ:関口英子〈せきぐち・えいこ〉訳(光文社古典新訳文庫、2008年)/最初の三つは結構面白かったのだが、「天使の蝶」でガクッとなって挫ける。関口の翻訳が素晴らしい。

2011-10-04

バビヤールのユダヤ人虐殺から70年、ウクライナ


 ウクライナのビクトル・ヤヌコビッチ(Viktor Yanukovych)大統領は3日、70年前にナチス・ドイツ(Nazi)によるユダヤ人の虐殺が行われたバビヤール(Babi Yar)渓谷を追悼訪問した。
 ナチスは1941年9月29~30日、バビヤール渓谷でユダヤ人3万3771人を殺害した。この虐殺は、近年になってようやく正式な追悼が行われるようになった。
 1941年、旧ソ連当局者をキエフ(Kiev)から追放したナチスは同市を占領し、移住を口実に市内に残ったユダヤ人全員を集めた。
 ナチスはキエフで起きた連続爆発事件の責任をユダヤ人に押しつけた。しかし実際には、爆発はキエフに残った旧ソ連の内務人民委員部(NKVD)要員や、旧ソ連の赤軍が撤退前に残した爆弾によるものだった。
 ナチスはユダヤ人を市郊外のバビヤール渓谷に行進させ、そこで射殺した。
 ソ連の作曲家ドミトリ・ショスタコービッチ(Dmitry Shostakovich)は、1960年代にバビヤールの虐殺を主題に作曲をして、エフゲニー・エフトゥシェンコ(Yevgeny Yevtushenko)の詩「バビヤール」に音楽をつけた。

ホロコースト最大の虐殺

 バビヤールの虐殺はナチスのホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の中で最大の虐殺だっただけでなく、大都市で行われた戦時の大がかりなユダヤ人抹殺としても初めてのものだった。
 1943年にキエフから撤退するまで、ナチスはバビヤールを処刑場として利用した。少なくとも10万人のユダヤ人やロマ人、レジスタンス運動家や旧ソ連の受刑者たちが処刑された。だが、殺害された正確な人数については現在も議論の的となっている。
 第2次世界大戦(World War II)のソ連はバビヤールの虐殺を大きく扱うことはなかった。ユダヤ人の苦難に注目が集まれば、最大の戦争被害者はソ連国民だったというソ連政府の主張を妨げるからだった。
 1976年に建立された記念碑は、ユダヤ人について触れていない。1991年にようやく、ユダヤ人犠牲者の記念碑建立が認められた。エフトゥシェンコの詩はこう始まる。「バビヤールに記念碑はない。切り立つ崖は荒くれた墓石のようだ」
 2009年には、サッカー欧州選手権2012(UEFA Euro 2012)の観光客向けのホテルの建設計画が上がったが、市民や国際的な反対を受けて市長が建設を断念していた。

AFP 2011-10-04

「ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)」という表記は意図的なものだろう。ワシントンに米国国立ホロコースト記念博物館がある。これは常識的に考えてもおかしなことだ。「アメリカ先住民大虐殺記念館」なら理解できる。ユダヤロビーがどれほどの力を持っているかが窺えよう。で、宣伝工作を行っているのがエリ・ヴィーゼルだ。

「ホロコースト=ユダヤ人大虐殺」という構図の嘘/『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン
「アメリカ・ホロコースト記念館: 高くついた危険な誤り」セオドア・オキーフ

イスラエルの作家に「無宗教」認める判決


 イスラエル・テルアビブ(Tel Aviv)の裁判所は前週、同国の作家に対し、公式に登録されている宗教を「ユダヤ教」から「無宗教」にすることを認める判決を下した。2日の同国日刊紙ハーレツ(Haaretz)が伝えた。
 作家のヨラム・カニュク(Yoram Kaniuk)氏は内務省に対し、自身の宗教を「ユダヤ教」から「無宗教」に変更したいと申し出たが拒否されたことを受け、5月に提訴した。
 同紙によると、判決文は「宗教からの自由は、(イスラエルの)基本法の『人間の尊厳と自由』で保護されている人間の尊厳の権利に由来するものだ」と述べた上で、「唯一検討しなければならない問題は、原告が自分の意思の深刻さを証明できたかどうかということだ。自分の要求を法廷に持ち込んだこと以外、原告にいかなる重荷も負わせる必要はないと判断する」と付け加えている。
 カニュク氏は同紙に、「裁判所は個人が自分の良心に従ってこの国で生きる正当性を認めた。この判決では、人間の尊厳と自由は自分のアイデンティティを自分で決められることを意味しているとされた。だから、私は無宗教でも国籍としてユダヤ人を名乗ることができる。非常に興奮している」と述べ、判決を「歴史的」と評価した。
 イスラエル政府は国民を宗教と民族籍によって登録している。民族籍には「イスラエル人」という選択肢はなく、ユダヤ系国民は「ユダヤ人」と登録される。これを不服とした世俗主義者団体は何年も前から、内務省に「ユダヤ人」ではなく「イスラエル人」に置き換えるよう要請している。

AFP 2011-10-04

 これは重要なニュースだ。無宗教の思想性が認められたという事実は重い。それでも尚、人間は宗教的ドグマから解放されない。なぜなら感情を直接支えているのが宗教であるからだ。

ありふれたパレスチナの日常


 何の前触れもなく家を破壊され、撃たれ、爆弾を落とされる。内蔵の飛び散った遺体の後始末を年端(としは)も行かぬ子供が行っている。これが、ありふれたパレスチナの日常だ。瓦礫(がれき)の間に見える幼児の手、脚がくの字に曲がったまま息絶えた少年の姿を私は忘れない。

People in Palestine

Phalisteen GAZA

GAZA HOLOCAUST

gal_gaza_01

GAZA HOLOCAUST

Innocent child KILLED

Gaza-Palestina

pb13

「商品は持っていけ」…優しい店員に強盗自首


 富山県警富山中央署は3日、富山市問屋町、自称無職M容疑者(53)を強盗の疑いで緊急逮捕した。
 発表によると、M容疑者は同日未明、同市綾田町のコンビニエンスストアで、男性アルバイト店員(61)に包丁を突きつけ、「俺は金が無い。金を出せ」と脅し、清涼飲料水やパンなどの商品計7点(販売価格合計1174円)を奪った疑い。店員にけがはなかった。M容疑者が同日正午頃、同署の広田交番に自首してきたため発覚した。
 同署によると、店員から「悪いことはやめろ、商品は持っていけ」と諭され、店員がレジ袋に入れて渡した商品を持って逃走したという。
 森竹容疑者は「職もなく、悪いことを重ねるかもしれないと思い出頭した。店員が優しく、申し訳ないと思った」と話しているという。店から被害届は出ていなかったという。

YOMIURI ONLINE 2011-10-04

 被害届が出ていなかったということは店員が建て替えたのだろう。富の再分配が良心的な自主性で行われたのだ。店員は政府の過ちを正したといえる。時に「犯罪」という場面を通して、人と人とが出会うこともあるのだ。何という不思議だろうか。

人は後ろ向きに未来へ入っていく


 湖に浮かべたボートをこぐように、
 人は後ろ向きに未来へ入っていく。
 目に映るのは過去の風景ばかり。
 明日の景色は誰も知らない。(ポール・ヴァレリー)

【『読売新聞朝刊一面コラム「編集手帳」 第11集』竹内政明(中公新書ラクレ、2007年)】

読売新聞朝刊一面コラム「編集手帳」〈第11集〉 (中公新書ラクレ)
竹内 政明
中央公論新社
売り上げランキング: 870,843

アメリカとイスラエルの共通点


 宗教的な立場を理由にして弾圧され、今度は自分たちが新たな天地で暴虐・殺戮の限りを尽くす。これがアメリカとイスラエルに共通する歴史である。

国連総会のテロ非難決議に反対したアメリカとイスラエル(1987年)
パレスチナ人女性を中傷するイスラエルの若者たち

救うべからざる大学の退廃


 それでは大学が大学に成るために求められているものは何なのか。入ってきた学生にたいする「教育」である。教育は一定の事を教えて、これを覚えさせることではない。学生の自ら学ぶことをたすける仕事が、教育である。学ぶ意志と能力を失いつくして大学に入ってきたものを、そのまま知識若干を与えて卒業させているところに、救うべからざる大学の退廃がある。大学は、その学生に学ぶことを教え、学ぶことをさせなければならない。学ぶ意志を失いつくしたものに、その意志を恢復させ、自ら学ぶ能力の若干を身につけさせた上で、学生を社会に出すことに大学は責任をもつべきである。これは至難のことだが、大学が大学になるためには、この一つのことだけは避けることはできない。大学で学ぶということは、人間や社会や、世界を、その根底においては自己を、根本から問いなおす作業をはじめることである。

【『教育の再生をもとめて 湊川でおこったこと』林竹二〈はやし・たけじ〉(筑摩書房、1984年)】

教育の再生をもとめて―湊川でおこったこと

2011-10-02

マルコス副司令官

subcomandante_marcos

Marcos y Tacho

subcomandante MARCOS

Subcomandante Marcos

Cutthroat Subcomandante Marcos

SUBCOMANDANTE MARCO

マルコス・ここは世界の片隅なのか―グローバリゼーションをめぐる対話サパティスタの夢 インディアス群書(5)もう、たくさんだ!―メキシコ先住民蜂起の記録〈1〉 (メキシコ先住民蜂起の記録 1)老アントニオのお話―サパティスタと叛乱する先住民族の伝承

Wikipedia
サパティスタ民族解放軍
メキシコを動かした先住民の闘い
EZLNの闘争
EZLNへの質問状とマルコス副司令官による回答
サパティスタ民族解放軍・マルコス副司令官のガザに関する演説
マルコス副司令官 サパティスタ民族解放軍

耳が聴こえるようになった瞬間の表情


視覚の謎を解く一書/『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン

 ・耳が聴こえるようになった瞬間の表情

色盲の人が初めて色を見た瞬間の感動動画
生まれて初めて色を見て咽(むせ)び泣く人々

 生後8ヶ月の赤ちゃんと、29歳の女性の動画だ。世界が変わる瞬間を捉えた映像といってよい。




 耳が聴こえるのはこんなにも凄いことなのだ。ありのままの世界は美しく豊かな姿をしている。彼女たちの姿を見て我々健常者の鈍感を思わずにはいられない。耳が聴こえることは、多分それだけで「悟り」だ。美しさ、豊かさを「素晴らしい」と感じられることが真の人間性であることを教えられる。

故郷とは


 人は幼い頃、世界を完全なものとして見ている。大きくなるにつれ、次第にそれらの一切が力を失い、歪(ゆが)んで色あせたものにしか感じられなくなってしまう。“故郷”とは、地理上に位置づけられた地点をさすのではなく、心の中にあって、焼きつけられた様々な時間の集合のことである。どこに行ったとしても再び回復されることはないし、探せば探すほど感光したフィルムのように像は消え失せてしまうはずのものだ。

【『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1989年/リバイバル版 小学館、2000年/小学館文庫、2003年)】

汝ふたたび故郷へ帰れず (小学館文庫)

2011-10-01

生まれる前に殺されたパレスチナの赤ちゃん


「妊婦撃てば2人殺害」 イスラエル兵Tシャツ

 アラブ人妊婦に銃の照準を合わせた絵に「1発で2人殺害」の文字――。イスラエル軍兵士が部隊の仲間内で、パレスチナ人の生命を軽視するような図柄のオリジナルTシャツを作って着用していることが24日までに、イスラエル紙ハーレツの報道で分かった。
 照準の中に少年の絵を描き「小さいほど難しい」と書かれたTシャツもあり、兵士の一人は「子供を撃つのは道徳的に問題で、また標的として小さい(から難しい)」という意味だと解説した。シャツを町中で着れば非難されるため、軍務時に着用しているという。
 兵士や士官はこうした絵柄について「本当に殺そうと考えているわけでなく、内輪の冗談」などと説明。同紙は一方で「2000年のパレスチナとの大規模衝突以降、イスラエル世論が右傾化し、兵士の間でパレスチナ人の人権を無視する傾向がみられる」とする社会学者の話も伝えた。
 軍報道官は同紙に対し「兵士が私的に作ったものだが、軍の価値観と相いれない」として、かかわった者の処分を検討する方針を示した。

【共同通信 2009-03-24】

1 shot 2 kills t-shirt hq

IDF unit t-shirt hq IDF durex t-shirt

No doubt that Israel will find an excuse for killing this baby.  He must have been a terrorist hiding in his mother's womb!!

Where was Western media when this fetus was killed?

 私は元々反シオニズムであるが、この写真を見て反ユダヤ教に改宗した。イスラエルは徴兵制度を採用(男女を問わずユダヤ教徒のイスラエル国民と永住者に対して兵役の義務が課せられている)しているので、ほぼ全てのイスラエル人がパレスチナ人虐殺に関与していると考えていい。せめて母親だけでも助かっていればよいのだが。

死者数が“一人の死”を見えなくする/『アラブ、祈りとしての文学』岡真理

猿谷要


 1冊読了。

 65冊目『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』猿谷要〈さるや・かなめ〉(河出書房新社、1975年『生活の世界歴史 9 新大陸に生きる』/河出文庫、1992年)/岸田秀が紹介していた本。確か『ものぐさ精神分析』だったと記憶している。ドンピシャリのタイミングであった。私の選球眼は冴える一方だ(笑)。アメリカが世界の警察として我々を牛耳っている以上、その歴史を辿る必要がある。つまり近現代を読み解くためには、宗教改革+産業革命+市民革命~アメリカ建国に鍵があると考えられる。目の付けどころがいいのは、魔女焚殺(ふんさつ)からアメリカ先住民大虐殺、および黒人の奴隷化といった暴力の共通項があるところだ。今、世界が必要としているのは全アメリカ人に反省を促し、詫びを入れさせる学問的見解であると思う。本書は「厳選120冊」に入れる予定。

歴史の本質と国民国家/『歴史とはなにか』岡田英弘


『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘
『歴史とは何か』E・H・カー

 ・歴史の本質と国民国家

『世界システム論講義 ヨーロッパと近代世界』川北稔
『歴史の起源と目標』カール・ヤスパース

世界史の教科書
必読書リスト その四

 必ずE・H・カー著『歴史とは何か』を事前に読んでおきたい。そうでないと本書の迫力は理解できない。

 結局、学問とは原理を指し示し、そこへ導く営みであることがよくわかった。つまり学問の最終形態は数学と宗教に辿り着く。ザ・原理。

 岡田英弘の主張には鉈(なた)のような力が働いている。まさしく一刀両断という言葉が相応(ふさわ)しい。

 なにが歴史かということが、なぜ、なかなか簡単に決まらないか。その理由を考えてみる。理由はいくつもある。いちばん根本的な理由は、歴史が、空間と同時に、時間にもかかわるのだという、その性質だ。
 空間は、われわれが体を使って経験できるものだ。両手両足を伸ばしてカバーできる範囲の空間は知れたものだけれども、2本の足を使って歩いて移動すれば、もっと遠くまでカバーできる。行ってみて確かめることができる。
 しかし、時間はそうはいかない。むかしの時間にちょっと行って、見て、またもどってくるということはできない。空間と時間はここが違う。この違いが、歴史というものの性質を決める、根本的な要素だ。

【『歴史とはなにか』岡田英弘(文春新書、2001年)以下同】

 時間の不可逆性といっていいだろう。時間を計ることはできても、同じ時間を計り直すことはできない。

 個人の経験だけに頼って、その内側で歴史を語ろうとしても、それは歴史にはならない。歴史には、どうやら「個人の体験できる範囲を超えたものを語る」という性質があるようだ。
 そこで、私の考えかたに従って歴史を定義してみると、

「歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである」(岡田英弘『世界史の誕生』ちくま文庫、32頁)

 ということになる。ここでは、「一個人が直接体験できる範囲を超え」るということがだいじだ。そうでなければ、歴史をほかの人と語り合う意味がなくなる。つまり、歴史の本質は認識で、それも個人の範囲を超えた認識であるということだ。
 つぎにだいじなことは、歴史は人間の住む世界にかかわるものだ、ということだ。人間のいないところには、歴史はありえない。「人類の発生以前の地球の歴史」とか、「銀河系ができるまでの宇宙の歴史」とかいうのは、地球や宇宙を人間になぞらえて、人間ならば歴史に当たるだろうというものを、比喩として「歴史」と呼んでいるだけで、こういうものは、本来は歴史ではない。

 一発目の右フックだ。歴史はコミュニティ内部で成立する。

 少々敷衍(ふえん)しておくと、時間とはそもそも概念である。それゆえ永遠は存在しない。なぜなら計測する人がいないためだ。

月並会第1回 「時間」その一

 ここで念を押すと、直進する時間の観念と、時間を管理する技術と、文字で記録をつくる技術と、ものごとの因果関係の思想の四つがそろうことが、歴史が成立するための前提条件である。言いかえれば、こういう条件のないところには、本書で問題にしている、比喩として使うのではない、厳密な意味の「歴史」は成立しえないということになる。

 権力の本質に関わる定義ともなっていて興味深い。そして権力者は歴史を検閲し、修正し、改竄(かいざん)するのだ。

 もう一つの歴史の重要な機能とは、「歴史は武器である」という、その性質のことである。文明と文明の衝突の戦場では、歴史は、自分の立場を正当化する武器として威力を発揮する。

 物語としての正当性は具体的には大義名分として機能する。文字をもたぬ文明が滅んでしまうのも、ここに本質的な原因があるのだろう(アフリカ人、インディアンなど)。

 国民国家という観念が19世紀に誕生してから、国家には歴史が必要になってきた。それで、いまではあらゆる国で国史を作りはじめているが、18世紀までの世界では、自前の歴史という文化を持っている文明は、たった二つしかなかった。一つは中国文明で、もう一つは地中海文明だ。

世界史は中国世界と地中海世界から誕生した/『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘

 岡田史観によれば、歴史はヘロドトス(紀元前485年頃~前420年頃)と司馬遷(紀元前145年~?)から始まる。この件(くだり)も恐るべき指摘で、国家はもちろんシステムとして作用するわけだが、国家を成り立たせているのは歴史なのだ。

 中国文明と地中海文明とでは、まず歴史を語る物語の筋が違う。人間の頭には、筋のない物語は入らない。物語がなければ叙述できない。名詞や数字を雑然と列挙したのでは歴史にならない。

 歴史とは「書かれたもの」である。否、「書かれたもの」だけが歴史なのだ。そして今、世界史は西洋のコンテクストで描かれている。

 司馬遷が『史記』で書いているのは、皇帝の正統の歴史である。世界史でもないし、中国史でもない。第一、「中国」という国家の観念も、「中国人」という国民の観念も、司馬遷の時代にはまだなかった。こういう観念は、19~20世紀の国民国家時代の産物である。

 正史という概念である。皇帝が支配する世界を「天下」と称し、その範囲内を記したのが司馬遷の『史記』であった。

 言いかえれば「正史」は、中国の現実の姿を描くものではなく、中国の理想の姿を描くものなのだ。理想の姿は、前漢の武帝の時代の天下の姿である。なんどもくりかえし言っているが、中国的な歴史観のたてまえでは、天下に変化があってはならない。実際には変化があっても、それを記録したら、歴史にはならない。

 先ほどの文脈からいえば国家は歴史的存在であり、歴史とは政治であるといえよう。この三位一体によって国家は成立する。

 この『ヒストリアイ』の序文でヘロドトスが言っていることは、三つの点に要約できる。
 その一は、世界は変化するものであり、その変化を語るのが歴史だ、ということ。
 その二は、世界の変化は、政治勢力の対立・抗争によって起こる、ということ。
 その三は、ヨーロッパとアジアは、永遠に対立する二つの勢力だ、ということ。

 2500年前にヘロドトスが歴史を悟った瞬間から、人類は歴史的な存在となったのだろう。「万物は流転する」(ヘラクレイトス、紀元前540年頃~前480年頃)。

Herodotus

 こうして、世界最初の一神教王国が誕生した。これがユダヤ教の起源である。
 その35年後、新バビュロニア帝国のネブカドネザル王がイェルサレムを攻め落とし、ヤハヴェの神殿を破壊し、ユダ王国の民をバビュロニアに連れ去った。これを「バビュロニア捕囚」と言う。
 連れ去られたユダ王国の民は、ヤハヴェ神との契約を守って、それから半世紀のあいだ、捕囚の生活のなかで、独自の種族としての意識を持ち続けた。これがユダヤ人の起源である。政治に関係なく、ヤハヴェ神との契約を守るものがユダヤ人、ということになったわけだ。

 ここが急所だ。ユダヤ教を長男とするアブラハム三兄弟が歴史を牛耳っている。連中は「神が創造した世界」という前提で思考する。それゆえ中国文明との遭遇は少なからず西洋に衝撃を与えた(『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世)。

 もう一つ付言しておくと、インディアンも聖書には書かれていないため、ヨーロッパ人はどう扱えばよいのか慌てた事実がある。

 中国文明は歴史のある文明だから、それに対抗して独自性を確立しようとすれば、中国文明の有力な武器の一つである歴史を、日本文明も持たなければならない。
 そこで『日本書紀』という、日本で最初の歴史が描かれることになった。
 天武天皇が歴史の編纂を命じたのが681年、『日本書紀』30巻が完成したのは720年で、39年かかっている。これが日本最初の歴史である。ふつうには『古事記』が日本で最初の歴史だということになっているが、712年に『古事記』が書かれたというのはうそだ。『古事記』は、ほんとうは『日本書紀』の完成から約100年後の平安朝の初期、9世紀のはじめにつくられた偽書であることは、あとでくわしく述べる。

 歴史のでっち上げだ。歴史に偽書はつきものだ。

 日本人がおなじみの「正統史観」は、西ヨーロッパにはない。西ヨーロッパとは、つきつめて言うと、ローマ市の支配が及んだ範囲だ。ところで中国では、「正統」の皇帝が支配した範囲が天下だった。外見は似ているが、まず枠組みの中心になる軸が違う。

 地政学がヨーロッパ基準であることがわかる。中国や日本の歴史は系譜といってよい。

 歴史は物語であり、文学である。言いかえれば、歴史は科学ではない。
 科学を定義すれば、まず第一に、科学はくりかえし実験ができる性質がある。歴史は一回しか起こらないことなので、この点、科学の対象にならない。
 第二に、もっと重要なことだが、それを観察する人がどこにいるかの問題がある。
 科学では、粒子の違いは問題にならない。みんな同じだとして、それらを支配する法則を問題にする。
 ところが歴史では、ひとりひとりはみんな違う。それが他人に及ぼす機能も違う。それを記述する歴史を書く人も、歴史を読む人も、みんなが同じ人間だ。
 そういうわけだから、歴史は科学ではなく、文学なのだ。

 歴史の相対性理論だ。「それを観察する人がどこにいるか」との指摘には千鈞(せんきん)の重みがある。

「理想的年代記」は物語を紡げない/『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』野家啓一

 現代史は、国民国家の時代の歴史であり、国民国家は18世紀の末までは存在しなかった、(以下略)

 我々の頭にある国家の概念は国民国家を意味する。当たり前の話だが鎌倉時代には国という概念はあったが、国家としての枠組みは確立していない。これは多分、情報伝播(でんぱ)の速度とも関係しているのだと思う。すなわち通信や乗り物などの技術革新が国民国家を形成したのだろう。だから産業革命(1760年~19世紀)と市民革命(ピューリタン革命 1641~1649年、フランス革命 1789年~1799年、アメリカ独立革命 1775年~1783年)はセットで考えるべきだろう。

 結局、人間が時間を分けて考える基本は、「いま」と「むかし」、ということだ。これを言いかえれば、「現在」と「過去」、さらに言いかえれば、「現代」と「古代」、という二分法になる。二分法以外に、実際的な時代区分はありえない。

 これは歴史が進歩するという唯物史観に対して書かれたもの。そして歴史家の立ち位置は「いま」に束縛される。現在から過去を見つめる視線の中にしか歴史は存在しない。

 ちゃんとした歴史では、善とか悪とかいう道徳的な価値判断も、なにかの役に立つとか立たないとかいう功利的な価値判断も、いっさい禁物だ。こうした価値判断は、歴史家がついおちいりやすい落とし穴だが、ほんとうを言えば、対立の当事者以外には意味がない、よけいなおせわであり、普遍的な歴史とは無縁のものなのだ。

 溜め息をつきすぎて酸欠状態になるほどだ。結局、善悪を判定することは政治的行為なのだ。しかもそれは、現在の権力者の都合で決まるのだ。歴史は常に書き換え可能であることを踏まえる必要がある。

(※君主の土地と自治都市が入り乱れており)国境線がないのだから、ひと続きの国土というものもなく、国家など、存在しようがなかった。
 そういう状態のところで革命が起こると、市民が王から乗っとった財産、つまり「国家」は、だれのものか、ということが問題になる。市民と言っても、だれが市民で、だれが市民でないかの範囲は漠然としているから、もっとはっきりしただれかを、王の財産権の正当な相続人として、設定しなければならないことになる。そこで「国民」という観念が生まれて、「国民」が「国家」の所有者、つまり主権者だ、ということになった。「国民国家(nation-state)」という政治形態は、このときはじめて生まれたのだ。

 自分のデタラメな言葉遣いを思い知らされた。我々が使う「国家」とはこういう意味だったのだ。隙間だらけの脳味噌に岡田の放つピースが一つずつきっちりと収まってゆく。それでも尚、ジグソーパズルが完成することはない。

 たとえば、「日本建国」と言うと、つい、「大和民族」が結集して、日本という「国家」を創ったことだ、と思いたくなる。ほんとうは、「日本天皇」という称号を帯びた君主が出現し、その日本天皇の宮廷が列島の政治の中心になった、ということであり、日本天皇のもとに統合された人たちが、外から「日本人」と呼ばれるようになった、ということであるにすぎない。

 民族も国家も一つの現象にすぎない。

 結局、世界史の上で現代(Modern Age)を特徴づけるものは国民国家であって、国民国家という政治形態をとることが、すなわち近代化(modernization)である、と考えればいい。
 この国民国家というものは、「歴史の法則」などによって、必然的に生まれてきたものではない。北アメリカと西ヨーロッパに、続けざまに起こった二つの革命によって、偶然に生まれた政治形態だ。しかも、それが世界中に広まったのは、国民国家のほうが戦争に強いという理由があって、国民国家にならなければ生きのこれなかっただけのことだ。

 鳩尾(みぞおち)にボディブローが突き刺さる。意識が遠のいてゆく。国民国家の誕生は、人と人との関係性や脳内情報の構造をも変えたはずだ。我々が生きるのは「国民国家世界」といえる。ただし民主主義の内実が伴っていないが。

 ところで、国民というものは、ばらばらの名前のない人たちの集まりだから、目に見える国民統合の象徴は、どうしても必要だ。だから、共和制の大統領は、任期中、かれの人格をもって、もともとは決まった形のない国民国家というものに、個性を与えているわけだ。ところが、大統領が交代すると、人格はひきつげない。つぎには違う大統領が、違う個性を国家に与えることになる。
 共和制の国家が一貫した個性を持てないことの弊害は、アメリカ合衆国の対外政策にめだっている。アメリカの世界政策は、大統領の任期が終わるたびにころころ変わり、つぎにどちらの方向に向かうか、大統領選挙まで待たなければわからない。しかもアメリカの大統領は、世界でもっとも強大な権力を手にしているために、その人のちょっとした癖や、間違った思いこみで、どんな大きな結果が生じるかわからない。

 私はホール・ケイン著『永遠の都』を読んで以来、何となく共和国に憧れを抱いていたのだが、あっさりと吹き飛ばされた。もはや完全に見えなくなった。

 国民国家というのは、観念の上のものだ。言いかえれば、理想であっても、実在のものではない。

 所詮、国家なんてものは脳の枠組みにすぎないのだ。痺れる。実に痺れるではないか。

 人間は概念世界を生きる動物である。E・H・カーや岡田英弘はその概念を激しく揺さぶる。堪(たま)らない快感だ。



修正し、改竄を施し、捏造を加え、書き換えられた歴史が「風化」してゆく/『一九八四年』ジョージ・オーウェル
物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
超高度化されたデータ社会/『ソウル・コレクター』ジェフリー・ディーヴァー
古代イスラエル人の宗教が論理学を育てた/『数学嫌いな人のための数学 数学原論』小室直樹
シオニズムと民族主義/『なるほどそうだったのか!! パレスチナとイスラエル』高橋和夫
歴史という名の虚実/『龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』加治将一