ジャック・ヴェルジェス氏はフランスの弁護士。父はレユニオン人、母はベトナム人。ナチスのクラウス・バルビーを弁護したことで有名。
既にフランスではユダヤ主義がナチス化しつつある。
◎ジャック・ヴェルジェス
先日、三人の敬虔な利己主義者が私のところにやってきた。一人は、〈サンニャーシ〉、世俗を断念した人物であった。二番目は、東洋学者(オリエンタリスト)であり、同朋愛の熱烈な支持者であった。三番目は、すばらしいユートピアの実現を確信している活動家であった。三者はそれぞれ、各自の仕事を熱心に務めていたが、他の二人の心的傾向や行動を見下(くだ)しており、各自の確信によって身を固めていた。いずれもその特定の信念形態に激しく執着しており、三人とも奇妙な具合に他人に対する思いやりが欠けていた。
【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1984年)以下同】
かれら三人は――ユートピア主義者は殊にそうであったが――自分の信ずることのためであれば、自分自身だけでなく友愛をも犠牲にする覚悟がある、と私に言った。かれら三人は――同朋愛の士はとりわけそうであったが――温厚な様子であったが、そこには心の硬さと、優秀な人間特有の奇妙な偏狭さがあった。自分たちは選ばれた人間であり、他人に説明して聞かせる人間であった。かれらは知っており、確信を持っているのであった。
学者は「信じることを頑なに拒否する人」だから、「信じてる人」や「信じたい人」とは、必然的に対立する。
— 沼崎一郎さん (@Ichy_Numa) 4月 15, 2012
学者が提供するのは、「考える」材料であって、「信じる」対象ではない。
— 沼崎一郎さん (@Ichy_Numa) 4月 15, 2012
あなたが「確かだ」と思ってること全て。 RT @h_iitsu:その「信じる」とは具体的になにを指すでしょう?
— 沼崎一郎さん (@Ichy_Numa) 4月 15, 2012
1983年から2000年の間に起こった重大な事故に巻き込まれた乗客のうち、56パーセントが生き残った(「重大な」というのは、国家運輸安全委員会の定義によると、火災、重症、【そして】かなりの航空機の損傷を含む事故である)。
【『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー:岡真知子訳(光文社、2009年/ちくま文庫2019年)以下同】
「技術者が自分の設計しているもののことを知りたければ、それに強いストレスを与えてみればいい」と、米軍で20年あまり人間行動を研究してきたピーター・ハンコックは述べている。「それは人間についても同じである。普通の状況下で物事がどのように機能するのかを知りたいと思えば、わたしたちがストレス下でどう機能するのかをつまびらかにしてみると、興味深い結果が得られるだろう」。
いったん否認段階の最初のショックを通り抜けたら、生存への第2段階である「思考」に移ってゆく。何か異常事態が発生しているとわかっているのだが、それをどうしたらいいのかわからない。どのように決断を下すべきだろう? 最初に理解しておくべきことは、何一つとして正常ではないということだ。わたしたちは平時とは異なった考え方や受け取り方をする。
(※世界貿易センター爆破事件、1993年)人々は異常なほどのろのろと動いた。爆発から10時間たっても、まだオフィスから避難していない人たちを消防士は発見していた。
カナダの国立研究協議会のギレーヌ・プルーは、1993年と2001年の両年に、世界貿易センターでの行動を広範囲にわたって分析した数少ない研究者の一人だ。彼女が目撃したものは、ゼデーニョの記憶と合致する。「火災時における実際の人間の行動は、“パニック”になるという筋書きとは、いくぶん異なっている。一様に見られるのは、のろい反応である」と、雑誌「火災予防工学」に掲載された2002年の論文に彼女は書いた。「人々は火事の間、よく無関心な態度をとり、知らないふりをしたり、なかなか反応しなかったりした」
笑い――あるいは沈黙――は、立ち遅れと同様に、典型的な否認の徴候である。
なぜわたしたちは避難を先延ばしするのだろうか? 否認の段階では、現実を認めようとせず不信の念を抱いている。我が身の不運を受け入れるのにしばらく時間がかかる。ローリーはそれをこう表現している。「火事に遭うのは他人だけ」と。わたしたちはすべてが平穏無事だと信じがちなのだ。なぜなら、これまでほとんどいつもそうだったからである。心理学者はこの傾向を「正常性バイアス」と読んでいる。
(※9.11テロの)攻撃後の1444人の生存者に調査したところ、40パーセントが脱出する前に私物をまとめたと答えている。
実際に災害に直面すると群集は概してとても物静かで従順になる。
次の文は、災難は自分のすぐそばでしか起きていないという強い思い込みについて、ゼデーニョが述べているものである。このような思い込みを、心理学者は「求心性の錯覚」と呼んでいる。
以下は人間の心がとてつもない危機をいかに処理するかについて述べたものである。
わたしの足は動きが鈍くなっていた。というのも、自分が目にしているのは瓦礫だけではないことに気づきはじめたからだ。わたしの頭はこう言っている。「おかしな色だ」。それが最初に思ったことだった。それから口に出して言いはじめる。「おかしな形だ」。何度も何度も頭のなかで言う。「おかしな形だ」。まるでその情報を閉め出そうとしているかのようだった。わたしの目は理解することを拒んだ。そんな余裕はなかった。だからわたしは、「いや、そんなはずはない」と思うような状態だった。やがて、おかしな色やおかしな形を目にしたことの意味するところがついにわかったとき、そのとき、わたしが目にしているのは死体だと気づいたのだ。凍りついたのは、そのときだった。
そのとき、ゼデーニョはまったく何も見えなくなった。「煙のせいだったの?」とわたしはゼデーニョに尋ねる。「いえ、いえ、そうじゃないわ。あそこには煙はなかった。でも、まったく何も見えなかったの」