2015-03-14

都市革命から枢軸文明が生まれた/『一神教の闇 アニミズムの復権』安田喜憲


『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男

 ・神を討つメッセージ
 ・都市革命から枢軸文明が生まれた

『カミの人類学 不思議の場所をめぐって』岩田慶治

 イスラエルのヘブライ大学の日本研究者であるS・N・アイゼンシュタットは、超越的秩序と現世的秩序の大な水の中で、日本文明の特質を解明しようと試みた(『日本比較文明論的考察』梅津〈うめつ〉順一、柏岡富英訳、岩波書店、2004年)。アイゼンシュタットは日本文明の歴史的経験の大きな特徴は、「現在にいたるまで持続的・自律的に波瀾に満ちた歴史をもつ」ことだという。
 カール・ヤスパース(1883-1969)は、文明と呼べるのは超越的秩序としての巨大宗教や哲学をもった「枢軸文明」だけであると指摘した(『歴史の起源と目標』ヤスパース選集9、重田英世〈しげた・えいせい〉訳、理想社、1964年)。その代表がユダヤ・キリスト教のイスラエル文明、ギリシャ哲学のギリシャ文明、仏教のインド文明、儒教の中国文明だ。それは伊東俊太郎氏(『比較文明』東京大学出版会、1985年)のいう精神革命を成しとげたところでもある。
 伊東氏は、こうした精神革命をな(ママ)しとげたところは古代の都市革命の誕生地に相当しており、これらの超越的秩序は、都市文明の成熟を背景として成立したと指摘した。したがって、伊東氏の説を逆に解釈すれば、超越的秩序を生み出す精神革命を体験しなかったところでは、都市文明は誕生しなかったことになる。

【『一神教の闇 アニミズムの復権』安田喜憲〈やすだ・よしのり〉(ちくま新書、2006年)】

 日本を独自文明とするかシナの衛星文明とする二つの見方がある。尚、今後当ブログでは社会主義化以降を中国、それ以前をシナと表記する。理由については以下のリンクを参照されたい。

シナ(支那)を「中国」と呼んではいけない三つの理由
支那呼称問題・「中華」「中国」は差別語、「支那」「シナ」が正しい・「支那」は世界の共通語・【私の正名論】評論家の呉智英・「中華主義」と「華夷秩序」という差別文明観を込めた「中国」を日本にだけ強要

 中華思想は「世界の中心地」を意味するゆえ、日本人が安易に「中国」と呼べば、精神的・文化的に属国となりかねない。

「シナ」と「中国」の区別/『封印の昭和史 [戦後五〇年]自虐の終焉』小室直樹、渡部昇一

 シナ文明が中国共産党によって途絶えたことと、日本の200年以上に及ぶ鎖国(1639-1854)の歴史を踏まえると「独自文明」の色合いが強まる。

 このテキストについては元々紹介するつもりはなかったのだが、馬渕睦夫〈まぶち・むつお〉著『国難の正体 世界最終戦争へのカウントダウン』『世界を操る支配者の正体』を補強する内容であることに気づいた。馬渕はソ連をつくったのはユダヤ人であり、建国当初からアメリカ国内に左翼勢力がうごめいていた事実を指摘。そこから国際主義者=左翼であることを示し、思想的な背景にユダヤ教の影響があると考察する。つまり世界各地に離散(ディアスポラ)したユダヤ人がユダヤ的価値観に基いて国際主義を鼓吹(こすい)した結果が現在のグローバリゼーションに至るわけだ。

 儒教が都市から生まれたことは養老孟司〈ようろう・たけし〉がよく指摘するところである(『養老孟司の人間科学講義』)。「子、怪力乱神(かいりきらんしん)を語らず」とは孔子が自然を相手にしなかったことを意味すると。

 都市革命という視点を私は欠いていた。郷村から人々が自由に移動を始め、ある地域に集まった時、ローカル(地方)を超えた概念が必要となる。つまり「脱民俗」というベクトルが結果的に世界へと向かったわけだ。ヒト社会における群れから都市への革命は脳内をも一変させたことであろう。言葉も書き換えられたことは容易に想像がつく。

 思想的に捉えると日本の都市化が始まったのは日本仏教が花開いた鎌倉時代とするのが妥当かもしれない。


シナの文化は滅んだ/『香乱記』宮城谷昌光

2015-03-13

目撃された人々 62


「我々は意識を持つ自動人形である」/『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ


『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン
『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫

 ・手引き
 ・唯識における意識
 ・認識と存在
 ・「我々は意識を持つ自動人形である」
 ・『イーリアス』に意識はなかった

『新版 分裂病と人類』中井久夫
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗

 この説によれば、意識は何ら活動しておらず、実際、何もすることはできないという。ハーバート・スペンサー(訳注 1820-1903、イギリスの哲学者)は、厳密な進化論と矛盾しないためにはこのように意識を一段低く見るしかないとした。現実的な実験主義者の多くは今なお彼と意見を同じくしている。動物は進化し、その過程で神経系やその機械的反射作用の複雑性が増す。神経がある一定の複雑性に達すると、意識が生まれ、この世界の出来事をただ傍観者として眺めるだけの、救いのない行動を始めるというのだ。
 私たちの行動は、脳の配線図と、外界の刺激に対する反射作用とに完全に制御されている。意識は配線が出す熱であり、随伴的な現象にすぎない。シャドワース・ホジソン(訳注 1832-1912、イギリスの哲学者)が言うように、意識が持つ感情は、色そのものによってではなく、色のついた無数の石によってまとまりを保っている、モザイクの表面の色にすぎない。あるいは、トマス・ヘンリー・ハクスリー(訳注 1825-95、イギリスの生物学者)がある有名な論文で主張したように、「我々は意識を持つ自動人形である」。

【『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ:柴田裕之訳(紀伊國屋書店、2005年)】

 トマス・ヘンリー・ハクスリーは王立協会の会長を務めた人物で、オルダス・ハクスリーの祖父に当たる。彼もまたダーウィンの進化論を支持した。この文章は意識に対する様々な見解を紹介している件(くだり)なのだが、実は意識が「何であるのか」すらもわかっていない。

 ともすると意識を高等なものと考えがちだが、ただ単に意識という反応があるだけなのかもしれない。

 私は毎度書いている通り、「生とは反応である」との持論をもつゆえに異論はない。ただし教育と努力の可能性を考える必要があろう。

 チンパンジーの社会では力の強い者がボスとして君臨する。ボスが老いたり、弱ったりすれば若いオスがボスをこてんぱんにする。文字通り暴力が支配する世界だ。時には2位とそれ以下のチンパンジーが徒党を組んで襲うケースもある(『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール)。

 ヒトの場合ももちろん体が大きくて力の強い者が優位である。子供社会を見れば一目瞭然だ。しかしながらヒトの場合、努力で力に対抗し得る。例えば空手・柔道・システマなどを習えば、その【技術】によって生まれついた力の差を克服できるのだ。

 そして高度に発達した社会では力よりも知性の優れた者が後世に遺伝子をのこす確率が高まる。具体的には人々を動かす政治力であり、時には人を騙す能力となる。「嘘をつく」というのは知的に高度な行為であることを見逃してはなるまい。

 こう考えてみると、教育の本質が「技の獲得」にあることが見えてくる。

 西暦1700年か、あるいはさらに遅くまで、イギリスにはクラフト(技能)という言葉がなく、ミステリー(秘伝)なる言葉を使っていた。技能をもつ者はその秘密の保持を義務づけられ、技能は徒弟にならなければ手に入らなかった。手本によって示されるだけだった。

【『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー:上田惇生〈うえだ・あつお〉編訳(ダイヤモンド社、2000年)】

 近代の歴史とも見事に符合する。中世以降、宗教が後(おく)れをとったのもここに理由があると思われる。科学的視点を欠いた宗教は「秘伝」を重んじて、「技能」を軽視したのだろう。キリスト教においてはプロテスタントが登場するまで聖書すら「秘伝」であった。これまた16世紀の歴史である。

術とはアート/『言語表現法講義』加藤典洋

 そして中世に「マネー」が生まれた。

マネーと民主主義の密接な関係/『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」 なるほど!「マネーの構造」がよーく分かった』天野統康

 もちろん貨幣経済は古くから存在したが信用創造という概念はなかった。ユダヤ人の金貸しが発行した預り証が紙幣の原型であり、彼らは更に為替・証券・債権を誕生させ、銀行・保険・株式会社をつくり上げる。

 資本主義は資本がすべてであり、あらゆるものが商品化されるシステムだ。欲望まみれの社会で生き残るのはカネを掴んだ者だ。幸福は金額と化す。我々の生き方や脳はマネーに支配されている。マネーこそは中世以降、完全に世界を征服した宗教といっても過言ではない。単なる約束事であるにもかかわらず、誰もがその存在と価値を信じ込んで疑うことがないのだから。

 現代社会はマネーに対する反応で動いている。そしてグローバリゼーションという名の下で、明らかに経済が政治よりも優位性を強めている。多国籍企業が持つ力は既に国家を凌駕しつつある。

資本主義経済崩壊の警鐘/『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン

「意識を持つ自動人形」をやめることは可能だろうか? 極めて困難だ。我々が小説や映画やドラマ、漫画などを好むのは、「感情を操られたい」願望がある証拠だろう。学校や企業では「自動」の速度や合理化を競っている節すら窺える。

 ではどうするのか? 「止まる」ことだ。動くのをやめて止まればいい。そして心の動きまで止めてしまう。これを止観(しかん)という。そう。瞑想だ。本当に生きるためには死の淵まで降りる必要がある。瞑想は時間を止める行為でもある。三昧に至れば欲望は洗い落とされる。ま、至っていない私が言うのも何だが。


あたかも一角の犀そっくりになって/『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳

2015-03-12

勉強用BGM


 これはいいものを見つけた。書評を書く時に流す。シナプスの発火を促進してくれることだろう。







小室直樹、デイヴィッド・マレル


 3冊読了。

 17冊目『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』小室直樹(講談社、2000年/講談社+α文庫、2001年)/こういう本が読みたかったのだよ。日本がなぜ大東亜戦争に敗れたのか、そしてどうすれば勝てたのかを緻密に検証する。組織論・システム論・戦術論からゼロ戦に至るまでが考察されている。検証はロシア戦争にまで及び、かの戦争が奇蹟的な勝利であったことまで明かす。小室直樹はゴリゴリの合理主義者であってイデオロギーとは無縁の人物だ。文章の臭みは相変わらずだが、天才的な観察力を遺憾なく発揮している。『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』で示した小室理論がわかりやすく展開されている。

 18冊目『一人だけの軍隊 ランボー』デイヴィッド・マレル:沢川進訳(ハヤカワ・ノヴェルズ、1975年/ハヤカワ文庫、1982年)/再読。20年以上前に一度読んでいる。電車に持ち込み、あまりの面白さに降りる駅を通り過ぎてしまったことを覚えている。マレルが大学教授だったとはね。今読むとそれほどでもないのだが、1972年刊行(原著)という時期を思えば、やはり後続に与えた影響は大きい。ドラマ『24 -TWENTY FOUR-』だってランボーのスケールを小さくしたようなものと見えなくもない。ティーズルという片田舎の警察署長は昔のシェリフ(保安官)そのものであり、アメリカを体現しているように感じた。特筆すべきはランボーが「禅の精神」を会得していることで、ラストに至りティーズルとの奇妙な一体感が生まれる。それでも尚、神の物語から脱却できていないところにアメリカの宿痾(しゅくあ)が見える。

 19冊目『ランボー/怒りの脱出』デイヴィッド・マレル:沢川進訳(ハヤカワ文庫、1985年)/こちらも再読。2冊とも1日で読了。映画『ランボー/怒りの脱出』のノベライゼーション。巧みだ。荒唐無稽な展開を支える材料がしっかりしている。ランボー独特の瞑想シーンまで描かれている。ま、映画が先行しているため細かいことは言うまい。大体、ランボーは前作で死んでいるのだから(笑)。プロットはCIA官僚vs.ランボーである。トラウトマン大佐が組織人の哀しさを象徴している。だがランボー自身も最後はマードックを殺さなかった。ここは絶対に殺さなければいけない場面である。自分になされた仕打ちへの報復ではない。この人物がいる限り犠牲者が出るためだ。舞台はベトナムで前作同様、アジアへの憧れが匂い立つ。

2015-03-11

認識と存在/『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ


『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン
『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫

 ・手引き
 ・唯識における意識
 ・認識と存在
 ・「我々は意識を持つ自動人形である」
 ・『イーリアス』に意識はなかった

『新版 分裂病と人類』中井久夫
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗

 何世紀にもわたって人々は考察と実験を重ね、時代によって「精神」と「物質」、「主体」と「客体」、「魂」と「体」などと呼ばれた二つの想像上の存在を結びつけようと試み、意識の流れや状態、内容にかかわる果てしない論考を行ない、様々な用語を区別してきた。そうした用語には「直観」(訳注 論証を用いないで対象を一挙に捉えること)、「センス・データ」(訳注 感覚を通じて意識に上るもの。イギリスの哲学者ジョージ・ムーアや同じくイギリスの哲学者バートランド・ラッセルの用語)、「所与」(訳注 外界から直接与えられるもの)、「生(なま)の感覚」(訳注 経験そのものから受ける主観的な感覚)、「センサ」(訳注 感覚のこと。イギリスの哲学者C・D・ブロードの造語)、「表象」(訳注 頭の中に現れる外的対象の像)、「構成主義者」(訳注 ドイツの心理学者ヴィルヘルム・ヴントなど)の内観における「感覚」や「心像」や「情緒」、科学的実証主義者(訳注 フランスの哲学者オーギュスト・コントなど)の「実証データ」、「現象的場」(訳注 アメリカの心理学者カール・ロジャース(ママ)が唱えた経験の主観的現実)、トマス・ホッブズ(訳注 1588-1679、イギリスの政治思想学者)の「幻影」(訳注 ホッブズは著書『リヴァイアサン』の中で、人が眠っていると気づかずに見る幻や幻影の話をしている)、イマヌエル・カント(訳注 1724-1804、ドイツの哲学者)の「現象」(訳注 カントは、私たちが経験するのは物ではなくその現象であるとし、現象に客観的現実を認めようとした)、観念論者の「仮象」(訳注 ドイツ観念論の頂点に立つ哲学者W・F・ヘーゲルは、カントの主観的な仮象と客観的な現象の二分法を退け、仮象も本質の現れであるとした)、エルンスト・マッハ(訳注 1838-1916、オーストリアの物理学者、哲学者)の「感性的諸要素」(訳注 マッハは、世界は色や音などの感覚的諸要素から成り立っていると考えた)、チャールズ・サンダース・パース(訳注 1839-1914、アメリカの論理学者)の「ファネロン」(訳注 パースの造語で、現象を意味する)、ギルバート・ライル(訳注 1900-76、イギリスの哲学者)の「カテゴリー・ミステイク」(訳注 ライルは、別のカテゴリーに属するものを同等に論ずることはできないとした)などがある。しかし、これらすべてをもってしても、意識の問題はいまだに解決されていない。この問題にまつわる何かが解決されることを拒み、しつこくつきまとってくる。
 どうしても消え去らぬのは差異だ。それは他者が見ている私たちと、私たち自身の内的自己観やそれを支える深い感覚との差異、あるいは、共有された行動の世界にいる「あなたや私」と、思考の対象となる事物の定めようのない在りかの差異だ。

【『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ:柴田裕之訳(紀伊國屋書店、2005年)】

 哲学の世界では近代から現代にかけて「認識論から存在論へ」という流れがあり、第一哲学へと回帰した。ところが1990年代に花開いた脳科学からは認知科学が実を結び、心理学もこれを追随している。

「『在る』とはどういうことか?」とパルメニデス(紀元前500年か紀元前475年-?)は考えた。「万物は流転する」(ヘラクレイトス)。変化するものを「在る」とすることはできない。彼はそう考えた。まったく厄介なことを考えたものだ。そこからイデアや創造神に向かうのは必定である。「在るものがあるはずだ」ってなことだ。

 仏教において人間の存在は五蘊(ごうん/色・受・想・行・識)という要素が構成するものとして見る。考えるのではない。見るのだ。色蘊(しきうん)は肉体、受・想・行・識はそれぞれ、感受・表象・意志・認識作用を意味する。自我を構成するのは五蘊であり、更に深く潜ると無我に至る。そして世界は無常を奏でる。一生という限られた時間の運動は認識に極まる(唯識)。ということは何もないのか? いや、ある。縁起という関係性があるのだ。

 西洋哲学が存在に固執するのは神(≒自我)への愛着から離れることができないためだろう。言葉をこねくり回して難しさを競うよりも、素直に仏教を学ぶべきだ。

2015-03-10

風は神の訪れ/『漢字 生い立ちとその背景』白川静


『白川静の世界 漢字のものがたり』別冊太陽

 ・言葉と神話
 ・神話には時間がなかった
 ・言霊の呪能
 ・風は神の訪れ

『野口体操・からだに貞(き)く』野口三千三
『原初生命体としての人間 野口体操の理論』野口三千三
『野口体操 マッサージから始める』羽鳥操
『「野口体操」ふたたび。』羽鳥操

 ことばの終りの時代に、神話があった。そして神話は、古代の文字の形象のうちにも、そのおもかげをとどめた。そのころ、自然は神々のものであり、精霊のすみかであった。草木(くさき)すら言(こと)問うといわれるように、草木にそよぐ風さえも、神のおとずれであった。人々はその中にあって、神との交通を求め、自然との調和をねがった。そこでは、人々もまた自然の一部でなければならなかった。
 人々は風土のなかに生まれ、その風気を受け、風俗に従い、その中に生きた。それらはすべて、「与えられたるもの」であった。風気・風貌・風格のように、人格に関し、個人的と考えられるものさえ、みな風の字をそえてよばれるのは、風がそのすべてを規定すると考えられたからである。自然の生命力が、最も普遍的な形でその存在を人々に意識させるもの、それが風であった。人々は風を自然のいぶきであり、神のおとずれであると考えたのである。

【『漢字 生い立ちとその背景』白川静〈しらかわ・しずか〉(岩波新書、1970年)】

 風は変化を告げる。季節を巡る大きな風には春一番・青嵐(あおあらし)・台風・木枯らしなどがある。日本語には驚くほど豊かな風の名称がある(「風の名称辞典」を参照せよ)。その時々に神々を感じ、見出したのだろう。

「草木(くさき)すら言(こと)問う」というのは『日本書紀』に書かれているようだ。問うは「ものを尋ねる」というよりも「主張する」との意味であろう。古代人の不安が浮かび上がってくる。それゆえに「自然との調和をねがった」のだ。

 余談ではあるが「言(こと)問う」という耳慣れぬ言葉は東京墨田区の橋の名前(言問橋〈ことといばし〉)として辛うじて残る。「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」(在原業平)の歌に由来する。

 自然は音で溢(あふ)れている。芸能山城組を主宰する大橋力〈おおはし・つとむ〉は、都会よりも森の方が賑やかな音で溢れている事実を明らかにした(『音と文明 音の環境学ことはじめ』)。風も音も振動である。耳と皮膚を直接刺激する。風と音に包まれた世界は神を皮膚感覚で捉えた世界でもあった。

 中国では古くから「気」を重んじた(陰陽五行説、気功など)。気はエネルギーであり、伝わる性質を有する。「気」と「風」の共通点や違いも考察に値するテーマだ。

 明日で東日本大震災から4年が経つ。まだまだ心の傷や経済的な打撃から立ち直るのが困難な人も多いことだろう。我々は大自然の猛威の前に為す術(すべ)を持たない。もちろん天罰などというつもりはないが、祝福ではないこともまた確かだ。文明の進歩は自然に対する畏敬の念を薄れさせた。震災が伝えたのは、「海と大地を畏(おそ)れよ」「海と大地を敬え」とのメッセージではなかったか。政府にも東電にも責任はある。だが根本的には一人ひとりが自然と向き合う姿勢を変える必要があるように思えてならない。

漢字―生い立ちとその背景 (岩波新書)