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2020-01-26

過去世と来世/『死後はどうなるの?』アルボムッレ・スマナサーラ


『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉
『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司

 ・過去世と来世

『沙門果経 仏道を歩む人は瞬時に幸福になる』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ

 インドの社会では宗教に励む人が精神的な修行をして、認識の範囲をものすごく広げてみたのです。居ながらにしてその場所にないものを見たり聞いたりする能力を開発して、認識の次元を伸ばしたのです。現代風に言えば超能力です。普通の人間の能力を超越したのです。それは修行によって、訓練によって得たものです。そういう人々が初めて、死後の世界、というよりは過去の世界について語り始めた。それはほとんど自分自身の過去のことなのです。「自分は過去世でこんなふうに生きていました」と。そこで過去世があるのだから、推測によって未来世もあるだろうと言い出したのです。

【『死後はどうなるの?』アルボムッレ・スマナサーラ(国書刊行会、2005年/角川文庫、2012年)以下同】

 この件(くだり)を読んで私はスマナサーラに疑問を抱き、南直哉〈みなみ・じきさい〉との対談を読んで性根を垣間見た。もともと彼の声が好きになれなかった。ティク・ナット・ハンは見るからに誠実だがスマナサーラには隠しきれない胡散臭さがある。

 認識は脳で行われる。「居ながらにしてその場所にないものを見たり聞いたりする能力」は確かにある。夢は目をつぶっているのに「見る」ことができる。幻聴・幻覚も同様だ。イマジネーションとは像を想い描く力である。ユヴァル・ノア・ハラリはその像が実は「虚構」であると指摘した(『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』)。認知は歪み記憶は錯誤する。事実は脳によって解釈される。ヒトは幻想を生きる動物なのだ。

 お釈迦さまのことばを伝えているパーリ経典では経典を5種類に分けて編集していて、その第一は長部経典(ディーガニカーヤ)といいます。その町歩経典に収められた最初のお経は『梵網経(ぼんもうきょう/ブラフマジャーラスッタ)』です。この長い経典のなかで、お釈迦さまは古代インドにあったとされる62種類の宗教哲学を分析しています。その経典では62種類の宗教哲学を大きく分けて、過去を超能力で見て宗教哲学を論じる人々と、未来を考えて宗教哲学を論じる人々との二つのカテゴリーに分類してあります。過去を見て宗教哲学をつくったものだけで44種類あります。面白いことに、お釈迦さまはこの62種類の教えが正しいとは言わないのですが、頭から間違っているとも言ってはいません。
 お釈迦さまは、行者たちがさまざまな行をして、超能力を得て過去を観察して、このような教えを話しているのだとおっしゃいます。一度も「これはインチキだ」とは言っていないのです。確かに彼らは何劫年(こうねん)も自分の過去を見るのだとおっしゃいます。(中略)お釈迦さまは、彼らが発見したものが正しいと認めるけれど、それを哲学的に語る部分だけを批判します。(中略)
 お釈迦さまの批判は少々ややこしいのです。仙人たちの超能力はすべて認めたうえで、超能力から導き出した結論だけはよくないと言う。

 梵網経の六十二見はティク・ナット・ハン著『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』で知った。六十二見 - 古今宗教研究所のページが参考になる。

 過去世については『スッタニパータ』に「六四七 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を減し尽くすに至った人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ」とある。ただし直前では「六三四 現世を望まず、来世をも望まず、欲求もなくて、とらわれのない人、──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ」とも言っている。形而上学的な疑問には無記で臨むのが正しい。厳密に読めば「前世の生涯を知り」とはあるが、「前世が存在する」とまでは言っていない。カーストは過去世をもって現世を支配するシステムである。つまり与奪(よだつ)の「与える」立場(容与)で教えたものと私は考える。過去世と昨日に大差はない。

 私はかつて仏教徒であった。現在は違う。ブッダの古い言葉は真理への梯子となるのは確かだが、訓詁注釈の罠にはまるとブッダが指し示すものが見えなくなる。スマナサーラの言葉はよき参考書であるが全てを鵜呑みにするつもりはさらさらない。

 死者を仏と呼ぶのは案外正しいのかもしれない。死の瞬間に脳は永遠を体験する(『スピリチュアリズム』苫米地英人)。一生が走馬灯のようにありありと見え、身口意(しんくい)の三業(さんごう)まで感じることだろう。そこでたぶん凡夫は深い悔悟の中で悟りに至るのだ。その後はない。深い眠りが永遠に続く。

2017-05-08

日本の仏教は祖師信仰/『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司


『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉

 ・日本の仏教は祖師信仰

『死後はどうなるの?』アルボムッレ・スマナサーラ

――日本の仏教とテーラワーダがもっとも違うのは、どこでしょうか。
スマナサーラ●違いはたくさんありますが、いちばんはやはり日本の仏教がいわゆる祖師信仰だという点でしょうね。祖師信仰では、その宗派を開いた祖師さんの言うことは何でも、自分ではちょっとどうかなと思っても、信仰しなさいと強要します。つまり、祖師の色に染まるんですね。

【『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司〈ようろう・たけし〉(宝島社、2004年/宝島SUGOI文庫、2014年)以下同】

 スマナサーラ本の書評はページ末尾のラベルをクリックのこと。養老孟司と編集者の鼎談(ていだん)である。誰に対しても媚びることがない養老に、スマナサーラが低姿勢に出ているのが面白かった(笑)。

 端的な日本仏教批判が本質を鋭く衝(つ)いている。「自らをたよりとして、法をよりどころにせよ」(『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元訳)というのがブッダの遺言であった。後期仏教(大乗)の思想的な飛翔が無意味なものであるとは思わないが、ブッダの前に立ちはだかる夾雑物と化している側面が確かにある。

 日蓮宗日興門流の一部では日蓮本仏論を唱えており、ブッダよりも日蓮を上位としている。こうした思想の背景には日本特有の本地垂迹(ほんぢすいじゃく)論があり、神を仏の化身と捉えることで神仏習合を可能たらしめた。つまり日本仏教は父がブッダで母が神道という混血なのだ。

 鼎談の続きを紹介しよう。

――日本の仏教は祖師を信仰しますが、テーラワーダはお釈迦さまを信仰するんですね。
スマナサーラ●いえ、そうじゃないんです。むしろ「お釈迦さまの説かれた教えを信じて実践する」と言ったほうが正しいですね。
 それに、そもそもお釈迦さまは、信仰には断固として反対していたんですよ。私を拝んでどうなるのかと。
――どうして信仰に反対なのですか?
スマナサーラ●お釈迦さまが説いたのは、「真理」です。真理は、誰が語っても、いつの時代でも変わらないものです。お釈迦さまは真理を提示して、「自分で調べなさい、確かめなさい、研究しなさい」という態度で教えたんです。「私を信じなさい」とは、まったく言っていません。

ブッダは信仰を説かず/『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ

 西洋で宗教一般を批判する際、仏教を除外するのはこのためである。仏教は宗教というよりも哲学に近いとの見解からだ。その妥当性は不問に付しても仏教の際立った独創性を示す証左にはなるだろう。

 ブッダが悟ったのは「法」である。空海(774-835年)は宗教的天才であったが大日如来を本尊として立てた。やはり異流儀と言わざるを得ない。あれこれ考えると日本仏教で目ぼしいのは道元(1200-1253年)くらいではないだろうか。「ゼン」(禅)が西洋世界に広まったのも思想の普遍性を示しているように思われる。


序文「インド思想の潮流」に日本仏教を解く鍵あり/『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集、『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵
「私」という幻想/『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ

2014-02-21

怒りの起源/『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ


『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・怒りの起源
 ・感覚は「苦」
 ・怒りの終焉

『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 生命にはかならず怒りがあります。残念ながら例外はありません。なかなか納得できないことだと思います。なぜ生命は怒ってしまうのか、そのしくみをご説明したいと思います。いってみれば「怒りの起源」です。怒りが起こるには、明確な発生原因があります。それは「無常」ということです。ブッダのもっとも根本的な発見が無常です。そして、その無常こそが怒りの原因なのです。
 皆さんも無常という言葉をご存じだと思います。日本人は情緒的、感傷的にとらえているのですが、無常の本当の定義は「ものごとは瞬間、瞬間で変化し、生滅していく」ということです。自分も世界も、けっして一瞬たりとも同じではありません。無常とは、一切のものごとの真理です。私であろうが、他人であろうが、環境であろうが、世界であろうが、宇宙であろうが、すべて無常です。つまり、変わり続けているのです。そしてこの「変わり続けている」ということが、怒りを生む原因なのです。一切のものごとは無常であり、「無常が怒りの起源」だとすると、一切が怒りに通じているように聞こえるかもしれません。しかしその通りなのです。はっきりいってしまえば、実は、生命は基本的に怒りの衝動で生きています。
 怒りの衝動で生きるということは、悪いとか良いとかいえることではなく、われわれの生命はそういう構成になっているのです。

【『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2010年/だいわ文庫、2021年)】

 怒りと逆の状態を考えればわかりやすいとスマナサーラは続ける。例として「気分が良い」場合を挙げる。色々な場面が想定できるわけだが、結局のところ「なにかの条件によって気分が良くなっている」。だがその状態は長く続かない。なぜなら人生も世界も無常であるからだ。更にもう一つの例として「希望」を挙げる。人は誰もが未来に向かって何らかの希望を抱いている。しかし希望通りに人生が進むことはない。無常は生老病死・成住壊空(じょうじゅうえくう)のリズムを奏で肉体は必ず衰えてゆく。

 スマナサーラは実にやさしい言葉で仏法の深淵を巧みに説く。私は30年近く仏教を学んできたが、怒りの起源が無常にあるという指摘は初耳だ。驚くべき卓見である。

 これは死を思えばもっとわかりやすい。例えば夭折(ようせつ)、事故死、自殺など不慮の死に遭遇した時、我々が覚えるのは怒りであろう。それが神の定めた運命であろうと過去世の宿命であろうと変わらない。理不尽・不条理に対する怒りがムラムラと沸き起こる。

 自分の死を想像してみよう。静かに安祥として息を引き取るわけにはいかない。絶対に。まだやり残したことがいっぱいある。その時になって初めて人生で得たものの貧しさに気づくかもしれない。死ぬ瞬間に怒りのマグマが噴出することだろう。目の前に神が現れたら迷うことなく石打ち刑にするよ。俺は。

 文明の発達や資本主義経済が怒りに拍車をかける。便利さや豊かさは恩恵に与(あずか)れぬ者たちに不幸の影を落とす。不幸とは怒りの異名だ。我々は満たされないから怒るのだ。

 無常を受け入れることは難しい。これにまさる困難はないといってよい。ありとあらゆる不測の事態、人生の荒波、逆境、リスクを引き受ける覚悟が求められるためだ。そこまで考えてやっと気づくのだが、我々は「自分の死」を受け入れていない。先にあることはわかっているのだが、絶対に見つめようとしないし、思ったり、考えたりもしない。だから日常の中で怒りに翻弄されるのだろう。

 怒りの感情が毒であり、戦争の原因であり、人々を不幸にする元凶であることを自覚しながら怒りから離れる。欲望よりも怒りから離れることの方が重要だ。徐々にとか少しずつではダメだ。「今日から怒らない」と決めた者が勝つ。

2014-02-18

「私は正しい」と思うから怒る/『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ


『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・「怒り」が生まれると「喜び」を失う
 ・「私は正しい」と思うから怒る
 ・正しい怒りなど存在しない

『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 怒らないほうがよいとわかっているのに、我々はなぜ怒るのでしょう。
 いつでも、我々には「こういうことで怒ったのです」という理由があります。その理由をひとつひとつ分析してみると、「自分の好き勝手にいろいろなことを判断して怒っている」というしくみがあります。
 人間というのは、いつでも「私は正しい。相手は間違っている」と思っています。それで怒るのです。「相手が正しい」と思ったら、怒ることはありません。それを覚えておいてください。「私は完全に正しい。完全だ。完璧だ。相手の方が悪いんだ」と思うから怒るのです。
 他人に怒る場合は「私が正しくて相手方が間違っている」という立場で怒りますが、自分に怒る場合はどうでしょうか。
 そのときも同じです。
 何か仕事をしようとするのだがうまくいかないという場合、すごく自分に怒ってしまうのです。
 たとえば「自分がガンになった」と聞いたら、自分に対して「なぜ私がガンになったのか」とずいぶん怒るのです。「なぜこの仕事はうまくいかないのか」「どうして今日の料理は失敗したのか」とか、そういうふうに自分を責めて、自分に怒る場合もあります。「私は完璧なのに、なぜ料理をしくじったのか。ああ嫌だ」「私は完璧に仕事ができるはずなのに、どうして今回はうまくいかないのか」と怒ります。

【『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)】

 この前に絶妙な例えで「怒りという感情が生じるプロセス」を教えている。美しいバラを見て「きれいだ」(愛情)と思う。再び目をやるとそこにゴキブリがいる。「ああ、嫌だ。気持悪い」(怒り)との感情が芽生える。これらの感情は誰のせいにすればよいのか、と。

 感情とはある対象への反応にすぎない。喜びも怒りも自分の内側から湧いたもので、バラが喜ばせてくれたわけでもなければ、ゴキブリが怒らせたわけでもない。ひょっとすると感情は妄想の可能性さえある。いや妄想なのだ。我々は自分勝手に周囲の世界を低いレベルで創造するから互いを理解し合うことができないのだろう。

 怒りの元(原因)は自分の中にある。何らかのきっかけ(条件/縁)によって、怒りという現象(結果)が生じ、自分と周囲に影響を及ぼす(報い)。これを因縁果報という。

 例えば韓国を憎むようになった「きっかけはフジテレビ」という人もいる。確かに。ま、一理ある。と私が思うのはフジテレビに対して同じ感情を抱いて、その物語に乗っかっているためだ。自分の憎悪や怒りそのものを正面から見つめることは決してない。

 とすれば、より多くの人々に共有される感情を煽り、皆が求める妄想を示すところに政治家、宗教家、芸術家、音楽家の役割があるのだろう。感情の手配師。

 またスマナサーラはバラの例えで「受け入れること」(愛情)と「拒絶すること」(怒り)と示す。自我の形成や社会における自己存在性もこうした条件に大きく左右される。

 ああ、わかった! 今書きながら悟った。「感情は比較から生まれる」のだ。

比較が分断を生む/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ
比較があるところには必ず恐怖がある/『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ

 泥棒にとっては盗むことが正しいのだ。吟味されない正義が何と多いことか。

2016-04-27

仏教分裂の歴史/『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・仏教分裂の歴史

『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

 お釈迦さまの教えを忠実に守り実践する人々は、お釈迦さまの教えより優れた道はないと、自らの体験から確信しています。テーラワーダの長老方はただ一心に、お釈迦さまの教え、お釈迦さまの道を守ることを何より大切にし、ブッダの教えに自分の解釈を加えることは、いっさい拒否してきました。お釈迦さまが亡くなられた当時でも、そういう長老方の態度を「保守的だ」と批判する人々がいました。それらの人々は後にテーラワーダ仏教から離れ、大衆部と呼ばれる宗派をつくりました。その大衆部も、いくつもの分派ができ、お釈迦さまの入滅後200年くらい経つと18もの宗派に分裂しました。これらはまとめて部派仏教と呼ばれます。
 お釈迦さまの入滅後500年ほど経つと、部派仏教を批判する新しい動きが現れました。そして「我らこそ優れている」という意味を込めて、自分たちを大乗仏教と称し、部派仏教のことを小乗仏教と呼びました。日本でテーラワーダ仏教を小乗仏教と呼ぶ人々がいますが、インドの大乗仏教が小乗仏教と呼んでいたのはテーラワーダではありません。実際に小乗と呼ばれていた部派仏教は、現在ではひとつも残っていません。

【『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ(日本テーラワーダ仏教協会、2003年)】

 適当に書こうと思っていたのだが、昨夜検索し始めたところドツボにはまってしまった。ま、いつものことである。

 仏教分裂の歴史は根本分裂から始まる。ブッダの訃報を知った「スパッタダは、『悲しむことはない。ブッダが涅槃に入られたので、我々は苦しみから開放された。ブッダがおいでの時は、あれも駄目、これも良くないと禁止されるばかりだったが、これからは何でも自分の好きにできる。誰も禁止する人はいない』と発言した」(第一章 初めての結集 ブッダ入滅の四か月後、タンマの編纂をする)。この発言を問題視したマハーカッサパ(マハーカーシャーパ、大迦葉、摩訶迦葉)が仏典編纂(へんさん)を決意する。十大弟子のうち、モッガラーナ(目連、目犍連)は集団暴行で殺害され、サーリプッタ(シャーリプトラ、舎利佛)は病没していた。

 上記ページによれば第一結集(けつじゅう)はブッダ逝去から4ヶ月後とされている。この日にアーナンダ(阿難)は阿羅漢果を得た。これについては異論もある。

仏教夜話・25 仏弟子群像(12) マハーカッサパ(上)
仏教夜話・26 仏弟子群像(13) マハーカッサパ(中)
仏教夜話・27 仏弟子群像(14) マハーカッサパ(下)

 確かに結集に合わせて悟れるならば、もっと早く悟れよと言いたい気持ちになる。また最も近侍(きんじ)したアーナンダをブッダがどのように教導したのかという疑問も生じる。

 第一結集では記憶力の抜きん出たアーナンダがブッダの教えを唱え、参加した500人の出家全員が承認するまで続けられた。この時点でもまだテキスト化はされていない。

 第二結集が行われたのは仏滅後100年頃のことである。この直後に根本分裂という事件が起こる。通説によれば大衆部(だいしゅぶ)と上座部(じょうざぶ)の二つに分かれ、部派仏教の時代に入るとされる。これに分別説部を加えた三つに分派したという見方もある。Wikipediaでは分別説部は上座部に含まれるとしているが、スマナサーラ説は異なることに留意する必要がある。またWikipediaでは上座部上座部仏教が別項目となっている。

 問題を整理しよう。第二結集で分裂があった。理由については大衆部と上座部双方の言い分(五事・十事)がある。二つに分かれたとする説と三つに分かれたとする説とがある。

 次に各派呼称の問題がある。テーラーワーダを直訳すると「長老の教え」で長老派と呼んでも構わないと思われるが、上座部が意味するのも同じ内容だろう。上座(かみざ)に座っているのは長老に決まっている。

 2000年以上前の事実を確認する術(すべ)はない。昨夜あれこれ考えながら一つの結論に達した。スマナサーラ説を採用すれば、テーラワーダ(長老派)を初期仏教、大衆部と上座部を中期仏教、自称大乗を後期仏教とすれば呼称の問題は解決できる。更にインドでは根本分裂に至るが、初期仏教はスリランカ、ミャンマー、タイに伝わった(南伝)と考えれば整合性はとれる。

 もちろんテーラワーダ対する批判(例えば「枝末分裂 部派仏教」)もあるが、検証のしようがないため考えるだけ無駄だ。

 常識的に考えてもいかなる宗教であれ、教えを忠実に守ろうとする人々が存在する。それが行き過ぎると教条主義となり、やがて原理主義が生まれる。インド上座部は原理主義化した仏教と考えてよいのではあるまいか。そして教義をもって自分を飾る出家者が増えたのだろう。

 スマナサーラの指摘によれば中期仏教は滅んだことになる。

 余談となるが、根本分裂の理由は大衆部が五事を挙げ、上座部が十事を否定する。前者は夢精に関することで、後者は戒律の緩和(食事、金銀授受)である。つまりセックスと飯とカネを巡る問題だったのだ。ったく煩悩そのものだよ(笑)。ただし謂われがある。

293 かれらのうちで勇猛堅固であった最上のバラモンは、実に婬欲の交わりを夢に見ることさえもなかった。

【『ブッダのことば スッタニパータ』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1984年/岩波ワイド文庫、1991年)】

 金銀授受については、ブッダが土地の寄進(祗園精舎)を認めたことから導かれたような気もする。

 彼は、大衆部の中には、仏陀や菩薩を超世間的な存在として考える理想的な考え方を持っていた学派もいた反面、人間化された菩薩の概念を主張し、Stupa崇拝と結合した献身的実践を低く評価する学派もあったことを指摘している。そして、後者は阿羅漢果よりは菩薩行を実践することを重要視した可能性を述べている。

PDF 根本分裂の原因に関する一考察:李慈郎(Lee, Ja-rang)1998年3月20日

 昨夜の検索情報で最も有益だったのがこれだ。文章がすっきりとせず要旨もわかりにくいのだが、重要なのは最後の指摘である。「阿羅漢果より菩薩行の重視」こそが大衆部から後期仏教の流れを決定づけたと考えてよさそうだ。

小乗 自己の煩悩を絶ち、解脱を得て、阿羅漢となる。
大乗 他者を済度する「利他」の修行(菩薩行)を経て、自らの悟りが達成できる。

IV.インド仏教史(インド宗派)

 初期仏教と後期仏教の違いもここにある。大乗が「大きな乗り物」を自称したのはヒンドゥー教から流入した信者が多かったためと推測できる。種々雑多な人々が混成する中から戒律緩和の流れが出てきたのだろう。一種のプラグマティズム化であったと私は考える。すなわち大乗とは仏教の社会化であり運動化であった。

158 先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。

【『真理のことば(ダンマパダ)』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1978年/ワイド版、1991年)】

 まず自分を正しくととのえ、ついで他人を教えなさい。
 そのようにする賢明な人は、
 煩わされて悩むことがない。(158)

【『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ(佼成出版社、2003年)】

 菩薩行とはボランティアでありサービスである。阿羅漢果を得る人がどんどんいなくなり、苦し紛れに編み出したのが化他行だったのではないか? 奉仕や福祉活動を通して一定の自己実現がかなえられる。

 答えは簡単だ。ダンマパダに明らかである。そもそもブッダは化他行で悟りを開いたわけではないのだ(←ここ重要)。思想の系譜を重んじるのであれば、それは学問レベルの哲学であり、文化といっても差し支えあるまい。

 尚、説一切有部(上座部)の「三世実有・法体恒有」に対する批判としては龍樹の『中論』が有名だが、何かを述べるほどの知識が私にはない。ただし、何となくではあるがダルマの捉え方が異なっているような印象を受ける。

【追記】角川文庫から『ブッダの「慈しみ」は愛を越える』が出ているが、値段がそれほど変わらない上、日本テーラワーダ仏教協会版にはCDが付いているのでお得。

慈経―ブッダの「慈しみ」は愛を越える (「パーリ仏典を読む」シリーズ (Vol.1))ブッダの「慈しみ」は愛を超える (角川文庫)

「慈悲の瞑想」アルボムッレ・スマナサーラ
アルボムッレ・スマナサーラの朗唱
慈経







2017-05-14

仏教における「信」は共感すること/『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉


『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英
『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑

 ・仏教における「信」は共感すること

『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司
『死後はどうなるの?』アルボムッレ・スマナサーラ

(※上座部仏教に魅惑されながらも)では、なぜ、再出家を実行しなかったのか。
 道元禅師に帰依したが故、と言えば格好がつくのだろうが、実は最大の理由はそれではない。そうではなくて、私自身の仏教に対する身構えの問題である。
 この対談でもふれているが、私は仏教、釈尊や道元禅師の教えが「真理」だと思って出家したのではない。私は、自分自身に抜き差しならぬ問題を抱えていて、これにアプローチする方法を探し求めた果てに、仏教に出合ったのである。つまり、仏教は問題に対する「答え」としての「真理」ではなく、問題解決の「方法」なのだ。

【『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉〈みなみ・じきさい〉(サンガ選書、2011年)以下同】

 言葉に哲学的な明晰さがあるのは南が病弱で幼い頃から死を凝視してきたためだろう。自分がよく見えている文章だ。

 今回のスマナサーラ長老との対談で、話が噛み合わないところが見えるとしたら(見えるはずだが)、その理由は、我々の民族・文化・宗教の違いだけではない。多数派における、ほとんど完璧な論理と実践を体得した指導者と、足もと覚束ないままに開き直った少数派修行僧の間の、懸隔であろう。
 今、私は忍耐強く私との対談に付き合ってくださった長老に深く感謝申し上げたいと思う。
 私たちの間には、今述べたような身構えの違いが厳然とあった。それは、対談開始直前に、
「さあ、何でも質問してください。答えますから」
 と言われた瞬間にわかったことだった。長老は「真理」の教師であり、私は「問題」に迷う生徒だったのだ。

 私はたちどころに卑屈の匂いを嗅ぎ取った。しかも怜悧な卑屈である。だが注目すべきはそこではない。数十年の修行を経ても尚且つ保ち得た「率直さ」が侮れないのだ。南は自分に対して正直に生きてきたのだろう。ここには名の通った僧侶にありがちな見栄や傲岸さは微塵もない。スマナサーラの言葉に悪意はなかったことだろう。そして私は南の率直さを通してスマナサーラの傲慢が見えた。南のことを「先生」とは呼びながらも、養老孟司の対談とは全く違った態度を取っている。仏教に対するアプローチが異なる二人の対談が噛み合うわけもない。

スマナサーラ●「『信じる』とはどういうことですか?」と尋ねられたとき、「共感することです。それしかないのです」と答える。それが、仏教の言う「信」――「信仰」ではなくて「信」なのです。

ブッダは信仰を説かず/『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ

「信仰」とは一神教の神を仰ぐ姿勢である。日本の仏教だと「信心」だ。「信じる」とは何も考えないことである。疑えば信は生じない。鎌倉仏教で信心を説いたのは法然(浄土宗)・親鸞(浄土真宗)と日蓮だ。いずれもマントラ仏教といってよい。信じる→呪文を唱える→悟る、との三段論法である。

 法華経に信解品第四があり、涅槃経には「信あって解(げ)なければ無明を増長し、解あって信なければ邪見を増長する。信解円通してまさに行の本(もと)と為る」とある。法華経の成立年代については諸説あるが西暦40~150年である。ブッダ滅後400~550年となる。三乗(声聞・縁覚・菩薩)を否定的に捉え一乗を説いたのは初期仏教(上座部)に対する後期仏教(大乗)の政治的な戦略であろう。そのためにわざわざ「信」を強調したとしか思えない。三乗を悟っていない存在に貶め、人智の及ばぬ高み(一仏乗)を設定した上で「信」を勧めるのである。日蓮は信解(しんげ)・理解(りげ)と分けたがそうではあるまい。信と理の対立よりも「解」に重みがあると私は考える。

 信が共感であれば、クリシュナムルティが説く「理解」と一致する。

南●人間が、何かを考えるときに、必ず言語を使うでしょう? 私が思ったのは、無明というのは、人間が言語を使うときに、必然的に引き起こすある作用だろう、と思ったのです。
スマナサーラ●ああ、なるほど、それもそれで正しいとは思います。しかし、私は認識のほうに行くのです。(中略)そこで、分析してみると、我々の認識全体に、欠陥があることが発見できるのです。
南●私もそう思います。
スマナサーラ●その欠陥が、無明なのです。
南●ああ、わかりました。

 南直哉は僧侶の格好をした哲学者である。彼が仏法に求めたのは『方法叙説』(デカルトの主著。刊行当時の正確なタイトルは『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話(方法序説)。加えて、その試みである屈折光学、気象学、幾何学。』1637年)の「方法」であろう。

 南は最も世間に広く届く言葉を持った宗教者であり、深き思考が世相の思わぬ姿を照射する。私は本書を読んで南を軽んじていたのだが、『プライムニュース』(BSフジ)を見て評価が一変した。

『プライムニュース』動画

 普段は軽薄なフジテレビの女子アナが思わず話に引き込まれ、素の表情をさらけ出している。

 南直哉と友岡雅弥の対談が実現すれば面白い。司会はもちろん宮崎哲弥だ。

2016-06-03

ブッダは信仰を説かず/『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元

 ・ブッダは信仰を説かず

『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

 お釈迦さまは人びとにたいして「これはよくないから、やめなさい」としかることもなく、「ああしなさい、こうしなさい」と命令することもありません。もちろん「地獄に堕ちる」「罰が当たる」などといって、人びとを脅し束縛することもありませんでした。たとえ、説法に疑問を投げかける人がいたとしても、それをとがめるようなことはけっしてされませんでした。お釈迦さまには、その場でただちに人びとを苦しみから解き放ってしまうほどの力があったのでしょう。
 では、お釈迦さまは「なにかを信じなさい」というように「特別な信仰」を人びとに伝えたのでしょうか。いいえ、そうではありません。つねに「客観的な事実」を説かれたのです。まるで弁護士のように、「これはどう考えますか。では、こういうことはどう思いますか」と相手に訊くのです。その問いに答えていくうちに、相手は「ああ、なるほどそういうことか」と真理をつかんでしまうのです。すると相手はみずからの意志で「じゃあ、やってみよう。これをためしてみよう」と決めて実行するわけです。実践するか否かはあくまで個人の意志にまかされるのです。

【『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ(佼成出版社、2003年)以下同】

「地獄に堕ちる」「罰が当たる」というのは創価学会を始めとする日蓮系教団への皮肉か。その一方でスマナサーラはまるで見てきたかのようにブッダを語る。邪(よこしま)な底意を感じるのは私だけではあるまい。古い経典(パーリ語経典)がブッダの輪郭を捉えているのは確かだと思うが、それをそのまま信じるのは危険だ。飽くまでも人伝に語られたブッダの言葉である。誤っている可能性を考慮すべきだろう。

 大切なのはブッダが説得と無縁であったことだ。相手を改宗させようとか、自分の教団に引き込もうといった教勢拡大の野望はこれっぽっちもなかった。僧の語源となっているサンガ(僧は僧伽〈そうぎゃ〉の略)は組合や共和制を意味する言葉で、ピラミッド型の組織ではなかった。

 逝去したブッダを慕う弟子たちの心が信仰を生んだのだろう。遺骨(仏舎利〈ぶっしゃり〉)は塔(ストゥーパ)に安置された。これが日本における卒塔婆(そとば)の元型である。人間ブッダは仏となった。旧字の佛(ほとけ)は「人に非ず」との謂いで超人や神を示すようになった。

 仏教は宗教ではないという指摘は現在でもある。厳密にいえば「仏教は信仰ではない」という意味合いなのだろう。その仏教が仏像やらマンダラを次々と開発する不思議を考える必要があるだろう。

 じつにこの世においては、
 怨みにたいして怨みを返すならば、
 ついに怨みの鎮まることがない。
 怨みを捨ててこそ鎮まる。
 これは普遍的な真理である。(五)

 怒りは、自分も他人も破壊してしまいます。いやなことをされて、「憎しみをもつのは当然だ」といって怒りをいだけば、その怒りによって、さらに自分が苦しくなります。腹を立てたとき、いちばん最初に怒りに汚染されるのは自分自身です。腹を立てて、だれが不幸になるかというと、憎しみに満ちている自分自身なのです。心は汚れ縮んで、悪い報いをまず自分が味わってしまうのです。怒って相手を攻撃しようとしても、相手はそれによって困ることもあるし、まったく困らないこともあるでしょう。しかし、自分が怒りで汚染されることだけはたしかなことです。

 スマナサーラがアトランダムに紹介しているところを見ると、中村元訳にそれほど極端な誤訳はないのだろう。「いちばん最初に怒りに汚染されるのは自分自身です」との言葉が重い。怒りという感情が放射能のように思えてくる。持続した怒りはやがて怨みとなる。その半減期は決して短くない。折に触れて思い出しては、怒りの焔(ほのお)を燃え上がらせ、我が身を焼き尽くす。

 人類の歴史は奪い合い、殺し合いの連続である。現在は政治・経済という名でスマートに行われているが、所詮は食糧・エネルギー・社会資源の奪い合いである。ゲームの得点はマネーに換算される。争うことが正当化される社会の中で、我々は怨みを捨てることができるだろうか? 弱肉強食の現実を達観して怒りを手放すことは可能だろうか?

 実際、仏教はインドで滅んだ。

 インドの宗教史は、おおよそ以下の6期に分けることができる。

 第1期 紀元前2500年頃~前1500年頃 インダス文明の時代
 第2期 紀元前1500年頃~前500年頃 ヴェーダの宗教の時代(バラモン教の時代)
 第3期 紀元前500年~紀元600年頃 仏教などの非正統派の時代
 第4期 紀元600年頃~紀元1200年頃 ヒンドゥー教の時代
 第5期 紀元1200年頃~紀元1850年頃 イスラム教支配下のヒンドゥー教の時代
 第6期 紀元1850年頃~現在 ヒンドゥー教復興の時代

【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵〈たちかわ・むさし〉(講談社学術文庫、2003年)】

 仏教がインドで滅亡したのは13世紀頃のことである(立川武蔵)。内省的な教えが社会を変革するには至らなかったということか。ティク・ナット・ハンが主導する「行動する仏教または社会参画仏教(Engaged Buddhism)」はそうした反省から生まれたものと察する。

 誰もが「よりよい社会」を望む。だが「よりよい自分」になろうとはしない。一生という限られた時間の中でできることは自らが真理に生きることだけであろう。もっと簡単に言おう。他人を救おうとする前に自分を救うべきだ。幸不幸よりも目覚めるかどうかが問われるのだ。目覚めていない人が他人を案内することはできない。そして目覚めた瞬間に全ては解決する。

原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章空の思想史 原始仏教から日本近代へ (講談社学術文庫)

仏教における「信」は共感すること/『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉

2013-01-14

蛇の毒/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳

 ・犀の角のようにただ独り歩め
 ・蛇の毒
 ・所有と自我
 ・ブッダは論争を禁じた

『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

 第一 蛇の章

一 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起ったのを制する修行者(比丘〈びく〉)は、この世とかの世をともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

【『ブッダのことば スッタニパータ』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1984年/岩波ワイド文庫、1991年)】

 数え50歳にしてスッタニパータと取り組む。実は数年前に一度読んでいるのだが、その時は「フーン」としか思わなかった。46歳でクリシュナムルティと巡り会った。その後ブッダの言葉は一変した。自分でもびっくりした。乾いたスポンジが水を吸うようにスーッと染み込んできた。

 ルワンダ大虐殺を知り、私は変わった。むしろ思想的に行き詰まったといった方が正確だろう。45歳になった直後のこと。それまでに築いてきた価値観がまったく通用しなかったのだ。1年ほど煩悶と懊悩の間を行ったり来たりしていた。そんな私にとってクリシュナムルティの言葉は光明となった。

『スッタニパータ』は最古の経典である。このため原始仏教と称されることもあるが、「原始」という表現は誤解を生じかねない。それゆえ私は初期仏教と表記する。また、古いことそれ自体に価値があるわけではなく、「より正確なブッダの言葉」を探るべきだと考える。飽くまでも「誰か」が伝えた言葉で、「誰か」が翻訳した言葉である事実を念頭に置く必要があろう。テキストを真に受けることはブッダの姿を人影に隠してしまうようなものだ。

 スッタとは縦糸のことで「経」と訳される。スマナサーラ長老は「式=フォーミュラ」としている。縦に時間を貫くのが経であれば「理」(ことわり)すなわち理法と考えてよかろう。ナンバーが打たれているのは一つ一つが独立した式であるため。

 蛇の毒は脈動によって波のように押し寄せ、波紋を広げ、余韻を伸ばしてゆく。「よくも俺を馬鹿にしたな」「私に恥をかかせたわね」――怒りは痛みから生まれる。まさしく蛇に噛まれたようなものだ。だがその毒は自分の内側に拡大してゆくのだ。そして我々は毒を吐き捨てる機会を虎視眈々と窺う。

 果たして毒蛇に噛まれた人が毒蛇を追い掛けるだろうか? 蛇を打ちのめし、切り刻んだところで毒が消えるわけでもない。しかし我々が日常で行っているのはこういうことである。国家や民族も同様だ。人類全体が毒=怒りに駆られて行動している。

 怒りを制するためには怒りをただ観察する。否定するのはダメだ。否定は抑圧となるため怒りの根が深まってしまう。「あの野郎、俺のことを馬鹿にしやがって」「今度会ったら何か言い返してやろう」「一発殴ってやろうかな」「仲間を集めて袋叩きにするか」「いざという場合に備えてサバイバルナイフでも買っておくか」「あんな奴は生きている価値がないな」「いっそのこと……」――私は怒りやすい方なのでよくわかるが、怒りは常に殺意をはらんでいる。怒りは大なり小なり相手の死を願っているのだ。

 今日、愛については誰も語っている。誰が怒について真剣に語ろうとするのであるか。怒の意味を忘れてただ愛についてのみ語るということは今日の人間が無性格であるということのしるしである。
 切に義人を思う。義人とは何か、── 怒ることを知れるものである。

【『人生論ノート』三木清(創元社、1941年/新潮文庫、1954年)】

 不正を憎み、社会を改革してゆくことは正しい。敗戦後の混乱から学生運動に至るまでの時期は「怒りの季節」であった。それで何かが変わったのかもしれないし、変わらなかったのかもしれない。社会の制度や仕組みが変わっても、そこにはいつも変わらぬ人間の姿があった。

 正義から発せられた怒りが正しければ、人類が行ってきた革命はもっと上手くいってしかるべきではないか? 共産主義だって成功したはずだろう。真正なる怒りは必ず暗殺に向かう。その意味では革命もテロも一緒だ。

「殺したい」との願望をありのままに見つめる。私は殺人鬼だ。あいつとこいつと、そうだあの野郎も殺してしまいたい。あんな人間を育てた親も殺そう。近所に住んでいた連中も同罪だ。あいつと同じ民族も絶滅させるべきだ。同じ種を滅ぼすべきかもしれない……。殺意は巡り巡って自分に向けられる。

 これが数千年間にわたって繰り返されてきた人類の歴史だ。脱いでしまえば旧(ふる)い皮に価値はなくなる。

 実際にやってみると至難ではあるが、修行と心を定めて行っていると怒りが静まる時間が短くなる。怒りっぽい私が言うのだから本当だ。


ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

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2014-02-18

「怒り」が生まれると「喜び」を失う/『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ


『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・「怒り」が生まれると「喜び」を失う
 ・「私は正しい」と思うから怒る
 ・正しい怒りなど存在しない

『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 怒りというのは愛情と同じく、心にサッと現れてくるひとつの感情です。
 私達は自分の家族を見たり、自分の好きな人を見たりすると、心の中にすぐ愛情という感情が生まれます。何かを食べる場合、おいしい食べものを見たときも口に入ったときも、楽しい感情が生まれてきます。それは瞬時に起こるのです。怒りは、愛情と同じように人間の心に一瞬にして芽生える感情です。
 大雑把にいうと、我々人間はこの2種類の感情によって生きていると言えます。ひとつは愛情で、もうひとつが怒りの感情です。

 怒りを意味するパーリ語(お釈迦さまの言葉を忠実に伝える古代インド語)はたくさんありますが、一般的なのは《ドーサ》です。この《ドーサ》という言葉の意味は「穢れる」「濁る」ということで、いわゆる「暗い」ということです。
 心に、その《ドーサ》とうい、穢れたような、濁ったような感情が生まれたら、確実に我々はあるものを失います。それは、《ピーティ》と言って、「喜ぶ」という意味の感情です。我々の心に怒りの感情が生まれると同時に、心から喜びが消えてしまうのです。

【『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)】

 パーリ語は省略しカタカナを二重山括弧でくくった。

私のダメな読書法」で紹介した通り、気に入ったテキストを見つけると片っ端からデジカメで撮影し、SkyDriveに保存するというのが私のやり方だ。付箋を挟んだままにしておくと本が傷んでしまう。時に半分以上のページに付箋をつけることもあるため本の形が実際に変形したこともある。デジカメのカウンターを何気なく見たところ、既に2万枚を軽く超えていた。Windows8に買い換えたところ、なんと最初からSkyDriveが内蔵されていた。以前より格段に作業効率もアップ。ノートパソコンの15.6インチでも画面を2分割できるので頗(すこぶ)る重宝している。

 ただし問題が一つだけある。ウェブ上からログインできなくなってしまった。で、アップロードしたフォルダの更新日がなぜか全部一緒になっているのだ。タイトルをつけたフォルダーはあいうえお順で表示される。今のところ私に解決策はない。ってなわけでこれまでは読了順に紹介してきたわけだが、今後はランダムに展開してゆく予定である。

 スマナサーラの言葉は極めてやさしい。たぶん中学生でも理解できるだろう。ただしそこでわかったような気になるのが凡夫(ぼんぷ)の浅はかなところだ。人間の残酷さはすべて怒りから生まれる。怒りこそ暴力の温床だ。ゆえに我々の暴力的な現実世界を変革するためには、怒りのメカニズムを知り、勇気を出して怒りを捨て、怒りから離れることが重要なのだ。

 本書は微に入り細を穿(うが)つようにして怒りの様相を示す。短気な私にとっては耳が痛い話ばかりだ。「私が怒るのは怒るだけの理由があり、その理由は絶対に正しい」と誰もが思い込んでいる。これが国民の総意となるところに戦争が生まれる。日本では反中国・半韓国感情が昂(たかぶ)りつつある。中国や韓国の首脳が国際舞台で扇情的な日本叩きを続ければ、日本国民の間で静かに開戦への気運が高まることだろう。

 バブル景気が弾け、失われた20年の間にソフトな暴力が社会を雲のように覆った。貧富の格差、セクシャルハラスメント、パワーハラスメント、児童虐待、いじめ問題、銀行による貸し渋り・貸し剥がし、振り込め詐欺、検察の国策捜査、メディアリンチ、就職時の圧迫面接、増税……。鬱屈した思いや鬱積した感情がはけ口を求めている。そして慢性的な疲労が人々の判断力を誤らせる。

 暴力行為は必ず弱い者に向かう。これが暴力の法則だ。喧嘩っ早い私だって、相手が本物のやくざ者やプロレスラーであれば必ず下手(したて)に出る。日本は韓国や中国と戦争をする可能性はあるがアメリカとは絶対にやらない。

「怒り」が生まれると「喜び」を失う。ということは怒りこそが不幸の最たる原因と考えてよかろう。怒っている人と喜んでいる人とが喧嘩になることはない。「自分は大したものだ」との錯覚から怒りは生まれる。「自分なんて何者でもない」と自覚すれば諸法無我だ。怒りの恐ろしさはエゴを強化するところにある。そして強化されたエゴはどこまでも肥大化し、怒りの波に翻弄されてゆくことだろう。西洋の神を見よ。あいつは怒ってばかりいたよ。

聖書の中で、人を一番殺してるのは誰なの?


怨みと怒り/『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎
テーラワーダ仏教の歩み寄りを拒むクリシュナムルティ/『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ

2016-06-21

ドゥッカ(苦)とは/『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ


『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール:今枝由郎訳
『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン

 ・ものごとが見えれば信仰はなくなる
 ・筏(いかだ)の喩え
 ・ドゥッカ(苦)とは

『無(最高の状態)』鈴木祐
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
クリシュナムルティ、瞑想を語る

ブッダの教えを学ぶ

「ではマールンキャプッタよ、私は何を説明したのか。私は、
(1)ドゥッカの本質
(2)ドゥッカの生起
(3)ドゥッカの消滅
(4)ドゥッカの消滅に至る道
 を説明した。マールンキャプッタよ、私がなぜ説明したのかというと、それは有益であり、修行に本質的に関わる問題であり、人生における苦しみの消滅に繋がるからである。私はそれゆえに説明したのである」

【『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ:今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉訳(岩波文庫、2016年/原書1959年)】

 マールンキャプッタからの形而上学的問いに対してブッダは無記を示し、次に「毒矢の喩え」を説く(『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元)。続けてブッダは四諦(したい)を確認する。

ドゥッカ
 パーリ語(およびサンスクリット語)のドゥッカは、一般的には苦しみ、痛み、悲しみあるいは惨めさを意味し、幸福、快適、あるいは安楽を意味するスカの反対語である。しかし、四つの真理のうちの第一の真理の場合のドゥッカは、ブッダの人生観、世界観を表わしており、より深い哲学的な意味合いがあり、はるかに広い意味で用いられている。確かに第一の真理のドゥッカには、普通の意味での苦しみも含まれているが、それに加えて不完全さ、無常、空しさ、実質のなさなどといったさらに深い意味がある。それゆえに、第一の真理に用いられているドゥッカが含むすべての概念を一語で表わすのは難しい。そうである以上、ドゥッカを苦しみ、痛みといった、便利ではあるが、不十分で誤解を招く訳語に置き換えないほうがいいだろう。

 皮相的な現在進行形の苦しみではなく、人生の底を絶えず流れる苦悩が「ドゥッカ」である。ま、「苦しい・空しい・悲しい・寂しい」と覚えておけばよい。哲学的なターム(用語)だと孤独・存在の危うさ・不安となる。人生は思うようにならない――これが「ドゥッカ」である。

 ドゥッカの概念は、
(1)普通の意味での苦しみ
(2)ものごとの移ろいによる苦しみ
(3)条件付けられた生起としての苦しみ
 の三面から考察することができる。

 続けて、

 第三の「条件付けられた生起」(訳註:漢訳仏典では「縁起」)としての苦しみという面こそが、「ドゥッカの本質」のもっとも重要な哲学的側面であり、それを理解するのには、一般に存在、個人あるいは「私」とされているものを分析してみる必要がある。

 と。(1)は苦しいという実感、(2)は空しさ、(3)は自我の限界性である。生まれる苦しさ、生きる苦しさ、老いる苦しさ、病む苦しさ、死ぬ苦しさがある(四苦)。そして別れる苦しさ(愛別離苦〈あいべつりく〉)、憎む苦しさ(怨憎会苦〈おんぞうえく〉)、手にはらない苦しさ(求不得苦〈ぐふとっく〉)、私が私である苦しさ(五蘊盛苦〈ごうんじょうく〉)がある(合わせて八苦)。

 五蘊盛苦がわかりにくいと思われるので解説する。私を私たらしめているものは何か? 事実に基いて観察すると五つの集合要素(五蘊)から成っていることがわかる。

アルボムッレ・スマナサーラの解説

 世界は私というフィルターを通して認識される。私を離れて世界は存在しない。そして五蘊という肉体的・精神的な機能・作用は人によって異なる。つまり同じ物事を見ても人それぞれの反応があり、人それぞれの世界がある。そこに人それぞれの苦しみが生まれる(五蘊盛苦)。すなわち自我に基づく苦しみである。「俺の苦しさがあんたにわかってたまるか」と誰かに向かって言う時、人は自分というストーリー設定の中で理不尽さを感じている。自我という初期設定そのものが人生に不具合をもたらす原因になるというのが五蘊盛苦である。

 語源的には五蘊執苦(しゅうく)とするのが正しいのかもしれない。興味(受)・感覚(想)・判断(行)を通して自分らしさ(識)が培われる。私は私にこだわる。アイデンティティ(自己同一性)が揺らぐのは私が無視されるためだ。他人との比較や社会的評価という物語が自我を左右する。国籍という自己規定も見逃せない。アイデンティティには国家が深く関与している(在日韓国・朝鮮人など)。

 ブッダは語った。「弟子たちよ、ドゥッカとは何か。それは執着の五集合要素である」と。今枝由郎は五蘊を「五集合要素」と訳す。私は私のものの見方・考え方、つまり「私という意識」に執着する。私は常に正しい。私は間違っていない。私は悪くない――誰もがそう思っている。そう。悪いのは世界だ(笑)。自我を形成するシステムに苦の原因がある。

 諸行は無常であり、諸法は無我である。我々はここに苦を見る。苦と感じるゆえに現実が見えなくなるのだ。幸不幸は錯覚に過ぎない。その錯覚から逃げ、錯覚を追い求めるところに苦の本質がある。

2014-02-20

正しい怒りなど存在しない/『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ


『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・「怒り」が生まれると「喜び」を失う
 ・「私は正しい」と思うから怒る
 ・正しい怒りなど存在しない

『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 正義の味方になるためには悪人を倒さなければなりませんね。では、人を倒したり殺したりするために必要なのは何かというと、「怒り」なのです。
 ということは「正義の味方」という仮面の下で、我々は「怒り」を正当化していることになります。正義の味方は「悪人を倒してやろう」などと、わざわざ敵を探して歩きまわるのですから、よからぬ感情でいっぱいというわけです。
 正義の味方までいかなくても、そういう「何かと戦おう」という感情が強い人は、すごくストレスが溜まっていて、いろいろな問題を起こします。(中略)
「悪に向かって闘おう」「正義の味方になろう」というのは仏教の考え方ではありません。「正しい怒り」など仏教では成り立ちません。どんな怒りでも、正当化することはできません。我々はよく「怒るのは当たり前だ」などと言いますが、まったく当たり前ではないのです。

【『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)以下同】

 私憤は否定しても公憤を肯定する人は多い。そこに落とし穴がある。そもそも私憤と公憤の間(あわい)は人によって異なり、グラデーションを描いている。ともすれば私憤を公憤に見せかける人もいる。「皆が困っている」と言いながら実は自分が一番困っていたりする。

 私は幼い頃から困っている人を見ると放っておけない。親切といえば聞こえはいいが、困らせている人物に対する怒りがとてつもなく激しい。中年期を過ぎてからは殺意にも似た感情が芽生えるようになってきた。怒鳴って引き下がるような相手ならいいのだが、それでもダメとなればいつでも実力行使をする準備ができているのだ。「感情には『どんどん強くなる性質』がある」とも書かれているが本当にその通りだ。私はゴミをポイ捨てする人を見ただけで「ぶっ殺してやろうかな」と思う。しかも本気で。

 怒りを甘くみてはいけません。怒りが生まれた瞬間に、からだには猛毒が入ってしまうのです。たとえわずかでも、怒るのはからだに良くないとしっかり覚えておいてください。怒りはまず自分を燃やしてしまいます。本当に自分のからだが病気になってしまうのです。
 陽気で、もう底抜けに明るいような人が深刻な病気になったという話はほとんど聞きません。そういう人はたとえ病気になっても、お医者さんとすぐに友だちになったりして治療効果も上がるので、治りが早いのです。入院したのが明るい人だったら、看護師さんたちも楽しくなって親切に面倒を見てくれるし、みんなが治るようにと願ってくれますからね。

 本書でも引かれているが「怒りが猛毒である」というのはスッタニパータ冒頭の指摘である。

蛇の毒/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳

 つまり正当化された怒りとは毒に酔っている状態なのだ。魯迅は「水に落ちた犬は叩け」(「『フェアプレイ』はまだ早い」)と言った。婦女子だけは生かしておいて、男であれば幼児でも殺してしまう発想と一緒だ。林檎堂との論争でさすがの魯迅も筆の勢いが余ったか。

 相手を滅ぼそうとする怒りが実は自分を滅ぼす。仏法では迷い(≒不幸)の根本的な原因は三毒にあると説く。その筆頭が瞋恚(しんに/=怒り)だ。瞋恚は地獄の門を開く。地とは最低を表し、獄には束縛の意がある。すなわち地獄とは外部環境ではなく自分の生命が最低の境涯にあることを示す。

 怒りには明るさが伴わない。明るさとは智慧の異名だ。老子曰く「人を知る者は智なり、自ら知る者は明なり。人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。足るを知る者は富み、強めて行なう者は志を有す」と。

 スマナサーラは具体的なアドバイスを欠かさない。

 けれどよく考えてください。ただ「お茶を入れなさい」と言われただけなのに、悩んだり苦しんだり、怒って自分の健康まで害したりするなんて、本当にバカげたことですよ。
「お茶を入れて」と言われたら、お茶を入れればいいのです。べつにどうということもありません。会社に行ったらどうせ終業時間まで会社に縛られているのですから、お茶を入れようが、便所の掃除をしようが、すべては給料のうちなのです。仕事をする時間は決まっていますし、その時間にできることも決まっています。ですから、「私にお茶を入れさせるなんて」などと考えずに、自然の流れの中で、できることをやればいいのです。

 確かにそうだ。怒りは合理性を見失わせる。怒りとは狂気なのだ。そして自分を傷つける凶器でもある。

 不殺生戒とは怒りの否定なのだろう。怒りっぽい仏など存在しない。本物の強さは穏やかな表情をしている。


天才博徒の悟り/『無境界の人』森巣博

2020-01-20

一切皆苦/『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ


『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・一切皆苦

『無(最高の状態)』鈴木祐

 では、仏教が生きることを研究して出た答えはなんでしょうか?
 それが「苦」という答えなのです。「生きることはとても苦しい」ということです。
 ヨーロッパ人は、形而上学的な立場で生きることについて、命について、いろいろ考えています。一方、仏教はとても具体的に合理的にこの問題を考えます。どちらかというと、経験論に基づいて生きるとは何かと発見するのです。それで「生きるとは感じることである」と語っています。それは感覚のことです。感覚があることが生きることです。物事を感じたり考えたりすることは生きることです。人は「感じては動く、感じては動く」ということです。
 ではなぜ動くのでしょうか? それは、感じることが苦しいからです。
 ずっと立っていると苦しくなるから歩く。ずっと歩いていると苦しくなるから座る。ずっと座っていると苦しくなるから寝る。ずっと寝ていたら苦しくなるからまた起きる。お腹が空くと苦しくなるから食べる。食べると苦しくなるから止める……。これが生きることなのです。息を吸うだけだと苦しいのです。だから吐くのです。吐いたら苦しいから吸うのです。
 このように感覚はいつでも「苦」なのです。
 だから必死に動いています。生きることは「動き(モーション)」でもあります。こう考えると、我々が思っている「生きる」という単語は曖昧で正しくありませんね。

【『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2007年)】

 スマサーラを初めて読んだのは2012年のこと。私が受けた衝撃は大きい。日本仏教の欺瞞が暴かれたような心地がしたものだ。クリシュナムルティを知ったのが2009年で仏教に対する熱はかなり冷めていた。しかしながら仏教とブッダの教えは違った。南伝仏教(上座部、テーラワーダ)は生き生きとしたブッダの言葉を伝える。

 日本の仏教界が私ほどの衝撃を受けたかどうかは知らぬが、今や仏教系信徒でスマナサーラを読まぬ者は田舎者(←差別用語)と蔑まれても致し方ない。仮にもブッダを師と思うのであれば胸襟を開いて傾聴すべきだ。

 スマナサーラ本を読んで私は初めて四法印の「一切皆苦」(いっさいかいく)がわかった。しかもパーリ語のドゥッカに「不完全」というニュアンスがあるとすれば、それこそ「満たされない」状態を示しているのであろう。苦と苦の合間を我々は快楽と錯覚するのだ。夢や希望が苦からの逃避であるケースがあまりにも多い。

 生の実相が苦であることは病院や老人ホームに行けば誰もが理解できよう。誰の役にも立てなくなった時、人は絶望を生きるしかない。

 現実の苦に対する無自覚こそが現代人の不幸なのだろう。だからこそ病んで死を宣告された時に命の尊さを知り、残された時間を嘆くのだ。我々は漫然と「永久に生きられるかのように生きている」(セネカ)。

 苦は欲望という油を注がれて深刻の度合いを増す。日蓮は「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや」(「八風抄」真蹟は断簡のみ)と書いているがそれは自受法楽ではない。わかりやすい教えには落とし穴がある。

 苦しみをなくすためには欲望の火を消す他ない。これを涅槃(ねはん)とは申すなり。(amazonの価格が1880円になっているのはどうしたことか?)

2016-05-21

怨みと怒り/『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳


『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール

 ・『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳

『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

 ブッダは、耳で聴いてわかる、平易な日常的な言葉で、あらゆる階層、境遇の民衆に親しく語りかけました。かれの言葉は、「目覚めた人」、「努める人」、「まことの人」、「心の汚(けが)れ」、「安らぎ」といった響きの、現代日本人にごく自然に受け止められる言葉であって、けっして「仏陀」(ぶっだ)、「沙門」(しゃもん)、「阿羅漢」(あらかん)、「煩悩」(ぼんのう)、「涅槃」(ねはん)といったとっつきにく難解な用語ではありませんでした。ブッダの言葉が、多くの民衆に広く受け入れられ、やがて仏教という偉大な宗教が誕生することになった要因の一つは、その平易さにあったと思われます。

【『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉訳(トランスビュー、2013年)以下同】

 仏教呼称の問題については「テーラワーダ(長老派)を初期仏教、大衆部と上座部を中期仏教、自称大乗を後期仏教」(『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ)と書いた通りである。初期仏教を南伝仏教、後期仏教を北伝仏教ともいう。


 次に初期仏教の呼称も様々あるのだが私は「パーリ三蔵」と呼ぶ。

 パーリ三蔵は律蔵経蔵論蔵三蔵から成る。

 大蔵出版が刊行している『南伝大蔵経』(全65巻70冊)の構成は、『律蔵』(5巻5冊)、『経蔵』(39巻42冊)、『論蔵』(14巻15冊)、『蔵外』(7巻8冊)となっている。『蔵外』には『ミリンダ王の問い』などが含まれている(パーリ語経典入門)。因みに北伝の漢訳大蔵経は1076部5048巻となっている。

 律は戒律、経はブッダの教え、論は解説である。経蔵は長部(じょうぶ/長編経典集)、中部(ちゅうぶ/中編経典集)、相応部(そうおうぶ/テーマ別短編経典集)、増支部(ぞうしぶ/数字別短編経典集)、小部(しょうぶ/特異な経典)に分かれる。長部の読みが「ぢょうぶ」か「ちょうぶ」かは不明。

 ダンマパダやスッタニパータは小部経典である。

 今枝の指摘は正しいと思う。難解な言葉は思考に衝撃を与えることはあっても生き方を変えるまでに至らない。ブッダが説いたのは法であって論理ではなかった。法とは真理である。誰が聞いても心から「そうだ!」と感じるものが真理だ。西洋哲学は神を目指して形而上に向かい、人々の心から離れていった。そして仏教もまた各部派間の争いや、復興するヒンドゥー教に対抗して絢爛極まりない論理を構築していった。

 初期仏教が日本で本格的に研究されるようになったのはここ数十年のことである。それでも尚、多くの仏教学者は初期仏教のみを真実として後期仏教を排除するべきではないと考えている。こうなるとブッダの教えというよりは、仏教という思想史・文化史となってしまう。ただし初期仏教が「ブッダの言葉」そのものであるかどうかは誰にもわからない。ゆえに初期仏教からブッダの声を探るのが正しいあり方だと私は考える。

 ものごとは心に煽(あお)られ、心に左右され
 心によってつくり出される。
 もし人が、汚(けが)れた心で
 話し、行動するならば
 その人には、苦しみがつき従う。
 車輪が、荷車を牽(ひ)く牛の足跡につき従うように。

 ものごとは心に煽られ、心に左右され
 心によってつくり出される。
 もし人が、清らかな心で
 話し、行動するならば
 その人には、幸せがつき従う。
 影が、からだを離れることがないように。(一・ニ)

 冒頭の一偈である。我々は心に支配されている。心は決して自由になることがない。修行とは心を修めると書くがその目的は心を修めることにある。

 泥のような欲望がある限り幸福は訪れない。そして汚(けが)れた瞳を通せば世界は汚れたものにしか映らない。日常生活においては誰もが自制心を持ち合わせているが、ふとしたきっかけを通して劣情が吹き出す。感情に対して感情で応答するところに諍(いさか)いが生まれ、喧嘩に発展し、人を殺すことさえある。国家の戦争を支えているのはこうした我々の生き方なのだ。

 特に強い者が弱い者に対する暴力性はとどまることを知らない。いじめはもとより大人と子供、上司と部下、売り手と買い手、資本家と労働者に至るまで、ありとあらゆる無作法がまかり通る。暴力がハラスメント(嫌がらせ)という陰湿な形をとるようになったのはバブル景気の頃(1980年代後半)からである。抑圧は精神に長期的なダメージを与える。少子化によって家族が、リストラによって職場が、転勤によって地域がコミュニティの力を失いつつある。一度崩壊したモラルは元に戻れない。決壊したダムのようなものだ。

 果たして「悪人は必ず不幸になる」と言い切れるだろうか? ここが難しいところだ。インディアンを虐殺し、アフリカ人を奴隷にしたアメリカ人は不幸になっただろうか? パレスチナ人を殺戮し続けるイスラエル人、ツチ族を惨殺したフツ族が不幸になっただろうか? 広島と長崎に原爆を落としたルーズヴェルトやトルーマンが不幸になっただろうか? それはわからない。わかるわけがない。なぜなら人生とは「私の人生」しか存在しないのだから。ブッダの言葉を自分の外に置いて読むのは誤りだ。

「あの人はわたしを罵(ののし)った。あの人はわたしを傷つけた。
 あの人はわたしを負かした。あの人はわたしから奪(うば)った」
 そういう思いを抱(いだ)く人には
 怨(うら)みはついに消えることがない。

「あの人はわたしを罵った。あの人はわたしを傷つけた。
 あの人はわたしを負かした。あの人はわたしから奪った」
 そういう思いを抱かない人には
 怨みは完全に消える。(三・四)

 じつにこの世においては
 怨みが、怨みによって消えることは、ついにない。
 怨みは、怨みを捨てることによってこそ消える。
 これは普遍的真理である。(五)

 わたしたちは、死すべきものである。
 人々はこのことを理解していない。
 しかし、人がこのことを意識すれば
 争いはしずまる。(六)

 スッタニパータにおいてブッダは怒りを「蛇の毒」に譬(たと)える(『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳)。またスマナサーラによれば怒りを示すパーリ語「ドーサ」には「穢れる」「濁る」「暗い」という意味があるという(『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ)。「怨み」とは「持続した怒り」であろう。

 宗教の歴史は分断の歴史である。仏教も例外ではない。何をどう言い繕おうとも「争い」の事実を隠すことはできない。宗教は民族をも規定した。そして宗教が戦争の原因となった。

 怨みはどこからでも生じる。「私を誤解した」「私を馬鹿にした」「私を傷つけた」「私を殴った」……。更に最悪の場合を考えれば「私の家族を殺した」まで行き着く。チェチェン人は先祖が殺されれば、相手の7代までに渡って必ず復讐する(『国家の崩壊』佐藤優、宮崎学)。やられたらやり返せというのが人類の歴史であった。そしてより戦闘的な民族が栄えた。今、世界を支配するのはアングロ・サクソン人である。

 ブッダは「許せ」とは言っていない。ただ「怨みを捨てよ」と教える。許すことは難しいが捨てることなら何となくできそうな気がする。怨みは自我に基き自我を強化する。「私を――」との思考メカニズムを解体しない限り、怨みを捨てることはできない。怨みや怒りを固く握っている自分自身を理解すれば、手の力は弱まる。あとは放すだけだ。

 怒りや怨みが蛇の毒のように自分を冒す。「自分が正しい」と思い込んでいるうちは怒りを正当化するのが我々の常だ。そこに落とし穴がある。正しい怒りなど存在しない。仏教では最低の境涯を地獄界と名づける。その要因は瞋恚(しんに)すなわち瞋(いか)りである。怒りは地獄の因と心得よ。サッと怒りの感情が湧いたなら、まずは言葉を飲み込み、鼻から大きく息を吸う。そしてゆっくりと口から吐く。これを三度繰り返すとよい。

日常語訳ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉

2014-05-30

何も残らない/『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ



『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・何も残らない
 ・生きるとは単純なこと

『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也

1月22日 何も残らない

 人類の文明そのものが、「私は死なない」というウソを前提にしてできています。
「死なない」という思いから、名誉や財産を自分のものにしようとします。他国を征服した指導者は、自分の銅像を建てたりして、永遠に自分が存在し続ける気持ちになるのです。しかし、栄華を極めたローマ帝国と同じで、何ひとつ残りません。
 名誉や財産をたくさんもっていても、みじめに死んでしまう。最期は墓場です。
 事実を認めて、「みんな死ぬ」という前提で生きれば、日々美しく平和に暮らそうということになります。

【『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ(PHPハンドブック、2008年/PHP文庫、2017年)】

 仏教には南伝と北伝がある。日本に伝わったのは北伝ルートで大乗を標榜する(大衆部〈だいしゅぶ〉)。これに対して南伝ルートでスリランカ・タイ・ミャンマーなどの出家教団に受け継がれたパーリ語経典の教えをテーラワーダ仏教(上座部〈じょうざぶ〉)と呼ぶ。

 日本などいわゆる大乗仏教の諸国では、お釈迦様の初期経典に説かれたヴィパッサナーなどの実践方法が伝わってきませんでした。そのために思弁哲学の学問仏教、あるいは現世利益信仰や儀式儀礼の呪術的宗教になってしまった面もあります。テーラワーダ仏教はいわゆる「小乗」とも「大乗」とも無縁です。ただお釈迦様の説かれた教えとその実践方法の一つ一つを、当時のまま、今日まで伝えてきた純粋な体系なのです。

テーラワーダ仏教とは?:日本テーラワーダ仏教協会

 スマナサーラ長老の言葉は平易である。理屈をこね回すような姿勢がどこにもない。大衆部の教義が絢爛(けんらん)を目指して複雑化したのに対して、上座部は初期経典に忠実であることに努め、極めてシンプルな教えだ。日本の仏教界に必要なのは初期経典に照らして大衆部の政治的欺瞞を取り除くことであろう。

 キリスト教には永遠という概念がある。スケールは異なるが日本では「名を残す」という考え方が根強い。「最期は墓場です」とあるが、墓そのものが死後にも名を残そうと企てる人間の哀しい所業だ。我々は誰かに思い出される存在であることを望み、より多くの人々に死を悲しんでもらいたがる。自分はいないのに。

 文明の発達は個々人の欲望を掻き立て、人間の細断化を促した。そして私は死んでも私の所有物は残る。文字の発明によって生前の経験や思考をも記録として残せるようになった。今では音声や映像まで残せる。アメリカの非営利団体アルコー延命財団では遺体の冷凍保存を行っている。子孫を残すのも自分の分身と考えればわかりやすい。文明は不老不死を目指す。死んだ人々を置き去りにしながら。

 多くの人々が望む地位・名誉・財産も一緒であろう。極めるとピラミッドや古墳に落ち着きそうだ。

 スマナサーラは我が身を飾る一切のものを「かぶり物」だと本書で指摘している。何ということか。我々の人生そのものがコスプレと化していたのだ。大事なのは何をやったかよりも、勲章であり賞状でありメダルなのだ。功成り名を遂げて周囲の連中を睥睨(へいげい)しながら黒い満足感に浸っている中で死を見失ってゆく。彼の幸福とおもちゃやお菓子を与えられた子供の幸福に違いはあるだろうか?

 100年後を思え。今生きている人の99%は死んでいることだろう。そう考えると道で擦れ違う見知らぬ人にも親切な気持ちが湧いてくる。争っている時間などないはずだ。

2016-06-05

非難されない人間はいない/『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・非難されない人間はいない

・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

 アトゥラよ、これは昔からのことだ。
 きょうだけのことではない。
 人は黙っている者を非難し、多くを語る者も非難する。
 節度をもって語る者さえ非難する。
 この世において、非難されずにいた者は、
 どこにもいない。(ニニ七)

【『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ(佼成出版社、2005年)以下同】

 単純に言えば、この偈の要点は「ばかは相手にするなよ」ということなのです。
 非難する人の話というのは、まじめに研究して調べて、客観的に判断して話しているものではありません。ただ何かを話しているだけなのです。話さずにはいられない病気にかかっているのです。だから、それほど気にすることはありません。「この世の中で非難されない人間はいません」と理解すれば、どこから言葉の矢を撃たれても平気です。


 インターネットは有象無象の劣情に満ちている。普段はおとなしく、上司に向かって意見すらできないような連中が、殺伐とした書き込みを繰り返す。激越な調子で攻撃を加える引きこもりや、理詰めで他人の足を引っ張るキモオタが各所にいる。溜まりに溜まったストレスや行き場のない不平不満の矛先を虎視眈々と狙う。コメント欄の炎上に油を注ぎ、祭りと称して誹謗中傷することに生き甲斐を感じるような手合いがいるのだ。そして彼らは変わらぬ日常に引き戻される。

 現代のもっとも大きな詐欺の一つは、ごく平凡な人に何か言うべきことがあると信じさせたことである。(ヴォランスキー)

【『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル:吉田城〈よしだ・じょう〉訳(大修館書店、1988年)】

 テレビコメントの受け売りを、さも一家言(いっかげん)であるかのように語る人々は多い。ヴォランスキーがいうところの「現代」とはメディア(書物・新聞・ラジオ・テレビ)後の時代を指すのだろう。

 なかんずく特定のイデオロギーを支持する人々や宗教に生きる人々は世界を敵と味方に分けて考える傾向が強い。非難中傷は彼らの十八番である。そのための理論武装までしている。

 ブッダもソクラテスも孔子もテキストを残さなかったのには理由がある(イエスは実在したかどうか疑問)。書かれた言葉は死んだ言葉である。豊かな音や響きを失って無味乾燥な活字となる。枢軸時代の柱ともいうべき彼らが対話を重んじたのは非難や反論を受け入れることのできる開かれた精神の持ち主であったからだろう。多くの人々が納得したのは言葉だけではなかった。目の輝きや立ち居振る舞いに自ずと現れる何かが心をつかみ激しく揺さぶったに違いない。

 バッシングとは叩くの意である。誰かを袋叩きにする時、一人ひとりの罪の意識は低い。その低い意識が社会に暴力を蔓延させる温床となる。

 ゴシップ誌の類いを好む連中がいることを思えば、少々の非難は恐れるに足らない。「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖(いえど)も、吾往かん」(孟子)。ま、相手が百人くらいのキモオタだったら俺は往くよ(笑)。

原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章世界毒舌大辞典

2014-06-15

所有と自我/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳

 ・犀の角のようにただ独り歩め
 ・蛇の毒
 ・所有と自我
 ・ブッダは論争を禁じた

『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ



「お前は何を持っているのだ?」――我々は社会で常に問われる。出自、学歴、職業(勤務会社)、スキル(資格・技術)、地位、財産、家族を。社会はヒエラルキーを構成する。相手の位置を常に確認するのが我々の流儀だ。

「ひとはじぶんでないものを所有しようとして、逆にそれに所有されてしまう。より深く所有しようとして、逆にそれにより深く浸蝕される。ひとは自由への夢を所有による自由へと振り替え、そうすることで逆にじぶんをもっとも不自由にしてしまうのである」(『悲鳴をあげる身体』鷲田清一)。所有物が自我を形成する。思い出の品が私を規定する。認知症になれば記憶は瓦解する。私が私であることを証明するのは思い出の品に他ならない。物は残せる。私が死んだ後まで。

 マニアを証明するものはコレクションだ。そんな関係と似ている。コレクションが増えるにつれてこだわりも増す。年を重ねるごとに自我意識も強化されるはずだ。私とは私の過去だ。

 ヒエラルキーを登り詰めることが人生の目的であれば、我々はバラモンを目指していると見ることができよう。バラモンとはインドカーストの最高位であり、高貴・有徳を示す。

 バーラドヴァーシャ青年は「生まれによってバラモンとなる」と主張した。これに対してヴァーセッタ青年は「戒律と徳行によってバラモンとなる」と反論した。結論を出せない二人はブッダを訪れ、問うた。

六二〇 われは、(バラモン女の)胎(はら)から生まれ(バラモンの)母から生まれた人をバラモンと呼ぶのではない。かれは〈きみよ、といって呼びかける者〉といわれる。かれは何か所有物の思いにとらわれている。無一物であって執著のない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二一 すべての束縛(そくばく)を断(た)ち切り、怖(おそ)れることなく、執著を超越して、とらわれることのない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二二 紐(ひも)と革帯(かわおび)と綱とを、手綱(たづな)ともども断ち切り、門をとざす閂(障礙〈しょうげ〉)を滅して、目ざめた人(ブッダ)、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二三 罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二四 怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく、身をととのえ、最後の身体に達した人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二五 蓮葉(はちすば)の上の露のように、錐(きり)の尖(さき)の芥子(けし)のように、諸々の欲情に汚(けが)されない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二六 すでにこの世において自己の苦しみの滅びたことを知り、重荷(おもに)をおろし、とらわれのない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二七 明らかな智慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し、最高の目的を達した人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二八 在家者(ざいけしゃ)・出家者(しゅっけしゃ)のいずれとも交わらず、住家(すみか)がなくて遍歴(へんれき)し、欲の少い人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六二九 強くあるいは弱い生きものに対して暴力を加えることなく、殺さず、また殺させることのない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六三〇 敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、執著する者どもの間にあって執著しない人、──かれをわたし(ママ)は〈バラモン〉と呼ぶ。

六三一 芥子粒(けしつぶ)が錐(きり)の尖端(せんたん)から落ちたように、愛著(あいじゃく)と憎悪(ぞうお)と高ぶりと隠し立てとが脱落した人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六三二 粗野(そや)ならず、ことがらをはっきりと伝える真実のことばを発し、ことばによって何人(なんぴと)の感情をも害することのない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六三三 この世において、長かろうと短かろうと、微細であろうとも粗大であろうとも、浄かろうとも不浄であろうとも、すべて与えられていない物を取らない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六三四 現世を望まず、来世をも望まず、欲求もなくて、とらわれのない人、──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

六三五 こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑(ぎわく)なく、不死の底に達した人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六三六 この世の禍福(かふく)いずれにも執著することなく、憂(うれ)いなく、汚(けが)れなく、清らかな人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六三七 曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、歓楽の生活の尽きた人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六三八 この障害・険道・輪廻(りんね〈さまよい〉)・迷妄(めいもう)を超(こ)えて、渡りおわって彼岸(ひがん)に達し、瞑想し、興奮することなく、執著がなくて、心安らかな人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六三九 この世の欲望を断ち切り、出家して遍歴し、欲望の生活の尽きた人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四〇 この世の愛執(あいしゅう)を断ち切り、出家して遍歴し、愛執の生活の尽きた人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四一 人間の絆(きずな)を捨て、天界の絆を超え、すべての絆をはなれた人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四二 〈快楽〉と〈不快〉とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った健(たけ)き人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四三 生きとし生ける者の死生をすべて知り、執著なく、幸せな人、覚(さと)った人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四四 神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間もその行方(ゆくえ)を知り得ない人、煩悩(ぼんのう)の汚れを滅しつくした人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四五 前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、すべて無一物で、何ものをも執著して取りおさえることのない人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四六 牡牛(おうし)のように雄々(おお)しく、気高(けだか)く、英雄・大仙人・勝利者・欲望のない人・沐浴(もくよく)した者・覚った人(ブッダ)、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四七 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を減し尽くすに至った人、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

六四八 世の中で名とし姓として付けられているものは、名称にすぎない。(人の生まれた)その時その時に付けられて、約束の取り決めによってかりに設けられて伝えられているのである。

六四九 (姓名は、かりに付けられたものにすぎないということを)知らない人々にとっては、誤った偏見が長い間ひそんでいる。知らない人々はわれらに告げていう、『生れによってバラモンなのである』と。

六五〇 生れによって〈バラモン〉となるのではない。生れによって〈バラモンならざる者〉となるのでもない。行為によって〈バラモン〉なのである。行為によって〈バラモンならざる者〉なのである。

六五一 行為によって農夫となるのである。行為によって職人となるのである。行為によって商人となるのである。行為によって傭人(やといにん)となるのである。

六五二 行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。行為によって司祭者となり、行為によって王ともなる。

六五三 賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。かれらは縁起(えんぎ)を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。

六五四 世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。――進み行く車が轄(くさび)に結ばれているように。

六五五 熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、――これによって〈バラモン〉となる。これが最上のバラモンの境地である。

六五六 三つのヴェーダ(明知)を具え、心安らかに、再び世に生まれることのない人は、諸々の識者にとっては、梵天や帝釈[と見なされる]のである。ヴァーセッタよ。このとおりであると知れ。

 このように説かれたので、ヴァーセッタ青年とバーラドヴァーシャ青年とは師に向って言った、「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです。ゴータマさま。譬(たと)えば、倒れた者を起こすように、覆(おお)われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るように』といって暗夜に灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで理法を明らかにされました。いまわたくしはゴータマさまと真理と修行僧のつどいに帰依したてまつる。ゴータマさまはわたくしたちを、在俗信者として受けいれてください。わたくしたちは、今日から命の続く限り帰依いたします。」(第三 大いなる章「九、ヴァーセッタ」)

【『ブッダのことば スッタニパータ』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1984年/岩波ワイド文庫、1991年)以下同】

 話を戻そう。我々が目指しているのはバラモンより前の段階の金持ち・成功者・有名人であろう。つまり「王」になりたがっているのだ。バラモンはその上に位置する。そしてブッダが説いたバラモンは世間で受け止められているバラモンとは明らかに異なる。これこそブラフマンではなくブッダ(仏)なのだ。随所に如来十号が散りばめられていることからも明らかだ。

 ヴァーセッタ青年とバーラドヴァーシャ青年は「人間の位」を問うた。それに対してブッダは「真実の位」を説いた。ヴァーセッタ青年は「それ見たことか、俺の言った通りだろうよ」とは言わなかった。二人は同じ感激に打ち震えている。そして彼らの目は開いた(目覚めた)。

一三六 生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為(こうい)によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。(第一 蛇の章「七、賤しい人」)

「七、賤しい人」には資本主義のあらゆる形態が描かれている。

「生れ」とは過去である。地位・名誉・財産も過去を示すものだ。すなわち我々は常に「相手の過去」を見つめているのだ。これによって現在の行為は過小評価・拡大解釈をされる。ブッダの指摘は「過去の完全否定」を意味する。

「発見するためには、自由がなければならない。もしもあなたが束縛され、重荷を背負っていたら、あなたは遠くまで行けない。もしもある種の蓄積があれば、いかにして自由がありうるだろうか?」(『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ)。財産であれ悩みであれ荷物であることに変わりはない。「私」を成り立たせている過去が私自身を束縛するのだ。二人の青年と同じように目を開けば、まったく新しい過去の延長線上ではない現在が生き生きと流れ始める。

 殆どの聖職者や僧侶が王を目指した。彼らは俗人以上の俗人だ。クリシュナムルティは王になろうとはしなかった。弟子やファンをも拒んだ。

 ヴァーセッタ青年とバーラドヴァーシャ青年がブッダの弟子ではなかったことにも注目する必要がある。ブッダには誰でも会うことが可能であった。クリシュナムルティもそうだ。彼らは一切の差別からも自由であったのだ。

 尚、文庫版はあまりにも活字が小さいため、当ブログではワイド版をお薦めする。

 

2019-10-23

洪水/『ブッダの 真理のことば 感興のことば』中村元


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳

 ・競争と搾取
 ・洪水

『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ

ブッダの教えを学ぶ

四六 この身は泡沫(うたかた)のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。
四七 花を摘(つ)むのに夢中になっている人を、死がさらって行くように、眠っている村を、洪水が押し流して行くように、――
四八 花を摘(つ)むのに夢中になっている人が、未だ望みを果さないうちに、死神がかれを征服する。(「真理のことば」〈ダンマパダ〉第四章 花にちなんで)

【『ブッダの 真理のことば 感興のことば』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1978年/ワイド版岩波文庫、1991年)以下同】

 東日本大震災を経験してそれまでとは全く異なった衝撃を受けた一文である。その後も自然災害が止むことはなかった。平成から令和に変わっても容赦なく台風が襲い掛かった。21の河川が氾濫し、堤防の決壊によって浸水した土地は2万5000ヘクタールに及ぶ。今日現在で70人が死亡、行方不明者が12人となっている。

 生きとし生けるものは必ず死ぬ。にもかかわらず災害死は生の基盤を揺るがす恐怖を与える。戦争やメガデス(大量虐殺)と同様に。

 本能なのか。それとも感情なのか。徒死を嫌い、無駄死にを恐れ、酔生夢死を忌(い)む裏側には「掛け替えのない人生」という誰もが信じる虚構が存在する。

 このテキストは「感興のことば」にも登場する。

一四 花を摘(つ)むのに夢中になっている人を、死がさらって行くように、――眠っている村を、洪水が押し流していくように――
一五 花を摘(つ)むのに夢中になっている人が、未だ望みを果さないうちに、死神がかれを征服する。
一六 花を摘(つ)むのに夢中になっている人が、まだ財産が集まらないうちに、死神がかれを征服する。(「感興のことば」〈ウダーナヴァルガ〉第一八章 花)

 花を摘む幸福が生を見失わせるのか。功成り名を遂げた人も、市井に埋没する人も、不遇をかこつ人も死が押し流してゆく。目を開いて周囲を見てみよう。死はありふれている。死はそこここに転がっている。中高年ともなれば親が死に、兄弟が死に、そして友人が次々と死んでゆくことにたじろぐ。だが私が見るのは他人の死だ。果たして「自分が死ぬ」という当たり前の現実を真剣に受け止めている人は少ない。

 人生の総決算が死ぬ姿にあると考えれば、死に方を問う人々が出てきて当然だ。そんな彼らが編み出した一つの解決法がたぶん「殉教」だったのだろう。“大義のために死ぬ”ことは誰が見ても絵になる。それまでの平凡な人生が突如としてドラマチックな色彩を帯びる。キリスト教宣教師は「発見の時代」(Age of Discovery/大航海時代)から近代に至るまで殉教の旗を掲げて世界を駆け巡った。

 ところがそのキリスト教を排除してきた日本にはもっと凄い死に方があった。切腹である。自らの死を苦痛の中で決断する行為は人間の意志の極限に位置するものだ。武士という存在は刀を自他に突きつける中で絶妙なバランスを社会にもたらした。その精神は大東亜戦争の特攻隊にまで引き継がれる。

「感興のことば」は「無常」の章から始まる。ここで説かれる無常とは死を意味する。諸行無常とは「何をやっても(死ぬから)無駄」と言っているようにしか思えない。真実は単純の中にある。人々が思う幸福はきっと不幸の因なのだろう。幸福は真理と懸け離れている。それは単なる欲望に過ぎない。「洪水」とは煩悩の濁流を示している。

 河海の洪水を恐れても、煩悩の洪水を何とも思わぬ己をじっと見つめる。

ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)

岩波書店
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