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2022-03-05

管仲と鮑叔/『管仲』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光

 ・管仲と鮑叔
 ・およそ国を治むるの道は、かならずまず民を富ます

『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光

 鮑(ほう)は氏であり、姓は姒(じ)である。姒という姓は、夏(か)王朝の禹(う)王からはじまる。禹王の子孫はみな姒姓をもち、住みついた地の名によって氏が生じた。鮑敬叔(ほうけいしゅく) は封邑(ほうゆう)をもつ中級貴族であるが、当然のことながら、その血胤はの公室にかかわりがない。とはいえ、斉は太公望(たいこうぼう)という軍事の天才によって建国されたときから多民族国家であった。周の文王武(ぶ)王成(せい)王を輔成した太公望の姓は(姜〈きょう〉)であるが、かれは羌族ばかりを優遇し重用したわけではなく、要職に異姓の才俊(さいしゅん)をすえた。すなわち太公望は血筋より能力を重視したのである。その点、斉という国の体質は他国とはまるでちがった。周王室の思想のなかには血を尊ぶというものがあり、それが当時では、新思想であった。ちかう、という字をおもえばよい。周以前では、誓う、つまり言(ことば)でちかうのであり、周以後は、生(い)け贄(にえ)の血をすすりあってちかうので、盟という字を用いる。盟の下部の字は皿ではなく血がほんとうである。むろん斉の君主が周王に従っているかぎり、そういう思想のなかで違和を生じないようにこころがけたにはちがいないが、斉公室の始祖である太公望がもっていた民族平等の思想がまったく消滅したわけではなかった。それゆえ、異姓人あるいは異邦人が、住みやすさをおぼえるのは、天下広しといえども、斉だけであるといってよい。

【『管仲』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(角川書店、2003年/文春文庫、2006年)】

管鮑の交わり」という故事成語がある。深い友情を意味する言葉で管仲と鮑叔は実在した人物だ。「仲(ちゅう)曰(いわ)く、我を生む者は父母、我を知る者は鮑子(ほうし)なり」(Web漢文大系)と称(たた)えた言葉が数千年を経て現代の日本にまで届いている。

 太公望(紀元前1000年頃)と管仲は350年ほど時代を経ているが、まだ情報が発達していない時代なので隔世の感はやや薄いと考えていいと思う。この時代で名を残した日本人はいない。卑弥呼が西暦200年代の人物であることを思えばシナ文明の古さを理解できよう。

 鮑敬叔(ほうけいしゅく)は鮑叔(ほうしゅく)の父親である。まだ社会が安定していない時代である。人の性分はまだ動物に近かったことだろう。盗む、殺すといった行為も平然と行われたに違いない。仏教の五戒モーセの十戒が示したのは動物性からの脱却であろう。人道は社会の力を高める。それは「群れの優位性」だ。

 血縁は動物の論理である。「民、信無くば立たず」(『論語』)が社会の生命線であり、血縁を重んじれば他の縁が弱くなる。日本においては皇統以外の血縁は不要であると私は考える。

 明治維新においても薩長閥の形成を許さなければ、昭和も大いに異なる表情を見せたことだろう。日本の社会は基本的に利権の構造があり、あらゆるところでムラ社会が形成される。日本特有のセクト主義と言ってよい。大東亜戦争でも陸軍と海軍が団結することはなかった。悪しき排他性を払拭できないところに自民党長期政権の理由がある。

 

2022-03-02

老子の思想には民主政の萌芽が/『香乱記』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光

 ・占いは未来への展望
 ・アウトサイダー
 ・シナの文化は滅んだ
 ・老子の思想には民主政の萌芽が
 ・君命をも受けざる所有り

・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


 この学者は法家(ほうか)といってよいが、その教学の根底には老荘思想がある。たとえば戦国時代の大儒である孟子(もうし)は、
 ――春秋に義戦(ぎせん)無し。
 と、語ったように、孔子が著した『春秋』(しゅんじゅう)という歴史書のなかにひとつも義(ただ)しい戦いはなかったというのが儒者の共通する思想であり、要するに戦うことが悪であった。儒教は武術や兵略に関心をしめさず、それに長じた者を蔑視(べっし)した。したがって儒教を学んだ者から兵法家は出現せず、唯一(ゆいいつ)の例外は呉子(ごし)である。戦いにはひとつとしておなじ戦いはないと説く孫子(そんし)の兵法は、道の道とす可(べ)きは常の道に非(あら)ず、という老子の思想とかよいあうものがある。この老子の思想には支配をうける民衆こそがほんとうは主権者であるというひそかな主張をもち、民衆を守るための法という発想を胚胎(はいたい)していた。その法を支配者のための法に移しかえたのが商鞅(しょうおう)であり韓非子(かんぴし)でもあり、秦王朝の法治思想もそれであるが、法はもともと民衆のためにあり支配者のためにあるものではないことは忘れられた。

【『香乱記』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(毎日新聞社、2004年/新潮文庫、2006年)】

戦いて勝つは易く、守りて勝つは難し/『呉子』尾崎秀樹訳

 商鞅については『孟嘗君』を参照せよ。

 道家(どうか)といえば仙人である。近頃、仙人本を読んでいるのだが、どうも食指が鈍い。気は何となく理解できる。しかし房中術や仙人となると、支那文化特有の実利に傾きすぎているような嫌いがある。

 一方、儒家(じゅか)といえば礼であるが、形而下にとどまっていて人間の苦悩を解き放つほどの跳躍力がない。江戸時代の日本で論語が広く学ばれたのは語感のよさによるものだと私は考えている。更に官僚の道を説いた孔子の教えは、武士を制御するのに都合がよかった側面もあったことだろう。侍の語源は「従う」意味の「さぶらふ」(候ふ)である。つまりムスリムと変わらない。服従する相手が藩主か神かの違いがあるだけだ。

 儒家が革命を起こすことはないが、道家は天命を掲げて王朝を倒すことがある。私が道家に惹かれる所以(ゆえん)である。

   

2020-01-07

民の声/『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光


 ・桑の木は神木
 ・民の声

・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

「生れつき姓があるということは、人の上に立ってゆくように定められていることなのだ。人の上に立つには――」
 と、ことばを切った摯は、足もとに目をおとし、
「たとえば、ここに植える菽(まめ)のいうことが、ききとれるようになることだ。天の気も地の気も、その葉や茎にうつり、やがて結びあって実となる。いくら故実(こじつ)を識(し)っても、名なし草にひとしい民の、声なき声を聴きとる耳はそだたぬ。【まめ】に教えてもらうがよい」

【『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(海越出版社、1990年/文春文庫、1993年)以下同】

 摯〈し〉は伊尹〈いいん〉の諱(いみな)である。豆から学んだ人にメンデル(1822-1884年)がいる。

 伊尹は一階の料理人から宰相(さいしょう)にまで登りつめた人物である。湯王〈とうおう/天乙〉を助け、〈けつ〉王を討って天下を平定。こうして(いん/商)が建国される。

 民と農こそ国家の基(もとい)であろう。次に防衛がくる。農業革命によってホモ・サピエンスは定住し、やがて都市が生まれた。食糧を他国に依存する日本は定住の基盤を失ってしまったように見える。

「湯のことではない。汝がどうするかだ」
 そう問われた摯はさらにしずまった声貌(せいぼう)で、
「人民の声に従うだけです」
「また、それか。遁辞(とんじ)をかまえるな。民草(たみくさ)に声なぞあろうか。強い風に靡(なび)くにすぎぬ」
「わたしには聞えます」
 と、摯はなぜか哀しげに眉をよせた。

 民衆が「自然の一部だった」(『歴史とは何か』E・H・カー)とすれば伊尹が聴いた「民の声」とは政治的要求ではなく、苦悩や呻吟(しんぎん)、溜息や悲鳴と考えられる。民情に思いを寄せるのが政治の出発点であり、庶民を圧迫すれば国は必ず滅びる。現在、中国や北朝鮮はたまたアラブ諸国で残酷非道な政治が行われているが、これを支えているのは情報統制である。人々の移動や交流あるいはインターネットの促進によって情報が行き交うようになれば一人が立ち上がり、二人、三人、百人と続いてゆくことだろう。

 ただし民草が「強い風に靡(なび)く」のもまた事実である。自由を望むのも民衆だが、支配を求めるのもまた民衆なのだ。全体主義やファシズム・ナチズムは形を変えて生き延びることだろう。

2020-01-06

桑の木は神木/『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光


 ・桑の木は神木
 ・民の声

・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

 このころ、桑の木は神木で、「桑からなにが生れるか」と問われた者の十人中十人が、「日」(じつ)すなわち「太陽」とこたえたであろう。つまり太陽の数とは無限ではなく、十個あると考えられ、その一個ずつが、毎朝桑木から生れて、天に昇ると信じられていた。したがって、桑木とは太陽を生む木であり、そこから生れた児とは太陽でなくてなんであろう。

【『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(海越出版社、1990年/文春文庫、1993年)】

 八王子を桑都(そうと)という。江戸期から養蚕業・絹織物業が盛んであったためだ。更に古くは「浅川を渡れば富士の影清く桑の都に青嵐吹く」と西行が詠んだ。桑が神木とはにわかに信じ難かった。それは私が低い桑しか知らないためだった。


 こりゃ神木だな、確かに。また日本を扶桑国(ふそうこく)とも称した。鎌倉時代の日蓮も「扶桑国をば日本国と申す」(「諌暁八幡抄」〈かんぎょうはちまんしょう〉)と書いている。更に雷除けの「くわばら、くわばら」という呪文も「桑原」に因(ちな)むものだ。

「子供の時分、下の部屋で布団に入ると2階の部屋からワサワサと音が聞こえたものだ」という話を何度か耳にしたことがある。蚕(かいこ)が桑の葉を食(は)む音だ。幕末から明治にかけて八王子~横浜間には「絹の道」が存在した(八王子のシルクロード~幕末から明治期に賑わった「絹の道」を歩く)。

 八王子駅近くの甲州街道沿いに荒井呉服店がある。ユーミンの実家だ。

2017-01-02

機械の字義/『青雲はるかに』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光

 ・友の情け
 ・機械の字義

『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

「ちかごろは田圃(でんぽ)にも機械とよばれるものがはいってきております。ひとつを押すとほかが動くというしかけでして……」
「機械か……。機はともかく、械は罪人をしばる桎梏(かせ)のことだ。人はおのれを助けるためにつくりだしたからくりによって、おのれをしばることになるということか。械とはよくつけた名だ。わしもその械にしばられるひとりか」
 范雎〈はんしょ〉は鼻で哂(わら)った。

【『青雲はるかに』(上下)宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(集英社、1997年/集英社文庫、2000年/新潮文庫、2007年)以下同】

 宮城谷作品を支えているのは白川漢字学である。支那古典というジャングルの中で宮城谷は迷う。自分の居場所もわからなくなった時、白川静の漢字学が進むべき方向を示してくれた。白川の著作を読むと「たったの一語、たったの一行で小説が1000枚書ける」と宮城谷は語る(『三国志読本』文藝春秋、2014年)。

 白川静が明らかにしたのは漢字の呪能(じゅのう)であった(『漢字 生い立ちとその背景』白川静)。神との交流から始まった漢字に込められた宗教的次元を解明したのだ。漢字が表すのは儀礼と祈りだ。

 機械は作業や労働を楽にする。人類の特徴の一つに「道具の使用」がある。厳密に言えばサルも道具を使うため、正確には「道具を加工し利用する」。道具・機械の歴史は小型の斧(おの)からスーパーコンピュータにまで至るわけだがこの間(かん)、人類が進化した形跡は見られない。械が「罪人をしばる桎梏(かせ)」であれば退化した可能性を考慮する必要があるだろう。

 計算機(電卓)やコンピュータは脳の働きを補完する。私は日に数十回はインターネットを検索しているが、脳の検索機能が低下しているように感じてならない。デジカメや録音機器なども記憶の低下を助長していることだろう。

 レイ・カーツワイルは2045年に人工知能がヒトを凌駕すると指摘している(『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル)。その時、械の意味は「コンピュータの進化を阻むヒト」に変わっているかもしれない。

青雲はるかに〈上〉 (新潮文庫)青雲はるかに 下巻三国志読本

友の情け/『青雲はるかに』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光

 ・友の情け
 ・機械の字義

『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

「いずれにせよ、わしのように門地も財産もない男が、国政にかかわる地位に昇ってゆける門戸をひらけるのは、乱のあとしかない」
 と、范雎〈はんしょ〉は断言した。
「それは、わかる」
 鄭安平〈ていあんぺい〉はそういったものの、うなずかなかった。かれは、だが、といって首をかしげ、
「乱により入(い)らば、すなわちかならず乱を喜び、乱を喜ばばかならず徳を怠(おこた)る、ということばがある。なんじの将来のためには、乱れた国へはいるのは、賛同できぬ」
 と、はっきりいった。
 范雎〈はんしょ〉は鄭安平〈ていあんぺい〉をみつめた。范雎の目に複雑な色がでた。大梁にきて、このような愛情のある忠告をきいたのは、はじめてである。

【『青雲はるかに』(上下)宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(集英社、1997年/集英社文庫、2000年/新潮文庫、2007年)以下同】

 タイトルに陳腐の翳(かげ)がある。復讐譚(ふくしゅうたん)に愛する女性を絡めるといったエンタテイメント性をどう評価するかで好みが分かれることだろう。

 范雎〈はんしょ〉は中国戦国時代(紀元前403-221年)に生まれ、平民から宰相(さいしょう)にまで上(のぼ)り詰めた人物である。

 激しく揺れる時代は思春期と似ている。幼さを脱却して大人へと向かう時、自我は伸縮し反抗的な態度が現れる。歴史もまた同じ道を歩むのだろう。

 自分が形成されるのは13歳から23歳までの10年間と言い切ってよい。この時期における友情は眩(まばゆ)い光となって自分の輪郭をくっきりとした影にする。人格は縦(たて)の関係で鍛えられるが、豊かな情操を養うのは横のつながりである。

 上昇志向の強い范雎〈はんしょ〉は鄭安平〈ていあんぺい〉という友を得て圭角が取れてゆく。

 数日後、鄭安平〈ていあんぺい〉は「餞別(せんべつ)だ」と言って、有り金を范雎〈はんしょ〉に手渡す。

 ところが范雎〈はんしょ〉は志半ばにして帰ってきた。

「すまぬ」
 と、いった。鄭安平〈ていあんぺい〉のような男には、みえもきどりもいらないであろう。心を裸にして詫びるしかない。
「なにをいうか。わしはむしろ安心したのよ」
「そうか……」
 と、范雎〈はんしょ〉はいったが、鄭安平の意中をつかみかねた。
「そうよ。わしの心配は、もしやなんじが小さな成功を獲得して帰ってきたら、どうしよう、ということであった。大きな成功を得るには長い年月がいる。わしもなんじも、一代での偉業を夢みている。父の遺徳がない者は、父のぶんまで徳を積まねばならぬ。早い成功は、みずから限界をつくる。そうではないか」
 抱懐しているものを、いきなりひろげたようないいかたであった。
 ――こういう男か。
 范雎は心に衝撃をうけた。
 鄭安平をみそこなっていたつもりはないが、この男の胸のなかにひろびろと走っている大道がみえなかったおのれを愧(は)じた。なるほど天下で偉業をなす者は、若いうちから頭角をあらわしていない。暗い無名の青春をすごしている。管仲〈かんちゅう〉がそうであり、呉起〈ごき〉や商鞅〈しょうおう〉もそうである。なぜそうなのか。つきつめて考えたこともなかったが、鄭安平のいう通りかもしれない、と范雎はおもった。

 学友の中にあって大言壮語を放つ范雎〈はんしょ〉を見て、「あの男のちかくにいれば、おもしろい世がみられるか」と鄭安平〈ていあんぺい〉は思った。そんな小さな心の振幅から生涯にわたる友情が生まれた。鄭安平は後に将軍となる。

青雲はるかに〈上〉 (新潮文庫)青雲はるかに 下巻

2016-01-07

君命をも受けざる所有り/『香乱記』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光

 ・占いは未来への展望
 ・アウトサイダー
 ・シナの文化は滅んだ
 ・老子の思想には民主政の萌芽が
 ・君命をも受けざる所有り

・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


 春秋時代の強国である(ご)の君主として覇(は)をとなえることになる闔閭(こうりょ)に、天才兵法家である孫武(そんぶ/孫子〈そんし〉)が仕えるときに、
 ――将は軍に在(あ)りては、君命をも受けざる所有(あ)り。
 と、述べた。
 将軍に任命されて軍を率いるようになってからは、たとえ君命にも従わないことがある。すなわち戦場は千変万化の場であり、戦場をまのあたりにしていない君主の命令に従っていては、勝機をのがすばかりか、あずかっている兵を敗北によってそこなうことさえある。この思想は後世の軍事指導者にも享受(きょうじゅ)された。項梁(こうりょう)もその紹継(しょうけい)者のひとりであろう。それゆえ司馬龍且項羽の軍を、弋猟(よくりょう)のようにあつかわなかった。楚の三軍はそれぞれ意志をもって動いていたのである。

【『香乱記』宮城谷昌光(毎日新聞社、2004年/新潮文庫、2006年】

 戦争はビジネスではない。殺し合いだ。最前線の情報は報告を通して情報量が限定される。一を見て十を知る洞察力が将軍に求められるのは当然である。孫子は戦争の奥深さを知り抜いていたのだろう。作戦は飽くまでも机上のものだ。

「戦場をまのあたりにしていない君主の命令」で思い出すのは小泉純一郎首相の自衛隊イラク派遣に関する答弁だ。

 どこが非戦闘地域でどこが戦闘地域かと今この私に聞かれたって、わかるわけないじゃないですか。これは国家の基本問題を調査する委員会ですから。それは、政府内の防衛庁長官なりその担当の責任者からよく状況を聞いて、最終的には政府として我々が判断することであります。
 はっきりお答えいたしますが、戦闘地域には自衛隊を派遣することはありません。

第156回国会 国家基本政策委員会合同審査会 第5号(平成15年7月23日 水曜日)

 戦闘地域がわからないのに、戦闘地域には派遣しないと答える支離滅裂ぶりが凄い。シビリアン・コントロール(文民統制)とは政治が軍事に優先する考え方だが、いみじくも小泉首相の答弁は「戦争のでき得ぬ」日本の政治情況を雄弁に物語っている。

 五・一五事件(1932年)、二・二六事件(1936年)を通して大東亜戦争では軍政が敷かれた。陸軍と海軍の軋轢(あつれき)も解消されなかった。敗戦の本質的な原因は日本の統治機能にあった。その後、中華民国で関東軍が暴走する。

 岡田斗司夫が勝谷誠彦との対談(「カツヤマサヒコSHOW」6分あたりから)で「官僚は軍隊である」と指摘する。そう捉えるとシビリアン・コントロールが破綻していることに気づく。官僚が立法――法律作成および予算編成――をも支配しているからだ。君命を無視し、骨抜きにするのが彼らの仕事である。

 日本のシステム的な問題は統治(ガバメント)と意思決定(ガバナンス)が曖昧なところにある。

 フィクション作品におけるヒーローは「君命をも受けざる所有り」を実践する者が多い。例えばジャック・バウアーなど(笑)。

   

二流の帝国だった戦前の日本/『日本人が知らない最先端の「世界史」』福井義高

シナの文化は滅んだ/『香乱記』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光

 ・占いは未来への展望
 ・アウトサイダー
 ・シナの文化は滅んだ
 ・老子の思想には民主政の萌芽が
 ・君命をも受けざる所有り

・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


 たとえば戦国時代の大儒である孟子(もうし)は、
 ――春秋に義戦(ぎせん)無し。
 と、語ったように、孔子が著した『春秋』という歴史書のなかにひとつも義(ただ)しい戦いはなかったというのが儒者の共通する思想であり、要するに戦うことが悪であった。儒教は武術や兵略に関心をしめさず、それに長じた者を蔑視(べっし)した。したがって儒教を学んだ者から兵法家は出現せず、唯一(ゆいいつ)の例外は呉子(ごし)である。戦いはひとつとしておなじ戦いはないと説く孫子(そんし)の兵法は、道の道とす可(べ)きは常の道に非(あら)ず、という老子の思想とかよいあうものがある。この老子の思想には支配をうける民衆こそがほんとうは主権者であるというひそかな主張をもち、民衆を守るための法という発想を胚胎(はいたい)していた。その法を支配者のための法に移しかえたのが商鞅(しょうおう)であり韓非子(かんぴし)でもあり、秦王朝の法治思想もそれであるが、法とはもともと民衆のためにあり支配者のためにあるものではないことは忘れられた。

【『香乱記』宮城谷昌光(毎日新聞社、2004年/新潮文庫、2006年】

「孔孟の教え」と孔子と並び称されるのが孟子で、「性善説を主張し、仁義による王道政治を目指した」(Wikipedia)。仁は儒家が最も重んじるテーマで身内への愛情を意味する。これに対して義は多くの人々を博(ひろ)く愛する精神のこと。東アジアが家を重んじるのは仁のゆえ。「日本というのは、あらゆる組織、あらゆる集団が、血縁を拡大した擬制血縁の原理で成り立っている」(岸田秀、『日本人と「日本病」について』1980年)のも儒教の影響であろう。

 つまり儒教の本質は支配者のための教えであり、官僚を育てるところに目的がある。義を重んじたのは墨子〈ぼくし〉であった。孟子は仁に傾く儒家の教えを改革したと見てよい。

 シナと中国に関する表記については前にも書いた(都市革命から枢軸文明が生まれた/『一神教の闇 アニミズムの復権』安田喜憲)。中国とは共産党支配体制を指す言葉であり、「中国4000年の歴史」など存在しない。文化や地理・歴史を呼称する場合はやはり「シナ」と表すのが正しい。

 諸子百家によって彩られた春秋時代は共産革命によって色褪せ、赤一色に染められてしまった。

 宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。それは人民の阿片(アヘン)である。人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。

【『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』カール・マルクス:城塚登〈しろつか・のぼる〉訳(岩波文庫、1974年)】

「宗教は阿片である」と25歳のマルクスが宣言した(『ヘーゲル法哲学批判序説』原書は1843年)わけだが、皮肉なことにマルクス主義は20世紀の宗教と化した。革命によって人工的な国家がつくられ、呆気(あっけ)ないほど易々(やすやす)と思想の改造が行われた。これを宗教と呼ばずして何と呼ぼうか。

 呉子については尾崎秀樹〈おざき・ほつき〉訳を読んだが本の構成が悪い。

   

2016-01-03

アウトサイダー/『香乱記』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光

 ・占いは未来への展望
 ・アウトサイダー
 ・シナの文化は滅んだ
 ・老子の思想には民主政の萌芽が
 ・君命をも受けざる所有り

・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


 秦によって天下が統一されるまえは、地方の郷里には自治権があった。それが支配される者のゆとりであり、精神の自律というものであった。ところが、始皇帝の時代になると、全土の民が始皇帝に直属するようになったといってよく、皇帝と庶民のあいだにいる官吏は、人ではなく法律の化身である。この窒息しそうな現状を嫌う者は、自立したくなるのであるが、移住することや職業を変えることはたやすくゆるされず、けっきょくそういう制度と対立する者たちは、法外の徒となり、盗賊になってしまうということである。それゆえ、この時代に盗賊になっている者は、卑陋(ひろう)とはいえない、いわば革命思想をもった者もいたのである。

【『香乱記』宮城谷昌光(毎日新聞社、2004年/新潮文庫、2006年】

 アウトロー(無法者)とアウトサイダーの違いか。日本だと悪党傾奇者(かぶきもの)・浮浪人旗本奴(はたもとやっこ)・町奴(まちやっこ)というやくざ者の流れがあるが、徳川太平の世にあって権力の統制下に置かれていたような気がする。侠客と呼んだのも今は昔、任侠は東映のやくざ映画で完全に滅んだといってよい。既に亡(な)いから映画を見て懐かしむのである。

 法治国家には官僚をはびこらせるメカニズムが埋め込まれているのだろう。士業がそれに準じる。国家試験も法律から生まれる。そして法の仕組みを知る者がインナー・サークルを構成するのだ。貧富の差が激化する現状は派遣社員やパート労働者をアウトサイドすれすれにまで追い込んでいる。

 現代においては移住することも転職することも自由だ。もしもあなたが「窒息しそうな現状を嫌う者」であるならば、速やかにこの二つに着手することが正しい。「逃げる」のではなくして「離れる」のだ。簡単ではないかもしれぬが、自分の力で足が抜けるうちに行動を起こすべきだ。

 いじめを回避するために転校する小学生は珍しくない。大人だって一緒だ。何らかの重圧を回避せずして人生を輝かすことは難しいだろう。

 グローバリゼーションによって多国籍企業が平均的な国家を凌駕する力と富を手に入れた結果、革命はテロに格下げされた。実力行使の覚悟を欠いたデモはお祭り騒ぎに過ぎない。個別テーマへの反対はあっても「世直し」というムードが高まることはない。国内の治安が維持されればフラストレーションは外国に向かって吐き出される。反中・反韓感情の高まりはやがて国家的衝突という事態を招くことだろう。

   

2016-01-02

占いは未来への展望/『香乱記』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光

 ・占いは未来への展望
 ・アウトサイダー
 ・シナの文化は滅んだ
 ・老子の思想には民主政の萌芽が
 ・君命をも受けざる所有り

・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


 田儋(でんたん)はまともに許(きょ)氏を視(み)ずに、
「占いは好かぬ。昔、人相を観る者に、あなたは臨済(りんせい)の近くで殺される、臨済には近づかぬことだ、といわれた。いまだに気持ちがよくない。占う者は、人の不幸を予言せぬのが礼儀というものだろう。ちがうか」
 と、強い声でいった。
「それは臨済に近づかねば、殺されることはない、と災難が避けうるものであることをいったのであり、占った者の好意と解すべきだ」

【『香乱記』宮城谷昌光(毎日新聞社、2004年/新潮文庫、2006年】

 始皇帝(紀元前259-紀元前210年)の時代である。従兄の田儋(でんたん)、兄の田栄、そして主役の田横は田氏三兄弟と呼ばれた。彼らは斉王の末裔(まつえい)であったが既に没落していた。祖父の代から平民同然の暮らしぶりであった。

 3人は賊に襲われていた馬車を助ける。従者を連れた男は「許」と名乗った。彼は占いをたしなんだ。

 占いは未来への展望である。「未(いま)だ来たらざる」時間を、「将(まさ)に来たる」時間に引き込む営みなのだ。そして占いは「使うもの」であって「縛られるもの」ではない。許氏はそう語ったのだろう。

 最古の漢字である甲骨文字は占いの記録である。「呪的儀礼を文字として形象化したものが漢字である」(白川静)。文字には呪能があり、言葉には言霊(ことだま)が存在する。文字と言葉は「もの・こと」を縛ることで象徴化する。その「封印する力」に呪能が具(そな)わるのだ。甲骨文字は3000年の時を超えて王の歴史を伝える。

占いこそ物語の原型/『重耳』宮城谷昌光

 物語とは偶然を必然化する営みであろう。脳は時間的な流れを因果として捉える。起承転結の転は偶然性であり、結は必然性となる。生と死を自覚する我々は避けられない死に向かって人生を飾ろうと足掻(あが)くのかもしれぬ。

 占いが「使うもの」であるならば、宗教もまた「使うもの」として考えられそうだ。実際は「教団に使われている」人々が多いわけだが。もちろん科学も「使うもの」だ。明日の天気予報が雨であれば、出掛けるのを控えるか、雨具の準備をすればよい。「なぜ雨なのだ?」と悩むのは愚かだ。

 物語は常に上書き更新が可能なのだ。それを行うのは他人ではなく自分自身だ。「3人は王となる」と許は占った。彼らは自らの力でそれを実現した。