それはひどい落胆のしるし、もの言わぬ死の叫び、諦めようとせず、死なぬために、手遅れにならないうちに気勢をもりかえそうとする敗残の軍隊が、秩序も何も乱したような有様だった。(「恋盗人」)
【『11の物語』パトリシア・ハイスミス:小倉多加志〈おぐら・たかし〉訳(ハヤカワ文庫、2005年)】
――孫子〈そんし〉に、なにかすごみのようなものが、憑(つ)いたな。
と、白圭は感じていた。からだつきやことばづかいにまるみがあるのは、むかしとかわらないが、ひとつちがったのは目である。目に心の風景がうつるとすれば、孫ピンの目のなかに峻谷(しゅんこく)と峻峰(しゅんぽう)がみえた。さらにいえば、その谷と峰とに霧がかかっている。したがって谷の深さと峰の高さをみきわめようがない。そんな感じであった。
【『孟嘗君』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、1995年/講談社文庫、1998年)以下同】
「よかろう。雨や風の日のほかは、庭で教えよう」
と、孫ピンは入門をゆるし、陽のしたでこの熱心な弟子に教学をさずけることにした。
慶■〈けいウン/さんずい+云〉は身ぶるいした。
あたりの空気をうごかしてくる孫ピンのことばは、かつて耳にした孫ピンのことばとはちがい、神韻(しんいん)といってよい深みをそなえている。あえていえば、孫ピンがくぐりぬけてきた苦難の闇の底知れなさと生死の境にあったうつろいやすい微光、そんなものの存在が、足のない孫ピンの容光から慶ウンにつたわってきた。
戦いにむかう兵は、孫ピンが体験したとおなじ闇と微光の世界に投げこまれる。
それらの兵を凱帰(がいき)させるために、どうしても戦略というものがいる。兵とは民である。民の力で国は富むものであり、その民を兵として酷使し、しかも戦陣で死なすことは、国にとって二倍の損害になる。国の威信をたもつ戦いをまっとうして兵を生還させるのが為政者(いせいしゃ)のつとめであろう。だが、どの国もそこまで考えて兵をつかってはいない。
戦略とは、人のいのちの大切さの上に成り立つものである。
威王〈いおう〉の目から田忌〈でんき〉をみると、たしかにこの将軍は勇気にすぐれ、つねに敵軍をみくだして、兵をするどくすすめる指揮ぶりで、自軍に不利が生じても一歩も退かぬたのもしさはあるのだが、それをうらがえせば、
――権(けん)に欠ける。
というみかたができる。権は、臨機応変といいかえてもよい。
城を守りぬくことにおいて、生涯、いちども破れることを知らなかった墨子〈ぼくし〉は、じつは武人ではなく思想家であったのだが、かれは権について、
――所体のなかにおいて、軽重を権(はか)る。これを権という。
と、いっている。所体というのは、あたえられた情況ということであろう。そのなかでものごとの軽さと重さをみきわめることが権であるというのである。また、権は、ものごとの是非(ぜひ)をきめることではなく、利害を正すことである、とも墨子はいっている。
戦争は将軍にとってまさに所体といえるであろう。
「いや、白圭〈はくけい〉の子ではないのです。白圭もわたしも、あの子をあずかっているにすぎません」
「ほう、して、その父母は──」
田嬰〈でんえい〉の声に、はっと青欄〈せいらん〉は孫ピンをみつめた。
「天、と申しておきましょう」
孫ピンが微笑すると同時に貌弁〈ぼうべん〉が声をたてて笑った。その笑声に天空の雲が破られたのか、月光が台上にさらさらながれ落ちてきた。
「五月の子は、身長が門の高さにひとしくなり、父母にとって害になるということだ」(中略)
田文〈でんぶん〉は笑いたくなった。その笑いをこらえたためか、かれの舌鋒(ぜっぽう)はするどく父にむかった。
「人の命運というものは、天からさずかるものでしょうか。それとも、門からさずかるものでしょうか」
田嬰〈でんえい〉はむすっと口をむすんだ。不快そのものの表情である。
田文は父の気色(きしょく)の変化を恐れなかった。さらに、
「人の命運が天からさずかるものであれば、父上はご心配なさることはありますまい。もしも門からさずかるものであれば、門を高くすればよろしいではありませんか。そうすれば、だれがその門にとどきましょうか」
と、からさをこめていった。
戦争というものは、勝つべくして勝つものであり、軍旅をすすめながら勝算を計(はか)るものではない。それは孫子〈そんし〉の兵法の根幹にある考えかたである。