2012-09-15

偽りの画像が生む本物の迫真性


 flickrで見た一枚の画像に眼が釘づけとなった。反射的に画像のアカウントを辿った。私は息を呑み、眩暈(めまい)を覚えながら、震える指でクリックし続け、結局1000枚の画像を見る羽目となった。そして今再び1000枚の画像を見た。

 露出や露光を変えることで、現実にはあり得ない作品に仕上がっている。その意味では「偽りの画像」といってよい。だが実は単なるデフォルメではない。撮影対象を時間的・光学的に揺さぶることで視覚の本質に迫っている。

 私は小学生の時分に「なぜ眼が見えるのだろう?」とその不思議さに慄(おのの)いたことがあった。UFOや幽霊を見ることよりも、眼が見えること自体の方がはるかに不思議だ。

 その後、少なからず視覚に関する書籍を読んできた。現代科学はいまだ私の疑問に答えていない。それでも視覚のメカニズムは少しずつ判明している。実は我々の眼はそれほどよく見えてはいない。脳が多くの視覚情報を補正している。盲点は想像以上に大きいし、周辺視野は色を確認することができないのだ。

「見る」ということは、光の反射情報を受け取っていることだ。右耳と左耳との距離によって生じる時間差で方角を知るように、右眼と左眼の10cm足らずのズレによって我々は空間の奥行きを知覚する。

 昆虫は紫外線を見ることができる。また最近の研究によれば鳥類や魚類の多くも紫外線を認識することが明らかになっている。「目に映る世界」は決して一つではない。

 またモグラの眼は退化しているが困った様子はない。更に小型コウモリは超音波による反響定位で距離を測る。「耳で視ている」といってよい。

 長くなったので、もうやめる。一言でいえば視覚とは「脳内で像を結ぶ」知覚作用であろう。klikatu氏の写真は「イメージの原型」が持つ本物の迫真性に満ちている。

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迫真の肖像力

最も通俗なものと最も真実なものの接点



 政治にも通じる卓見だと思う。

文庫版『ちくま哲学の森』(全8冊)鶴見俊輔、森毅、井上ひさし、安野光雅、池内紀編(ちくま文庫、2011年)


 このアンソロジーはお薦め。装丁・装画は安野光雅〈あんの・みつまさ〉。尚、理由は知らないが単行本と文庫本の巻数が異なっている。

ちくま哲学の森 1 生きる技術 ちくま哲学の森 2 世界を見る ちくま哲学の森 3 悪の哲学 ちくま哲学の森 4 いのちの書

ちくま哲学の森 5 詩と真実 ちくま哲学の森 6 驚くこころ ちくま哲学の森 7 恋の歌 ちくま哲学の森 8 自然と人生

筑摩書房

ジョージ・ブッシュ大統領によって計画された「大中東構想」

2012-09-14

クリシュナムルティは輪廻転生を信じない/『仏教のまなざし 仏教から見た生死の問題』モーリス・オコンネル・ウォルシュ


 試みはいいのだが、あまりいい本ではない。仏教知識が中途半端な上、巻末にクリシュナムルティの質疑応答を録するコンセプトに疑問が残る。「仏教+クリシュナムルティ」という販売戦略であろうか。

 クリシュナムルティの応答を一つ紹介しよう。彼は常に聴衆から質問を募ったが、それは「何かを教えるため」ではなかった。その意味では決して解答ではなく、やはり応答とすべきだ。

クリシュナムルティ●あなたはこうたずねられるかも知れません。「あなたは輪廻転生を信じますか?」と。そういうことですね? 私は何も信じません。私が何も信じないというのは回避ではありません。そしてそれは私が無神論者であるとか、神を冒涜(ぼうとく)するとかいったことを意味するのではないのです。その中に入り込み、それが意味するものを見て下さい。それは精神が信念のあらゆるゴタゴタから自由になることを意味するのです。

【『仏教のまなざし 仏教から見た生死の問題』モーリス・オコンネル・ウォルシュ:大野龍一訳(コスモス・ライブラリー、2008年)】

 これはクリシュナムルティ流の無記といってよい。

無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元

 クリシュナムルティは「輪廻転生がない」とは言っていない。ただ「信じない」と語っているだけだ。ブッダは沈黙をもって答えた。私なら「あると考えるべきではない」と応じる。

 日本の仏教は大半が大乗仏教であり、輪廻転生(りんねてんしょう)を説いている。このため輪廻転生が仏教思想だと誤解している人々が多い。しかし元々はバラモン教(古代ヒンドゥー教)の教えである。また世界各地に見られるアニミズムと「生まれ変わり」思想は親和性が高いと思われる。

 では一歩譲って「来世がある」と仮定してみよう。果たしてそれは「いつ」なのであろうか? 岡野潔によれば神々が回帰(輪廻)する時間は1(いっこう)=43億2000万年(ヒンドゥー教の計算法)となる。

 とすると1劫ごとに輪廻が繰り返されたとしても、我々の認識では「繰り返し」と見なすことが不可能だ。

岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ その一

 さすがに輪廻転生を信じる諸君も気長に待つことはできないだろう。人間は一生という時間単位を前提にものを考える傾向が強いので、我々が思い浮かべる来世はせいぜい数十年後といったところだ。そうじゃないと自分の子や孫とも擦れ違ってしまう(笑)。

 そもそも鎌倉仏教の開祖が一人も再誕していないのだから、ま、800年は無理ってな話になりますわな。ブッダもお出ましになっていない以上、2500年は生まれてこない計算となる。

 鎌倉時代は天災と戦乱の時代であった。人々は飢饉に責められ、疫病(えきびょう)に苦しみ、高騰する物価に苛(さいな)まれた。浄土宗は「死んだら西方極楽浄土に往生できる」と教えた。生きる望みを失った人々が次々と首を括った。

 来世は神と似ている。誰一人確認したことがないにも関わらず、誰もが信じている。

 すべての人にそれぞれ現在があって、その現在においてのみ、その人の時があり、それが現在であるという。しかも、そこではいつでも現在が中心になっています。ですから、仏教では現在・過去と並称するときには決して「将来」ということばは使わない。「未来」ということばを使う。(三枝充悳〈さいぐさ・みつよし〉)

仏教的時間観は円環ではなく螺旋型の回帰/『仏教と精神分析』三枝充悳、岸田秀

 将来とは「将(まさ)に来る」で、未来とは「未だ来たらざる」である。希望の「望」には本来、野望の意味がある。中国では王や将が奪うべき敵地を視察する目的で高台に望台を築いた。

 望む、とは、ただ見ることとはちがう。呪(のろ)いをこめて見ることを望むという。望みとは、それゆえ、攻め取りたい欲望をいう。

【『楽毅(一)』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)】

 おわかりだろうか? 来世への「望み」が実は自我に基づく「渇愛」から発せられていることを。すなわち輪廻転生とは自我の延長戦であるといってよい。これ自体が死を忌避する思想であり、死という現実から逃避する行為ではあるまいか。我々は「自分が消失する事実」に耐えることができない。それゆえ多くの人々が認知症となることを恐れるのだろう。記憶の崩壊は自我の死を意味する。つまり自我の正体とは記憶なのだ。

「何かになろう」とする企て自体が現在を否定していることに気づくべきであろう。

努力と理想の否定/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ
理想を否定せよ/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一

 結論――来世を信じる人は今世を軽んじる人である。

仏教のまなざし―仏教から見た生死の問題

2012-09-12

「動かざる者」を支配する原子力発電所/『見よ 月が後を追う』 丸山健二


『メッセージ 告白的青春論』丸山健二
『千日の瑠璃』丸山健二

 ・「動かざる者」を支配する原子力発電所

 語り手はオートバイだ。

 そう、私は理知によって世界を知ることができる、誇り高いオートバイなのだ。

【『見よ 月が後を追う』丸山健二(文藝春秋、1993年)以下同】

 色は青。

 私の青は、うねる蒼海の青であり、遠い分水嶺の青であり、亜成層圏辺りに広がる青、
 私の青は、世の風潮にほとんど影響されない青であり、神々の審判をきっぱり拒む青。

野に降る星』の旗、『千日の瑠璃』のオオルリと同じ色だ。青い色は男の心をくすぐる。古来、狩猟は男の仕事であった。それゆえ男性は青空と同じ色に反応する、という説がある。

 十数年前に一度読み、再読した。原子力発電所の記述を紹介しよう。

 本書のテーマは「動く者」と「動かざる者」との対比である。前者を象徴するのがオートバイと乗り手の若者、後者のシンボルが八角形の楼台と田舎町の人々である。そして「動かざる者」を支配する権力の象徴として原子力発電所が描かれている。

「動かざる者」とは何か? それは変化を忌み嫌い、現状維持に安んじ、定住に満足する生き方だ。自分を「世間に合わせる」生き方といってよい。これに対して「動く者」「流れる者」は一切のしがらみを拒絶し、時に無法の一線を飛び越えることもよしとする自由人だ。

 そこかしこに蔓延(はびこ)っている、一生を棒に振り兼ねない、投げ遣りな静観主義。

 原子力発電所がある町にはこのような空気があった。

 深々と更け渡る夜のなかにあって命の振動音を発しているのは、原子力発電所のみだ、
 こんな片田舎でともあれ権勢を誇って生き生きとしているのは、低濃縮ウランだけだ。

 稼働してまもない、とかく風評のある、元凶の典型となったそいつ、
 人命など物の数ではないといわんばかりに、一意専心事に当たるそいつ、
 桁外れの破壊力を秘めながら、普段は目立たない汚染を延々と繰り返すそいつ。

 そいつは暗々のうちに練られた計画に従って、高過ぎる利益を生み出している、
 そいつは進取的な素振りを見せながら、旧弊家どもの手先として働いている、
 そいつは昼夜を問わず制御棒をぶちのめす機会を虎視眈々(たんたん)と狙っている。

 およそ人が造り出した物で自然の摂理に逆らわない物はない、と原子力発電所は嘯(うそぶ)く、
 たしかに……この私にしてからがそうだ。

 鉄やゴム、それに少々のガラスといった材料から成る私も決して例外ではない、
 原子炉の比ではないにしても、私もまた、やはりそれなりの毒を撒き散らす者だ、
 これまで私が受けてきた非難にしても、謂(いわれ)のない非難というわけではない。

 私は気化させたガソリンを連続的に爆発させて、燃えかすと爆音を世間に叩きつける、
 私は前後ふたつの車輪を意のままに回転させて、世に満つくだらない不文律を蹴散らす、
 私は無意味な高速がもたらす【がき】染みた示威行為によって、進退極まった中年男を悲しみのどん底から救い、陶然と酔わせる。

 私にしがみついて疾駆する者は、自ずと他律的に振舞うことをやめるのだ、
 私と共にある者は、何事にも怯(ひる)まず、飯代に事欠く立場さえすっかり忘れてしまう、
 私といっしょに雲を霞(かすみ)と遁走する者は、私がその潜在意識とやらを充分に汲み取って、ひと思いに死なせてやろう、
 むろん独りで死なせはしない。

 この小説は実験的な手法が試されており、段落によっては行末を一字ずつずらしてきれいな斜線となっている。

 動く者はリスクを恐れない。動かざる者は目前のリスクを恐れることで、かえって将来の大きなリスクを背負ってしまう。損得勘定に目が眩んで、好きでもないことに身をやつすのが大人にふさわしい生き方なのだろう。

 私は突っ走ることで主我を確立する。
 私が放つ光芒は皮相的な見解を突き破り、外界のありとあらゆる事物や、有象無象の一時も忽(ゆるが)せにできないめまぐるしい変化に鋭く対応する、
 私が発する感嘆の声は根拠のない推論を押しのけ、魂も消え入るような思いを叩き伏せ、未だに固持されている旧説を素早く追い越して行く。

 動く者はたとえ何歳になろうとも若々しい。過去なんぞ影みたいなものだ。踏みつけて歩けばよい。

 それから彼は、自分の両親と娘の家族が郷里を引き払った理由について説明する、
 つまり、かれらがそうしたのは大半の住民に倣ったまでのことだ、と言い、町の定住人口を却って激減させてしまったのは当の原子力発電所だ、と語る、
 原子力発電所がこの町に居坐るために気前よくばら撒いた金と、いつの日かきっとばら撒くであろう放射能のせいで、多くの人々が一生に一度の決断を下したのだ、と言う。

「気前よくばら撒いた金と、いつの日かきっとばら撒くであろう放射能」との対比が鮮やかだ。札束で頬を叩かれれば、誰だって恵比寿顔になる。

 とにもかくにも完璧に制御されているものと信じるしかない核反応の恐怖に寄り掛かって惰眠を貪るしかない町、
 この町はすでに拒絶する力を失っているのかもしれない、
 もしそうだとすれば、身を潜めなくてはならない者にとっては打ってつけの土地だろう。

 我々は「拒絶する力」を持っているだろうか? 理不尽な仕事を拒んで会社を去ることができるだろうか? 家庭を省みることもなく形骸と化した夫婦関係に終止符を打つことはできるだろうか? はなっから労働基準法など順守するつもりのないパートタイムの仕事をあっさりとやめることはできるだろうか? 結局のところ、徒手空拳で自分だけの力を頼りにして飯を食ってゆける人間しか「拒絶する力」を有していないのだ。資本主義という経済システムに取り込まれた人生からは「拒絶する力」が奪われてゆく。

 思った通りの死せる町、
 際立っているのは原子力発電所のみだ、
 そいつは既知の事実を誣(し)いる輩、
 そいつがせっせと造りつづける電力はあっという間に300キロも遠く懸け隔てた彼方へと、国家の枢機を握っている大都市へと吸い込まれてゆく。

 福島も新潟も東京から300km圏内だ。

 地元の素封家を差しおいてこの町を牛耳っている原子力発電所、
 それは尚も廃家の数を増やしつづけ、生命や文化や尊厳を殺し、ついでに因習や禁忌といったものまでもゆっくりと残害しつづけている。

 地方は中央の権力によって侵(おか)されるのだ。権力者は金と暴力にものを言わせる。

 外洋の彼方で早くも油然と湧く夏雲、
 海水に溶け込んでいる希元素の憂鬱、
 改心の見込みなどまるでない放射能。

 そして遂に2011年3月11日、放射能はばら撒かれた。

 かれらは、安堵の胸を撫でおろしている者ではなく、静座して思索に耽る者でもない、
 かれらは、放射能の源に対して舌尖鋭く詰め寄る者ではなく、安く造った電力に法外な値を吹っかけて売りつける企業に一矢を報いる者でもない。

 かれらは「我々」でもある。ただ雇用が、働き口が欲しかったのだろう。

 郷里にとどまることにした者たちは、常に無能な時の為政者が大仰に述べ立てた言葉を頭から信じたのではないだろう、
 さんざん疑った挙句に、ともあれ成り行きに任せてみることにしたのだろう、
 そうやって居残った人々は、殺気を孕んだ大気や、前途に横たわる暗流を、現実から遊離した不安として無理矢理片づけてしまったのだろう。

 従ってこの地はもはや、汚されたと言い表せるほどの聖域ではなくなっているはずだ、
 よしんばプレアデス星団が見て取れるような澄明な夜が続いたとしてもだ。

 国も東京電力も安全なデータだけを示して地元住民を篭絡(ろうらく)したはずだ。反対したのは多分、左翼の連中だけだったのはあるまいか。彼らにしても、どうせ政治目的で動員されたことだろう。弱り目に祟り目とはこのことだ。国家は弱者に対して情け容赦がない。

 この小説は福島の原発事故が起こる15年前に書かれたものであって、被災者を鞭打つものではない。どうか誤解のなきよう。



逃げない社会=定住革命/『人類史のなかの定住革命』西田正規

『なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか PKO司令官の手記』ロメオ・ダレール:金田耕一訳(風行社、2012年)

なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか―PKO司令官の手記

 100日間で80万人が虐殺された。それも多くはマチェーテと呼ばれる山刀で。なんと数ヶ月前から、そこには国連PKO部隊がいて、危険を察知していた。しかし、彼らは手を拱(こまね)いて傍観するしかなかった。PKO部隊の司令官自身が痛恨の思いで綴る惨劇の顛末(てんまつ)。

ロメオ・ダレール、ルワンダ虐殺を振り返る
「私たちは大量虐殺を未然に防ぐ努力を怠ってきた」/『NHK未来への提言 ロメオ・ダレール 戦禍なき時代を築く』ロメオ・ダレール、伊勢崎賢治
『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ

ロメオ・ダレール、ルワンダ虐殺を振り返る










なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか―PKO司令官の手記

大虐殺を見守るしかなかったPKO司令官/『なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか PKO司令官の手記』ロメオ・ダレール
『なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか PKO司令官の手記』ロメオ・ダレール:金田耕一訳(風行社、2012年)

2012-09-11

寺田寅彦


 5冊読了、というのは真っ赤な嘘だ。読み終えていないのだがカウントしてしまえ。

 49~53冊目『寺田寅彦随筆集 全五冊』寺田寅彦(岩波文庫、1947年)/読書家にとって垂涎の随筆と言い切っておこう。実はまだ30ページほどしか読んでいないのだが、私は山海の珍味のごとく少量ずつ楽しむことにした。だから、あらん限りの忍耐力を総動員して遅読に挑む。この滴り落ちるような懐かしさは何なのか? 「ああ、私も日本人であったのだ」という感慨がどっと押し寄せてくる。巻頭の「どんぐり」に胸を突かれた。1963年改版となっており、それ以前のものは旧漢字である。唯一の難点は活字が小さいこと。折を見つけてワイド版を入手しようと思う。以下の順番で読むのも一興か。

新訂 福翁自伝 (岩波文庫) 氷川清話 (講談社学術文庫) 銀の匙 (岩波文庫)

ワイド版第一巻 ワイド版第二巻 ワイド版第三巻 ワイド版第四巻 ワイド版第五巻

枕がないことに気づかぬほどの猛勉強/『福翁自伝』福澤諭吉
日清戦争に反対した勝海舟/『氷川清話』勝海舟:江藤淳、松浦玲編
『銀の匙』中勘助

バートランド・ラッセル「神について」


 バートランド・ラッセルは論理学、数学、哲学の泰斗。かつて投獄されたこともあった。1950年、ノーベル文学賞を受賞。ラッセル=アインシュタイン宣言でも知られる。

 動画を見ると明らかに落ち着きがない。多分、アインシュタインと同じくAD/HD(注意欠陥・多動性障害)であったのだろう。世間の価値観を疑うことを知らぬ女性ホストの方が堂々としており、妙なアンバランス感がある。



宗教は必要か

哲学入門 (ちくま学芸文庫)ラッセル幸福論 (岩波文庫)怠惰への讃歌 (平凡社ライブラリー)神秘主義と論理

読後の覚え書き/『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
バートランド・ラッセル

ジョン・P・ホールドレン氏 人口削減論


 歴史家のウェブスター・G・タープレイが解説する。



オバマ 危険な正体

河野太郎が激怒~第15回 国会エネルギー調査会準備会 2012年9月5日


 長い動画であるため以下に河野発言のリンクを貼っておく。権力の甘い汁を啜(すす)る者はアイヒマンとなることを避けられない。

http://www.youtube.com/watch?v=uoF1LQVGouM#t=15m0s
http://www.youtube.com/watch?v=uoF1LQVGouM#t=31m35s
http://www.youtube.com/watch?v=uoF1LQVGouM#t=34m40s

2012-09-09

川島武宜、草森紳一、デイヴィッド・イーグルマン


 2冊挫折、1冊読了。

日本人の法意識』川島武宜〈かわしま・たけよし〉(岩波新書、1967年)/活字が小さい上に漢字が多いためやめる。手元にあるものは2004年で55刷となっているから古典的名著といってよいのだろう。

本の読み方 墓場の書斎に閉じこもる』草森紳一〈くさもり・しんいち〉(河出書房新社、2009年)/気取り過ぎだ。何かスタイルに拘(こだわ)りを持っているのだろうが裏目に出ている。こんな嫌な文章を書く人だとは思わなかった。

 48冊目『意識は傍観者である 脳の知られざる営み』デイヴィッド・イーグルマン:大田直子訳(早川書房、2012年)/天才本。文章が洒脱で翻訳も秀逸。半分以上のページに付箋を貼ってしまった。読み始めるや否や「必読書」に入れた。それくらい素晴らしい。私が今まで読んできた科学本の多くが網羅されており、自由意思の問題についても理解が深まった。民主制が優れている理由も初めてわかった。順序としては『ユーザーイリュージョン』から順番で読むのが望ましい。

真っ黒な顔の微笑み


 バングラデシュの首都ダッカで撮影された写真だ。バッテリーの解体処理で煤(すす)まみれとなっている。それでも尚、人間が笑えることに驚嘆した。嘘のない美しい表情だ。きっと嘘すら許されない苛酷な世界なのだろう。生きてゆくために、我が身の健康を阻害しながら働く人々がいる。それを強いるのは誰か? 巨悪は大きすぎて見えにくい。彼女たちの微笑みに癒され、そして私は怒り狂う。

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人生の逆境を跳ね返し、泣きながら全力疾走する乙女/『裸でも生きる 25歳女性起業家の号泣戦記』山口絵理子

魚たちの最後の願い


2012-09-08

なんとなくインチキ臭い/『メディア論 人間の拡張の諸相』マーシャル・マクルーハン


『浪費をつくり出す人々 パッカード著作集3』ヴァンス・パッカード

 ・なんとなくインチキ臭い

『シミュラークルとシミュレーション』ジャン・ボードリヤール

(※アフォリズムの)意表をついて、ズブリと短刀を刺しこんでくる言葉のスリル、通説をズドンとひっくりかえす言葉の回転ワザに他愛もなく快感を覚えていた。しかし、2~3年で、すぐに倦きてしまった。「寸鉄人を刺す」青白い刃のような言葉も、すこし落ち着いて眺めると、いくらでも、その逆なことを言えることに気づいたからだ。
 こうなると、警句の逐一が、やたら、もっともらしく偉ぶっているように見えてきて、もう駄目なのである。

【『本の読み方 墓場の書斎に閉じこもる』草森紳一〈くさもり・しんいち〉(河出書房新社、2009年)】

 窓の向こうの夕日を眺めながら開いたページにこんな件(くだり)があった。そして今、マーシャル・マクルーハン著『メディア論 人間の拡張の諸相』を思うと、草森の指摘がピタリと符合するのだ。

 数十ページ読んだあたりから私の鼻は嫌な臭いを嗅ぎとった。洗練された言葉の羅列はどれ一つ肚にズシリとこない。重量を失った思考は飛散する。しかし花火のような情緒はない。ただネオンサインのような刺激があるだけだ。

 今まで同じような印象を受けた人物としては、ジャン・ボードリヤールジョン・グレイなどを挙げることができる。多分、ジョン・メイナード・ケインズも同様のタイプだと思う。彼らは一様に芸達者なのだ。ジャン、ジョン、ジョン。

 現代の若い学生たちは電気によって構造化された世界で成人する。それは車輪の世界でなく電気回路の世界である。断片の世界でなく統合パターンの世界である。現代の学生たちは神話と深層の世界に生きている。しかしながら、学校では分類された情報にもとづいて組織された状況に出会うのである。

【『メディア論 人間の拡張の諸相』マーシャル・マクルーハン:栗原裕〈くりはら・ゆたか〉、河本仲聖〈こうもと・なかきよ〉訳(みすず書房、1987年)以下同】

 実に巧みな表現であるのだが前半と後半が結びつかない。「電気によって構造化された世界」と「神話と深層の世界」との脈絡がわからない。

「メディアはメッセージである」というのは、電子工学の時代を考えると、完全に新しい環境が生み出されたということを意味している。

 私は断然、小田嶋隆に軍配を上げる。

メディアは“下水管”に過ぎない/『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆

 機械は自然を芸術形式に変えた。はじめて人間は自然を審美的および精神的価値の源泉として見るようになった。

 それは砂漠から生まれた宗教を信じている西洋世界の連中に限られた話だろうよ。

 現代は不安の時代である。電気の内爆発のために、いかなる「視点」とも無関係に関与と参与を強いられるからだ。

 これ、テレビのことを言ってんのかね? 「一億総白痴化」(大宅壮一〈おおや・そういち〉)の方がわかりやすい。

 人間の結合と行動の尺度と形態を形成し、統制するのがメディアに他ならないからである。

 これは理解できる。ただし生活におけるコミュニケーションの影響が抜け落ちている。

 印刷は16世紀になると個人主義と国家主義を生み出した。

 メディアを中心に論じて印刷を過大評価している。個人主義と国家主義を生み出したのは「私有」の概念であり、資本主義経済の影響の方が大きい。

 電気の速度に特徴的な瞬間性と拡散性とが課せられている。けれども、果てしなく平面が交叉する同心円というのは、洞察に必要なものだ。

 マクルーハンの文章こそ「電気的」である。

 電気の技術が最初に生み出したものは不安であった。いま、それは倦怠を生み出しているように見える。

 俺も疲れたよ(笑)。先ほど偶然、マクルーハンの動画を見つけたのだが、私の印象は変わらぬどころか強化された。やっぱりインチキ野郎に見えて仕方がない。

 ま、古典といわれ、称賛の声が圧倒的に多い本なので、悪い評価をすることも無意味ではあるまい。一つだけ書評を紹介しておく。

DESIGN IT! w/LOVE

 確かに文字→印刷技術→メディア→インターネットは情報伝達のスタイルとスピードを変えた。とはいえ、結果的には情報発信者の増大に伴って世界はフラット化へ向かっているような気もする。その一方で「もの言えぬ民」が「ものを言える」ようになったわけだが、メッセージそのものが既にメディアからの影響を受けており、思想的格闘の欠如が明らかだ。もちろん私も含まれる。

 ま、そんなわけだ。

メディア論―人間の拡張の諸相
マーシャル マクルーハン
みすず書房
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あらゆる事象が記号化される事態/『透きとおった悪』ジャン・ボードリヤール
煩悩即菩提/『新板 マーフィー世界一かんたんな自己実現法』ジョセフ・マーフィー

2012-09-07

武田邦彦 「電力はなぜ足りたのか?」 2012.09.06

タバコ産業に従事する女の子たち(インド)~プラン・ジャパン


プラン・ジャパン

Best of Just For Laughs Gags - Defying Gravity Insane Pranks

服部之総、岸田秀


 2冊挫折。

黒船前後・志士と経済 他十六篇』服部之総〈はっとり・しそう〉(岩波文庫、1981年)/予想していた内容と全然違った。

黒船幻想 精神分析学から見た日米関係』岸田秀、ケネス・D・バトラー(トレヴィル、1986年/青土社、1992年/河出文庫、1994年)/岸田にしては珍しく冗長で締まりのない内容だ。50ページほどでやめる。

米政府機関(CIAとJSOC)がイエメンでの無人機攻撃を拡大、今年すでに200人、過去8日間で29人を殺害



・JSOC(統合特殊作戦コマンド

2012-09-06

米国の世界支配ツアー

US20world

 今世紀中にアメリカの横暴を阻止することはできるのか?

人間は何をいつ生産したのか?


ジル・ボルト・テイラー


 1冊読了。

 47冊目『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー:竹内薫訳(新潮社、2009年/新潮文庫、2012年)/一昨日読了。少々高っ調子(ハイテンション)な文章が鼻につくが内容は文句なし。類書に山田規畝子〈やまだ・きくこ〉著『壊れた脳 生存する知』があるが、山田が障害世界を描いたのに対し、ジル・ボルト・テイラーは脳という宇宙を経験したといってよい。順序としてはトーマス・ギロビッチ著『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』→ロバート・カーソン著『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』→本書→アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース著『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』→トール・ノーレットランダーシュ著『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』と進むのがいいだろう。最大の問題は、アナロジーが死の象徴化から始まり、「宗教の原型は確証バイアス」とすれば、宗教は左脳から誕生しながらも宗教体験(悟り)は右脳で行われることになる。数年前から「本覚論(ほんがくろん)を修行論ではなく時間論で捉えるべきだ」と考えてきたが、本書に蒙(もう)を啓(ひら)かれほぼ解決した。「宗教とは何か?」「必読書」に追加。

2012-09-05

Meet the Superhumans(2012年 ロンドン・パラリンピック)

Meet the Superhumans from STITCH on Vimeo.


パラリンピック ロンドン2012年(サムスンCM)

武田邦彦 「政府の『人体実験』政策」 2012.09.01

爆笑! ダラス開会式に役者の抗議者潜入!「企業権力ツール賞」授与(TPP、ACTA)

パラリンピック ロンドン2012年(サムスンCM)


Meet the Superhumans(2012年 ロンドン・パラリンピック)

ローマ法王候補、死の前にバチカン批判「儀式仰々しい」


 バチカン(ローマ法王庁)の改革派で、法王候補にも挙げられたマルティーニ枢機卿が亡くなり、ミラノの大聖堂(ドゥオーモ)で3日、葬儀が営まれた。最後となったインタビューが死の翌日に報じられ、「教会は200年ほども時代から取り残された。官僚組織が肥大化し、儀式と服装ばかりが仰々しい」と現在のバチカンを厳しく批判していた。

 枢機卿は8月31日、85歳で死去した。持病のパーキンソン病が悪化していたという。率直で分かりやすい語り口で、伊国民に広く愛され、葬儀には聖堂内外に約2万人が集った。葬儀前の週末にはモンティ首相らを含め、約15万人が聖堂に足を運んだという。

 伊北部トリノ生まれ。日本での布教を夢見てイエズス会の聖職者となり、1980年から2002年まではミラノ大司教を務めた。生殖医療や離婚の是非、避妊具の使用に柔軟な姿勢を示し、他宗教との対話にも積極的だった。

朝日新聞デジタル 2012年9月4日

2012-09-04

民主主義と暴力について/『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール


民主主義と暴力/『襲われて 産廃の闇、自治の光』柳川喜郎

 続きを書くとしよう。

 民主主義は暴力に対抗し得るだろうか? チト微妙だ。するともしないとも言える。

 いじめをモデルに考えてみよう。私に子供がいたとする。更にその子が私の意に反しておとなしい子に育ったものと仮定しておく。

 我が子に対する教育はコミュニケーション能力を磨くことに主眼を置く。誰とでも仲よくなることができ、人の心を理解できる子供に育て上げる。

 で、私の子か、あるいは子供の親友がいじめられた場合どうするか? 「心ある大衆を集めて反撃せよ」と私なら教えることだろう。

 2対1という構図は、チンパンジーの権力闘争を多彩なものにすると同時に、危険なものにもしている。ここで鍵を握るのは同盟だ。チンパンジー社会では、一頭のオスが単独支配することはまずない。あったとしても、すぐに集団ぐるみで引きずりおろされるから、長続きはしない。チンパンジーは同盟関係をつくるのがとても巧みなので、自分の地位を強化するだけでなく、集団に受けいれてもらうためにも、リーダーは同盟者を必要とする。トップに立つ者は、支配者としての力を誇示しつつも、支援者を満足させ、大がかりな反抗を未然に防がなくてはならない。どこかで聞いたような話だが、それもそのはず人間の政治もまったく同じである。

【『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール:藤井留美訳(早川書房、2005年)以下同】

Pan troglodytes

 政治の淵源はチンパンジーにあったのだ。我々の先祖は偉大だ(笑)。つまり政治とは暴力の異名であったのだ。民主主義が政治手続きである以上、暴力とは無縁でいられない。

 下の階層に属する者が、力を合わせて砂に線を引いた。それを無断で踏みこえる者は、たとえ上の階層でも強烈な反撃にあうのだ。憲法なるもののはじまりは、ここにあるのではないだろうか。今日の憲法は、厳密に抽象化された概念が並んでいて、人間どうしが顔を突きあわせる現実の状況にすぐ当てはめることはできない。類人猿の社会ならなおさらだ。それでも、たとえばアメリカ合衆国憲法は、イギリス支配への抵抗から誕生した。「われら合衆国の人民は……」ではじまる格調高い前文は、大衆の声を代弁している。この憲法のもとになったのが、1215年の大憲章(マグナ・カルタ)である。イギリス貴族が国王ジョンに対し、行きすぎた専有を改めなければ、反乱を起こし、圧政者の生命を奪うと脅して承認させたものだ。これは、高圧的なアルファオスへの集団抵抗にほかならない。

Pan troglodytes predation 2

 ボス猿vs.バトルロイヤル戦だ。重要なことは強いボスに従うよりも、ある程度利益を分配した方が進化的な優位性があると考えられることだ。実際、抜きん出たカリスマ指導者を持った集団は、指導者を失った途端に崩壊の坂を転げ落ちる。

 民主主義は積極的なプロセスだ。不平等を解消するには働きかけが必要である。人間にとても近い2種類の親戚のうち、支配志向と攻撃性が強いチンパンジーのほうが、突きつめれば民主主義的な傾向を持っているのは、おかしなことではない。なぜなら人類の歴史を振りかえればわかるように、民主主義は暴力から生まれたものだからだ。いまだかつて、「自由・平等・博愛」が何の苦労もなく手に入った例はない。かならず権力者と闘ってもぎとらなくてはならなかった。ただ皮肉なのは、もし人間に階級がなければ、民主主義をここまで発達させることはできなかったし、不平等を打ちやぶるための連帯も実現しなかったということだ。

Banksy Canvas Monkey Guns
Banksy作)

 そしていじめもなくならない。自殺も。警察庁の「自殺統計」によれば学生・生徒の自殺者数は微増傾向にあり、2011年に初めて1000人を超えた。

自殺対策白書

 この内、いじめが原因となっている数はわからない。だが一人でもいじめを苦に死を選んだ児童がいれば、決してそれを許すべきではない。

 意外と見落としがちであるが、暴力というのも実は文化と考えられる。まず始めに啖呵(たんか)を切る。突然殴ることは殆どない。次に相手の胸倉をつかむ。サルの世界でディスプレイと呼ばれる示威行為と一緒だ。つまり暴力は相手の命を奪うことを目的としていない。憎悪に猛り狂い、殺意がたぎっていたとしても、我々は相手の喉仏や鼻の下、眉間、耳の下を殴ることができない。ま、本気で喉元に手刀を入れれば、やられた方は死んでしまうことだろう。

 再び学校に目を戻そう。学校内で民主主義が実現されるのは多数決で何かを決める場合に限られる。実際はクラス委員や生徒会長を選出する時だけであろう。そしてクラス委員や生徒会長には大した権限がない。学校全体を仕切っているのは校長を始めとする教員たちであり、クラスを牛耳るのはいじめっ子なのだ。

 何となく日本を象徴するような話だ。校長先生がアメリカで、いじめっ子が暴力団と考えればわかりやすいだろう。

 革命とは政治主義の変更であって、国民全員に利益が分配される革命など存在しない。例えば米騒動を考えてみよう。現在、米に替わるものはマネーである。では貧しい人々が決起して、銀行を襲えばカネを奪えるだろうか? 無理だね。残念ながら銀行にカネはないのだよ。あってもせいぜい預金の20%程度であろう。あいつらは準備預金率というレバレッジで悪どく儲けているのだ。マーケットを見よ。デジタル化された数値がやり取りされているだけの世界だ。

 面倒になってきたので結論を述べる。我々はいざという時に暴力を振るえる覚悟がない限り、民主主義を実現することは不可能だ。更にすべての情報が公開されていない以上、投票行為すらメディアによって操作されてきた可能性がある。

 いじめを傍観する者が一人もいなくなれば、民主主義は完璧なものとなろう。

フランス・ドゥ・ヴァール

あなたのなかのサル―霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源

女の子の服を着たがる息子のために父親がとった行動を世界が絶賛


2012-09-03

ステンドグラスのような棚田(中国雲南省)

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 ステンドグラス、ではない。棚田である。空の色が水に映(は)えて美しいガラスのように見える。人間の日々の営みが大自然と調和するところに、意図せざる芸術が生まれる。大地と共に生きることは、人間に都合のよい一方的な収穫を意味しなかったはずだ。「気は風に乗れば則ち散り、水に界せられば則ち止る。古人はこれを聚めて散らせしめず、これを行かせて止るを有らしむ。故にこれを風水と謂う」(『葬書』)。

世界で最も美しい棚田の街 雲南省元陽

2012-09-02

ニーナ・シモン / Nina Simone


クリスティン・アスビョルンセン / Kristin Asbjørnsen

 ってことで、ニーナ・シモンも紹介しよう。二人の声は蒙古族ホーミーに通じるものがある。







ベスト・オブ・ニーナ・シモン Nina: The Essential Nina Simone Little Girl Blue

クリスティン・アスビョルンセン / Kristin Asbjørnsen


 ボーカルが耳に届くや否や、そのまま胸に染み込んできた。クリスティン・アスビョルンセン(ノルウェー)の声はニーナ・シモンと同じバイブレーションを放っている。オペラの声量は神を目指して直進するが滋味に乏しい。一方、クリスティン・アスビョルンセンやニーナ・シモンは喉を唸(うな)らせることで陰影の豊かさを歌い上げる。











「酔いどれ詩人になるまえに」オリジナル・サウンドトラックWayfaring StrangerNight Shines Like the Day

クリスティン・アスビョルンセン MP3

ある中学校のクラスでシャーペンの芯が通貨になった話



信用創造のカラクリ
「Money As Debt」

Neil Armstrong, Apollo Missions, The First & Last Men on the Moon: Kennedy Launches the Race for the Moon


アポロ月面着陸映像は本物か? 捏造にキューブリックも関与

繰り返される偽旗作戦


偽旗作戦

【日本の税収】は、消費税を3%から5%に上げた平成9年以降、減収の一途


言葉や演技で笑いが取れない場合、番組企画は「公開処刑」か「ドッキリ」に行き着く



テレビの中でいじめが蔓延している、という小田嶋隆さん(@tako_ashi)の見解
若手芸人の役回りはイジメ被害者の「モガキ」/『テレビ救急箱』小田嶋隆

2012-09-01

宮城谷昌光


 3冊読了。

 44~46冊目『楽毅(二)』(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)、『楽毅(三)』(新潮社、1998年/新潮文庫、2002年)、『楽毅(四)』(新潮社、1999年/新潮文庫、2002年)宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉/一度徹夜し、三日間で読了す。思わず楽毅Botを始めそうになったほどである。開くだけで背筋が伸びる小説は珠玉に優(まさ)ると思う。『孟嘗君』を先に読んでおいた方がよい。それにしても宮城谷昌光の作品は底が知れない。胸の奥深くで鳴り響く余韻が生涯消えることはないだろう。

2012-08-31

対テロ捜査で拘束されたアフガン人とイラク人が、CIAの尋問中に死亡した事件



2012-08-29

世界最悪の修復キリスト画「Ecce Homo(この人を見よ)」


「世界最悪」の修復キリスト画が大人気、訪問者が急増

「世界最悪の修復」でサルさながらに変貌してしまった102年前のキリストの肖像画を見ようと、スペイン北東部ボルハ(Borja)を訪れる人々が数百人規模に急増している。

 この肖像画はスペイン人画家エリアス・ガルシア・マルティネス(Elias Garcia Martinez)が1910年に描いた「Ecce Homo(この人を見よ)」で、ボルハ市内の教会の柱に直接描かれている。傷みが目立ち始めたため、年齢が80代とされるセシリア・ヒメネス(Cecilia Gimenez)さんが善意で修復を試みたところ、オリジナルと似ても似つかないとして地元住民から苦情が殺到。静かな町だったボルハに、世界中のメディアの注目が一気に集まった。

 肖像画は本来、いばらの冠をかぶせられたイエス・キリストの姿を描いたものだったが、「修復」後は顔色の悪いサルのようで、目鼻立ちはバランスが悪く、頭を毛皮が覆っているように見えるありさま。一部メディアはこれを史上最悪の修復と伝えた。

 25日には教会の外に、興味津々の訪問者の行列ができた。公共テレビ放送のインタビューに応じたある女性は、「以前の絵も大変素晴らしかったけれど、わたしは本当にこれ(修復後の肖像画)が気に入っています」と語った。

 ボルハ市に原画を復元する計画を思いとどまるよう求めるオンライン嘆願書には、既に1万8000人もの署名が集まっている。

AFP 2012年8月26日

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1910年の絵画「Ecce Homo(この人を見よ)」のオリジナル(左)、「修復」前(中央)、「修復」後。スペイン・ボルハ(Borja)の教育センターが公開



「世界最悪」の修復キリスト画、人気の観光スポットに

 80代女性の善意の修復により、オリジナルと似ても似つかない絵画になってしまった「Ecce Homo(この人を見よ)」(1910年作)をひと目見ようと、スペイン北東部ボルハ(Borja)の教会には連日、大勢の人々が詰めかけている。

 肖像画は、スペイン人画家エリアス・ガルシア・マルティネス(Elias Garcia Martinez)が教会の柱に直接描いたもの。本来、いばらの冠をかぶせられたイエス・キリストの姿を描いたものだったが、「修復」後は顔色の悪いサルのようで、目鼻立ちはバランスが悪く、頭を毛皮が覆っているように見えるありさま。一部メディアはこれを史上最悪の修復と伝えている。

AFP 2012年8月29日



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民主主義と暴力/『襲われて 産廃の闇、自治の光』柳川喜郎


 1996年10月30日、岐阜県可児郡(かにぐん)御嵩(みたけ)町長を務めていた柳川喜郎は二人組の暴漢に襲われ、滅多打ちにされた。

 左前頭部頭蓋骨陥没骨折、頭部打撲傷、右上腕部骨折、右肋骨3本骨折、その1本は肺に刺さって右肺が気胸(ききょう)の状態、それに右鎖骨骨折との診断であった。

【『襲われて 産廃の闇、自治の光』柳川喜郎〈やながわ・よしろう〉(岩波書店、2009年)以下同】

 右腕上腕部は直角に折れていた。御嵩町長襲撃事件である。柳川は意識不明の重体となるが辛うじて一命を取り留めた。

 前年の1995年、産業廃棄物処理場の建設反対を公約に掲げて柳川は町長選で当選する。

 襲撃事件の1年以上前から、産廃についての勉強会を開いた住民たちに暴力団や右翼から脅しが入ったり、町長室に広域暴力団の幹部が私に面会を求めてやってきて、「介入する」と凄んでいったこともあった。
 襲撃事件の1年前の95年9月、産廃処分場計画の一時凍結を県知事に要望してからは、ミニ新聞が一斉に御嵩町政批判と私に対する個人攻撃を反復し、執拗に敵意をむき出しにしていた。

 利権と暴力はセットメニューだ。利権に与(あずか)る企業にとって暴力団は必要悪の存在といえる。汚れ仕事はアウトソーシングするわけだ。

 柳川はNHK記者時代に戦場取材や暴動を経験してきた。そこに自信と油断があった。サポーターは監視カメラの設置を進言したが、結局間に合わなかった。

 御嵩(みかさ)町の隣りの可児(かに)市にある産業廃棄物処理業者、寿和(としわ)工業の韓鳳道(清水正靖)会長が平井儀男町長に面会して、御嵩町小和沢(こわさわ)に39ヘクタールの管理型産廃処分場を建設する計画について説明した。

 この会社は現在も営業中だ。

寿和工業

 木曽川には織田信長にもらったとされる農業用水の水利権、それに福沢桃介(ももすけ)がはじめた水力発電の水利権など、がんじがらめになっている。

 御嵩町には木曽川の水利権がなかった。この辺りについては以下のページが詳しい。

御嵩[1998/05]

 岐阜県は産廃処理場設置に積極的だった。柳川も梶原拓知事と小田清一衛星環境部長の名前を挙げて問題視している。

「協定書」の最大の問題点は、町民の知らないところで、いわば密室協議で決まり、締結されたことであった。それまで表向き産廃処分場は「不適」として建設に反対の意思を表明してきた町が180度方針を転換し、「協定書」で巨大産廃処分場受け入れを決めたことは、町民にはまったく知らされなかった。
 それに、町が産廃業者から受け取ることになっていた金額35億円は、町の年間一般会計予算額約60億円と対比させても巨額であり、町民の知らないまま受け取りを決定してよい金額ではなかった。

 ま、政治なんてえのあ、闇鍋みたいなもんだろう。この国ではジャーナリズムが機能していないため、政治家や大企業はやりたい放題だ。柳川は住民投票の実施を決意する。しかし、岐阜県がまた横槍を入れてきた。

 なぜならば、地元の御嵩町では住民投票で小和沢に産廃処分場を建設するか、しないかについて民意を問おうという矢先に、処分場の建設を前提とした「調整試案」を提示してきたのは、住民投票への妨害工作と解釈せざるをえなかったからである。

 こうなると寿和工業と岐阜県の間に何らかの利益構造があると見てよさそうだ。

 M右翼の元親分の追悼式は同じ年の9月7日におこなわれるが、その前日、寿和工業会長は高速道路のインター近くで、5000万円の現金をM右翼に渡す。香典にしては巨額であった。

 寿和工業の素性が知れる行為である。

 また、こんなこともあった。

 のちに捜査が進んで盗聴Aグループの実行犯が逮捕されたとき、新聞の犯人の顔写真を見て、私は飛びあがった。逮捕されたT興信所はテレビ取材班と一緒に現れた盗聴器発見プロ氏、その人であった。

 柳川の自宅電話は二つのグループによって盗聴されていた。

 結局、この事件は時効となる。なぜか?

「正直いって寿和にいる元警察幹部が障害になった」と、ある捜査官は私に語ったことがある。

 寿和工業には複数の警察幹部が天下りしていたのだ。警察OBが捜査に手心を加えさせることは決して珍しいことではない。

革マル派に支配されているJR東日本/『マングローブ テロリストに乗っ取られたJR東日本の真実』西岡研介

 岐阜県警は凶器の特定すらできず、あろうことか柳川のX線写真すら確認していなかった。

 御嵩町で住民投票が実施された。

 即日開票の結果、産廃処分場建設に反対1万373票(79.6%)、賛成2442票(18.7%)、反対票が圧倒的だった。(※絶対得票率69.5%)

 この結果を受けて、

 産廃業者・寿和工業は住民投票後も町と町長に対する提訴を濫発し、合計10本となった。

 訴権の濫用ともいうべき醜態だ。凶暴な野獣を思わせる。

「民主主義は楽ではない」との一言があまりにも重い。柳川が描いたのは暴力に屈することのなかった地方自治の姿であった。柳川は我が身を暴力にさらすことで民主主義に魂を吹き込んだといってよい。民の無関心が民主主義のリスクを高める。その代償はあまりにも大きい。そして司法も警察もまともに機能していない現実がある。

 そもそも民主主義というものは理想的な概念であって、私としては信ずるに値するとも思っていないし、単なる欺瞞だと考えている。そんな私からしても柳川&御嵩町民の闘争は一筋の光明と感じた。

 本当はここからいじめについて書こうと思っていたのだが、長くなったので筆を擱(お)く。最後に新聞記事を紹介しよう。

犯人に異例の呼び掛け 岐阜・御嵩町長、事件10年で会見

 岐阜県御嵩町の柳川喜郎町長(73)が襲撃された事件から30日で10年になるのを前に、町長は26日、御嵩町役場で記者会見し、犯人に呼び掛ける異例のメッセージを発表した。事件は時効まで5年に迫ったが、捜査は難航している。

「犯人に告ぐ」と題したメッセージで柳川町長は「もし、君たちに良心がかけらでもあるならば、自首してもらいたい」と呼び掛けた。会見では「10年間心当たりを探してきたが、事件の背景への心当たりは産廃以外にない」と指摘し「自首するならば、県警に減軽の嘆願書を出すだろう」と心境を語った。

 襲撃事件は1996年10月30日午後6時すぎに発生。町内の自宅マンションに戻った柳川町長を、待ち伏せていた2人組の男が棒のようなもので殴り、頭や腕などの骨を折る重傷を負わせた。

 県警はこれまでに、延べ14万8000人の捜査員を投入。柳川町長宅の電話が盗聴されていた事件で11人を逮捕したが、襲撃事件の犯人逮捕には結びついていない。

 事件解決を訴えてきた町民グループは11月3日午後1時半から、同町の中公民館で暴力追放を訴える集会を開催。右翼団体構成員に実家を放火された加藤紘一衆院議員、元日弁連会長の中坊公平氏、柳川町長が講演する。



町長メッセージ「犯人に告ぐ」

 この10年間、考え続けてきたが、どう考えても、君たちと私は互いに見知らぬ関係だ。
 君たちは「雇われた男」なのだ。
 金のために、暗闇で待ち伏せて、無抵抗の人間をメッタ打ちにするなど、卑怯(ひきょう)とは思 わないのか。
 もし、君たちに良心がかけらでもあるならば、自首してもらいたい。
 許すことを約束する。

【中日新聞 2006-10-27】

襲われて―産廃の闇、自治の光
柳川 喜郎
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柳川喜郎さん襲撃事件、時効
柳川喜郎前御嵩町長が住民投票条例について講演(1)
柳川喜郎前御嵩町長が住民投票条例について講演(2)
急接近:柳川喜郎さん 言論封じる暴力に社会が立ち向かうには/【社説】「知る権利」を侵すな 秘密保全法制
民主主義と暴力について/『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール
合理的思考の教科書/『リサイクル幻想』武田邦彦
金儲けのための策略/『正義で地球は救えない』池田清彦、養老孟司

2012-08-28

宮城谷昌光


 1冊読了。

 43冊目『楽毅(一)』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)/諸葛亮(孔明)が敬慕した名将が楽毅〈がっき〉その人である。紀元前3世紀頃の戦国時代に活躍した武将だ。敵国である斉へ留学し、孟嘗君〈もうしょうくん〉との出会いが楽毅の運命を決したといってよい。それにしても戦闘の駆け引きが知力の限りを尽くして凄まじい。楽毅は孫子の兵法を体得していた。