ブルース・リーはクリシュナムルティの著作を読んでいた。
精神の焦点を研ぎ澄まし、あらゆるところに存在する真実を即座に直覚できるように、その感度を高めておくこと。精神は旧弊な習慣、先入観、制約的な思考法、さらにはごく当たり前の思考そのものからも、切り離されなければならない。
— ブルース・リーさん (@Tao_JKD) 12月 6, 2010
精神の焦点を研ぎ澄まし、あらゆるところに存在する真実を即座に直覚できるように、その感度を高めておくこと。精神は旧弊な習慣、先入観、制約的な思考法、さらにはごく当たり前の思考そのものからも、切り離されなければならない。
— ブルース・リーさん (@Tao_JKD) 12月 6, 2010
管子は「名を正す」と言い、孔子は「名を正す」と言った。また、『荀子』やわが国の山県大弐の『柳子新論』には正名篇がある。
古来、中国においては修身・治国・平天下の根本思想として、この「名を正す」という考えがあった。「名を正す」ということは、君子たるものが必ず先ずやらなければならない最重要課題であったのである。このことをよく表わしている孔子と子路の有名な会話が『論語』にある。知っている人も多いと思うが、確認の意味でその会話を引用してみたい。
子路(しろ)曰(いわ)く、衛君(えいくん)、子(し)を待ちて政(まつりごと)を為(な)さば、子(し)将(まさ)に奚(なに)をか先にせんとすと。子(し)曰(いわ)く、必ずや名を正さんかと。子路曰く、是れ有るかな、子(し)の迂(う)なるや。奚(なん)ぞ其(そ)れ正さんと。子曰く、野(や)なるかな由(いう)や。君子は其の知らざる所に於て、蓋(けだ)し闕如(けつじょ)す。名正しからざれば、則(すなわ)ち言(げん)順(したが)はず。言順はざれば、則ち事(こと)成らず。事成らざれば、則ち礼楽(れいがく)興(おこ)らず。礼楽興らざれば、則ち刑罰中(あた)らず。刑罰中らざれば、則ち民手足(しゅそく)を措(お)く所無し。故に君子之を名づくれば、必ず言ふ可(べ)くす。之を言へば必ず行ふ可くす。君子其の言に於て、苟(いやし)くもする所無きのみと。
【現代語訳】子路がたずねた。「今もし衛の君が先生をお招きして国政をまかされることでもありましたならば、先生は何から先に手をつけられますか」と。孔子が答えた。「必ずや名を正そう」と。子路が言った、「なんとまあ先生は悠長なことをおっしゃるのでしょう。この戦乱の世の中でそんなまだるっこいことをやっておられましょうか」。孔子が言った、「何というがさつ者だ、由よ。君子というものは、自分の知らないことについては黙っておくものだ。名を正すということの真義をお前は知っているのか。そもそも、名称が正しくなければ、名称とそれがさし示す実物とが一致しないから、人の言葉が順当に理解されることも行われることもない。言葉が順当に理解されることがなければ、何事においても成就しない。物事が混乱し何事においても成就されることがなければ、人々の間に秩序と調和を致すところの礼楽は盛んになることがない。礼楽が行われなければ刑罰が中正に行われることがない。刑罰が中正を欠くと、人々は安心して手足を措くところもなくなってしまう。社会の混乱はこの名称と実物とが一致しないことに起因するのである。ゆえに、君子たるものは物事に対して名づけたからには必ず言葉をもって言うようにし、言葉をもって言うからいは、必ずそれを実行するようにしなくてはならない。君子たるものはものを言うに当たっては軽々しくしてはならない」と。【『思想革命 儒学・道学・ゲーテ・天台・日蓮』湯浅勲(海鳥社、2003年)以下同】
(※『荀子』を引用し)すなわち、実物(実際の対象)に従って名称を制定する、これが基準であるというのである。簡単に言うならば、名実を一致させること、これが名称を制定するに際しての基準であるということであろう。
しかしながら、なぜ、名を「正す」必要があるのであろうか。それは名が乱れているがゆえである。つまり、名称とそれが指し示す実物との間に差異が生じ、混乱が起きてくるがゆえに、名を正す必要が生じてくるのである。