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2014-10-30

侈傲(しごう)の者は亡ぶ/『奇貨居くべし 火雲篇』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光

 ・戦争を問う
 ・学びて問い、生きて答える
 ・和氏の璧
 ・荀子との出会い
 ・侈傲(しごう)の者は亡ぶ
 ・孟嘗君の境地
 ・「蔽(おお)われた者」
 ・楚国の長城
 ・深谿に臨まざれば地の厚きことを知らず
 ・徳には盛衰がない

『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


 奴隷の身を脱した呂不韋〈りょふい〉は稀代の人相見である唐挙〈とうきょ〉という人物と巡り合い、そのまま従者となる。

瓊玉(けいぎょく)で室内を飾るのは、亡びの兆(きざ)しであるとおもったほうがよい。西(せい)氏の賈(こ)には、あくどさがあるらしい」
 と辛(から)いことをいった。
「天子や諸侯も玉で飾られた宮殿に住んでおられるのではないのですか。亡びの兆しはそこにはないのでしょうか」
 呂不韋〈りょふい〉の問いのほうがすさまじい。
「侈傲(しごう)の者は亡ぶ。貴賎を問わず、そうです。では、なぜ、天子や諸侯は亡びないのか。先祖の遺徳がそれらの貴人を助けているからだ。それに気づかず、侈傲でありつづければ、三代で亡ぶ。この家の主の西氏は、一代で成功した者であり、先祖が徳をほどこしたとはおもわれないゆえ、目にみえない助けは得られず、わざわいをまともにかぶる」
「それを西氏にお語(つ)げになるのですか」
「問われれば、いう。兆しとは、あくまでも兆しであり、凶の兆しでも消すことはできる」

【『奇貨居くべし 火雲篇』宮城谷昌光(中央公論新社、1998年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)】

 厳密にいえば唐挙は占い師ではない。しかし一を見て万を知ること斯(か)くの如しである。抜きん出た洞察力によって彼の名声は広く知られていた。相手が貴族であろうが庶民であろうが人相を見てピタリと何でも当ててみせた。

 侈傲(しごう)とは奢侈(しゃし)と同じ意味であろう。傲と奢はいずれも「おごり」と読む。とすれば「度をこえてぜいたくなこと。身分不相応な暮らしをすること」(大辞林)と考えてよさそうだ。

 殷(いん)の紂王(ちゅうおう)が象牙の箸(はし)を作った時、箕子〈きし〉はひとり憂(うれ)えた(箕氏の憂い)。欲望には限度がない。ひとたび贅沢(ぜいたく)が度を越せば際限のない刺激を求めて大事を見失う。成り金が転落する理由もここにある。

 唐挙が紡(つむ)ぐ物語は巧みで深い。人相見が当たる当たらぬよりも人々が共感する物語を示したところに彼の本領があるのだろう。

    

2014-11-03

「蔽(おお)われた者」/『奇貨居くべし 黄河篇』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光

 ・戦争を問う
 ・学びて問い、生きて答える
 ・和氏の璧
 ・荀子との出会い
 ・侈傲(しごう)の者は亡ぶ
 ・孟嘗君の境地
 ・「蔽(おお)われた者」
 ・楚国の長城
 ・深谿に臨まざれば地の厚きことを知らず
 ・徳には盛衰がない

『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


 孫子(※荀子)という儒者は激しいところのある人で、いまの世に妥協しておのれに満足する者を、憎悪していた。孫子は、蔽(おお)われている人が嫌いなのである。世は変化する。それゆえ、世に役立つ者になるためには、自己を改革しなければならない。自己の改革は一朝一夕に成るものではない。努力しつづけよ、としばしば孫子(※荀子)が呂不韋〈りょふい〉に教えていたことが、ふたりからすこし離れたところにいた雉〈ち〉の耳底に残っている。いまになって孫子の言動をふりかえってみると、そこには情熱があった。つまり孫子は呂不韋のなかにすぐれた資質をみつけ、その資質が未熟におわらぬように、熱い息を吹きかけていたのではないか。孫子は呂不韋を愛したのである。

【『奇貨居くべし 黄河篇』宮城谷昌光(中央公論新社、1999年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)以下同】

「蔽(おお)われる」とは見慣れない字だが、遮蔽物(しゃへいぶつ)の訓読みが「遮(さえぎ)る」「蔽(おお)う」であることに思い至ればイメージがつかみやすい。「覆(おお)い隠す」の「覆う」は同訓異字であろう。現状に甘んじて、出る杭(くい)となることを避ける官僚のような姿勢を荀子は嫌った。職能が「務(つと)める」のに対して、学問は「努(つと)める」道である。力加減がまったく違う。

 荀子と別れた後も師の言葉は呂不韋の精神を鞭打ち続けた。

 呂不韋は家をでた。そのことによってはじめて実家がどういうものであったかがわかったように、賈人(こじん)は利をでなければ利というものがわからない。でる、という行為は、じつはおびただしい勇気と努力とを必要とする。それを知らない者を、
「蔽(おお)われた者」
 と、師の孫子はよんだ。
 しかしながら、蔽われない者とは、つまり、人と世というものがわかる人のことであり、それならば、人をでて、世をでなければ、人と世とはわからないことになり、死んでこの世を去ってこそ人と世がわかるのでは、生きてゆくことに意義をうしなう。そうでないところに孫子の哲理の玄妙さがあるのであろう。

 賈人(こじん)とは商人のことである。「利をでる」とは利から離れて利の意味を見つめることか。人を利に向かわせるのは欲望だ。新自由主義のように個々人の利得という小利を社会的に容認すれば格差社会が生まれるのは必然だ。白圭(はくけい/『孟嘗君』)や呂不韋のような中国戦国時代の大商人は自己の利益だけではなく国家全体の利益、すなわち大利を目指した。

 荀子は性悪説で広く知られるが、性悪であればこそ死ぬまで努力することが重要なのだ。人の性が善であれば礼や法も不要だ。「蔽(おお)われた者」は人間に巣食う悪性に引きずられる。万人に潜(ひそ)む堕落しやすい性分を荀子は性悪説としたのではあるまいか。

「学は没するに至りてしかるのちに止(や)むべきなり」との師の教えを呂不韋は忠実に生きた。死ぬまで学問を手放すことがなかった。

    

2014-10-25

和氏の璧/『奇貨居くべし 春風篇』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光

 ・戦争を問う
 ・学びて問い、生きて答える
 ・和氏の璧
 ・荀子との出会い
 ・侈傲(しごう)の者は亡ぶ
 ・孟嘗君の境地
 ・「蔽(おお)われた者」
 ・楚国の長城
 ・深谿に臨まざれば地の厚きことを知らず
 ・徳には盛衰がない

『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


 呂不韋〈りょふい〉が拝礼して、数歩すすみ、ゆっくりすわった。うしろの鮮乙〈せんいつ〉は呂不韋よりおくれてすわった。
「ここにあります物を入手した事情は何も申し上げません。人を殺したり、盗んだりしたというやましい行為を経た物でないことだけは申しておきます。もしも黄氏に褒章のお気持ちがおありでしたら、そのすべてを、うしろにおります鮮乙にたまわりとう存じます」
 呂不韋は黄歇〈こうけつ〉にむかってからだを折り、頭をゆかにつけた。
「おお、これがまことに和氏(かし)の璧(へき)であったら、わが家財の半分をさずけてもよい」
 黄歇の声がうわずっている。呂不韋は口もとをほころばせ、
「黄氏、商人は信義を重んじます。いちどとりきめたことは守らねばなりません。その信義からみれば、貴家の財の半分をさげわたすとは、虚言にひとしく、そういう虚言を弄されるかたが国の存亡にかかわる大任を果たせるはずがありません。この和氏の璧があろうがなかろうが、あなたさまは、ご自分の虚言によって身を滅ぼされるでしょう」
 と、激しくいい放ち、絹布をつかんで立とうとした。
「待て」
 黄歇の手が呂不韋の腕をつかんだ。
 呂不韋は黄歇をにらみかえした。おとなしく楚(そ)の使者に和氏の璧を献上するだけだとおもっていた鮮乙は、呂不韋の激しい態度に仰天するおもいで事態を見守っている。鮮芳〈せんほう〉も、ひごろおとなしい呂不韋が、楚の貴族に恐れ気もなく直言したことで、
 ――この童子はただものではない。
 と、認識をあらたにした。
「ゆるせ。喜びのあまり、おもわぬことを口走った。あらためていう。もしもこれが和氏の璧であったら、黄金百鎰(いつ)を鮮乙につかわそう。それでどうか」
 黄歇はのちに楚の国政をあずかる男である。肚は太く、智に冴えがあり、人を観(み)る目はもっている。呂不韋という少年がいったことに道理があると認めれば、おのれの非を払い、ことばに真情をそえることにやぶさかではない。

【『奇貨居くべし 春風篇』宮城谷昌光(中央公論新社、1997年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)】

 呂氏(りょし)は賈人(こじん=商人)で不韋〈ふい〉は養子であった。呂不韋が15歳の時、父から鉱山の視察へゆくよう命じられる。父が目に掛けていた店員の鮮乙〈せんいつ〉が旅に同行する。彭存〈ほうそん〉は山男である。

 呂不韋は偶然、和氏(かし)の璧(へき)を手に入れる。これは楚(そ)が趙(ちょう)に贈る途中で強奪されたものだった。黄歇〈こうけつ〉が楚の使者であり、後に春申君と呼ばれる。戦国四君の一人。鮮芳〈せんほう〉は鮮乙〈せんいつ〉の妹である。

 現在でいえば中学生が大臣に向かって話をしているようなものだろう。宮城谷作品にはこの手のエピソードが多いが、そのたびに私は「あ、晏子〈あんし〉だな」と胸が高鳴る。もちろん著者の想像が働いている。だが周囲に正しい言葉を吐く大人が存在すれば、その「気」を吸いながら子供が育つことはあり得るだろう。

 黄金百鎰は約32キログラム。10年間飲まず食わずで働いても手の届かぬ大金である。呂不韋は「そんなにもらえるのか」と内心で驚いた。

 楚の国宝であった和氏(かし)の璧(へき)が更なるドラマを生む。趙国(ちょうこく)に渡った壁(へき)を秦王(しんおう)が奪おうと目論み親書を遣(つか)わす。趙の恵文王〈けいぶんおう〉が秦への使者に選んだのが藺相如〈りんしょうじょ〉であった。秦王(しんおう)とのやり取りは「怒髪天を衝く」(『史記』では「怒髪上〈のぼ〉りて冠を衝〈つ〉く」)の言葉で現在にまで伝わる。「刎頸(ふんけい)の交わり」も藺相如〈りんしょうじょ〉に由来する。

 これだけでも豪華キャストだが、荀子と年老いた孟嘗君〈もうしょうくん〉まで登場する。呂不韋は一つひとつの出会いを通して成長してゆく。

    

2014-11-09

楚国の長城/『奇貨居くべし 黄河篇』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光

 ・戦争を問う
 ・学びて問い、生きて答える
 ・和氏の璧
 ・荀子との出会い
 ・侈傲(しごう)の者は亡ぶ
 ・孟嘗君の境地
 ・「蔽(おお)われた者」
 ・楚国の長城
 ・深谿に臨まざれば地の厚きことを知らず
 ・徳には盛衰がない

『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


「呂氏、長城が気にいったか」
 勘ちがいをした向夷〈きょうい〉が、ぼんやりとたたずんでいる呂不韋の肩をたたいた。
「ああ、あきれるほど気にいったよ」
 そういういいかたしかできないほど長城は無益なものにみえた。為政者の見識の低さを如実にあらわしているのがこれであるといえる。おおげさにいえば、人類の成長をとめ、可能性をさまたげるのが長城である。とくに庶民は、いちどは長城を有益なものと信じたがゆえに、その存在が無益なものであることがわかった時点から、為政者にたいして不信をつのらせ、人の営為そのものにむかう意味を阻喪(そそう)したであろう。楚(そ)の崩壊も、秦(しん)の圧力に耐えきれなくなったというより、内なる崩れが原因なのではあるまいか。

【『奇貨居くべし 黄河篇』宮城谷昌光(中央公論新社、1999年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)】

 以下2003年のニュースである。

「中国最古の長城は河南省の楚長城」専門家が指摘

  楚長城学術シンポジウムがこのほど、河南省魯山県で開かれた。参加した専門家と学者の見解は「紀元前688年に建設された楚国の長城が、中国最古の長城である」という意見で一致した。
河南省に現存する楚長城は、上部が丸まった形状をしており、西線、北線、東線の3つの部分に分かれている。平頂山市の魯山県と葉県、舞鋼市、南陽市の方城県と南召県にまたがり、全長にはおよそ800キロ。特に南召県板山坪鎮南部の周家寨楚長城は、全長20キロ以上が、ほぼ完全な形で残っている。

「人民網日本語版」2002年10月30日

 楚の国名は「四面楚歌」との言葉で現在にまで伝わる。

 作家のW・G・ゼーバルトは「途方もなく巨大な建築物は崩壊の影をすでにして地に投げかけ、廃墟としての後のありさまをもともと構想のうちに宿している」(『アウステルリッツ』)と指摘する。権勢を誇るための巨大な建物は「長城」と考えてよかろう。カトリック教会の麗々しさはその典型だ。

 それを嗤(わら)うのは簡単だ。だが、その一方で豪邸や高級車を羨む自分がいる。現代における欲望は金銭への執着という形で具体化される。欲望から離れるための修行に「喜捨」(きしゃ)がある。これが六波羅蜜布施行(ふせぎょう)となる。葬儀や法要で僧侶に渡すお布施の布施だ。

 自分で稼いだお金を惜しみなく捨てる。捨てるのが嫌なら使うでも構わない。何かを買う、ご馳走を食べる、映画やコンサートへゆく、書籍を購入する。もう少し頑張って慈善団体に寄付をする。あるいは困窮している友人に返ってこなくても困らない範囲でカネを貸してやる。何かをプレゼントするのもいいだろう。

 この国のシステムはきちんと税金が循環しないところに経済的な致命傷を抱えている。それを打開するには一人ひとりがお金を使うしかないのだ。皆がカネを使えば景気はあっと言う間に浮上する。

 中国戦国時代の大商人は社会や人々に投資をした。それによって社会を改革した。少ない額でも他人に投資してみると、驚くほど人生は豊かになる。

    

2014-12-03

徳には盛衰がない/『奇貨居くべし 天命篇』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光

 ・戦争を問う
 ・学びて問い、生きて答える
 ・和氏の璧
 ・荀子との出会い
 ・侈傲(しごう)の者は亡ぶ
 ・孟嘗君の境地
 ・「蔽(おお)われた者」
 ・楚国の長城
 ・深谿に臨まざれば地の厚きことを知らず
 ・徳には盛衰がない

『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


 鮮乙〈せんいつ〉のおどろきは深く、
「主(しゅ)の強運は比類がない」
 と、しきりにいった。が、呂不韋〈りょふい〉はゆるやかに首をふり、
「運には盛衰がある。しかし徳には盛衰がない。徳はかたちのない財だ。その財を積むにしかず、だ」
 と、誨(おし)えた。

【『奇貨居くべし 天命篇』宮城谷昌光(中央公論新社、2001年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)】

 光を放つ言葉がある。その光が自分の内側の柔らかな部分に射(さ)し込む。心は瞬時に反応し躍り上がる。

 運とは風のようなものであろう。風向きは季節によって異なる。いつも背中を押してくれるとは限らない。人生には嵐のような逆風を真正面から受けることが必ずある。時に風が進路を妨げることもあるだろう。そこで環境を嘆くのか、自分の内部を見つめるかで人生は二つに分かれる。

 呂不韋は順境にあって「徳には盛衰がない」と自らを戒めた。彼の心には旅で巡り会った大人物たちの影がくっきりと残っていた。成功に酔うと人は足元が見えなくなる。

 諸子百家は六家に分類されるが、現在の大学教育で採用されているのは法家のみである。せめて道徳学科(儒家)や無為学科(道家)はあって然るべきだと思う。法律と経済で回る社会は人々の欲望を認めるため最終的には戦争に向かう。徳が得に置き換えられたのが大衆消費社会だ。